「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

海からの贈物 GIFT FROM THE SEA 2013・11・09

2013-11-09 07:50:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。



    「 我々は皆、自分一人だけ愛されたい。『林檎(りんご)の木の下で、私の他の誰とも一緒に
 
     坐っちゃいや』という古い歌の文句の通りである。そしてこれは、W・H・オーデンが言

     っているように、人間というものが持っている一つの根本的な欠陥なのかも知れない。

     どの女も、男も、

     持って生れた迷いから、

     適(かな)えられないことに心を焦(こ)がし、
 
     普遍的な愛だけではなくて、

     自分だけが愛されることを望む。


     しかしこれは、それほど罪なことだろうか。私はこの句に就いて或るインド人の哲学者と

    話をしていて、非常にいいことを聞いた。『自分だけが愛されることを望むのは構わない

    のですよ』とその哲学者は言った。『二人のものが愛し合うというのが愛の本質で、その

    中に他のものが入って来る余地はないのですから。ただ、それが間違っているのは時間的

    な立場から見た場合で、いつまでも自分だけが愛されることを望んではならない

    のです』 というのは、我々は『二つとないもの』、――二つとない恋愛や、相手や、母親

    や、安定に執着するのみならず、その『二つとないもの』が恒久的で、いつもそこにある

    ことを望むのである。つまり、自分だけが愛されることの継続を望むことが、私には人間

    の『持って生れた迷い』に思える。なぜなら、或る友達が私と同じような話をして

    いた時に言った通り、『二つとないものなどはなくて、二つとない瞬間があるだけ

    なのである。

     二つとない瞬間は確かにある。そして一時的にもせよ、そういう瞬間を取戻すことも決

    して間違ってはいない。マフィンとマーマレードが出ている卓子で向い合うのも、子供

    に乳をやるのも、もっと後になって、子供と浜辺で駈(か)けっこをするのも、一緒に貝

    殻を探すのも、栗(くり)の実を磨(みが)くのも、大事にしているものを分け合うのも、

    ――そういう二人だけの瞬間には凡て意味があって、ただそれが恒久的なものではないだ

    けなのである。」

    (リンドバーグ夫人著 吉田健一訳「海からの贈物」新潮文庫 所収)


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GIFT FROM THE SEA 海からの贈りもの 2013・11・08

2013-11-08 09:50:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。



「海辺は、本を読んだり、ものを書いたり、考えごとをするのに、決して適当な場所ではない。何年にもわたる経験で、わたしはそのことを知っているはずだった。
 温かすぎるし、湿気がありすぎる。それに、頭を働かせたり、精神の飛躍を試みたりするには、あまりにも居心地よすぎる場所でもある。」

「海は、もの欲しげな相手や貪欲なもの、焦っているものには何も与えてはくれない。砂を掘り返して宝を探すというやりかたは、せっかちであり、欲張りであり、さらには、自然への配慮のない行為である。
 海は、柔軟性こそすべてであることを教えてくれる。柔軟性と、そして率直さ
 わたしたちは、海辺の砂浜と同じように空っぽになって、そこに横たわっていればいいのだ。海からの贈りものを待ちながら。」

(アン・モロウ・リンドバーグ著 落合恵子訳「海からの贈りもの」学習研究社刊 所収)



 アン・モロウ・リンドバーグ女史(1906-2001)の著作 "GIFT FROM THE SEA" の邦訳としては、すでに吉田健一氏の翻訳本(昭和42年、新潮文庫)があり、名訳としての評価が定着している。
 吉田氏の、原文に従って一語一語忠実に翻訳する、抑制のきいた逐語訳に慣れ親しんだ読者にとっては、落合恵子さんの新訳には、「飛訳」というか、原書の用語は違うのではないか、と思わせる部分がいくつもある。上に引いた冒頭の章にもそれはある。 読後感として、リンドバーグ女史ならぬ、落合さんの著作を読んだような気分にさせられるのである。なぜか。
 「翻訳」というより「脚色」とでもいうべき箇所がいくつもあるからである。落合さんは自身の感想を、原書の随所に書き込みつつ翻訳をすすめたという。そうした自身の備忘のための感想(書き込み)の部分が訳文にまぎれこんでしまったのではないかと推察されるのである。
 「翻訳」に「誤訳」はつきものだが、原文を離れた「我田引水」的な「意訳」、「脚色」の度が過ぎると、「贔屓の引き倒し」というもので、そうした「脚色」や原書にはない文章の挿入が意図してなされたとすれば、残念なことである。

