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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『タイガー、ブービー賞でも世界ランク1位・・』、私は微苦笑し・・。

2010-08-09 18:56:24 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程、ネットでニュースを見ようと【YAHOO! JAPAN】を開き、
《 タイガー、ブービー賞でも世界ランク1位 》
と題された見出し記事に、私は思わずクイックした。

ALBA.Netより配信された記事であり、
無断であるが、記事を転載させて頂く。

《・・
   タイガー、ブービー賞でも世界ランク1位はキープ

<WGC-ブリヂストン招待 最終日>◇7日◇ファイアストーン・カントリークラブ(7,400ヤード・パー70)

オハイオ州にあるファイアストーン・カントリークラブを舞台に開催された、
「WGC-ブリヂストン招待」の最終日。

好相性の大会で完全復活どころか絶不調が続くタイガー・ウッズ(米国)は、
最終日も77と大荒れ。
72ホール競技としては自己ワーストのトータル18オーバーで4日間を終えた。

蓄えたひげが悲しく映る。
うつろな目でインタビューに答えるウッズは
「18オーバーは面白くない。残念ながら我慢強さが十分ではなかった」と搾り出した。

ウッズは2番パー5バーディで幸先の良いスタートを切ったのも束の間、
3番、4番と連続ボギー、さらに7番、8番でも連続ボギーを叩き前半だけで3つスコアを落としてしまう。
こうなると今のウッズに流れを引き寄せる力はない。
10番ボギーの後2つのバーディを奪ったものの、
14番ダブルボギー、15番ボギー、16番でもダブルボギーと立て続けにスコアを落とし、
トータル18オーバーでフィニッシュ。
順位は78位タイで4日間を終えた。

それでも、今大会4位以内に入れば世界ランキング1位の座に着くことが出来たフィル・ミケルソン(米国)が、
この日だけで8オーバーと大乱調でスコアを落としたため、
世界ランキング1位の座は何とかキープ。

下から2番目のブービー賞ながら世界1位の座には首の皮一枚でつながった。
しかしこのまま低調な成績が続けば、陥落は時間の問題。
最強王者が窮地に立たされている。

8月9日11時27分配信 ゴルフ情報ALBA.Net
・・》
注)記事の原文をあえて改行を多くした。

http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/sports/tiger_woods/
☆ ALBA.Net タイガー、ブービー賞でも世界ランク1位はキープ ☆

私は現役のサラリーマン時代、ゴルフに関しては、
ほんのわずかしか、練習所に上司に連れたれて、練習した程度で、
コースにも出たことのない男である。
従って、現代もゴルスに興味はなく、低山のハイキングの方が遥かな楽しい。

こうしたゴルフ無知な私でも、ゴルフ界の最強の人のタイガー・ウッズぐらいは、
スポーツ・ニュースなどで、抜群の実績は読んだりし、
昨今は不倫騒動をテレビのニュースで偶然に視聴したり、
その後は試合を一時自粛し、最近は復帰戦に望まれている、
この程度は私は知っている。

そして今回の試合で、最強の王者として君臨された方でも、
惨澹たる成績に終ったことを知り、やはりシビアでメンタルなゴルフは、
正常心で望めなかった、と私は感じたりしている。

私がタイガー・ウッズに関心があるのは、
桁外れの実績を残している本人を育てた父親に興味がそそがれる・・。


私は以前2006年5月5日に於いて、
【 ベトナム戦争、そしてタイガー・ウッズ・・。】
と題して、投稿したことがある。

【・・
(略)
私はゴルフをしない人であるが、
タイガー・ウッズの名前は聞いたことがある。

今朝の読売新聞で、タイガー・ウッズの父が死去されたことを報じていた。

この父がベトナム戦争の時、アメリカ軍として従軍され、
戦場に隣接した国の女性と結婚され、
2人の間に生まれたのがタイガー・ウッズであることを知らなかった。


私は高校3年前後から、ベトナム戦争の状況については、
テレビのニュース、時事雑誌、新聞等のマスコミを通じて、見守っていた。

アメリカ軍の介入、大量兵器の投下等の圧倒的な軍事力により、
ベトナムの抵抗勢力のベトコン、北ベトナムの正規軍は、
可哀想であるが、敗北は時間の問題だろう、と思っていた。

