京都なんか行って、そんなことをして(学術発表)なんになるんだい?
そんなことを言われたし、言わなくてもそう思っている方はおられる。
(^_^)3 フムフム。
若い人なら、学者になりたい、研究者になりたい、大学の先生になりたいとかいろいろあるんだろうな。可能性があるから。年代的に。
じゃ、オレはなんなんだということになる。無目的なんだ。それは間違いない。趣味だと言った方がいいかもしれない。無駄な浪費家だということなのか。
そうであってもいい。
要するにおっさん的な興味関心から勉強しとるという感じである。宗教学で言えば、のめり込まないタイプ。例えば、浄土真宗でもそうだ。教義にのめり込んで、実践を主体に、あるいは哲学としての宗教学とかはまり込んでいくのとはちょと違うような気がする。愚生の場合は。
だから専門家には永久になれない。
そういうことである。そういうこと。
ただし、留意点がある。それは、独善に陥らないということである。だから、生涯学習のシステムは重要である。そのシステムのもとで学習しないと間違いがおきる。経済学者で日本の古典にも手を出されて、いろいろと書いている方もおられる。優秀なんだろうが、あまりに広範囲にやられるとそれなりのヒンシュクも買う。それでもめげずにやる方もおられる。
たいしたものである。
愚生にはできない。たった一本の駄文を書くのに四苦八苦である。それも、根拠文献が適切だろうかとか、いろいろと悩んで書いているだけである。
情け無いが、その程度なのだ。
この辺りが、若い時と老年になってからの差である。ナニカになろうとしていないからである。これでは、冒頭に書いたようなことを言われるわけである。
ひたすら黙って隠れていればいいのだろうか。
すっこんでおれということなのだろうなぁ。
出しゃばりのオレにはできない相談だけどね。
(^_-)-☆