痛いときは痛いと云うべき
居住地の祀りが、今日はある。交通整理担当だったのが、足を痛めたので、できない。いろいろ謝罪して今年は参加を見送った。立っていられないのと、けっこう走り回ったりするので、ちょっとオレにはできないと思ったからである。去年は、雨の降る中をやった。去年のようにやりたかったのだが、致し方なし。こんな時もあるのだ。仕方なし。仕方なし。
それでも、周囲が理解してくれているとは限らない。だから、痛いときは痛いと云うべきである。でないと、サボっているととられかねないからである。黙っていたらよくない。
黙っていたらよくないというのは、好きなじょせーがいたら、正々堂々と云うべきだとオレは思っているのだが、どうもそれができない世の中になっている。ハラが立つ。独身男性よ!奮起せよ!とオレはどこでも叱咤激励しているのだ。ところが、引っ込み思案な男がいて、実に嘆かわしい。黙っていたらよくないのだ!
自分の気持ちが相手に伝わっておるはずだというのは、そこに表現の工夫がなくては成立しないのだ。それこそ、表現学というか、文学の真骨頂というか、古来、和歌をはじめとして文学の追究してきた課題である。以前にも書いたことがあったが、それを一律にセクハラだとしたら、もうもうなにをもって告白が伝わるのだと歎いておるのである。じじいとしては。
現代のわけーしゅうは、ラブレターなんて書いたことがないのではないか。みんなメールで済ましているのではないのかとふと思ったからでもある。
ふううむ。
ラブレターの書き方なら、オレは人に教えることができると自慢しているのだが。過去のそういう文学上の話題からいくらでも、拾ってきて、紹介することができる。
おっと、あれか、と~ま君に教わったらまとまるものも、まとまらないって云われそうだが。そうでもない。オレにはキューピットしての実績があるからである(エヘン!)。
そういうまともなことを書くときは、まじめになるからである。だからご安心くだされませ。一度会ったらわかります。どっだけオレが、ジェントルマンかということが。わはははははは。
そんなわけで、今日も一日中おとなしくしている。16:15である。寺院の縁起の原文入力が完了した。とうとうここまできた。予定どおりだ。
ある意味、オレは計画どおりに行動するのが得意である。そう見えないというところも、また不思議なところである。まじめなんだか、不真面目なんだか、まったく常人の理解を通り越しておるのだそうな。もう一度云う。「そう見えない」ということが重要である。
簡単に相手にバレないということが大切なのだ。拙ブログでは相当個人情報をバラしているようだが、そんなことは決してない。かなり隠すべきところは、隠しておるからである。さらに、文章のいいところは脚色ができるということ。これもまたいろいろなオノレを演じワケて書いているのだ。楽しいのである。俳優にでもなったつもりで、書かせていただいておるからである。こういうのを表現の喜びというのであろう。だから、研究をしているというより、表現の喜びを味わいたくていろいろ小難しい本を読み、駄文を書いているのである。ソレが楽しいからである。演技者のようでもあるし。
柔道で云えば、なんの技が出てくるか全く予想のつかないという点が重要であるし、そういう人間なんである。オレは。それでいいのだ。それで。そうやって今まで生きてきてしまったからである。もう、今更改めることはできない。時間的な余裕もない。
だから云いたいのである。
黙っていたらいかん!
表現していかなくちゃならないって。
黙っていたら、そのままになっちまうのだ。そういうのを圧殺するような世の中だけはいかんのである。そう思っている。マジに。
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