「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2006・07・21

2006-07-21 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、谷川俊太郎さんの「ごあいさつ」と題した詩一篇。

 「どうもどうも
  やあどうも
  いつぞや
  いろいろ
  このたびはまた
  まあまあひとつ
  まあひとつ
  そんなわけで
  なにぶんよろしく
  なにのほうは
  いずれなにして
  そのせつゆっくり
  いやどうも」

  (角川春樹事務所刊「谷川俊太郎詩集」所収)
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2006・07・20

2006-07-20 08:10:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、石原吉郎(1915-1977)著「望郷と海」の冒頭にある「陸軟風」と題した詩です。

  陸から海へぬける風を
  陸軟風とよぶとき
  それは約束であって
  もはや言葉ではない
  だが 樹をながれ
  砂をわたるもののけはいが
  汀(みぎわ)に到って
  憎悪の記憶をこえるなら
  もはや風とよんでも
  それはいいだろう
  盗賊のみが処理する空間を
  一団となってかけぬける
  しろくかがやく
  あしうらのようなものを
  望郷とよんでも
  それはいいだろう
  しろくかがやく
  怒りのようなものを
  望郷とよんでも
  それはいいだろう    〈陸軟風〉

   (山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)
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2006・07・19

2006-07-19 08:10:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、「或る朝の」と題した吉野弘さんの詩の一節です。

  或る朝の 妻のクシャミに
  珍しく 投げやりな感情がまじった
  「変なクシャミ!」と子供は笑い
  しかし どのように変なのか
  深くは追えよう筈がなかった

  あの朝 妻は
  身の周りの誰をも非難していなかった
  只 普段は微笑や忍耐であったものを
  束の間 誰にともなく 叩きつけたのだ
  そして 自らも遅れて気付いたようだ そのことに

  真昼の銀座
  光る車の洪水の中
  大八車の老人が喚きながら車と競っていた
  畜生 馬鹿野郎 畜生 馬鹿野郎――と

  あれは殆ど私だった 私の罵声だった
  妻のクシャミだって本当は
  家族を残し 大八車の老人のように
  駈け出す筈のものだったろうに

  私は思い描く
  大八車でガラガラ駈ける
  彼女の軽やかな白い脛を
  放たれて飛び去ってゆく彼女を

   (山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)
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2006・07・18

2006-07-18 08:55:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、宮澤清六著「兄のトランク」にある宮澤賢治の詩の一節です。

 「まことのことばはうしなはれ
  雲はちぎれてそらをとぶ
  ああかがやきの四月の底を
  はぎしり燃えてゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ」

  (山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)
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2006・07・17

2006-07-17 10:20:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、「歌舞伎」と題した昭和56年のコラムの一節です。

 「客が西洋人なら歌舞伎座に案内して歓待したつもりになる日本人がまだいる。西洋人はたいていワンダフルと言ってくれるから喜んでいるときめて、またその西洋人が高位高官だと楽屋につれていって、戦前なら六代目菊五郎戦後なら中村歌右衛門に会わせて、にっこり笑ったところを写真にとっていよいよサービスしたつもりになる日本人がいる。
 役者は商売だから笑って握手するが、西洋人ともどもさぞかし迷惑だったことだろう。手を握ると白粉がはげるから、こういうときは握るまねをするのが礼儀で、ジャン・コクトオだか誰だか忘れたが、その有名人は握るふりをしたので、六代目は感心したと読んだことがある。あとでその名士は『死ぬほど退屈!』と歌舞伎を評したそうだ。珍しく正直な言葉なのでおぼえている。
 日本人にとっても難解で退屈な歌舞伎が、西洋人に退屈でないはずがない。第一案内の日本人だってちんぷんかんぷんなのではないか。
 江戸時代から明治の末まであんなに面白くてためになった芝居が、どうしてこれほどつまらなくまた難解になったのだろう。私たちは西洋人に近くなったのだろうか。そもそも歌舞伎が面白くなくなったのはいつからか、私はそれをなが年知りたく思っている。
 何をかくそう私も歌舞伎は分らないほうで、ずいぶん見物しないではないが、腑におちて面白かったのは、極言すれば『寺子屋』だけである。これは七度や八度は見ている。世界中どこへ出しても恥ずかしくない狂言である。ほかに楽しんでみたものは希である。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・07・16

2006-07-16 09:20:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「模範家庭文庫」と題した昭和58年のコラムの一節です。