その後、北ベトナムの首脳部に寄る国際世論の操作には、言葉を失ったりした。

ベトナム戦争後、ベトナムを統一した旧・北ベトナム首脳部に寄る隣国の侵入には、
20代の私は国際政治、国益を根本に考え直させられた。

このような思いがあったので、今朝の新聞のこの記事に関しては、精読した。


今朝の読売新聞に寄る記事を無断であるが、転記をさせて頂く。
《・・
ゴルフの世界ランク1位ので、
メジャー大会10勝を誇るタイガー・ウッズ(30歳)の父、アールさんが3日、
前立腺ガンの為、アメリカ・カリフォルニア州内の自宅で死去した。
74歳だった。

大学時代に野球選手だったアールさんは、
アメリカ陸軍特殊部隊、グリーンベレーに入隊、ベトナム戦争などに従軍した。
その間にタイ女性と結婚。
2人の間に生まれたタイガーのニックネームは、
アールさんの戦友のあだ名にちなんでいる。

帰国後、自宅車庫を改造して練習場を作り、幼少時代からタイガーにゴルフを教えた。

タイガーは自身のホームページに、
『父は一番の友人であり、人生の偉大な手本だった。
父がいなければ、今の私はなかった』
とコメントを発表。
・・(略)
・・》
以上、新聞記事より引用した。


私はアメリカ市民がベトナム戦線に従軍したのを、
時事雑誌でその当時読んでいた。

従軍したアメリカの若者の心境を思いめぐらしていた。

その後、映画で克明に提示された。

マイケル・チミノ監督による『ディアー・ハンター』(1979年)で、
アメリカ映画作品が初めて正面から、ベトナムの戦場を表現した。

ベトナム戦争の敗北後のアメリカは、
この映画が上映されるまで、私の拙(つたな)い鑑賞暦からして、
具体的なベトナム戦争の戦場としての映画は、避けられていた、と思っている。

この以前には、周縁的な世界で取り上げた『タクシー・ドライバー』、『帰郷』があったが、
私は『ディア・ハンター』を観た時は、初めてアメリカの若者の心境を理解した。

その後は、オリバー・ストーン監督が『プラトーン』(1987年)に於いて、
より鮮明にベトナム戦場をひとりの若者を通して、リアルに提示した。

この2作品を観れば、いかにアメリカの市民が、
いかに傷つき、癒すのに時間を要したか、私は理解できたのである。

このような思いを重ねて、タイガー・ウッズの父親が、
過酷なベトナム戦場の後、帰国したあとタイガー・ウッズをゴルフ練習に導いたこととなり、
ゴルフに興味のない私さえ、ときおりタイガー・ウッズを注視するようになった。
・・】

このような心情の私であるが、
タイガー・ウッズは人生のなかば、ゴルフ選手としてはピークは年齢による体力の低下、
昨今の不倫騒動後の心身の不安定もさることながら、
難局を乗り越えて、もう一度、大きな大会で優勝の栄誉の後、引退されれば、
タイガー・ウッズの人として軌跡のドラマに私は感動する。


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長崎、ささやかな私の想いは・・。【下】

2010-08-09 12:59:17 | 定年後の思い
私が昨年の2009年2月に長崎を訪れた時、
長崎市内のあれこれな食べ物、そして何よりも旅先でめぐり逢えた人びと、
これらについて記載する。

【『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 ~歴史のかたみの中で~ 】
の連載の中で、綴っている。

【・・
       第7章 長崎市内の食べ物のあれこれ

私は年金生活の5年生の身で、少しメタボとなって折、
過日、私の住む市内で、『脱メタボ!チャレンジ』の研修に参加し、
若き清楚な保健師のお方から、優(やさ)しい指導を受けたばかりで、
今回の長崎・雲仙の8泊9日間の旅にきたのであるが、
無念ながら日本酒は断念とし、やむえずビールを呑んでいたのである。

