精神性の高い職業ほど日本では収入が高くない。高くないどころか、低すぎる傾向があると思ってきたが、いかがか。おそらく間違いはあるまい。
亡くなられた能楽学者、法政大学の表章(おもてあきら)先生は、法政に就職するときに教育職で入ろうとして、大学の事務方から教育職では生活できないから、大学の事務職で入りなさいと言われて納得できたと言われている。それほど、低いのである。表先生の講義はYoutubeでも公開されていたから見た方もおられるかもしれない。愚生も、Youtubeからのをダウンロードして毎日のように拝見させていただいてから、能楽の初歩を勉強している。それから今の愚生の駄文書きに入るのだ。
確かに、教育職で食っていく、生活していくというのは非常に困難であろう。
なんでこんなことになったのかと思う。それは、日本の伝統なのだろうとは思うが、教育職以外のヒトからは、異端性を見いだしたいからなのであろうと推察する。精神性の高い職業者は、異端であってほしいのである。手を汚さないで生きていってほしいというわけである。だから低い収入で我慢せよというわけである。ムムムムである。
「聖職者」という言葉があって、この言葉をすぐに日本のマスコミを中心として教育界たたきをする時に用いる傾向がある。しかし、聖職者というのはそんじょそこらにゴマンとおるわけではないというのを、前提としていないからついつい使ってしまうのである。
そりゃ高いモラル性を求められる。それは当然である。対象者が、子どもであったり、知識・品格・体力等々でもまだまだこれから勉強する人間を相手にしているからである。
でも、それは「職業としてのモラル性」であって、「精神面でのモラル性」ではないのではないか。だから、思想・信条・哲学の面でのモラル性であってはならないと思うのであるが。混同されていると感じるのだが、これまたいかがか。
もし、百歩譲って、全人格での崇高なるモラル性を求めるのだと言われる方がいたら、全国の聖職者という方々は全員失格である。
そういうヒトは、二千年に一度現れるだけであろうから。つまり、完全なるヒトである。不肖、愚生も読書を通じてのみであるが、そういう方を求めてきた。しかし、未だに現れてくださらない。
裁判官だって、バイブルに人を裁くなと書かれているから、裁判官を辞めろとは言わない。何故か?それはあくまで職業として裁判官をやっているからというだけであるからだ。能力があったから、難しい司法試験を突破できたのであってそれはそれでたいしたものである。されど、裁判官だって、「完全なる人」ではない。ましてや、「崇高なる精神性を持ったモラルの高い人」でもない。
だから、何度も言うようだが、「職業としての」モラル性を逸脱したら、徹底的に処罰されるのだ。残念ながらそういうのが不祥事として報道されるのは、そういうことなのである。
職業として高いモラル性を求められているということが、わからないのならば、その職業に就く資格はない。辞めてももらうしかない。
なにも精神面や、思想・信条・哲学までモラル性を求められているわけではない。そんなのは事実上不可能であるからである。しかし、職業としてのモラル性も守ることができないようでは、残念ながら失格である。最低限のことができないのだから。
じゃぁである。
職業人として高い精神性を求められる人に対して、だから低い収入に甘んぜよというのは、論理的に破綻していないか?というのが愚生の今日一番言いたいことである。
高い精神性を、「職業人として」ではなく、真実なる完全性を持った人に求めるのならば、それは金銭なんか関係ないだろう。しかし、「職業人として」ならば、労働力に見合った対価を支払うべきであると思うのだ。
教員として頑張っている方々、後輩諸君へのエールである。
誰かが言わなくちゃしょうがないだろうから。
では、これにて。
これから駅に向かいますので。そう、通学するのである。定期券で。ルンルンと。
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