新聞の投書で、子どもたちのところにお世話になっている老人(男性)のことを知った。奥様に先立たれて、遺されたというわけである。子どもたちは、親孝行で3人いる。そして、順番に「オヤジ、おれんところに来てや」とやったり、娘は「おとーさん、手料理を」とやってくれるんだそうである。
ところがである。くだんの彼氏、愚生なんかよりも人生の大先輩であるが、一つところに定住したい、これではたらい回しではないかと嘆いておられた。
それはそれで分かるような気がする。おおいに。
されど、愚生から見たら、親孝行ないい子どもさんたちではないかと思うのである。問題は、この大先輩、「存在感が無い」ということである。子どもたちが面倒を見てくれるというのならそれはそれでいいではないか。継続して面倒を見てもらえばいいのである。さらに、「子どもに迷惑をかけたくない」とも書かれている。最近、この手の方が増えている。子どもに迷惑がかかるっていう方が。しかもである。子どもに迷惑がかかるから、自分の葬式も出さなくていい、墓も要らない・・・・・という実に寂しい死に方を選択される方もいるのだそうな。
オレなら、祝い酒を樽でたくさん振る舞うつもりだ。オレは葬式はちゃんと出してもらうつもりだから。
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人それぞれ、オレの勝手だろうと言われるかもしれない。それならそれでいいけれども。ま、そういう人は、拙ブログなんぞ読んでくださらんだろうから。(^0^)
老いたら、ますます暴れればいいのである。世の中と関わって、人間と関わって、生きていけばいいのである。考え方一つであると思うのである。受け止め方一つである。
子どもに迷惑だなんて、否定的に考えないで、肯定的に生きていったほうがずっとよろしい。起きたことを全部否定的に考えて、人生を斜に見て、すね者のように生きることが格好いいのではないと思うがいかがか。せっかく子どもたちが面倒を見てくれるのだから、肯定的に考えないで、たらい回しだなんて言っていたら、子どもたちだってがっかりするだろうに。
どうしてもたらい回しが嫌だというなら、一人暮らしをしたり、施設に入るなりの工夫をすべきである。ただし、いつまでも一人で生きることはできないから、いつかは誰かのお世話にならなくてはならないということは自覚していきたいものである。
リア王も人生の末路を誤った人だ。ろくでもない娘達からの仕打ちを受けて、悲惨な人生の最期を迎える。
どこまでも自立の精神を喪いたくはないものである。最期は刀折れ、矢尽きたら、なるようにしかならないではないか。弁慶だってそう思った筈である。
存在感のあるじじぃになりたい。孫に、高校入試レベルの数学や英語、国語くらいは教えられるじじぃでありたい。はははははは。もうなっているか。塾でしごかれているから。
孫と、一緒におこたで宿題でもやっていたいなぁとしみじみ思う。たぶんオレはできるだろう。早死にしないかぎりは。だから、健康には留意しないといかんでっせ。
坂口安吾が「人生の疲労は年齢には関係ない」と言ったが、まさしくそのとおりであると思う。
さ、学校に行こう!今日も。
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