私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程、ネットでニュースを見ようと【YAHOO! JAPAN】を開き、
《 原爆「次は新潟」で人消えた 》
と題された見出し記事に、どういう内容の記事かしらと思い、私は思わずクイックした。
そして毎日新聞が配信された、
《 <原爆投下>「次は新潟」65年前の8月13日、市内から人が消えた 》
という見出しで、詳細記事を精読した。
毎日新聞の小川直樹・記者が綴られた記事であり、無断ながら転載させて頂く。
《・・
<原爆投下>「次は新潟」65年前の8月13日、市内から人が消えた
にぎやかだった新潟の市街地に人影はなく、音も消えた。
「ガラーンとして、猫の子一匹いないという言葉通り。不気味だった」。
緑茶販売会社「浅川園」の会長、浅川晟一(せいいち)さん(104)=新潟市中央区=は、
65年前の新潟・古町の情景をはっきりと記憶している。
終戦2日前の1945年8月13日。
大和百貨店は営業を中止し、ウインドーには郊外への疎開を急ぐよう市民に命じる役所の張り紙が掲示されていた。
◇
当時の新潟市は今の中央区と東区の一部が市域で、人口は約17万人。
大陸と結ぶ物資輸送の拠点港として、軍事上も重要な都市だった。
しかし8月に入っても、なぜか米軍のB29爆撃機による大規模な空襲はなかった。
同じように無傷だった広島市には6日、
長崎市には9日に原子爆弾が投下され、一瞬で壊滅した。
「次は新潟が新型爆弾にやられる」。市民に恐怖が広がった。
県は緊急に対応を協議し、当時の畠田昌福知事は10日付で市民に
「徹底的人員疎開」を命じる布告を出した。
「(広島市は)極メテ僅少(きんしょう)ノ爆弾ヲ以テ最大ノ被害ヲ受ケタ」
「酸鼻ノ極トモ謂(い)フベキ状態」
「新潟市ニ対スル爆撃ニ、近ク使用セラレル公算極メテ大キイ」。
その文面からも当時の緊迫感が伝わってくる。
知事布告は11日に町内会を通じて市民に知らされる予定だったが、
うわさは10日のうちに広まり、その日の夜から疎開が始まった。
郊外へ通じる道は、荷物を山積みした大八車やリヤカーを引いて逃げる市民であふれた。
郊外に知り合いがいない市民には集団住宅が用意され、
13日までに中心部はもぬけの殻となった。
◇
当時、兵器に使うアルミの製造工場に徴用され、
工員の通勤定期券を買う係だった浅川さんは、
疎開が許されず、出雲崎に家族を送り出し、古町の自宅に残った。
軍需品や生活必需品の生産・配給、交通運輸、通信、電気供給などの重要業務に従事する者は、
残留を命じられたからだ。
「どんな新型爆弾なのか、想像もできないだけに怖かった。
だが自分には職務があり、逃げるわけにはいかなかった」。
誰もが国のために尽くすことを第一に考えなければならない時代だった。
浅川さんは、今の県庁近くにあった工場と、
古町にあった交通公社の間を自転車で行き来するのが日課だった。
15日朝、交通公社に出向くと、
「正午から玉音放送というのがある」
と女子職員から耳打ちされた。
無人の街に響くラジオの音は聞き取りにくかったが、日本が戦争に負けたと知った。
「正直、ホッとした。これで爆弾を落とされることはない」。
恐怖から解放され、市民も疎開先から少しずつ戻ってきた。
◇
実際に米軍が一時、新潟を原爆投下目標にしていたことがわかったのは、戦後のことだ。
当時、市民が「次は新潟」と恐怖を直感したのも無理はなかった。
浅川さんはのちに広島、長崎を訪れ、資料館で原爆被害の悲惨さを知った。
もし最初の原爆投下目標が新潟だったら、
多くの市民が疎開をする間もなく犠牲になったはずだ。
「新潟が免れたのは紙一重だった」と思うと同時に、
被爆地の痛みも人ごととは思えない。
「軍人が日本を支配し、戦争を起こすような時代には戻してはいけない」。
次の世代に託したい浅川さんの思いだ。【小川直樹】
◇ことば:原爆投下目標
米軍は1945(昭和20)年7月25日までに広島、小倉、新潟、長崎を原爆投下目標に定めたが、
8月2日の作戦命令で新潟を外した。
新潟市が1998(平成10)年に「新潟歴史双書2 戦場としての新潟」を編集した際、
執筆者たちは米国の公文書などを調べ、
「新潟は工業集中地区と居住地とが離れ、原爆攻撃に適さない」
「(爆撃機が出撃する)テニアン基地から遠い」などの判断があったと推定した。
8月13日14時35分配信 毎日新聞
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100813-00000005-maiall-soci
☆毎日新聞 <原爆投下>「次は新潟」65年前の8月13日、市内から人が消えた ☆
