ボキは苦学して一番最初の大学学部を卒業した。新聞配達をしていた。ゼニもなかったし、能力もなかった。まさに自己否定のカタマリだったよん。アホみたいな、遊び人がそのまんま大学生になっている同級生達には反発を覚えていたけど。
志村けんの追悼番組を見ていたら、志村けんが新聞配達して高校に通っている少年を演じていた。まるっきりかわいそうな少年であった。髪は30センチもありそうなくらい立っていてボサボサ、右足は草履、左足は短靴、新聞包みを抱えて物語る。病気の母と、かわいそうな妹を抱えて苦労しているというのである。その新聞包みに「サンケイ新聞」と書かれていたのには、笑った。笑ったが、世間の相場はそういう苦労話にあっているのだろうと思った。その程度にしか判断されていないのだろうとも思った。愕然とした。
ま、ボキの苦学話なんぞなんの足しにもならない。そんなもんを打鍵しても、誰も一顧だにしないだろう。そもそも、それでもって世間様の同情を引こうなんて思ってもいない。
ただし、反発がある。世間様の新聞配達少年達への「視線」にである。かわいそうにという「視点」である。そんなもん、やったものとして非常に反発がある。かわいそうだというのは、それはそれで認める。私立の三流大学にしか行けなかったし、親も貧乏だったからだ。田舎の役人と田舎教師の両親では、学費が出せなかったというのも認める。それに亡父は、私立の三流大学では毎月30万学費がかかると誤解していたし。何度説明しても理解できなかった亡父であったからだ。そんなアホ大学に行ってなんになる?と聞いてきたからだ。
アホで悪かったなぁと毒づいた記憶もある。でも、ボキはそうやって通学した母校に感謝しているのである。ずいぶん鍛えていただいたからだ。アホでも見捨てることはなかった。なんとか進級させていただいて、卒業もさせていただいた。
それからセンセになったのである。もっとも苦学していたから教育実習が在学中にできなかった。時間がなかったのである。だから、卒業してから通信教育でやっと教育実習ができたのである。
それほどまでして、センセ稼業をやってみたかった。
国文学科だったから、センセ以外はつぶしがきかないというのもあったけどねぇ。
今、仏教学で修士課程に在学している。通信教育だからできるようなもんである。それでもタノシイ。これだ、これがやりたかったと痛感している。やり残したという感覚があったからである。いわば、残糞感みたいなもんである。まだ、うんこがケツの中に残っているという感覚。
これじゃぁ、死んでも死にきれない。
資料集をバクバクと読んでいる。コロナで外出できないからだが。それでも、コロナでも新聞少年たちは配達しているのだろうと思うと、ジジイになったからとて安閑としているわけにはいかない。
すたすたとボキも歩くしか無い。
すたすたジジイのように。
すたすたジジイ
わはははっははははっはははっはははっはははっははははっはははは。
BYE-BYE!