美人の歴史という本を見つけた。大学図書館で民俗学のコーナーにいたら、タイトルに惹かれた。
G・ ヴィガレロという哲学者の著書である。藤原書店版。2012年 後平澪子氏訳。
4300円、435頁になる大著である。
訳者も後書きで書いてあったが、目鼻クチさえあれば美人という現代になった。ここのところがおもしろいのである。
そもそもこの本は、写真も多く、女性の美人史の概覧ができる。いちいち納得できる。
もう美人と「も」無関係になったし、もともと愛だの恋だのという柄ではない。
おもしろいのは、美しくなるための市場があるというのである。しかも、それは「下」を細くするという条件つきである。(p.245)
市場原理で美人も変化するというのであろうか。
ちょっと違和感がある。
そんなのでいいのかね?
しかもp.320には「消費される美」という項目もあって、あの懐かしいブリジット・バルドーが登場してくる。これまた楽しい。BB(ブリジット・バルドー)の出現は、彼女に張り合おうとするライバルを創ったとある。それを後押したのが、あらゆる方向に伸びている消費であるとしている。
消費が、あのスターのようになりたいという願いを持ったのだ。これは現代でも通じるだろう。AKBなんとかという風潮もそうである。もっとも、愚生などは現代風の娘達のあまりの濃い化粧に誰が誰だかわからんのだ。
ファッションモデルの存在が、美人を一般化させ、多様化させたのである。その陰には、ファッション雑誌の存在が大きい。コンビニに行っても、どこに行ってもそんな雑誌がいくらでも売っている。たまげるほど売っている。もっとも、愚生は買ったことはござんせんが。
写真写りのいいモデル、つまり写真写りの良いボディラインを強調する。「商品のための美」である。あるいは「消費のための美」でもある。グラビアのためのからだの原則を体系化してしまったのである。残念ながら。
美容整形の一般化も、消費社会の動きとリンクしている。だから、顔が均一化して、区別がつかないのであるが。
ここまで書いてきて、これがフランス人の話であるとなると、愚生などはただただ驚くしかない。2001年、アメリカでは未成年のハイティーンが化粧品に90億ドルを支出したそうである。
年配女性はさらに投資をする。「アンチエイジング革命」であるとするのである。多岐にわたる活動、車の運転、身だしなみへの配慮、寿命の延び、衛生管理の向上、生理学の進歩によって強まる平等の意識。だからアンチエイジが発展する。
いいことだとは思う。
そうやって活動的に生きることは。
「今日50代女性」は「突然変異」であるのは確信であるとも筆者は書いている。あるいは「美しさに年齢はない」という確信。ありあらゆるたぐいの矯正が可能になったのである。フランス人の50才から75才までの女性は、6人中1人の割合で美容整形外科の助けを借りることを否定しない。
美しさの規格・条件は撤廃されたわけではない。
立ちはだかっているのは、相変わらず「痩身」というのだそうだ。これもまた作り上げられた情報操作のような気がしてならない。まるでファッションモデルのようなのがいいってわけである。流行ともいうのだろうかねぇ。
愚生のような「別にオレは美男でなくてもいい」って選択肢はなくなっちまったですな。昔は、金も力もなければ美男と相場が決まっていた。愚生は確かに金も力も無いが(ついでに髪の毛もないが)美男ではないのだ。笑ってしまいますがねぇ。条件的に式が成り立たないではないですかねぇ。
('-'*)
ダイエットと化粧品に金を無限につかっているのは、無駄に生きているとしか思えないのだが。
見た目では無い。こころである。
このことを愚生は一番言いたいのである。ところがである。これはちょっと「旗色が悪いのだ」そうだ。反美人論ではないのだが。こっちの方が真実である。そう思って生きてきた。ま、これは正解であったんだが。ほんとに。好きなことをやってきて生きてきたしね。
美人論が消費の論理で回っているというからくりに気がついたら、電車の中でぺたぺたと鏡に向かって化粧をしながら、他人に笑われているようなことはしないと思うのだがねぇ。
さらにもう一発。
恋愛至上主義を賞賛しているマスコミならびにドラマの世界。
いいのかね?
そんなことをやっていて。
もっとやるべきことはあると思うんだが。
愚生のような庶民は、そんなことは煽らないでも、子孫繁栄のために戦国時代であってもやるべきことはやってきたのだよ。戦があっても、庶民である農民、海人、山の人たちは、強烈に生きていたのだ。民俗学をやるとそれがよくわかる。庶民が強烈に生きてきたから、現代の日本があるのである。感謝してもしきれないのである。
一部のはんかくさい自称エリート達に振り回されて生きていってはならんのであると思う。
もう消費社会嘘っぱちシステムは見えてしまったのだ。だまされることなかれ。
そんなことをこの哲学者の本に教えていただいたような気がするのである。
※こういう読書感想文から打鍵モードに入ると、一番厳しい駄文書きがさらさらといく。いわば準備運動である。あしからず。
G・ ヴィガレロという哲学者の著書である。藤原書店版。2012年 後平澪子氏訳。
4300円、435頁になる大著である。
訳者も後書きで書いてあったが、目鼻クチさえあれば美人という現代になった。ここのところがおもしろいのである。
そもそもこの本は、写真も多く、女性の美人史の概覧ができる。いちいち納得できる。
もう美人と「も」無関係になったし、もともと愛だの恋だのという柄ではない。
おもしろいのは、美しくなるための市場があるというのである。しかも、それは「下」を細くするという条件つきである。(p.245)
市場原理で美人も変化するというのであろうか。
ちょっと違和感がある。
そんなのでいいのかね?