せっかくの長崎市内の食べ物を頂いても、長崎の地酒が呑めなくて、
料理を食べても賞味が半減するので、少し困ったりしていた。

こうした中で、程々の価格帯の料理店で、それなりに頂き、
予想外の食べ物について、少し記載する。


長崎空港に着いた後、市内に移動し、私達3人は遅い昼食とした。
家内はあらかじめ中華街の一角にある中国菜館の『江山楼』本店を選定していた。
長崎は中華料理も美味しい、と期待していたせいか、
ビールを呑みながら頂いたのであるが、
私達の3人は誰一人『美味しいわ・・』という言葉は出なかったのである。
この後、家内たちは、中華街にある中国の菓子店で、
7品ばかり買い求めていたのである。

翌日、私は独りで市内の観光地を歩き回って午後3時過ぎ、
地魚を食べたくなり、手軽に食べられる回転寿司と決めて、
駅ビルのひとつ『アミュプラザ』の5階に行った。

そして、『すし活』と明示された回転寿司店で、
ビールを呑みながら、『旬魚六貫盛り』を食べた後、
まぎれなく美味しいと感じて、ビールを追加し、
五島灘の活タイ、活ヒラメなどを何度も注文したのである。

http://www.amu-n.co.jp/serch/shoppage.php?id=175
☆ 『すし活』アミュプラザ長崎 店内 ☆

私は魅了されたので、翌々日も通(かよ)い、
五島灘の地魚は確かに美味しい、と実感したのである。


翌日、霧雨から小雨になったグラバー園を辞した後、
お土産屋の建ち並ぶ中を通り抜けた時、
ランチのバイキング形式のレストランが見えたので、入ったのである。

私は窓際のテーブルで小雨降る情景を眺め、
ビールを呑みながら、七品ばかりフランス風の料理を頂いたのであるが、
丁寧に料理された品々で、独りで歓心しながら食べたのである。

http://www.ana-gloverhill.co.jp/restaurant/restaurant_top.htm
☆長崎全日空ホテル グラバーヒル ホーム・ページ レストラン ☆

私は年金生活の身なので、
程々の値段で、私なりに美味しそうと思われる食事処を入店し、
頂いたりしているが、ときには選定ミスもあり、
こうした折、コンビニのおにぎりを食べればよかった、と後悔する時もある。
・・】

そして、私の何よりの生きがいのひとつとして、
旅先でめぐり逢えた人びとについて、 真心込めて記載する。

【・・
       最終章 旅先でめぐり逢えた人びと

私は思い込みの激しく、独断と偏見の多い64歳の身であり、
その上おしゃべりな男性であるので、今回の旅先でいろいろな方と談話をしたり、
談笑も重ねてきたりした。

『長崎歴史文化博物館』でポランティアで解説して下さった70歳前後の男性と、
館内の展示品の前に歴史のことを談話したり、
館を辞しする寸前にお互いに自己紹介を兼ねて、これまでの人生の軌跡を談笑したりしたのである。

『グラバー園』で霧雨降る中、庭園の隅にある喫煙場に於いて、
ボランティアでガイドをなさっている65歳前後の男性と、
お互いに煙草を喫いながら、下方に観える長崎港の情景を観たりし、
遙か江戸時代の異国船の情景を談話したりした・・。

そして、『雲仙温泉』の観光ホテル内で、
宿泊したフロアーの休息室のソファーで私は本を読んでいる時、
やはり滞在している新潟県の三条市の75歳前後の男性と談笑したのである。
奥様と知人のご夫妻と4人で、雲仙温泉に滞在している、と述べられたり、
私と同様に宿泊した部屋の室内で禁煙とし、
こうして休息室にある灰皿の前で煙草を喫っている、と話され、
私達はお互いに笑いあったのである。


私は体力の衰えた身であるが、少なからず男性のひとりあるので、
旅先でも女性のしぐさ、表情、言葉は何かと気になるのである。

『長崎歴史文化博物館』の館内の展示品の近くにある受付嬢の多くは、
少し話した限りであるが、綺麗な顔立ち、容姿もよく、
私は心の中で、長崎美人だなぁ、と呟(つぶや)いたりした。

