ゴールデン・リタイアーズ

S20年生、後期高齢ゾーン、人生最終コーナー「遊行期」の
徒然残日写真録

130219 母親死去、92年の女の一生を閉じた。

2013年02月19日 | マイ家族

 去る13日午後4時1分、誤嚥性肺炎からの心筋梗塞で母が92年の生涯をとじた。ここ3年ばかり大阪在住の弟が介護をしてくれていた。私が母の住まい近くに単身赴任していた頃も何回か救急車で運ばれたり入院、自宅療養など繰り返していた。弟の店舗つき住宅の完成間際で新しい部屋に住まわせてやりたいという弟の気持ちもあり胃瘻の処置を決断、強力栄養剤注入で髪が黒くなるくらい元気な感じであったがホームステイに2~3日預けたときに誤嚥が発生、今回の急逝に至った。

 久しぶりに新幹線にのり、通夜の会場である大阪の公益社に向かう。弟がすべて手配をしてくれた。数年前に私が撮影したやわらかい表情の母親の遺影のしたで納棺された母と対面、きれいに化粧をされた母が眠っている。息を引き取るときに手を握ってやれなったのが心残りではあったが苦しまずに亡くなったと聞きよかったと思う。19時からお通夜。真宗大谷派の住職の読経で式が始まる。弟の会社の同僚がたくさん来てくれていた。密葬、家族葬と案内していても長いビジネス生活、そうもいかない。約1時間で終わって会葬者が帰られ、親族だけの食事、いろいろな話題がいきかう。23時、われわれ夫婦をのこして他のメンバーは帰宅。午前2時、線香やローソクを変える。あらためて母の顔を見る。92年の母の女としての人生は幸せであったのだろうかとふと思う。太平洋戦争のさなかのS19年に結婚、翌20年5月に私を出産、よくぞ大阪大空襲のさなかに私を産み、生きながらえることができたものだ。焼け野原の大阪で飢え死にさせずによくぞ育ててくれたものだ。父親が鉄工所を創業し油にまみれ母もがんばり私が大学4年の頃には20数人の工員がいた。が中小企業の悲哀で連鎖倒産、すべてをなくし母のあらたな苦労が始まる。いざという時の男は意外とダメ。細腕の母への依存が大であった。われわれ息子二人もそれぞれの家庭維持で精いっぱい。わずかな支援は続けていたが母はその後の心労もあり体調をくずした。わたしも単身、大阪に転勤、10年ばかり生活をともにしたが体調は回復せず、心から笑えるような楽しい時間を体験させることはできなかった。苦労性というか性格的なこともあったが今となっては心残りである。しばし母の顔を見続けた。

翌日、小雪交じりで寒い。町内会の役員さんが弔問にやってこられる。弟の地域での活躍ぶりがわかる。10時、息子が岡山から到着、10時半遺族の集合写真。弟の会社の社長ほか役員、社員の方、20名ばかりこられる。弟の仕事ぶりと人をそらさない人間関係づくりの様がうかがえる。11時葬儀告別式。浄土真宗の大無量寿経が鐘とともにながれる。焼香が終わり喪主挨拶。昨晩一応は挨拶内容を整理していたが最初の1~2分で思わずうるっと来てしまう。4~5分のあいさつを終え最後のお別れ。御棺に花をいれてゆく。すっかり花に埋まった母の御棺が霊柩車にのせられ斎場にむかう。御骨あげまでの時間、精進あげ、食事をしながら話がはずむ。母も胃瘻で何の楽しみもない状況、弟夫婦の介護も大変、相互に解き放たれる空気がそうさせる。15時、母が骨となりツボに納められてゆく。母の死が見送る者に生の意味を問いかけ、あらたな生き方を考えさせる。生かされ、助けられていることへの感謝の念を忘れず生き抜く。マイクロバスが公益社にむかって出発、今は誰もしゃべらず押し黙っている・・・

 

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