2月15日(水)、雨。
今日も雨でした。
シトシトの雨。
空気は暖か。
と言うことで、ほぼ一日中木地仕事。
島ツゲ古材を使って5組ほど。
例の「小ぶりな駒」の追加注文のための作業でした。
ーーーー
豊島家の資料。
昨日、お知らせしていた写真です。
先ほど撮りました。

先日の駒に関して、都合3人の方からコメントを戴きました。
ポイントをコピーします。
①、木地の乾燥? (ばた)
歩兵の字の漆にあまり変化がない。なのに木地はボロボロ。
最初からボロボロの木地に細工(盛り上げ)するとは思えませんから、制作後に何らかの理由で木地がこうなったと見るのが普通でしょう か。
②、 (住谷)
放射状にヒビが入っているので、木口と見ましたがいかがでしょう?
湿気のあるところに放置されるなどして、木口から水分の出入りがありこうなったと思います。
しかしこのようになっても文字は比較的保持できているのですね。漆の耐久性はすごいですね。
③、木地のほか (axemak)
木地,駒形もそうですが同じ書体で字角の太さも違うみたいですね
盛り上げの漆そのものも異なるかな?
そうですね、普通では見掛けない状態ですね。
今日の写真を含めて、見てください。
先日の歩兵は、住谷さんの指摘のように小口木のもので最もひどい一例です。
他にもそれに近いものや、黒く汚いシミの入ったものも多いですね。
原因は「雨」だと書きました。
雨が原因のシミ、雨が原因のボロボロなんですね。
これらの駒は作られてから70年以上。80年から90年。あるいは100年くらいのモノもあるはずです。
主に「歩兵」が多いのですが、それは作り余ったり、作っている途中でキズがあったりして、除けられたりした半端ものですね。
それが積もり積って、まあ、無用のものだしいずれは捨てられる運命にあった訳です。
不要なものでも、捨てられずに、物入れか仕事場のどこかの棚の奥に永年置かれていた。
豊島家の仕事場や物入れがどのようなものだったかは、小生は知らない。
しかし、何せ70年以上も前の昭和初期。
駒作り風情の仕事場が、お大臣(尽)のお屋敷のようであったとは到底思えないし、普通の木造の家の雨洩りだって昔は多かった。
知らない内に何年も何年も、繰り返し雨洩りにあえばどうなるかです。
ところで、龍山親子が昭和15年に死去して、やがて家族は「店」を畳んで熱海へ引越します。
引越しの時点でボロボロが確認されていたならば、東京で処分された可能性が高い。
しかし、これらも遺品の一つとして熱海に移されました。
であるならば、熱海の地でこのようになったと言う可能性もゼロではありませんね。
その辺のところは、確かめてはおりません。
いずれにしても、原因は「雨」なんですね。
実はもう30年くらいになりますか、豊島家のこのボロボロの駒を見て驚いて、実験をしてみました。
それ以前は、「黄楊は湿気に弱い」、「気を許すとカビだって生えやすい」ことは経験上、知っていました。
しかし、「こんなにボロボロになるなんて」と、半信半疑でした。
実験は、不要の「黄楊の生地」を軒下に放置することでした。
ばらばらっと、雨の掛かる軒先や、花壇に駒を撒いて、あるものはそのまま、あるものは土を被せておく。
正確な日数は忘れましたが、半年もすると表面は黒い滲みだらけで、フカフカしていました。
駒を割ってみると、中の方まで「黒ネズミ」状態。
分かったのは、およそ2年もすれば「黄楊」は土に還るということ。
一方、一緒にばら撒いた「檜」の木端は、ナイフで削るとその下は生木そのまま。
「黄楊は腐敗菌に弱いんだ。それで黄色いカビが着きやすい。出土駒にほとんど黄楊が無いこともそれが理由なんだ」と分かりました。
それを確かめてみようと、思ったのが「櫛」。
「櫛の最適材は黄楊」なのですね。
昔の遺跡から「出土した櫛」は、どんな木であるかと言うこと。
取り寄せた資料は「出土した櫛の一覧表」です。
詳細は覚えておりませんが、古墳時代のものから10数世紀のものだったと思います。
しかし、表の材質欄には「黄楊」と記されたものが、いくつもあるのでした。
こんなはずはない。
そんなに「黄楊の櫛が土中から見つかるはずはない」。
これは今でも確信しています。
小生の推論では、発掘担当者が確たる証拠もないまま「櫛=黄楊」だと思いこんでしまっていた。
これは良くあることだと思うのです。
発掘担当者が、木材の知識、特に「黄楊」についてどの程度しっておられるのかですね。
そして、誰がそれを検証したのか。
木材の専門家によって「黄楊」だとの検証までは行われてはいないのではないかと思うのです。
余談ですが、「発掘」現場の管理については、「結構いい加減なものだなあ」が、体験を通じての感想です。
ある発掘現場管理事務所に「駒の発掘状況を教えてほしい」と、訪ねた時のことでした。
「8世紀の穴Aではおかしすぎる」というと、「駒」が発見された柱の穴が、AからB、BからCと変わると言うことがありました。
発掘の地層が10ミリ上下すると、数世紀ずれてくることもザラなんですが、穴のAとCでは4世紀の差なんですね。
今日も雨でした。
シトシトの雨。
空気は暖か。
と言うことで、ほぼ一日中木地仕事。
島ツゲ古材を使って5組ほど。
例の「小ぶりな駒」の追加注文のための作業でした。
ーーーー
豊島家の資料。
昨日、お知らせしていた写真です。
先ほど撮りました。

先日の駒に関して、都合3人の方からコメントを戴きました。
ポイントをコピーします。
①、木地の乾燥? (ばた)
歩兵の字の漆にあまり変化がない。なのに木地はボロボロ。
最初からボロボロの木地に細工(盛り上げ)するとは思えませんから、制作後に何らかの理由で木地がこうなったと見るのが普通でしょう か。
②、 (住谷)
放射状にヒビが入っているので、木口と見ましたがいかがでしょう?