雲仙温泉の滞在した観光ホテル内で、
宿泊されている佐賀県の60代前後のご婦人たちと何気なく数分話し合ったのであるが、
別れ際に、佐賀県のどの辺にお住まいですか、と私は訊ねたのであるが、
少し私は市の名称の言葉が聴き取れず、
最後に、お茶の美味しい所ですわ、というのは解かり、
お互いに微笑んだりしたのである。

私は無念ながら見かけた限りであるが、
長崎市内の市電の車中に於いて、
ツーピースを召した30代前半のご婦人が、7歳前後の男の子を連れていた。
少し陰のある表情を湛(たた)えて、しぐさが妖艶であったので、
私は数秒見惚(みと)れたのである。


私は宿泊した観光ホテルのフロント、食事処の若き仲居さん達、
とたびたび談笑したりしたが、
私に対してはお客様のサービスのひとつ、と承知しているが、
長崎の女性もまぎれなく素敵な人が多い、と私はこうして綴りながらも、
思い出しては微苦笑しているのである。
・・】

このように綴っているが、私は幸運な星の下で生を受けたせいか、
私より齢上の70歳前後の見知らぬ女性となぜかお互いに気が合い、
時間が許せば30分ぐらいは談笑したりしている。


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長崎、ささやかな私の想いは・・。【中】

2010-08-09 12:08:09 | 定年後の思い
私が昨年の2009年2月に長崎を訪れた時、
『長崎原爆資料館』を拝観した際、改めて深く思考させられた。

この時の心情は、
【『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 ~歴史のかたみの中で~ 】
と題して、2009年2月20日に投稿しているので、あえて再掲載をする。

【・・
      第4章 『長崎原爆資料館』を訪ねて

『長崎歴史文化博物館』を訪ねた後、
私は市電の浜口町駅を下車した後、坂道を登りながら、『長崎原爆資料館』にたどり着いたのである。

私は1944(昭和19)年9月に東京郊外の調布市で、
農家の三男坊として生を受けた身である。
そて、かの世界第二次大戦のひとつである太平洋戦争については、
学校の教科書はもとより、映画を観たり、小説、随筆、歴史書を読んだり、
或いは戦地に行き、帰還された親戚の叔父さん、
近所の小父さん達からも教えて頂いた・・。

このような私は二十歳過ぎた頃からは、
沖縄の過酷な地上戦が事実上終った日の『沖縄慰霊の日』となる6月23日,
『広島』の8月6日,そして『長崎』の8月9日に原子爆弾が投下された日、
敗戦となった8月15日には、黙祷したりしている。

そして、私は日本人のひとりとして、
沖縄には本土の防波堤のように犠牲になった人、
広島、長崎には被爆され亡くなった人、
少なくともこのような人々には鎮魂の思いが心の底にある。

このような心情の私は、この沖縄、広島、長崎の地には、
軽々しく観光気分では訪れるのを長らく避けてきたのである。
50代になり、初めて沖縄を訪れ、広島、長崎はここ2年前であったりしたのである。


長崎にある『原爆資料館』は、今回初めて訪れた・・。
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/peace/
☆ 『原爆資料館』ホームページ ☆

展示品の中で、原爆投下までの時系列となった表を読んだりした。
この表を読みながら、私は無知であったことを恥ずかしく思いながら、
ノートに転記したのである。

《・・
1945年5月31日
原爆投下に関する諸問題を検討する為K『暫定委員会』で、
投下に際して、日本に事前の警告を行わないことに合意。

6月11日
フランク委員会の報告で、
戦後世界における核軍備競争の恐れを危惧。

7月16日
ニュー・メキシコのアラモゴート砂漠で、人類初の原爆実験成功。

7月17日
ポツダム会議はじまる。
シラード、大統領宛ての要請書の中で、
日本に対する原爆の無警告使用に反対し、大量殺戮兵器使用の倫理的責任を強調。
69人の科学者がこれを署名。

