私は年金生活の五年生の64歳の身であるが、
昨夜、ネットでニュースを見ていたら、
【YOMIURI ONLINE】に於いて、
『 弘前大事件で冤罪の那須 隆さん、今年1月に死去』
と題された記事を読み、驚いたのである・・。
無断であるが、記事を転載させて頂く。
【12月5日14時48分配信 読売新聞
青森県弘前市で1949年に起きた弘前大教授夫人殺害事件の犯人とされ、
真犯人が現れて再審無罪となるまで
冤罪(えんざい)に苦しんだ那須隆さんが今年1月24日、
青森県内の病院で死亡していたことが分かった。84歳だった。
那須さんは1949年8月、弘前大医学部教授の妻が自宅で殺害された事件で、
約2週間後に警察に逮捕された。
一貫して犯行を否認したが、1953年に最高裁で懲役15年の刑が確定し、
服役した。
事件から20年以上たった1971年、
知人が真犯人として名乗り出たことから再審を請求。
いったんは棄却されたが、異議申し立てが認められ、
1977年に仙台高裁で無罪が確定した。
】
以上が、記事の全文である。
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
私は恥ずかしながら、この事件も、まきこまれた冤罪(えんざい)に関しても、
無知であった。
この後、読売新聞の夕刊が配達された後、
詳細を知りたくて、この事件に関する新聞記事を読んだのである。
【・・
那須さんの知人によると、
那須さんは晩年、冤罪事件で苦しんだ過去を語ることなく、
公民館の読書愛好会に入り、読書にふける日々を送っていたという。
1993年2月、妻の京さんが67歳で他界した後、
支援者の援助を受け、弘前市内で一人暮らしをしていたが、
1998年10月に腸炎を患い、同市内の病院に入院。
同年末に退院してからは、青森県つがる市の義弟方に身を寄せていた。
妹によると、
「自分は静かに逝く。
死んだ後もそっとしておいてほしい」と話し、
最期は、親類にみとられて静かに息を引き取ったという。
・・】
以上、読売新聞の記事を無断であるが、引用させて頂いた。
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
私はこのお方が、20代なかばで、警察に逮捕され、
一貫して犯行を否認し続けたが、1953年に最高裁までの道のりを
周辺からの容疑の疑惑の視線にさらされ、
そして最高裁の裁定は『懲役15年』の刑が確定し、
服役された30、40代はどのような思いで刑務所で服役されていたのだろう・・。
少なくとも警察はもとより検事、裁定された判事の方も、
何故、自分の証言が信用してくれないのか、
さいなまれた期間であったであろう・・。
私はこのような思いを馳せると、思わず涙がこぼれたのである。
この後、事件から20年以上たった1971年、
知人が真犯人として名乗り出た直後の
このお方の心情はどのように思われたのだろうか。
そして再審を請求し、1977年に仙台高裁で無罪が確定するまでの期間も
長い道のりの期間であっただろう。
結果として、このお方の半生は、余りにも冷酷な冤罪で、
人生を台無しにされた、痛切な期間であった。
わずかに救いがあったとするならば、
記事の最終部分において、
【・・
那須さんは、源平の合戦で平家の扇を打ち抜いた那須与一の直系の子孫。
先祖伝来の書画など約700点を、
与一の生誕の地とされる栃木県太田原市に寄託したのがきっかけで、
同市に2007年10月、「那須与一伝承館」が完成。
那須さんは、初代名誉館長を委嘱された。
同館の阿部能久・学芸員らによると、
那須さんは、オープン前に展示品を見て回り、
「待ちわびていました」と興奮した様子で話し、
開館の記念式典では、
「(家宝を)後世に残すことが出来た」
と喜んでいたという。
・・
】
以上、読売新聞の記事を無断であるが、引用させて頂いた。
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
私はこの事件にまきこまれ冤罪で、人生を台無しにされた方を遅ればせながら知り、
私は齢ばかり重ね、世の中の大半は解かったような気持ちでいたことに、
恥ずかしくなり、涙の後は独り赤面したのである。
