多くの少女タレントたちが、いろいろ、あるいはいそいそとテレビに出ている。中には48人も登場してくる歌い手のグループがいて、愚生はそういうのを好む一般的な現象についてどう理解したらよろしいのかをいつも考えてしまう。オタク文化だとひとくくりにする気はないのだが。
何がひきつける要素なのだろうか。つまらん現象だと一蹴するのはたやすい。しかし、それでは同時代を年齢の差はあったとしても、ここに厳然として生きている、老いたかつての青年としては寂しい。おおいに考えるべきである。
岡田有希子というアイドルがかつて存在した。存在したといのは、自死を選んでしまったからである。1986年、18才だった。二回目の自死への試みで亡くなったと覚えている。そして、彼女の選択について考えれば考えるほど不思議な気がするのである。
彼女は、漫画チックな文字で文章を書き、ハートマークとか、非常に軽いタッチで発言を繰り返していた。そのこと自体はどうでもいいのだが、周囲の期待に耐えきれなかったのではあるまいかと思っている。用意周到に計算された存在のあり方でアイドル規定をされていたのだろうし、それに自己矛盾を感じていたのではないかと思っているのである。今でも。
さらにアイドルを生み出そうとしている大きな機構というかシステムの側にいるものたちと、受け手側の目的が一緒だからという理由で、その後多くのアイドルが登場してきたのだ。そもそも送り手と受け手は共犯関係にあると感じている。
そのオタクの群れの中のファンと自称する向きには、アイドルについて、身体性を求めているのではなく、バーチャルな役割存在を求めているのであると思う。みんな同じような貌をしているとしか思えないような映像を眺めて不思議になる。愚生は、誰が誰だか区別がつかないのである。テレビを見ていると。
そして、身体性の無いアイドルと、バーチャルな存在としてのアイドルという矛盾の中で、岡田有希子は、自己を語る言葉を失ってしまったのだと感じるのである。
自己を語っているという点では、若い女性のブログに多く見られる現象である。受け狙いのブログもある。いいではないか。言葉があるんだから。あるいは、自分を語っていることで、発散しているのかもしれないし。具体的に、この***とか+++とかのブログ・・・・というように紹介することはできない。言ったらおしまいである。ただし、あまりに稚拙である。語り口もそうだし、絵文字のオンパレードだし、がっかりすることがある。Twitterでどなたか批判している方があったが、ま、オレもひとのこたぁ言えないけど。
岡田有希子は、自己矛盾に気がついたのだと思っている。愚生は。あの時からである。1986年からである。しかし、それを語ることができなかったのだ。ブログなんてもんもなかったし。18才であるから、無理だという指摘もあるだろう。それでも自死を選ぶほど苦悩していたのなら、もっと語ってほしかったと思うのである。惜しい人を亡くしたもんだと、愚生は思っていたからである。なんとか対処の仕方もあっただろうにと思うからである。
肥大化した周囲の期待とアイドル路線というシミュレーションに、自己の言葉の貧しさ故に対抗できなかったのだ。せめての反抗であったのかもしれない。
Kという横浜国立大学にまで進学した女優がいる。村西とおるという監督の映画に出ていた人である。監督の名で、どういう女優であったかはおわかりであろうが。この人もまた興味のある人格であると思う。こちらは、言葉のレベルは高くて、なかなかおもしろいことばかり言っていた。それも私的なことをである。あるいは、母への反抗で女優になったという語り口もあるのだ、彼女には。
そういうものかなぁと思っていた。最近は何をしているんだろうか。知らないが。
このこともあるいはアイドル路線とシミュレーションされたシステムの存在とアイドル自身の個体というか、身体性との対立と一緒なのではないのかと思う。周到に計算された路線である。本人とはいっさい関係のないところで計算されている可能性がある。本人が拒否できないところで。
もっともっと自分のことを考えると言う意味でも、自分語りは大切であると思うのだが。
一番いいのは、自己のあり方まで規定されるようなことを巧妙に避けながら、「うまく」生きていくことでありまするよん。マジに。生き延びるために。これからアイドルになりたいという方に、一言忠告させていただきました。
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