「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2006・07・19

2006-07-19 08:10:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、「或る朝の」と題した吉野弘さんの詩の一節です。

  或る朝の 妻のクシャミに
  珍しく 投げやりな感情がまじった
  「変なクシャミ!」と子供は笑い
  しかし どのように変なのか
  深くは追えよう筈がなかった

  あの朝 妻は
  身の周りの誰をも非難していなかった
  只 普段は微笑や忍耐であったものを
  束の間 誰にともなく 叩きつけたのだ
  そして 自らも遅れて気付いたようだ そのことに

  真昼の銀座
  光る車の洪水の中
  大八車の老人が喚きながら車と競っていた
  畜生 馬鹿野郎 畜生 馬鹿野郎――と

  あれは殆ど私だった 私の罵声だった
  妻のクシャミだって本当は
  家族を残し 大八車の老人のように
  駈け出す筈のものだったろうに

  私は思い描く
  大八車でガラガラ駈ける
  彼女の軽やかな白い脛を
  放たれて飛び去ってゆく彼女を

   (山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)
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