湿気のあるところに放置されるなどして、木口から水分の出入りがありこうなったと思います。
しかしこのようになっても文字は比較的保持できているのですね。漆の耐久性はすごいですね。
③、木地のほか (axemak)
木地,駒形もそうですが同じ書体で字角の太さも違うみたいですね
盛り上げの漆そのものも異なるかな?
そうですね、普通では見掛けない状態ですね。
今日の写真を含めて、見てください。
先日の歩兵は、住谷さんの指摘のように小口木のもので最もひどい一例です。
他にもそれに近いものや、黒く汚いシミの入ったものも多いですね。
原因は「雨」だと書きました。
雨が原因のシミ、雨が原因のボロボロなんですね。
これらの駒は作られてから70年以上。80年から90年。あるいは100年くらいのモノもあるはずです。
主に「歩兵」が多いのですが、それは作り余ったり、作っている途中でキズがあったりして、除けられたりした半端ものですね。
それが積もり積って、まあ、無用のものだしいずれは捨てられる運命にあった訳です。
不要なものでも、捨てられずに、物入れか仕事場のどこかの棚の奥に永年置かれていた。
豊島家の仕事場や物入れがどのようなものだったかは、小生は知らない。
しかし、何せ70年以上も前の昭和初期。
駒作り風情の仕事場が、お大臣(尽)のお屋敷のようであったとは到底思えないし、普通の木造の家の雨洩りだって昔は多かった。
知らない内に何年も何年も、繰り返し雨洩りにあえばどうなるかです。
ところで、龍山親子が昭和15年に死去して、やがて家族は「店」を畳んで熱海へ引越します。
引越しの時点でボロボロが確認されていたならば、東京で処分された可能性が高い。
しかし、これらも遺品の一つとして熱海に移されました。
であるならば、熱海の地でこのようになったと言う可能性もゼロではありませんね。
その辺のところは、確かめてはおりません。
いずれにしても、原因は「雨」なんですね。
実はもう30年くらいになりますか、豊島家のこのボロボロの駒を見て驚いて、実験をしてみました。
それ以前は、「黄楊は湿気に弱い」、「気を許すとカビだって生えやすい」ことは経験上、知っていました。
しかし、「こんなにボロボロになるなんて」と、半信半疑でした。
実験は、不要の「黄楊の生地」を軒下に放置することでした。
ばらばらっと、雨の掛かる軒先や、花壇に駒を撒いて、あるものはそのまま、あるものは土を被せておく。
正確な日数は忘れましたが、半年もすると表面は黒い滲みだらけで、フカフカしていました。
駒を割ってみると、中の方まで「黒ネズミ」状態。
分かったのは、およそ2年もすれば「黄楊」は土に還るということ。
一方、一緒にばら撒いた「檜」の木端は、ナイフで削るとその下は生木そのまま。
「黄楊は腐敗菌に弱いんだ。それで黄色いカビが着きやすい。出土駒にほとんど黄楊が無いこともそれが理由なんだ」と分かりました。
それを確かめてみようと、思ったのが「櫛」。
「櫛の最適材は黄楊」なのですね。
昔の遺跡から「出土した櫛」は、どんな木であるかと言うこと。
取り寄せた資料は「出土した櫛の一覧表」です。
詳細は覚えておりませんが、古墳時代のものから10数世紀のものだったと思います。
しかし、表の材質欄には「黄楊」と記されたものが、いくつもあるのでした。
こんなはずはない。
そんなに「黄楊の櫛が土中から見つかるはずはない」。
これは今でも確信しています。
小生の推論では、発掘担当者が確たる証拠もないまま「櫛=黄楊」だと思いこんでしまっていた。
これは良くあることだと思うのです。
発掘担当者が、木材の知識、特に「黄楊」についてどの程度しっておられるのかですね。
そして、誰がそれを検証したのか。
木材の専門家によって「黄楊」だとの検証までは行われてはいないのではないかと思うのです。
余談ですが、「発掘」現場の管理については、「結構いい加減なものだなあ」が、体験を通じての感想です。
ある発掘現場管理事務所に「駒の発掘状況を教えてほしい」と、訪ねた時のことでした。
「8世紀の穴Aではおかしすぎる」というと、「駒」が発見された柱の穴が、AからB、BからCと変わると言うことがありました。
発掘の地層が10ミリ上下すると、数世紀ずれてくることもザラなんですが、穴のAとCでは4世紀の差なんですね。
駒の写真集
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