 リンドバーグ女史の原著の内容の素晴しさはあらためて言うまでもない。

 ついでながら、上に引用した「落合さんの文章」と同じ箇所について、吉田健一氏は次のように訳しておられる。

「浜辺は本を読んだり、ものを書いたり、考えたりするのにいい場所ではない。私は前からの経験でそのことを知っているはずだった。温か過ぎるし、湿気があり過ぎて、本当に頭を働かせたり、精神の飛躍を試みたりするのにはい心地がよ過ぎる。」

「海はもの欲しげなものや、欲張りや、焦っているものには何も与えなくて、地面を掘りくり返して宝ものを探すというのはせっかちであり、欲張りであるのみならず、信仰がないことを示す忍耐が第一であることを海は我々に教える。忍耐信仰である。我々は海からの贈物を待ちながら、浜辺も同様に空虚になってそこに横たわっていなければならない。」

    * * * * *

<筆者註>

 "too impatient"を、吉田氏も、落合さんも「焦っている」と訳され、すぐその後に出てくる "impatience"を、吉田氏も、落合さんも「せっかち」と訳しておられる(落合さんが吉田氏の訳を踏襲したということ)。ところが、もうひとつその後に "Patience, patience, patience" と三語連続で強調されて出てくる、"impatience"の反対語である "patience" について、吉田氏は「忍耐」と訳されているのに対して、落合さんはなぜか「柔軟性」と訳される。落合さんは "patience" という単語を「忍耐」と訳すのが余程お嫌いのようで、最終章の最後に出てくる "patience" については「おおらかさ」と訳されており、原書の用語を意図的に書き変えておられる。

 また "lack of faith"を、吉田氏は「信仰がないことを示す」と訳されているのに対して、落合さんは「自然への配慮のない行為である」と "lack of faith" とまるで関係のない言葉を並べておられる。原文にある "faith"を、吉田氏は「信仰」と訳しておられるのに対して、落合さんはなぜか「自然への配慮」とか「率直さ」と言った言葉を訳語として使われている。

 翻訳を専業とされていない落合さんの個人的な好みや自己主張の強さがもろに出てしまい、「翻訳」を逸脱し、「創作」に走ってしまったと思われる。

 「翻訳」と銘打った書物としては、どう贔屓めにみても、問題があると言わざるを得ず、改訂せず放置する版元の料簡が知れない。翻訳者が決してしてはならないことである。落合さんの、そして版元の、「欲」のなせる業である

 古人曰く、過ちては即(すなわ)ち改(あらた)むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ。

 嗚呼、残念。



                              


                              
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2013・11・07

2013-11-07 07:20:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

「大都会の生活の問題は、わたしたちが選べば……大勢の人の中で暮らし、仕事をし、息をするためには、そうせざるを得ないのだが……自分と同じような人間を選んでしまうということであり、その結果、生活はとても単調で味気ないものになってしまう。たとえば、自分たちがどういう人間であるかによって、前菜ばかりでメインの肉のない食事とか、甘い菓子ばかりで野菜もない食事にも似たつき合いをすることになってしまう。
 人によって好みの違いはあっても、ひとつだけたしかなことは、わたしたちが何かを選ぶ場合、たいていは、すでによく知っているものに手を伸ばし、未知のものを選ぶことはまれだということである。未知のものがわたしたちを不快にさせたり、失望させたり、あるいはただ単に少しばかり扱いにくいのをおそれるからである。しかし、失望や驚きを伴うとしても、わたしたちをほんとうに豊かにしてくれるものはすべて、そういった未知のものであるのだ。」

(アン・モロウ・リンドバーグ著 落合恵子訳「海からの贈りもの」学習研究社刊 所収)

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2013・11・06

2013-11-06 07:45:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

「わたしたちアメリカ人は、若さや行動力や物質的な成功に価値を認める傾向がある。そのために、人生の午後を軽んじ、自分にそんな季節がくることから目をそらしがちだ。そうして、時計の針を逆戻りさせて、人生の午前中を長引かせようとし、不自然な努力に体力を消耗したりする。しかし、その試みは成功するはずはない。わたしたちは、わたしたちの息子や娘たちと競争することはできないのだから。活発で、まだ未成熟な、からだだけ大人になった子どもと駆けっこをしたところで、何の意味もない。息を切らして走りつづけ、人生の午後ではじめて出会うもうひとつの花盛りの時をとり逃がしてしまうのは、つまらないことだ。
 なぜなら中年は、第二の開花期、第二の成長期、そして第二の青春なのだから。」