私は1944(昭和19)年9月に、今住んでいる近くの北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)実家で生を受けた・・。
もとより敗戦は翌年の1945(昭和20)年8月15日であるので、
戦争を知らない世代である。
後年になると祖父、父、母、叔母の同居する人達はもとより、親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰った。
北に飛行機を製造する中島工場、
西に軍事物資を生産する東京重機が数キロ先にあったので、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた我が家の崖の雑木林にある防空壕に避難した、と話していた。
祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、人手の足らない時は小作人の人々の手も借りたりしていた。
そして空襲警報が発令されると、何をおいてもとりあえず防空壕に避難したので、
慌しい恐怖の時代でもあった。
少しばかり遠方にあった軍事物資を製造する場所、軍用機を生産している場所を目標に、
米軍の爆撃機が幾たびか飛来し、爆弾を大量に落としたのであるが、
ときには付近の田畑、雑木林に落下した、
と後年に親戚の叔父さんに私は教えて貰ったりした。
そして爆弾は250キロが多く、と云われても私は定かでないので、
更に教えを乞うと、今で云うとプロパンガスの大きな物ぐらいよ、と叔父さんは私に云われた。
私は大きなプロパンガスのような爆弾が、空から大量に降ってくる状況を想像すると、
身も心も身震いをしたのは、高校生の頃であった。
我が家の実家は、戦時中の頃は、
玄関の中は広い土間となり、その一角の壁面に、各自の防空頭巾をつるしていた。
そして祖父、父、母、叔母の人々に導かれて、
私が生まれてまもない頃の時は、長兄は5歳、次兄は2歳であったので、
防空頭巾をかぶしてもらい、手をひかれながら、防空壕に避難された・・。
私は乳児であり、おしめの取れない時期であったので、
母たちは何かと大変だっただろう、と思い返したりしている。
後年になると、防空壕の内部の土の上に藁(わら)を敷いた上に、莚(むしろ)か茣蓙(ござ)に座り、
家族全員で互いの安否を確認した上で過ごした、
そして2歳過ぎた次兄が一度ばかりであったが、うんちをしたので少し困った、
と叔母たちが話されたので、私達は微苦笑したりした。
私が小学3年生の頃になると、
図画の授業で先生に引率されて、学校の近辺の丘陵の雑木林に行った時、
コンクリートできた高射砲の台の跡が数多く見受けられた。
米軍の飛行機の来襲に備えて、造られた形跡であった。
この頃までは、小学校の帰路に寄り道をすると、数多くの防空壕が見受けられたり、
実家の防空壕も小学の後年の頃までは遊んだりした。
雑木林の崖の一角に、縦横1.8メートルぐらいの入り口に木戸があり、
少し入ってまもなくすると、横に掘られ横幅が広くなり、奥は8メートルぐらいと感じたりした。
少し湿度を感じたりしたが、広間のようにゆったりとしていた。
後年の成人になった私は、
防空壕は入り口からまもなく角度が横になったのは、万一の爆風を避けることであろう、
そして幾分広めの内部は、平素の農作物の保存場所に併用していた、
とおぼろげに思ったりした。
この我が家の実家の防空壕は、私が中学に入学してまもない時、
都道が新設されることとなり、跡形もなく付近の田畑、雑木林も含め、大きく変貌したのであった。
このように戦争を知らない私は、防空頭巾、防空壕、高射砲台の跡、
この程度しか解からないひとりである。
今回、新聞記事を拝読する前はこのような思いであったが、この記事からは多々教示を受けた・・。
私は精読して、この当時の新潟市にお住まいの人たち・・
このように原爆の落下が予想され、郊外に避難される状景・・。
そして、当時の畠田昌福知事は10日付で市民に、「徹底的人員疎開」を命じる布告を出した、英断。
結果として、幸いにも被爆されずに敗戦となったが、
私は齢ばかり重ねた65歳の身であるが、
まぎれない過酷で悲惨な戦争のそれぞれの実態を目をそらせず学ぶことこそ、
たとえ戦争を知らない世代の私でも、日本人のひとりとしての責務と思っている。
そして私はここ35年ちかく、秘かに国民の責務のひとりとして、
6月23日の沖縄戦が事実上集結した『沖縄慰霊の日』、
8月6日のアメリカが人類史上初めて広島に原子爆弾が投下された『広島被爆』、
この後にも9日、長崎に原子爆弾が投下された『長崎被爆』、、
そして15日の終戦記念日と称している『敗戦記念日』、
この日の朝には、手を合わせながら黙祷をしたりしている・・。
かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