7月24日
トルーマン大統領、ソ連のスターリンに《新兵器開発》を告げる。

7月25日
トルーマン大統領、原爆投下指令を承認。

8月6日
広島市に原爆投下。

8月6日
トルーマン大統領、ポツダム会談の報告り中で、
『何万何千ものの米国青年の生命を救う為に原爆を使用して』と述べた。
・・》

こうした内容の中で、特に無知であったのは、
《・・7月17日
シラード、大統領宛ての要請書の中で、
日本に対する原爆の無警告使用に反対し、大量殺戮兵器使用の倫理的責任を強調。
69人の科学者がこれを署名。
・・》
であった。

私は国際間に影響をもたらす大国になれば成る程、
国益に基づいて、怜悧な政策と戦略を実行するのは知っていたつもりであるが、
改めて学んだのである。


この後の私は、この館が発行した『長崎原爆資料館 学習ハンドブック』を読んだりし、
質疑応答のような文書を心の中で呟(つぶや)きながら、読んだのである。

《・・

なぜ長崎に落とされたの?


空襲の被害をあまり受けていなかったこと(原爆の威力を調べるのに都合がいい)、
造船所や製鋼所、兵器製作所などの工場が集まっていたことなどが
理由として考えられます。



日本に落とそうとした理由は?


アメリカが日本に原爆の投下を決定した理由として、
多くの開発費や労力を投入して完成させた原爆を実際に使用し、威力を調べたかったという説、
戦争が長引いて日本上陸作戦を行うと、多数のアメリカ軍の兵が犠牲になるので、
早く日本を降伏させるために使用したという説、
ソ連に対する戦争後の立場を優位にするために使用したという説
などがあります。
・・》

こうしたことは私は歴史書などで学んできたつもりであるが、
このようなことを若い小中学の生徒が読んだ時、どのような思いで感じるか、
或いはアメリカの少年・少女が知った時、どのように感じるか、
このように思いを馳せたりすると、私は胸が熱くなったのである・・。
・・】

このような心情を重ねていた私であるが、
もとより今も変ることなく無力ながら注視している。

                              《つづく》

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長崎、ささやかな私の想いは・・。【上】

2010-08-09 09:56:38 | 定年後の思い
東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
雨降る早朝の5時、玄関の軒下に下り立ち、西の空の長崎に向かい手をあわせながら黙祷した。

この後、小雨となった主庭の樹木の情景を見ながら、
ぼんやりと長崎のことを思い馳せたりしていた。
私はたった二度しか長崎を訪れたことしかないが、ささやかな想いを秘めたりしている。

私は日々心の発露として、このサイトに綴っているので、
このサイトを開きながら、過去に投稿した文を読み返した・・。


たまたま昨年の2009年のこの日には、
【 長崎のこの日には、私は永井隆氏の遺(のこ)された言葉を・・。】
と題して、投稿をしていた。

【・・
洗面した後、玄関庭に下り立ち、西の空の長崎に向かい黙祷したのは朝の7時過ぎであった。

過日の6日の広島に向って西の空の彼方に黙祷したが、
同じような深い思いで、手を合わせたりしていた・・。

かの大戦の終末時、アメリカは広島に8月6日午前8時15分に人類史上初めて原子爆弾が投下され、
少なくとも15万人の人が即死した。
そして、長崎は8月9日午前11時2分に投下され、8万人以上の人が即死した。

私は今年の2009年2月中旬の折、
家内の母は、新潟の高田町(現在・上越市)で戦時中の青春期の時に、
多くの同級生と共に軍事工場に働き過ごした身である。
こうした深い心情があり、何かとかの大戦を偲び、
『生きているうちに・・一度は長崎の『原爆資料館』を観てみたいわ・・』、
と要望されたので、私達夫婦と家内の母の3人で長崎を訪れた。

