私の住む東京郊外kの調布市は、
26日はどんよりとした曇り空で風が強く吹き、寒い1日であったが、
この後は風もなく穏(おだ)やかな冬晴れに恵まれ、
私は日中のひととき買物、散策をしたりしている。
今朝も地元の天気情報は、
朝の6時過ぎは3度、昼下りは14度前後、そして夜の6時は10度と予測され、
今後の年末年始も晴れマークが続いている。
このように年末年始に於いて恵まれた天気は、
私の64年間で記憶がなく、どうしたのかしら、と戸惑ったりしている。
昨今の政治はもとより混迷し、経済も稀(ま)れな程に悪化し、
社会に暗いニュースばかり、報じられている。
私は憂(うれ)いながらも年金生活の5年生の無力な身であり、
天上の気候の神々が、せめてお天気ぐらいは温かい年末年始に、
と采配して下さっている、と解釈したりしている。
この後、庭のテラスで煙草を喫っていた時、
私の幼年期の頃の年末年始は、どのように過ごしたのかしら、
と思いを馳せたりした・・。
過日、買物のスーパーの店内で、『お正月』のメロディーが流れていて、
このことが脳裏の片隅に残っていたのかもしれない。
このような思いになると、私の綴ったサイトで、
『幼年・少年期の想いで』のカテゴリを開いたりしたのである。
偶然に昨年の12月30日に於いて、
【幼年時代、この時節に唄った歌は・・♪】
と題して、このサイトに投稿しているが、再掲載する。
【・・
私の父は小学二年、祖父は小学三年で死去され、
農家で大黒柱を失った我家は没落しはじめるのであるが、
一年生の時、冬休みの直前は恒例の二学期の終業式があり、
そして何より苦手であったのは通信簿を貰うことであった。
兄2人は優等生で、私は『2』が多い劣等生で、
父にしぶしぶ見せると、やっぱりね、といった表情を感じたのである。
私はいじけた可愛げのない幼児であったが、
やはりお正月が近くになると、人影の少ない農道で、
♪もういくつねると お正月
お正月には 凧(たこ)あげて
こまをまわして 遊びましょう
はやく来い来い お正月
【 『お正月』 作詞・東 くめ 】
とかぼそい声で唄ったりした。
私は元旦になると、お年玉を父、祖父の両方から頂けることを覚え、
そして兄に教えて貰い、凧を揚げたりし、こまも廻したりした記憶があるので、
劣等生なりにお正月を迎えるのが楽しかったのである。
尚、凧揚(たこあ)げを兄に見習い、凧を揚げようとしたが、
私のだけが少し揚がったと思ったら、直ぐに落下するのであった。
兄達は通信簿『5』の多い優等生であり、
僕のだけは『2』が多い劣等生のせいか、
『僕の凧・・どうして揚がってくれないの・・』
と心の中で叫びながら、悲しくなり、そして益々(ますます)劣等感を増した時でもあった。
・・】
このように綴ったのを読み返し、私は微苦笑したりしたのである。
そして今年の初夏の時、中学校時代の有志で懇親会の時、
『俺は・・小学校、中学校の時・・通信簿②とか③の多い・・劣等生だったよ・・』
と私は明言したりしたのである。
隣に座っていた裕福な家庭で育てられた優等生だった女性が、
『あらぁ・・XXクン・・
そんなこと・・この人生に関係ないの・・
私の主人・・地方公務員だけど・・転勤が多かったのよ・・
お陰でさぁ・・引越しの連続・・
そのたびに子供も学校をだいぶ転校したりして・・可哀想くらいだったわ・・
その上、主人の母が病気がちで・・
人生・・うまく平等にできているの・・分かる・・』
と微笑みながら、私に云った。
私は苦笑しながら、聴いたりしていた。