と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

晩節をどうするのか?

2013年02月13日 09時53分05秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 オイルということが、愚生にとって重要な問題である。オイルとは、OILではない。老いるである。人ごとではない。そのまま「老い」を、生きているからである。今のあたくしは。別段アンチエイジングというのは、まったく考えていないので、無理はしない。

  それよりも、長寿社会ということである。定年の延長が言われはじめているし、このことは避けて通れない問題でもある。あたくしは定年で退職したけれども。だから、もう走り始めているのである。長寿社会に生きるという道をである。と~ま君個人の問題としても。65才定年というのは、さらにヒートアップしていくであろうし、つまり65才から75才になるであろうと思っているから、これからの若い人たちは大変だろうなと思うのだが。

  定年延長は、経済問題から来ていると感じている。年金を集めてきた方が、年金を払いたくないのである。年金だって毎月相当の額を自分で納めてきたんである。何十年もである。今更なにをいうかと言いたい。高齢者が増えると年金がもったいない。そういうふうに言われている気がして、実に不快である。長生きをしていたらいかんのか?とあえて聞きたい。そこまで言うなら、オレのように元気なじじぃを退職させないこったよと逆に言いたい。はははははは。

 オレは働きたいのに、年齢制限があるから仕方なしに現場を去ったのだ。後輩諸君の邪魔になるからだ。だから去れと言われたら、去るしか無い。当たり前である。迷惑はかけたくない。後輩諸君の活躍の場を奪ってはならない。なんか訳のわからないものにしがみついて、おたおたしていることほど情けないものはない。

 そういうのを「晩節を汚す」というのである。いつまでも、センセ、センセと呼ばれたいっていうのは愚の骨頂である。去ったら、思い切り去ればいいのである。未練たらしく、前の職場にのこのこ出かけていって、でかい面をしているようでは、閻魔大王にほくそ笑まれる。

 もっと言いたいことがある。「高齢者が元気」な社会でなければならんと思うのである。高齢者が元気であるかどうかというのが、その国家の生きやすさのバロメーターであると思うのだ。

老人が保守的で暗いということを、言ったり書いたりする人がいるが、ありゃ違う。停滞と衰弱しか待っていないように言いふらす方もいるが、そりゃ間違っている。町おこしには、若者の力も大事だけれども、高齢者を活用することも重要なポイントであると思うのだ。高齢者というとすぐ介護と扶養の対象としか見ないというのでは、町おこしなんてできないでっせ。

 元気な高齢者は、「元気」で「活発」である。ここがポイントである。なにも病気になって苦しんでいる方をも引っ張ってこいと言っているわけではない。病になる方は若い人にもおられるからである。養生するしかない方は、それなりに介護と看護と医療と扶助の手をさしのべていくべきであると思う。 

 晩節を生きるというのが難しいというのはわかる。実感している。愚生だって同じであるから。それでも、心身共にガタがきていると言っても、可能な限り自立して生きていきたいものである。むしろそちらの方を実感している。されどされど、いつまでも自立して生きることも困難になってくるだろう。自分の意志と努力だけでは困難になってきた時期が「晩節」なのであろう。だから考えるのである。「晩節を汚さない」ということを。これから何が起きるかわからないし、どうなるかもわからない。あるいは、晩節を汚すかもしれない可能性もある。用心して生きるしかないではないか。

 じゃ、具体的にはどうすればいいのかということが、けふの記事で最も言いたいことなんである。ここまでは前置きみたいなものである。(相変わらずなげぇ~なぁ)

 

①    不倒翁でありたい 

 晩節というのは、人生のある時期だけを言うのではない。最終章(フィナーレ)ではあるが、初期の人生もあったし、中期の人生もあったし、不連続線もあるのが人生であろう。いろいろあって一生である。しかし、音楽でもそうである。序章とかいろいろあるではないか。一曲を通して感じられる原理原則がその曲にはあるのではないだろうか。そして、最終章で盛り上がる。それでいいのである。それで。

 しかし、最終章までその原理原則を持ち続けるのは困難である。最後まで一貫した人生を音楽を貫きとおせる人はあまりいないだろうと推察する。困難だとは知りつつも、やはり我々は「不倒翁」でありたいものである。

②    絶頂期に死んではならない

 絶頂期に死んだら、晩節は吹っ飛んでしまう。晩節は無いのだ。暗殺によって晩節が無かったというものである。織田信長がそうである。

③    安んじて生きる

 晩節を汚さない生き方というのは、なんだか絶頂期に成功するというようなことを言っているのではなく、安んじて生きるということである。晩節が平凡であったりしてもいいんのである。安心して生きるということである。けっして安直にいきるということではない。余計な力を入れないで生きるということであ

④    本業以外に手を出さない

 本業以外に手を出して、負債を抱えないことである。つつましく生きていれば、そんなことも起きない。莫大な借金を抱えて七転八倒していたんじゃ、死んでも死にきれないではないか。不動産とかに手を出して、いろいろあったタレントさんもいたではないか。おとなしくしていれば良かったものをと惜しまれてならない。

⑤    別途に生き甲斐を持つ

 定年後に別途に生き甲斐を持とう、脱サラして自営業になろうというテレビ番組があって、楽しみに見ている。しかし、たいていはアマチュアの域を出ておらず、退職金もなくなっていくし、月の収入も乏しくなるのがテレビ画面をとおして伝わってくる。農業自営だって、漁民だって、何十年もやってきた方と、一年間くらいの研修で同等に戦えるようなテクニックを身につけられるというのはウソである。その証拠に周囲の人々のあたたかい情で、つまり援助で生活できているという番組構成も多いからである。だまされてはいけない。プロになるというのは、そんな生やさしいものではないのである。教師だってそうである。誰でもできるとうそぶく輩もいるが、できるわけがないのだ。授業をやらせてみれば一発でわかる。

 そして「退路を断たない」ことである。背水の陣もいいが、挫折したっていいんだから。なにも成果を求められているんではないし。焦る必要はまったくないからである。

⑥    無為を楽しむ

 現役時代なら、たまには無為で一日を過ごすというのもまた一興であった。しかし、朝から晩までなにもすることがないとなると、これはなかなか困難である。マジに、難しい。おんなのひとはそんなことが無いから長生きなのである。だったらおめぇさんもやればいいではないかとなると、これまたおんなの人のように完璧にはできない。できないからだんだん邪魔にされる。人間はいつまでもほめられたくて成長するようである。ははははははは。

 清貧を楽しむことである。こころに恥じることをしないことである。罪を犯さないことである。泥棒とか、公共のマナー違反や、現在に不平不満をまくし立てたり、他人の悪口を言ったりして過ごしていたら馬鹿みたいではないか。

 なにも禅をやって無為自然の悟りを開くというわけではない。愚生のような、凡夫にできるわけがない。膝も痛くて、正座もできないのに悟るわけがないではないか。(^0^)

 

 あ、もう4000字を超えている。暇だからできるのかねぇ。言えているな。

 結論を書こう。「健康で長生き」・・・・・これである。これ。実にシンプルじゃなぁ。

 

 ではまたお会いしましょう。

 

 

 (^_-)-☆

 

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