 「そしたら天も私を憐れんだのだろう。ある日イソップとグリムとアンデルセンをどさっと貸してくれる人があった。それも一週間以内に返さなけばならぬと、まるでグリムのなかの話のようなのである。とはいうものの、十日や半月はいいだろうと甘くみていたらいけないのだそうで、私は大あわてにあわてて見たが物語の題は多く忘れていた。
 そりゃイソップなんか噺が三百三十三もあって、出てくるのは狼と羊と狐と獅子である。似たような題はおぼえきれないが口絵と挿絵は全部、おお全部おぼえていた。グリムもそうである。アンデルセンもそうである。どうして絵なら全部おぼえているかと今にして思うと、まだ字が読めなかった幼いころ、あの大冊をかかえて、絵だけながめること何十回だか知れなかったせいだと分った。一点一画まで見おぼえがある。ことに懐しいアンデルセンについてはひとことも言わないうちに紙面が尽きたが、私の大好きな話に『飛行鞄』がある。『お爺さんのすることには間違いがない』がある。『小クラウスと大クラウス』がある。これは大(おお)クラウスと小(こ)クラウスと反対におぼえていた。『醜いあひるの子』がある。これらについてはまた改めて書かなければならないが、まだ見ることができない『ロビンソン漂流記』とことに『ガリバー旅行記』についても言わなければならない。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・07・15

2006-07-15 08:50:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「模範家庭文庫」と題した昭和58年のコラムの一節です。

 「グリムお伽噺のなかでは、ほかに『忠義者のヨハンネス』『ラブンツェル』などをおぼえている。
 『母さんが私を殺した、父さんが私を食べた、妹のマルジョリーが、私の骨を一つずつ拾って、ハンカチに包んで、巴旦杏の根元に置いた。
  キューット キューット キューット。きれいな鳥になったでしょう』。
 この恐ろしい歌だけおぼえているのは、何度も読んできかされたからである。巴旦杏という木を子供の私は知らない。けれどもこの子は母親に殺され父親に食べられ、骨になって巴旦杏の根元に置かれたという。もう一度この本を見てたしかめなければならないと、何年か思いつめていたのは我ながら道理である。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・07・14

2006-07-14 08:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「模範家庭文庫」と題した昭和58年のコラムの一節です。

 「『チップー、タップー。戸をたたくのはそりゃだれだ?』
  『風。風。天の子供』
 という件りもおぼえている。ヘンゼルとグレテルである。ヘンゼルは兄でグレテルは妹で二人は先妻の子で今の母はまま母で父は樵夫(きこり)である。もともと貧しかったがひどい飢饉で二人は森のなかに置きざりにされる。
 兄妹は道に迷って魔法使のお婆さんの家にたどりつく。屋根は菓子でふいてあって窓は氷砂糖である。兄は屋根に妹は窓に手をのばして食べると、『戸をたたくのはそりゃだれだ?』と婆さんに問われて『風。風。天の子供』と答えたのである。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・07・13

2006-07-13 08:15:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「模範家庭文庫」と題した昭和58年のコラムの一節です。

 「海のなかのひらめやひらめ
  急いでここまで出ておいで
  家の女房のイザベルが
  お前に望みがあるそうだ
 これはグリムのなかの漁師がひらめを助けてやった話に出てくる。ひらめはお礼にどんな望みでもかなえてやるというので、漁師は女房に言いつけられて、はじめ小さな家らしい家を望んで得ると、女房は御殿のような家を望み、それも得るとこんどは女王になりたいと言いだす始末で、漁師はそのつど恐縮してひらめを呼びだして頼むという話である。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・07・12

2006-07-12 07:15:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、「模範家庭文庫」と題した昭和58年のコラムの一節です。。

 「何年か前私は新村出訳『伊曽保物語』について書いた。文禄旧訳の伊曽保物語では『蝉と蟻』になっている。ラ・フォンテーヌでも『蝉と蟻』になっている。近ごろのイソップでは、『きりぎりすと蟻』になっている。楠山正雄訳ではどうなっていたか知りたく思ったのである。どちらが正しいというのではない。蝉のいない国できりぎりすにかえたのだろう。してみれば蝉のいるわが国では蝉でいいのではないかと再び三たびさがしたが、楠山訳は手にはいらなかった。
 ――狐が役者の面を見て、不思議な顔で言うことに、見れば立派な男だが、惜しいことには脳がない。
 楠山訳のイソップのなかの一篇である。その根底に七五調があるのでおぼえてしまったのである。狐が能面のようなものをみて述懐している絵がかいてあった。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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