私は家内たちとは別行動で、独りで長崎の各所を拝観したりした。
こうした中で、うしろめたいような心情で長崎の『原爆資料館』に初めて訪れ、
改めて過酷な実態を知り、その当時のことはもとより、
被爆された後からも、心身ともに苦痛な日々を過ごされている人たちを思うと、
私は『原爆資料館』を辞する時、涙があふれたのである・・。

この後は、未知の長崎医大の前を歩いたりしながら、
初めて訪れる『長崎市 永井隆記念館』を探し求めながら、
小春日和の中を独り歩いたのである。


このことについては、このサイトに於いて、
【『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 ~歴史のかたみの中で~ 】
と題して、投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
(略)
    第5章 『長崎市 永井隆記念館』を訪ねて

私は永井隆氏の名を知ったのは、遅ればながら高校二年の時で、
1962(昭和37)年であった。

幼年期の5歳頃、ラジオから『長崎の鐘』の歌が流れ、
幼児の心なりに悲しみを覚えたりし、
この後には母に手を引かれて映画の『長崎の鐘』を観たりしたのである。


このような思いは、私はこのサイトに於いて、
【 『長崎の鐘』を聴くときには・・。 】と題して、
2007年8月27日で投稿しているが、あえて今回は再掲載をする。

【・・
私は1944(昭和19)年9月に東京の郊外で生を受けた。

1950(昭和25)年の頃に、自宅のラジオから『長崎の鐘』がよく流れてきた・・。


♪こよなく晴れた 青空を
 悲しと思う せつなさよ
 うねりの波の 人の世に
 はかなく生きる 野の花よ

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】


私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。


♪なぐさめ はげまし 長崎の
 ああ 長崎の鐘が鳴る

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】


ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。

確か翌年の夏だったと思われるが、近くの寺院の境内で、映画が放映された。
この頃の時代は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が放映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、
このような催しが行われた時代でもあった。

近くの寺院の境内で上映されたのは、映画の『長崎の鐘』であった。

母に連れられて、初めて観た映画だった。

帰路、満天の星空が綺麗だった、ということが今でも残っている。

映画のストリーは忘れてしまったけれど、幾つになっても、藤山一郎の歌声を聴くと、
私は涙ぐんだりしている。

私は後年になると、作詞はサトウハチロー、作曲方は古関祐而と知るのであったが、
肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井隆(ながい・たかし)は無知であった。

その後、このお方の人生経路を知り、涙で曇った。


♪召されて妻は 天国へ
 別れてひとり 旅立ちぬ
 かたみに残る ロザリオの
 鎖に白き わが涙

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】


ここまで転記させて頂いているが、著者の永井隆氏の人生の軌跡を思い馳せると、
また瞼(まぶた)が熱くなってしまう。


国家の国益という怜悧の中、アメリカは広島に続き、長崎にも原子爆弾を投下した。

思えば、7月26日に於いて、アメリカ、イギリス、ソビエトの首脳により、
『ポッタム宣言』で日本に降伏を勧告したが、
日本政府と軍の首脳部が混迷し、黙殺した結果となり、
8月6日に広島に続き、9日に長崎に投下された。

こうした事実を少しづつ知りはじめると、
なお一層、この歌は悲劇を通り過ぎて、悲惨な過去の実態にうっすらと涙を浮かべる。

私は年を重ねた62歳の身であるが、
ここ10数年、8月15日の敗戦日になると、
昼のひととき『長崎の鐘』を聴いて、平和の大切さをかみ締めている・・。
・・】

このような思いもあったりしたが、
今回の旅行の旅立つ数週間前に、ネットで『永井隆博士の生涯』などを学び、
少なからず衝撃を受けたのは、
長崎医大物理療法科の部長の時を含め、
この当時は劣悪なレントゲン機器の状況となった中で、数多く撮った結果、
当人の永井隆自身がラジウムの放射線で白血病となり、
1945年(昭和20)年6月に余命3年と診断された、ということであった。

