今日の「お気に入り」は、「或る朝の」と題した吉野弘さんの詩の一節です。
或る朝の 妻のクシャミに
珍しく 投げやりな感情がまじった
「変なクシャミ!」と子供は笑い
しかし どのように変なのか
深くは追えよう筈がなかった
あの朝 妻は
身の周りの誰をも非難していなかった
只 普段は微笑や忍耐であったものを
束の間 誰にともなく 叩きつけたのだ
そして 自らも遅れて気付いたようだ そのことに
真昼の銀座
光る車の洪水の中
大八車の老人が喚きながら車と競っていた
畜生 馬鹿野郎 畜生 馬鹿野郎――と
あれは殆ど私だった 私の罵声だった
妻のクシャミだって本当は
家族を残し 大八車の老人のように
駈け出す筈のものだったろうに
私は思い描く
大八車でガラガラ駈ける
彼女の軽やかな白い脛を
放たれて飛び去ってゆく彼女を
(山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)
或る朝の 妻のクシャミに
珍しく 投げやりな感情がまじった
「変なクシャミ!」と子供は笑い
しかし どのように変なのか
深くは追えよう筈がなかった
あの朝 妻は
身の周りの誰をも非難していなかった
只 普段は微笑や忍耐であったものを
束の間 誰にともなく 叩きつけたのだ
そして 自らも遅れて気付いたようだ そのことに
真昼の銀座
光る車の洪水の中
大八車の老人が喚きながら車と競っていた
畜生 馬鹿野郎 畜生 馬鹿野郎――と
あれは殆ど私だった 私の罵声だった
妻のクシャミだって本当は
家族を残し 大八車の老人のように
駈け出す筈のものだったろうに
私は思い描く
大八車でガラガラ駈ける
彼女の軽やかな白い脛を
放たれて飛び去ってゆく彼女を
(山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)