天なるもの・天命ということ
「天命」ということを意識することがあるとかつて拙ブログで書いたことがある。そこで言うところの「天」とは、世界の意味の担保者ということで用いているのではない。少なくとも自分ではそう思っているのだが。ちょっと誤解があったかなと思いつつ、今日は人間ドックで行った幕張でぼーっとしながら考えていた。(いつも超ウルトラ・ぼーっとしているけど)
今、ここにこうして生きていられるのを天のおかげとか、天命のしからしむるところとは、愚生は考えない。オレはどうしたらよいのだと、天に聞いてそのまま行動に移していたら、自分の行動の責任は、全部天に帰属することになるからだ。それは、いかなあふぉ~な愚生でもやりたくない。また、天はお願いの対象でもない。強いて言えば、客観的な視点というか、愚生をじっと見ている眼というような感覚で用いている。
カミュという作家は、以下のようなことを言っている。
「私は、理性も、システムも十分には信じていません。考えているのは『どうふるまうべきか』です」と。
このカミュの言葉は非常に大きなことを教えてくれる。自己都合で、超越的な天とか父とか言われる存在(存在するかどうかも怪しいけれども)を呼び出してはならないということなのである。天を、あるいは父を要請することを自制し、自分がどのようにふるまって、どう考え、どう生きるかということを言っているのだ。他者のせいにしないということでもある。行動を選択したのは、自分であるからである。
だから、愚生はそういう意味で天のことについて書いているのではないのだということを、この記事で再確認しているのである。
私が、今あるような人間になったことについて、私は誰にもその責任を求めないという言葉を発見した人間だけが、天の支配から自由であり得ることができる。そりゃそうである。今の自分は、自分の行動の選択の結果、こうなったのである。誰のせいでもない。上司でも、友人でも、配偶者でも、師匠でも、母校でも、在籍校でもない。ましてや政府や、大マスコミや、テレビや、インターネットの責任でもない。
状況をどういう風に理解し、状況の中から原理・原則を発見したか。さらに、自分で考えて行動に移してきたのか。そのことが重要である。実際そうしてきたから「こうなった」のである。他人から嘲笑されようと、なんと言われようと、そんなことは関係がないのだ。だから、愚生は、他人への好き嫌いがない。人間なんて相手にしていないとまで書いたら言い過ぎだけど。個人への関心が殆どないのである。むしろ、個人のバックにある思想信条や哲学に興味があるからである。
学校がどうのこうのとか、ある特定の狭い範囲での成果とか、それもまた興味がない。偏差値とか、有名だとか、無名だとかそれもまた同様である。
それらはすべて人間の作り出したシステムでしかないではないか。人間が作り出したものならば、全部が邪悪であるとまで思っているからである。邪悪なもので悩み、心を痛め、あげくの果てには自殺までしてしまう、あるいは殺人を犯すということであってはならないのである。
閑話休題
人間ドックに今日は行っていて、明日も行くが、数値データは例年通りである。あまりほめられたデータでもないし、入院とか治療するような数値でもない。ま、これはこれで戒めとして十分自覚していきたいことである。体重もそう。かつて88キロ、最高で94キロの柔道選手であったので、ダイエットして73キロまで落としたのだが、ここ15年ほどは一定している。
お酒も相当好きであったから、ドクターには、「もっとやせろ」「ご飯を食い過ぎる」「酒はほどほどに」とか毎年言われる。運動は積極的にやっているが、どうしてもこれ以上やせないのだ。
ふううううむ。
いつまでも生きているわけにもいかんしなぁ。後がつかえているから。邪魔にされながら生きているのもつらいもんがある。
一休宗全さんが言われた言葉が愚生を刺激する。
•世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり
だからと言って、今すぐ死ねるかとなるとそれはい~やだという選択を愚生はしたいのである。(一休さん、ごめんね)
(^_-)-☆