そして永井隆氏は、妻に告げるのであるが、
この時の心情を思うと、私は思わず涙を流したのである・・。

館内の展示品を拝見しながら、
この後の原爆投下後の状況、そして無念ながら亡くなるまでの軌跡に、
改めて感銘を受けたのであった。

http://park10.wakwak.com/~cdc/nagasaki/nyokodou/
☆長崎市 永井隆記念館 ホームページ ☆

そして館を辞する直前、私は書籍の即売コーナーで、
恥ずかしながら未読であった『長崎の鐘』(アルバ文庫)を購入して、
ホテルで深夜の2時半過ぎまで読み、敬意を重ねたのである。 ・・
・・】

このように私は綴ったりしていたのである。


こうしてぼんやりと私は読み返したりしているが、
館を辞した後、市電の駅に向う途中で、小公園の石のベンチに座り、
永井隆氏の遺(のこ)された言葉が深く思いだしていた・・。

『この子を残して』の書物の『父性愛』と題された一節に於き、
《・・
この子を残して・・・・・
この世をやがて私は去らねばならぬのか!

母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、
私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさない心のいじらしさ。

戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取りとめたものの、
それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?・・・・・・
・・》

『平和塔』の書物の『如己堂』と題された中に於いては、
《・・
如己堂は、2畳ひと間きりの家、北側の壁に香台、本だなを取りつけ、
その下に幅2尺長さ6尺の寝台を置いて、ここに私は身を横たえている。

西側は一面の白壁、何の飾りもない。
東と南はガラス戸で、草に埋もれる原子野を隔てて浦上天主堂に向かう。

この家を狭いと思うは、なまじ敷居で庭と仕切って、この部屋をわが物ときめた人間がみずから招いた窮屈。・・・・・・

如己堂・・・・己の如く他人を愛す、という意味を名にとったこの家は、
家も妻も財産も職業も健康も失って、
ただ考える脳、見る目、書く手だけをもつ廃人の私を、
わが身のように愛してくださる友人が寄って建ててくださった。

そして今にいたるまで、その数々の友の如己愛は絶えずこの家に注がれ、
それによって廃人の私は生命を確かにつないできた。
寝たきりの私と幼い2人の子とが、ひっそり暮らすにふさわしい小屋である。
・・》
注)著作の原文より、あえて改行を多くした。


私は、ときおり今でも永井隆氏の遺(のこ)された言葉をかみ締めている・・。

そして、余りにも多くの市民の方が犠牲となられた人にご冥福を、
今なお被爆の後遺症に心身ともに苦しまれている方にお見舞いを、
ただ私はこれだけしか言葉にできないのである。

せめて私は平和を祈念する時、原点としてひとつの歌を幾度も聴いたりしている。

http://www.youtube.com/watch?v=Z3AOUJdbRKs
☆【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】☆
・・】

このように投稿したりしていた。
                                  《つづく》

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長崎に向かい、私は黙祷を終えて・・。

2010-08-09 06:45:40 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
久しぶりに雨降る朝を迎え、朝涼のひとときとなっている。

洗面した後、玄関の軒下に下り立ち、襟を正して、
長崎の方に向かい、手を合わせながら黙祷したのは朝の5時過ぎであった。

過日の6月23日の沖縄戦が事実上集結した『沖縄慰霊の日』、
8月6日のアメリカが人類史上初めて広島に原子爆弾が投下された『広島被爆』、
そして本日の9日、長崎に原子爆弾が投下された『長崎被爆』、、
まもなく迎える15日の終戦記念日と称している『敗戦記念日』、
この日には、手を合わせながら黙祷をして35年ちかくになる。

かの大戦の終末時、アメリカは広島に8月6日午前8時15分に人類史上初めて原子爆弾が投下され、
少なくとも15万人の人が即死した。
そして、長崎は8月9日午前11時2分に投下され、8万人以上の人が即死した。
このことは勝利したアメリカの国の歴史をどのように描いても、厳然たる事実である。


私は1944(昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
敗戦となった8月15日からは、ほぼ一年前になるので、
戦争を知らない世代となるが、国民の責務のひとりとして、
かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。

そして私はいつも感じることは、若き10、20代の少なくとも日本の国民の方には、
こうした現実が過去の日本にあった、と認識して欲しい、
固く願っているひとりである。


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