コロナは忌まわしいことであった。否、あったと過去形で書いてはいけないことでもある。まだ継続しているからだ。しかし、本会研究誌としての役割は継続から新規まき直しでまるで再出発のような受け取り方をしていくべきであろう。この数年活動はしていたものの、進展はなかったからだ。そこで、見直すべきは学びになにが必要だったのかということである。反省もある。精一杯努力してきたのがなかなか成果があげられなかったからである。
中根東里をそこで取り上げたい。江戸人の大教養人である。以下駄文にはなるが、紹介したい。
中根東里という学者がいた。一六九四から一七六五の隠逸孤高の漢学者である。遺稿集「東里先生遺稿」「東里外集」で知った。
父は三河出身の浪人で伊豆下田で生誕した。幼くして禅寺に入り修行、後に黄檗宗で中国語を学ぶ。当時、黄檗宗は小さな窓口を海外に開いていた。さらに、荻生徂徠に入門してその才能を認められた。しかし、孟子を読み発憤還俗し徂徠学を厭い、それまで作った詩文等をすべて焼き捨てる。その後朱子学者室鳩巣に師事し金沢から江戸、今度は陽明学を志す。高潔な人格で、市井で学問を講じつつ、糸や針を売り草履を造り生活していた。
それから佐野で四十二歳から六十歳まで私塾を開いて生活する。
そこで五十三歳の東里は、姪っ子の芳子を引き取る。弟の娘であった。三歳であった。芳子の母は芳子出産後死亡。「新瓦」なる漢文体の書物を芳子に残す。やむなく伯父東里のところで育てられること、芳子の父親がどれだけ芳子を愛していたかが書かれており、すばらしい。
それ以上に「新瓦」には以下のように書かれている。
名を好む心は学問の大魔なり。早く名を棄て実を勤むべし。名を惜しむと申し候えば、よき事に聞こえ候えども、聖人の学者は義を惜しみ候間、名には頓着致さず候。名を惜しむ心これ有り候えば、事ごとに外聞を飾りて真実の心なく、世上の噂を恐れて気遣い多し。果てにはただ名のために義を棄つるかたに成りゆき申し候。(東里外集)
如何か?
名のいかに無価値なものであることか。