おはようございます。
昨日の晩にNHK教育で放送していたのを録画した「白隠」を見ながらいろいろ考えておりました。
禅僧で非常にボクの好きな人です。なにしろとらわれがない。こういふ人になりたいものです。おっと、一気に結論を書いてしまいましたが、そういうこともあるんです。そういうことも。
暫時不在 如同死人
この文字があります。墨をたっぷりとつけて太く太く書いてある。これぞ究極であります。不在ということは、よくあることです。仕事でもなんでも、ちょっとした集中を欠くことがある。そういうときに、ボクはこの文字を思い出す。死人のごとく生きてはならんと、勝手に思っておるのですが。
しかし、不在ということはいろいろな瞬間で起こり得る。今、この瞬間に自己はそこに存在する。身体としては。されど、本当に自己であるのか?というと自信を持って肯定できないものがあります。
本当の自己とは何か。このことの問いはまことに、重たい問題があります。皮相的に生きていないかということは常時問われなければならないことであります。
自己を探究するということが、もっとも肝要なことであって、哲学の課題でもあります。大好きなソクラテスせんせがこれを言いました。
そして、人間とはなにかということもであります。今年一年このことをずっとやってきたようなものでした。尊敬する哲人ソクラテスせんせの言うことく、智は善であるという前提のもとに、いろいろと考えてきたのでありました。
このことはある意味、退職してみないとわからないことでもありました。自由にならないと、です。やはり職業に縛られていると、自在なる発想ができないとしみじみ感じておりましたから。
この一年の収穫がこれであったのだと思うのです。
もう一つあります。中世日本史を学びたいということが可能になったことです。以前から興味はあったのですが、ボクは社会科の教員ではなかったから、なかなか踏ん切りがつかなかったのです。躊躇というやつです。
興味があるんならやってみりゃいいだろうと、言われる方がいるかもしれません。どこでどうなって、そんな風に突き進んでいったのかと今年の来し方を考えていました。
能勢朝次先生流の能楽源流をずっと追っていたからでありましょう。原典にあたって、能楽のことを考えるという途方もない試みを始めてしまったからであります。
今年は、京都龍谷大学で発表もさせていただきましたが、それより前の8月に、奈良国立博物館で能楽学会に参加させていただいて、聴講をさせていただいたことが決定的でありました。
そうか、こうやればいいのかということに気がついたからであります。直接お聞きして、あるいは拝見してやっとわかったことがあったからでありました。
ちょっとしたきっかけというものが非常に大切であると感じました。このことは師匠との会話でもそうでした。ちょっとしたアドバイスを、この悪すぎるボクの頭の中で反復して考えると、少しだけ、ちょっとだけわかるような気がすることがあるんです。
頭が悪いなら悪いなりに、ボクの場合は、足を使って調べるしかない。そのことを決めることができたのです。自己の内部において。
なんだそんなことか?って言われるでしょう。それでもいいんです。ボクは、ボクなりの方法でしかできません。それだけの人間でしかない。
だからまだまだ倒れるわけにはいかんのですなぁ。知らないことが多すぎるんです。しょうもない。何をいままでやってきたのだろうという思いがあるからです。
人間というものは、本当に善くなるために、学んでいるんですねぇ。それが根底にあるんですねぇ。
もし、悪行のかぎりを尽くしているんだったら、それは、人間は善を求めているんだということをまだ知らないということであります。哲人ソクラテスに学んだことは、そのことであります。
そういうことに気がついた、気づかせていただいたということが収穫であったのでした。やっとたどり着いた点でもありました。そしてその点は、まだまだ先にもたくさんあるような気が致します。
ふむふむ。
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