と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

9月7日(土)のつぶやき

2013年09月08日 05時14分35秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 愉快なり、愉快なり。そうだよ、オレはまったくもって話になりませんな。お姫様のような方と、お城で恋を語り合うというようなカオをしておらんのだから。笑い話なら得意だけどねぇ。白馬に乗って、颯爽と現... goo.gl/C2AxBq


人間はいつも無いものねだりなのです。そして心はいつも満たされない思いで、ぎしぎし音を立てています。欲望はほどほどに抑えましょう。

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広隆寺木造阿弥陀如来坐像:阿弥陀如来像は追善のために造像されることが多かったことから、840年の淳和上皇の死去を契機につくられたのではないか、あるいは842年に死去した嵯峨上皇の1周忌につくられたのではないかなどといわれている。twitpic.com/9csagt

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ポエジーとつきあうことは、良家の子女が日曜の昼下がりにするお遊びではありません。なぐさめや楽しみの源泉ではなく、生死を賭けた冒険なのです。 『だれでもない庭』

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知ってるかい、スナフキンがいっちまったんだ。ほかのひとは起こしたくないって、ぼくにさよならをいったもの。 - ムーミン

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人間の思考に関して言えば、最も古い時代の人間の思考にも鈍重化があり、古代の思考も、全体として考えられるものが問題であるときには、戯れの観念をほとんど超えてはいない。この鈍重化はキリスト教思想に固有のものではない。-非-知と反抗-

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概念と観察とが出会い、互いに結び合うのは人間の意識という舞台においてである。そしてこう述べることで、この(人間)意識が特徴づけられたことになる。即ち意識とは思考と観察の仲介者なのだ。-自由の哲学-

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10/19 13:30~17:15 古典の日制定記念シンポジウム「神楽の伝統と変容」 ow.ly/oEBni 東京都内に伝わる神楽の実演と交流をもって、「神楽とは何か」その「伝統と変容」について論じ、次世代への持続可能な伝承と活性化を模索したいと思います。

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Facebookのアルバム「浦安の明海大学で日本安全教育学会が開かれました」に写真を13枚アップロードしました fb.me/2HpKkyVWv


一生のよい記念になりました。

生涯学習の同好の士を見つけましたし。

年齢は愚生の一つ下。

今年、地方国立大学大学院博士課程に入学... blog.goo.ne.jp/tym943/e/e5995…


正確の精神と幾何学の精神とは、よく一方が他方なしに存在しうる。精神は、強くて狭いこともありうるし、広くて弱いこともありうるからである。§2

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死というものは、必ず、いつか、みんなにやって来るもの。でも、今をどのように生きて行くか、何をしたいか、生きることに本当に真剣になれば、死ぬことなんて怖くなくなるもんです。

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芸術やポエジーは世界を説明しません。それらは世界を表現するのです。芸術やポエジーはそのもの自体を越えて指し示すものを必要としない。それらそのものが目的なのです。良い詩とは世界をよりよくするためにあるのではありません。その詩そのものが、よりよき世界の破片なのです。『だれでもない庭』

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