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《 原爆「次は新潟」で人消えた 》
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毎日新聞の小川直樹・記者が綴られた記事であり、無断ながら転載させて頂く。
《・・
<原爆投下>「次は新潟」65年前の8月13日、市内から人が消えた
にぎやかだった新潟の市街地に人影はなく、音も消えた。
「ガラーンとして、猫の子一匹いないという言葉通り。不気味だった」。
緑茶販売会社「浅川園」の会長、浅川晟一(せいいち)さん(104)=新潟市中央区=は、
65年前の新潟・古町の情景をはっきりと記憶している。
終戦2日前の1945年8月13日。
大和百貨店は営業を中止し、ウインドーには郊外への疎開を急ぐよう市民に命じる役所の張り紙が掲示されていた。
◇
当時の新潟市は今の中央区と東区の一部が市域で、人口は約17万人。
大陸と結ぶ物資輸送の拠点港として、軍事上も重要な都市だった。
しかし8月に入っても、なぜか米軍のB29爆撃機による大規模な空襲はなかった。
同じように無傷だった広島市には6日、
長崎市には9日に原子爆弾が投下され、一瞬で壊滅した。
「次は新潟が新型爆弾にやられる」。市民に恐怖が広がった。
県は緊急に対応を協議し、当時の畠田昌福知事は10日付で市民に
「徹底的人員疎開」を命じる布告を出した。
「(広島市は)極メテ僅少(きんしょう)ノ爆弾ヲ以テ最大ノ被害ヲ受ケタ」
「酸鼻ノ極トモ謂(い)フベキ状態」
「新潟市ニ対スル爆撃ニ、近ク使用セラレル公算極メテ大キイ」。
その文面からも当時の緊迫感が伝わってくる。
知事布告は11日に町内会を通じて市民に知らされる予定だったが、
うわさは10日のうちに広まり、その日の夜から疎開が始まった。
郊外へ通じる道は、荷物を山積みした大八車やリヤカーを引いて逃げる市民であふれた。
郊外に知り合いがいない市民には集団住宅が用意され、
13日までに中心部はもぬけの殻となった。
◇
当時、兵器に使うアルミの製造工場に徴用され、
工員の通勤定期券を買う係だった浅川さんは、
疎開が許されず、出雲崎に家族を送り出し、古町の自宅に残った。
軍需品や生活必需品の生産・配給、交通運輸、通信、電気供給などの重要業務に従事する者は、
残留を命じられたからだ。
「どんな新型爆弾なのか、想像もできないだけに怖かった。
だが自分には職務があり、逃げるわけにはいかなかった」。
誰もが国のために尽くすことを第一に考えなければならない時代だった。
浅川さんは、今の県庁近くにあった工場と、
古町にあった交通公社の間を自転車で行き来するのが日課だった。
15日朝、交通公社に出向くと、
「正午から玉音放送というのがある」
と女子職員から耳打ちされた。
無人の街に響くラジオの音は聞き取りにくかったが、日本が戦争に負けたと知った。
「正直、ホッとした。これで爆弾を落とされることはない」。
恐怖から解放され、市民も疎開先から少しずつ戻ってきた。
◇
実際に米軍が一時、新潟を原爆投下目標にしていたことがわかったのは、戦後のことだ。
当時、市民が「次は新潟」と恐怖を直感したのも無理はなかった。
浅川さんはのちに広島、長崎を訪れ、資料館で原爆被害の悲惨さを知った。
もし最初の原爆投下目標が新潟だったら、
多くの市民が疎開をする間もなく犠牲になったはずだ。
「新潟が免れたのは紙一重だった」と思うと同時に、
被爆地の痛みも人ごととは思えない。
「軍人が日本を支配し、戦争を起こすような時代には戻してはいけない」。
次の世代に託したい浅川さんの思いだ。【小川直樹】
◇ことば:原爆投下目標
米軍は1945(昭和20)年7月25日までに広島、小倉、新潟、長崎を原爆投下目標に定めたが、
8月2日の作戦命令で新潟を外した。
新潟市が1998(平成10)年に「新潟歴史双書2 戦場としての新潟」を編集した際、
執筆者たちは米国の公文書などを調べ、
「新潟は工業集中地区と居住地とが離れ、原爆攻撃に適さない」
「(爆撃機が出撃する)テニアン基地から遠い」などの判断があったと推定した。
8月13日14時35分配信 毎日新聞
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100813-00000005-maiall-soci
☆毎日新聞 <原爆投下>「次は新潟」65年前の8月13日、市内から人が消えた ☆
私は1944(昭和19)年9月に、今住んでいる近くの北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)実家で生を受けた・・。
