なにも全部の人間関係を捨て去ることはない
けふは、柔道の大会である。五つの市が集まって行う。S市で行われるから、応援にいく。応援だ、応援。選手で出るわけではない。むろん、審判もやらない。できない。目がついていかない。瞬間の技の判断ができない。そう、もうやめればぁってやつである。高校の柔道部顧問をさせていただいていたから、審判は五十代半ばまではできたのだが。とほほ。
審判問題は、言われるまでもない。言われる前にこちらから、やめた。当たり前である。誤審をしたら選手に申し訳ないではないか。当然である。当然。
だからといって、柔道界の人間達と全ての関係を断ってしまうというのはいかがなものか。これまで構築してきた人間関係を捨ててしまうのは、こりゃもったいないことである。
愚生はほんとうにそう思うのだ。
ま、柔道なんかやってなんになるんだい?って言う方もいる。確かにいる。それも、怪我が多い武道だし、段位を上がっていっても、いろいろと問題があるのは十分知っている。この間まで、マスコミに体罰問題でたたかれていたのも承知している。
実際、15歳から稽古をしてきた愚生としては、いろいろ言われたくないというのが実感である。問題もあるのは確かであろう。されど、完璧な組織というのは存在しないのと一緒で、物事には短所・長所というのはあるのである。まったくなんの欠点も無いという御仁がいないのと一緒である。
大目にみられたしと思うのだ。いろいろなことについて。あまりクレイジーに目くじら立てていると、住み処を狭くする。
定年退職後に、いろいろな人間関係をさっぱりと捨て去る方がいる。ま、それもそれであり得る話であろう。されど、いかがなものか。本当にそれでいいのかねぇと思う。
再び、同じ人間関係を構築するのは、不可能だからだ。それまで過ごしてきた時間はなんだったのだ?ということになりかねない。
もったいない話である。そりゃ、嫌いな奴とムリしてつきあうことはない。嫌いなら嫌いで結構なんである。定年で辞めたのだから、ムリを重ねることはないのだ。そんなやつとつきあっていたって、こっちは何の影響も無いしねぇ。
だから、オレは元退職ナントカの会というのには殆ど出かけない。前の仕事の錦の御旗を振り回して、偉そうにしている奴を見ると、逆に哀れになる。執着のあまり、さまよっている亡霊のようなものだからである。オレは、そんなふうにだけはなりたくない。
新世界にチャレンジである。新しい世界に。今のオレがそうだ。大学人の世界に、飛び込んでしまったのだ。知っているひとは殆どいない世界だ。実践人で、しがない一介の高校教師でしかなかった。不安がなかったかと言われればUSOになる。それでも、ずーっと続けてきた生涯学習の魅力には勝てなかった。これは死ぬまで続けるつもりである。もっとも、明日死んだらこりゃたまらんけど。(^0^)
そういうことである。そういうこと。
じゃぁ、これから柔道大会の応援に行ってきます・
(^_-)-☆