しかもp.320には「消費される美」という項目もあって、あの懐かしいブリジット・バルドーが登場してくる。これまた楽しい。BB(ブリジット・バルドー)の出現は、彼女に張り合おうとするライバルを創ったとある。それを後押したのが、あらゆる方向に伸びている消費であるとしている。
消費が、あのスターのようになりたいという願いを持ったのだ。これは現代でも通じるだろう。AKBなんとかという風潮もそうである。もっとも、愚生などは現代風の娘達のあまりの濃い化粧に誰が誰だかわからんのだ。
ファッションモデルの存在が、美人を一般化させ、多様化させたのである。その陰には、ファッション雑誌の存在が大きい。コンビニに行っても、どこに行ってもそんな雑誌がいくらでも売っている。たまげるほど売っている。もっとも、愚生は買ったことはござんせんが。
写真写りのいいモデル、つまり写真写りの良いボディラインを強調する。「商品のための美」である。あるいは「消費のための美」でもある。グラビアのためのからだの原則を体系化してしまったのである。残念ながら。
美容整形の一般化も、消費社会の動きとリンクしている。だから、顔が均一化して、区別がつかないのであるが。
ここまで書いてきて、これがフランス人の話であるとなると、愚生などはただただ驚くしかない。2001年、アメリカでは未成年のハイティーンが化粧品に90億ドルを支出したそうである。
年配女性はさらに投資をする。「アンチエイジング革命」であるとするのである。多岐にわたる活動、車の運転、身だしなみへの配慮、寿命の延び、衛生管理の向上、生理学の進歩によって強まる平等の意識。だからアンチエイジが発展する。
いいことだとは思う。
そうやって活動的に生きることは。
「今日50代女性」は「突然変異」であるのは確信であるとも筆者は書いている。あるいは「美しさに年齢はない」という確信。ありあらゆるたぐいの矯正が可能になったのである。フランス人の50才から75才までの女性は、6人中1人の割合で美容整形外科の助けを借りることを否定しない。
美しさの規格・条件は撤廃されたわけではない。
立ちはだかっているのは、相変わらず「痩身」というのだそうだ。これもまた作り上げられた情報操作のような気がしてならない。まるでファッションモデルのようなのがいいってわけである。流行ともいうのだろうかねぇ。
愚生のような「別にオレは美男でなくてもいい」って選択肢はなくなっちまったですな。昔は、金も力もなければ美男と相場が決まっていた。愚生は確かに金も力も無いが(ついでに髪の毛もないが)美男ではないのだ。笑ってしまいますがねぇ。条件的に式が成り立たないではないですかねぇ。
('-'*)
ダイエットと化粧品に金を無限につかっているのは、無駄に生きているとしか思えないのだが。
見た目では無い。こころである。
このことを愚生は一番言いたいのである。ところがである。これはちょっと「旗色が悪いのだ」そうだ。反美人論ではないのだが。こっちの方が真実である。そう思って生きてきた。ま、これは正解であったんだが。ほんとに。好きなことをやってきて生きてきたしね。
美人論が消費の論理で回っているというからくりに気がついたら、電車の中でぺたぺたと鏡に向かって化粧をしながら、他人に笑われているようなことはしないと思うのだがねぇ。
さらにもう一発。
恋愛至上主義を賞賛しているマスコミならびにドラマの世界。
いいのかね?
そんなことをやっていて。
もっとやるべきことはあると思うんだが。
愚生のような庶民は、そんなことは煽らないでも、子孫繁栄のために戦国時代であってもやるべきことはやってきたのだよ。戦があっても、庶民である農民、海人、山の人たちは、強烈に生きていたのだ。民俗学をやるとそれがよくわかる。庶民が強烈に生きてきたから、現代の日本があるのである。感謝してもしきれないのである。
一部のはんかくさい自称エリート達に振り回されて生きていってはならんのであると思う。
もう消費社会嘘っぱちシステムは見えてしまったのだ。だまされることなかれ。
そんなことをこの哲学者の本に教えていただいたような気がするのである。
※こういう読書感想文から打鍵モードに入ると、一番厳しい駄文書きがさらさらといく。いわば準備運動である。あしからず。