久津八幡宮を散策していて気がつきました。
板の幅が一枚一枚違うのです。
現在の建築は木材も工業製品化して柱も板も規格化されていているので違うサイズのものを使うことは希です。
規格も年々厳しくなり集成材と言われるものが木造建築に数多く使われるようになっています。
これはこれで良いこともかもしれないですが様々なサイズの木材を組み合わせ使うことは木材を無駄なく使うことにつながると思うし大工さんの高い技術がないとできないですね。
また伝統建築物を見ると曲がった木を上手く使っているのもよく見かけます。
これってすごいですよね。今の家で曲がった木を使うことは希ですので!
変なところで匠の技を実感しました。(管理人)
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板の幅が一枚一枚違うのです。
現在の建築は木材も工業製品化して柱も板も規格化されていているので違うサイズのものを使うことは希です。
規格も年々厳しくなり集成材と言われるものが木造建築に数多く使われるようになっています。
これはこれで良いこともかもしれないですが様々なサイズの木材を組み合わせ使うことは木材を無駄なく使うことにつながると思うし大工さんの高い技術がないとできないですね。
また伝統建築物を見ると曲がった木を上手く使っているのもよく見かけます。
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下呂市萩原町上上呂にある鹿供養塚に久しぶりに出かけました。
鹿供養塚は文化六年(西暦1809年)今から200年前に大雪が降り1,114頭ものシカが死んだのを供養した塚です。
その時の積雪は2mにも達したということです。
現在このあたりの雪は積もってもせいぜい50㎝程度ですから驚異的な積雪です。
雪に弱いシカは身動きがとれず死んでいったものと思われます。
その当時もシカの農林業被害はあったと思われるにも関わらず供養した方々の優しさが感じられます。
日本人と野生動物の関わり合いの一旦を知ることができる史跡であると思っています。
この鹿供養塚の存在を知った時には下呂市萩原町上呂のあたりにシカはいませんでしたので昔はいたんだ。と思っていました。
ところが現在では上呂地区にもシカはしっかり生息していて農林業被害が発生して人々を悩ませています。
文化六年の大雪で絶滅したのかな?と思っていたのですが、翌年には農業被害が発生した記録が近くにある久津八幡宮に残っているとのことですし、明治6年に刊行された斐太後風土記の益田郡上呂郷(現在の下呂市萩原町上呂周辺)の村々の産品に鹿が登場しますので明治時代にはシカがいたことがわかります。
しかし下呂市萩原町のお年寄りに聞くとイノシシの被害を防ぐために寝ずの番はしたがシカはいなかったといいます。
70代の方々の話ですので昭和初頭にはいなかったことになります。
一体全体いつから何が原因でいなくなったのだろう?と思っています。
史実から考えると現在のこの地域でのシカの存在は長い時間を経て再び戻ってきたということがわかります。
しかし分布が戻ってきた理由は色々考えられますが私にはよく分からないといったところです。
ちなみに斐太後風土記を見ると飛騨地方の南部ではシカの存在を確認することができますが現在のシカの分布は白川村や飛騨市にも及んでいますので明治初頭よりシカの分布は広いということが推察できます。(一度斐太後風土記から明治初頭のシカ分布図を作ってみたいと思っています)
この原因はやはり小雪傾向にあるのだろうか?とも思えますが、そんな単純な理由ではないと個人的には考えています。
何だか話しが逸れてしまいましたが鹿供養塚を見ると色々なことを考えてしまいます。(管理人)
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鹿供養塚は文化六年(西暦1809年)今から200年前に大雪が降り1,114頭ものシカが死んだのを供養した塚です。
その時の積雪は2mにも達したということです。
現在このあたりの雪は積もってもせいぜい50㎝程度ですから驚異的な積雪です。
雪に弱いシカは身動きがとれず死んでいったものと思われます。
その当時もシカの農林業被害はあったと思われるにも関わらず供養した方々の優しさが感じられます。
日本人と野生動物の関わり合いの一旦を知ることができる史跡であると思っています。
この鹿供養塚の存在を知った時には下呂市萩原町上呂のあたりにシカはいませんでしたので昔はいたんだ。と思っていました。
ところが現在では上呂地区にもシカはしっかり生息していて農林業被害が発生して人々を悩ませています。
文化六年の大雪で絶滅したのかな?と思っていたのですが、翌年には農業被害が発生した記録が近くにある久津八幡宮に残っているとのことですし、明治6年に刊行された斐太後風土記の益田郡上呂郷(現在の下呂市萩原町上呂周辺)の村々の産品に鹿が登場しますので明治時代にはシカがいたことがわかります。
しかし下呂市萩原町のお年寄りに聞くとイノシシの被害を防ぐために寝ずの番はしたがシカはいなかったといいます。
70代の方々の話ですので昭和初頭にはいなかったことになります。
一体全体いつから何が原因でいなくなったのだろう?と思っています。
史実から考えると現在のこの地域でのシカの存在は長い時間を経て再び戻ってきたということがわかります。
しかし分布が戻ってきた理由は色々考えられますが私にはよく分からないといったところです。
ちなみに斐太後風土記を見ると飛騨地方の南部ではシカの存在を確認することができますが現在のシカの分布は白川村や飛騨市にも及んでいますので明治初頭よりシカの分布は広いということが推察できます。(一度斐太後風土記から明治初頭のシカ分布図を作ってみたいと思っています)
この原因はやはり小雪傾向にあるのだろうか?とも思えますが、そんな単純な理由ではないと個人的には考えています。
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人間ドックである理由で要精密検査と指摘されていたのを放っておいたら先日お叱りを受けてしまいました....
