[けふはいろいろあって、あちこちと出かけていたのだが]
愚生如きが言えたものではないのだが、言葉の持つ働きというものは、かなり大切であると思うのだ。これは経験上まったくそのとおりであって、これまで言葉を乱暴に使ったこともあったからである。つまり、他者を傷つけたことがあったことを否定することはできないのだ。申し訳無いことである。
他者を傷つける時は、たいてい相手と対等になっている。つまり、同レベルってやつだ。これはいかん。どっかに覚めた目でもって、自分の言っていることばを分析している他者の視点を持っていることが大切である。自分に酔ってはあかんのである。
だから拙ブログで、いろいろな視点から雑文を書かせていただいていると、そのことがよく見えてくる。乱暴な言葉を使ってみたり、逆にバカ丁寧にやってみたり、自虐ネタを用いて書いてみたりすると、よ~くそのことが分かるのだ。演技でやっていると言ってもいい。本当の自分というのは、どっかに隠されているのだ。しかも、それを無意識でやっているのだ。困った性分である。
唯一、やらないのは、インテリ気取りということ。だって、インテリではないからである。実にシンプルな理由である。インテリでもない者が、気取って何か書いてみても笑われるだけだ。
禅は思想だよねぇって言って、肝心要の禅をやったこともない輩と一緒だ。だから、結構慎重に書いているつもりである。ただし、このことに関しては、そちらの道で本格的にやっている方が近づいてきたら、愚生は一目散に逃げる。そう、それでいいのだ。問題はチャレンジである。やってみることだ。やってみて初めて自分に足りない部分がわかってくるのだ。
女性に対してもそうではないか。好きだと思っていても、それを表明するのと、しないのでは月とすっぽん。ただし、現代は罪作りなことをした。告白がセクハラになるというのだから。これでは独身男性が増えてしまうではないかと憤慨しているのだ。じじいとしては。だから愚生みたいなじじいが、キューピット役をやらざるを得なくなるのだ。それはそれでけっこう楽しいんだけどね(^0^)。
ま、愚生が告白しても、それはマンガとして闇に葬られる。あはははは、あのじいさまとうとうおかしくなったぜぃと。そこまでおかしくなってはいないと、自分じゃ思っているのだけれども。もっとも、あれか。相手がいねぇってことだけなんだが。そんなことはしたくても、できねぇできねぇ。わはははははである。
それなりの年代というものがあるのだ。そういうことに関しては。それにあれだ。顔の良さとか、髪の毛があるとか、足が長いとか、歩き方がスマートフォンだとか、いろんな要素がからむ。みんな愚生とは縁のないものである。
今日は、随分遠いところまであちこち世間のしがらみで、出かけていた。今週は、全く大学に行っていない。院生室にも行っていない。電車にも乗っていない。定期券が切れたので、乗れない。夏休み中は定期券を買わないつもりだし。だから明日の師匠の前期最終ゼミは、自分の車で行く。こんなこともあるのだなぁ。
夏休み中は、週に一度金曜日に大学に行こうと思っている。図書館か、院生室に籠もるつもりだ。それ以外は、地元の県立図書館で駄文を書きまくる。でないと追いつかない。寺院の縁起を入力していると、無念無想になって、駄文の構想までいろいろ考えてしまう。これがいいのだ。これが。楽しみでもある。
今日はこれから塾に行く。
さっきまで、数学のちょっとした勉強をしていた。カードでやっていた。数学とか、英語をちょっとやるだけでも、駄文書きのいい息抜きになる。分野が違うからである。専門の方に怒られるけども。これもまた良し。楽しきかなである。そして、ぼけ防止に良し。あははははははである。
さ、これくらいにします。
また明日!
(^_-)-☆