今日の「お気に入り」は、昨日と同じ作家水上勉さんの「親子の絆についての断想」と題した文章の続きです。
「貧乏なことはそれ自体悪徳だ、といった人がいる。ドストエフスキーも貧乏を憎んだし、河上肇も貧乏の追放を叫んで生涯を閉じた。だが、大正八年三月ごろは私の家と同じような小作百姓の家が日本にはゴマンとあり、三食喰えない親子はザラで、貧乏なために、しなくてもいい夫婦喧嘩や、親子喧嘩をやっていた。喧嘩ばかりしている父母がいると、その喧嘩は子供にもうつって、兄と私はよく喧嘩した。うちの喧嘩は村でも有名で、私は泣きだすと、村じゅうを走りまわって、夕方まで帰らなかった。家へ帰っても、父母がいるわけではない。父は遠出の仕事だし、母はよその田へ出ているから、暗くならぬと帰らない。電燈もない。まっ暗の家へ帰るよりはどこか村の堂とか、友だちの家にいる方がいいのだった。友達の母親は、私に風呂へ入ってゆけといい、時には友達といっしょにめしも喰わせてくれた。そういう家には、電燈があったので、私はまぶしかった。よその家はゆたかだと思った。だが、そう思っても、そこは、他人の家だからいつまでもおるわけにゆかない。自分には、イヤな家だと思えても生まれた家ならそこへ帰らねばならない。よその家の電燈の下でよんだ本のことや、喰っためしや、煮つけの味が、うちのと少しちがっていたことを腹の中で反芻しながら、にくたらしい兄と、しかめつらした父と、泥田を這いまわってきたため、腹をへらしていらだたしげに台所に立っている母の待つ家へのろのろ歩くのであった。」
(山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)
「貧乏なことはそれ自体悪徳だ、といった人がいる。ドストエフスキーも貧乏を憎んだし、河上肇も貧乏の追放を叫んで生涯を閉じた。だが、大正八年三月ごろは私の家と同じような小作百姓の家が日本にはゴマンとあり、三食喰えない親子はザラで、貧乏なために、しなくてもいい夫婦喧嘩や、親子喧嘩をやっていた。喧嘩ばかりしている父母がいると、その喧嘩は子供にもうつって、兄と私はよく喧嘩した。うちの喧嘩は村でも有名で、私は泣きだすと、村じゅうを走りまわって、夕方まで帰らなかった。家へ帰っても、父母がいるわけではない。父は遠出の仕事だし、母はよその田へ出ているから、暗くならぬと帰らない。電燈もない。まっ暗の家へ帰るよりはどこか村の堂とか、友だちの家にいる方がいいのだった。友達の母親は、私に風呂へ入ってゆけといい、時には友達といっしょにめしも喰わせてくれた。そういう家には、電燈があったので、私はまぶしかった。よその家はゆたかだと思った。だが、そう思っても、そこは、他人の家だからいつまでもおるわけにゆかない。自分には、イヤな家だと思えても生まれた家ならそこへ帰らねばならない。よその家の電燈の下でよんだ本のことや、喰っためしや、煮つけの味が、うちのと少しちがっていたことを腹の中で反芻しながら、にくたらしい兄と、しかめつらした父と、泥田を這いまわってきたため、腹をへらしていらだたしげに台所に立っている母の待つ家へのろのろ歩くのであった。」
(山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)