夏期休暇を利用して行けば良かったのですが休暇をアユ釣りに使ってしまってズルズルと....
観念し今日は休暇を取って下呂温泉病院へ検査に行ってきました。
午前中に検査は終わってしまったので下呂市内の史跡を巡ってきましたのでブログで紹介していきます。(最近はブログのネタのために行動している自分がいます。)
さてまず最初は今日最後に立ち寄った飛彈國と美濃國の国境です。(現在の下呂市金山町)
世間一般的には飛騨川と言われる川のほとりにある國境争論地の碑です。
写真は飛彈國を背に美濃國方面の写真を撮りました。
飛騨川は旧益田郡(現在の下呂市)では益田川と言って親しまれています。
私が岐阜県で最初に住んだのが益田郡萩原町(現在の下呂市萩原町)です。
移り住んだばかりの時の会話で「益田川が・・・」とあります。「益田川ってどこにあるのです?」と聞いたら返事が「目の前にあるじゃないか!」「飛騨川じゃないんですか?」「益田では益田川だ」と返事がありました。
それからというもの下呂市の方々と話しをする時は飛騨川では無く益田川として会話をしています。
益田川に慣れきり2度目に萩原町に住んでいた時に斐太後風土記に出会い読みふけっていたところ益田川の記述の中に「彼國にては飛彈川と唱。」と記述がありました。
成る程歴史的には飛騨川とは美濃の方々の呼び名だったのだと妙に納得してしまいました。
益田川(飛騨川)の例に限らず国内の大川は上流から下流まで同じ名前であることはまずありません。
最近知ったのですが長良川も現在では上流から下流まで長良川と言っていますが実は違うということ。
近隣の大川も宮川が高原川と合流して神通川に、信濃川は上流では千曲川といったように違うんですよね。
地域によって川の呼び名が違うという事実を私はは面白いと思っているのですが国土地理院の地図は一つの名前で標記されつまらないものにしています。
歴史背景を無視して単一の名前で標記してしまった国土地理院は少々乱暴だったのでは?と最近では思っています。(管理人)
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世間一般的には飛騨川と言われる川のほとりにある國境争論地の碑です。
写真は飛彈國を背に美濃國方面の写真を撮りました。
飛騨川は旧益田郡(現在の下呂市)では益田川と言って親しまれています。
私が岐阜県で最初に住んだのが益田郡萩原町(現在の下呂市萩原町)です。
移り住んだばかりの時の会話で「益田川が・・・」とあります。「益田川ってどこにあるのです?」と聞いたら返事が「目の前にあるじゃないか!」「飛騨川じゃないんですか?」「益田では益田川だ」と返事がありました。
それからというもの下呂市の方々と話しをする時は飛騨川では無く益田川として会話をしています。
益田川に慣れきり2度目に萩原町に住んでいた時に斐太後風土記に出会い読みふけっていたところ益田川の記述の中に「彼國にては飛彈川と唱。」と記述がありました。
成る程歴史的には飛騨川とは美濃の方々の呼び名だったのだと妙に納得してしまいました。
益田川(飛騨川)の例に限らず国内の大川は上流から下流まで同じ名前であることはまずありません。
最近知ったのですが長良川も現在では上流から下流まで長良川と言っていますが実は違うということ。
近隣の大川も宮川が高原川と合流して神通川に、信濃川は上流では千曲川といったように違うんですよね。
地域によって川の呼び名が違うという事実を私はは面白いと思っているのですが国土地理院の地図は一つの名前で標記されつまらないものにしています。
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