風・感じるままに

身の回りの出来事と生いたちを綴っています。

生い立ちの景色⑭ タイ米とすいとん

2009-07-18 | 生い立ちの景色
1953年10月。7歳の秋。

次の日、避難所から歩いて帰ってきたら檜尾川に架かっていた橋が流されてなくなっていた。遠回りして別の橋を渡ってやっと家に着いた。

オレの家は何とか水浸かりは免れたが、田や畑が一面泥海になっていて、それが校区の5つの村まで続いていた。平地に建つ家はほとんどが一階部分が水没していた。

1週間経っても泥水はまだ引かなかった。もちろん学校は休みで、オレの村では集会所へ先生に来てもらって、1年生から6年生までの合同授業が始まった。村のおっちゃんらが交代で先生を舟で送り迎えした。

2週間くらいしてやっと泥水が引きはじめた。決壊した堤防の土砂に埋もれた無残な田んぼが顔を出した。刈取り間近だった稲は全滅だ。畑・池・井路など、何もかも土砂に埋もれて背の高い草木の枝葉だけが頭を出していた。

ここしばらく、おっ父もおっ母も家の裏からこの様子をぼう然と眺めているだけで、何も喋らなくなり、声をかけることも出来ないくらいしょんぼりしていた。汗水たらして育ててきたコメが一瞬にしてパーになったのだから無理もない。

ひと月くらいして土砂を取り除く工事が始まり、村の人が日雇いで雇ってもらうことになった。また、役所からのコメと缶詰の配給も始まった。オレもリヤカーを引いて村の集会所に配給を取りにいった。コメを作る百姓が米穀通帳を持ってコメの配給を受けるのは何か変な感じだった。

配給のタイ米と麦の混ざったご飯、すいとんだけの日が多くなった。おっ母は口癖のように、「食えるだけありがたいと思わなかったらバチが当たる」といった。オレもその通りだと思った。腹いっぱい食えるだけで満足だった。

年の明けた夏頃から、建設省によって家の前の淀川堤防嵩上げ工事が始まった。収入の無くなった村の人らが、臨時で雇ってもらってここで働くことになった。

オレの家からはチズコ姉ちゃんが雇ってもらうことになった。22歳の姉ちゃんがおっちゃんやおばちゃん達に混じってトロッコを押したりする土方作業に汗を流した。
コメント (1)
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