(アン・モロウ・リンドバーグ著 落合恵子訳「海からの贈りもの」学習研究社刊 所収)

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2013・11・05

2013-11-05 08:10:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

「人生の朝に当たる、単純でただ動き回っていた素朴な子どもの頃のような生き方や、四、五十代を控えた壮年期の活動的な生きかたは、中年にはもはやできない。しかし、人生の午後は、そこからはじまるのだ。
 いままでの速度の速い日々とは違う暮らし。生きる競争のために隅っこに押しやられていた日々。文化的な、また精神的な活動に自分の時間を割いて過ごすことができる日々。」

(アン・モロウ・リンドバーグ著 落合恵子訳「海からの贈りもの」学習研究社刊 所収)




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嗚呼 残念 2013・11・04

2013-11-04 10:09:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

「ヴァージニア・ウルフの小説に登場する、わたしの大好きなある男は、中年になった自分について次のように告白する。
  いろいろなものが、わたしから抜け落ちていく。わたしはある種の欲望をもう感じなくなっている。……わたしには、以前思っていたほど才能がないこともわかった。わたしの力の及ばない物事があることもわかった。哲学的な問題は、わたしには難しすぎるし、わたしの旅行の限界はローマまでだ。……わたしは、タヒチで原住民が燃えあがる松明(たいまつ)の明かりの下、槍で魚を突くのを見ることはない。ジャングルでライオンが飛びかかってきたり、裸の男が生肉を食べるのを見ることも決してないだろう、と。
 そうしてその後で、『ありがたいことさ……』と、この男がつけ加えるのが聞こえてくるようだ。」

(アン・モロウ・リンドバーグ著 落合恵子訳「海からの贈りもの」学習研究社刊 所収)



 他人(ひと)の手柄を横取りしてはいけません、いくら言い訳やクレジットを「あとがき」に書き並べても、横取りは横取りです。
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落合恵子の海からの贈りもの 2013・11・03

2013-11-03 10:45:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

蜻蛉(かげろう)の一日や、ある種の蛾(が)の一夜は、一生のうち、きわめて短いあいだしか続かない。しかしだからといって、その一日、一夜を無意味だとする理由にはならない。意味があるかどうかは、時間や永続性とは関係がない。それはもっと違う平面で、違う尺度によって判断すべきである。
 それは、いま、この時の、この空間での、いまという瞬間に繋がるものであり、『現在在るものは、この時、この場所でのこの瞬間にしか存在しない』のである。


(アン・モロウ・リンドバーグ著 落合恵子訳「海からの贈りもの」学習研究社刊 所収)

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2013・11・02

2013-11-02 15:10:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)と山本七平さん(1921-1991)の対談集から、山本夏彦さんの発言の一節。

「男子は男子一人で全男子の代表ですよ。
 女子は女子一人で全女子の特色を兼備していますよ。よく見るとある部分は薄弱であったり、ある部分は濃厚であったりしますが。
 たとえば、ケチだとか見え坊だとかありますが、ケチの部分が全くないひとはいないし、虚栄心の全くないひとも同じくいないから、自分のご亭主を、または細君をよく見ればわからないことは一つもない。
 すなわち一人の婦人で全婦人を察することができない男が、百人千人の女に接したって何もわかるわけがない。ほんとのことを言うとね。ただ男は(女も)助平だから何かあるんじゃないかと迷うんですよ。」

(山本夏彦・山本七平著「意地悪は死なず」中公文庫 所収)


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2013・11・01

2013-11-01 06:45:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)と山本七平さん(1921-1991)の対談集から、山本夏彦さんの発言の一節。

「鴫沢宮(しぎさわみや)は富山唯継(とみやまただつぐ)をその目で見て、間寛一(はざまかんいち)を捨てました。『金色夜叉』の発端カルタ会の場です。
 お宮はあとで後悔しますがあれは小説で、実際は後悔しません。人生婦人に生まれるなかれ、百年の禍福(かふく)良人によるといいますから、女は老若を問わずただちに看破します。
 一生の生活がかかっているからでしょう。ですから昔は絶対に大会社にはいれないひとが、文士だの詩人だのになりました。
 銀行員にもなれるし新聞記者にもなれるというひとはいませんでした。間違っても詩人は銀行員になろうとしなかったから、その点銀行員の試験官はらくでした。
 それが戦後は一変しました。銀行員にもなれるし、新聞記者にもなれるひとがいっぱいいます。」

(山本夏彦・山本七平著「意地悪は死なず」中公文庫 所収)

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