もとより敗戦は翌年の1945(昭和20)年8月15日であるので、
戦争を知らない世代である。
後年になると祖父、父、母、叔母の同居する人達はもとより、親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰った。
北に飛行機を製造する中島工場、
西に軍事物資を生産する東京重機が数キロ先にあったので、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた我が家の崖の雑木林にある防空壕に避難した、と話していた。
祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、人手の足らない時は小作人の人々の手も借りたりしていた。
そして空襲警報が発令されると、何をおいてもとりあえず防空壕に避難したので、
慌しい恐怖の時代でもあった。
少しばかり遠方にあった軍事物資を製造する場所、軍用機を生産している場所を目標に、
米軍の爆撃機が幾たびか飛来し、爆弾を大量に落としたのであるが、
ときには付近の田畑、雑木林に落下した、
と後年に親戚の叔父さんに私は教えて貰ったりした。
そして爆弾は250キロが多く、と云われても私は定かでないので、
更に教えを乞うと、今で云うとプロパンガスの大きな物ぐらいよ、と叔父さんは私に云われた。
私は大きなプロパンガスのような爆弾が、空から大量に降ってくる状況を想像すると、
身も心も身震いをしたのは、高校生の頃であった。
我が家の実家は、戦時中の頃は、
玄関の中は広い土間となり、その一角の壁面に、各自の防空頭巾をつるしていた。
そして祖父、父、母、叔母の人々に導かれて、
私が生まれてまもない頃の時は、長兄は5歳、次兄は2歳であったので、
防空頭巾をかぶしてもらい、手をひかれながら、防空壕に避難された・・。
私は乳児であり、おしめの取れない時期であったので、
母たちは何かと大変だっただろう、と思い返したりしている。
後年になると、防空壕の内部の土の上に藁(わら)を敷いた上に、莚(むしろ)か茣蓙(ござ)に座り、
家族全員で互いの安否を確認した上で過ごした、
そして2歳過ぎた次兄が一度ばかりであったが、うんちをしたので少し困った、
と叔母たちが話されたので、私達は微苦笑したりした。
私が小学3年生の頃になると、
図画の授業で先生に引率されて、学校の近辺の丘陵の雑木林に行った時、
コンクリートできた高射砲の台の跡が数多く見受けられた。
米軍の飛行機の来襲に備えて、造られた形跡であった。
この頃までは、小学校の帰路に寄り道をすると、数多くの防空壕が見受けられたり、
実家の防空壕も小学の後年の頃までは遊んだりした。
雑木林の崖の一角に、縦横1.8メートルぐらいの入り口に木戸があり、
少し入ってまもなくすると、横に掘られ横幅が広くなり、奥は8メートルぐらいと感じたりした。
少し湿度を感じたりしたが、広間のようにゆったりとしていた。
後年の成人になった私は、
防空壕は入り口からまもなく角度が横になったのは、万一の爆風を避けることであろう、
そして幾分広めの内部は、平素の農作物の保存場所に併用していた、
とおぼろげに思ったりした。
この我が家の実家の防空壕は、私が中学に入学してまもない時、
都道が新設されることとなり、跡形もなく付近の田畑、雑木林も含め、大きく変貌したのであった。
このように戦争を知らない私は、防空頭巾、防空壕、高射砲台の跡、
この程度しか解からないひとりである。
今回、新聞記事を拝読する前はこのような思いであったが、この記事からは多々教示を受けた・・。
私は精読して、この当時の新潟市にお住まいの人たち・・
このように原爆の落下が予想され、郊外に避難される状景・・。
そして、当時の畠田昌福知事は10日付で市民に、「徹底的人員疎開」を命じる布告を出した、英断。
結果として、幸いにも被爆されずに敗戦となったが、
私は齢ばかり重ねた65歳の身であるが、
まぎれない過酷で悲惨な戦争のそれぞれの実態を目をそらせず学ぶことこそ、
たとえ戦争を知らない世代の私でも、日本人のひとりとしての責務と思っている。
そして私はここ35年ちかく、秘かに国民の責務のひとりとして、
6月23日の沖縄戦が事実上集結した『沖縄慰霊の日』、
8月6日のアメリカが人類史上初めて広島に原子爆弾が投下された『広島被爆』、
この後にも9日、長崎に原子爆弾が投下された『長崎被爆』、、
そして15日の終戦記念日と称している『敗戦記念日』、
この日の朝には、手を合わせながら黙祷をしたりしている・・。
かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
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