昨夜、ネットでニュースを見ていたら、
【YOMIURI ONLINE】に於いて、
『 弘前大事件で冤罪の那須 隆さん、今年1月に死去』
と題された記事を読み、驚いたのである・・。
無断であるが、記事を転載させて頂く。
【12月5日14時48分配信 読売新聞
青森県弘前市で1949年に起きた弘前大教授夫人殺害事件の犯人とされ、
真犯人が現れて再審無罪となるまで
冤罪(えんざい)に苦しんだ那須隆さんが今年1月24日、
青森県内の病院で死亡していたことが分かった。84歳だった。
那須さんは1949年8月、弘前大医学部教授の妻が自宅で殺害された事件で、
約2週間後に警察に逮捕された。
一貫して犯行を否認したが、1953年に最高裁で懲役15年の刑が確定し、
服役した。
事件から20年以上たった1971年、
知人が真犯人として名乗り出たことから再審を請求。
いったんは棄却されたが、異議申し立てが認められ、
1977年に仙台高裁で無罪が確定した。
】
以上が、記事の全文である。
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
私は恥ずかしながら、この事件も、まきこまれた冤罪(えんざい)に関しても、
無知であった。
この後、読売新聞の夕刊が配達された後、
詳細を知りたくて、この事件に関する新聞記事を読んだのである。
【・・
那須さんの知人によると、
那須さんは晩年、冤罪事件で苦しんだ過去を語ることなく、
公民館の読書愛好会に入り、読書にふける日々を送っていたという。
1993年2月、妻の京さんが67歳で他界した後、
支援者の援助を受け、弘前市内で一人暮らしをしていたが、
1998年10月に腸炎を患い、同市内の病院に入院。
同年末に退院してからは、青森県つがる市の義弟方に身を寄せていた。
妹によると、
「自分は静かに逝く。
死んだ後もそっとしておいてほしい」と話し、
最期は、親類にみとられて静かに息を引き取ったという。
・・】
以上、読売新聞の記事を無断であるが、引用させて頂いた。
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
私はこのお方が、20代なかばで、警察に逮捕され、
一貫して犯行を否認し続けたが、1953年に最高裁までの道のりを
周辺からの容疑の疑惑の視線にさらされ、
そして最高裁の裁定は『懲役15年』の刑が確定し、
服役された30、40代はどのような思いで刑務所で服役されていたのだろう・・。
少なくとも警察はもとより検事、裁定された判事の方も、
何故、自分の証言が信用してくれないのか、
さいなまれた期間であったであろう・・。
私はこのような思いを馳せると、思わず涙がこぼれたのである。
この後、事件から20年以上たった1971年、
知人が真犯人として名乗り出た直後の
このお方の心情はどのように思われたのだろうか。
そして再審を請求し、1977年に仙台高裁で無罪が確定するまでの期間も
長い道のりの期間であっただろう。
結果として、このお方の半生は、余りにも冷酷な冤罪で、
人生を台無しにされた、痛切な期間であった。
わずかに救いがあったとするならば、
記事の最終部分において、
【・・
那須さんは、源平の合戦で平家の扇を打ち抜いた那須与一の直系の子孫。
先祖伝来の書画など約700点を、
与一の生誕の地とされる栃木県太田原市に寄託したのがきっかけで、
同市に2007年10月、「那須与一伝承館」が完成。
那須さんは、初代名誉館長を委嘱された。
同館の阿部能久・学芸員らによると、
那須さんは、オープン前に展示品を見て回り、
「待ちわびていました」と興奮した様子で話し、
開館の記念式典では、
「(家宝を)後世に残すことが出来た」
と喜んでいたという。
・・
】
以上、読売新聞の記事を無断であるが、引用させて頂いた。
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
私はこの事件にまきこまれ冤罪で、人生を台無しにされた方を遅ればせながら知り、
私は齢ばかり重ね、世の中の大半は解かったような気持ちでいたことに、
恥ずかしくなり、涙の後は独り赤面したのである。