このブログは、生涯学習仲間との連絡も兼ねておるから、どこまでやったとか、ここまで学んだとか、現在自分がやっていることの報告の意味もあると勝手ながら思っている。だから、楽しみで他の方々の生涯学習関連ブログとか、Facebookとか、Twitterを拝見させていただいているのである。
よって、愚生もそういうことを書くのであって、なにも自慢会ではないのである。そういうことである。だから、いろいろと書いている。小学生の連絡帳みたいなもんですな。
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生きている証というもんであろう。
だから、もし愚生が入院してそれが絶望的な状況になっても、愚生は今度は「と~ま君の闘病記」というブログで闘う姿をお見せしたい。
そうならんように健康には気をつけるつもりだが、そんなブログをなぜ予定しているかというと、人生の最後には愚生の死生学を書きたいからである。生と死を見つめてである。修士課程で探究したのは、まさに死生学であるからである。いざ、死を目前としたときに、どんなに愚生が慌てふためいて、世間にヨレヨレと左右されて、みっともなく最期を迎えるかを見ていただければ幸甚である。ああなりたくはないという悪い見本をお見せして、死にたい。マジである。マジにそれを考えておる。それが高校生から探究してきた宗教学の仕上げであるとも思っている。
今やっていることは、芸能と宗教学という分野になるのだろう。つまりまだまだ途中の段階である。このことは、実際愚生が死にかけてみないと自分でもわからない分野である。
避けては通れないのだ。
あなたも、そこの彼氏も、彼女も、みんなみんな死んじゃうのであるから。
避けたいと言っても、最終ゴールでは死の淵が大きくクチを開けて待っているんでっせ。
悟りの境地なんて、愚生にはムリだしねぇ。これまでもみっともなく生きてきたし、成果主義からは最も遠い位置にいたし、世間様にはなんのお返しもしていないし、無駄なことばかりしてきましたよん。
ま、何年先になるかわからんし、今月人間ドックもある。いつ始まってもおかしくないんだけどね。
せいぜい、そうならんように、食事や運動、精神状態のあり方等々に注意していきますが。
それまではご声援のほどを。なんだか、このブログが一番の生きがいになっているような気もするので。
(^0^)/ウフフ