夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『原爆「次は新潟」で人消えた』、ニュースを読み・・。

2010-08-13 17:52:28 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程、ネットでニュースを見ようと【YAHOO! JAPAN】を開き、
《 原爆「次は新潟」で人消えた 》
と題された見出し記事に、どういう内容の記事かしらと思い、私は思わずクイックした。

そして毎日新聞が配信された、
《 <原爆投下>「次は新潟」65年前の8月13日、市内から人が消えた 》
という見出しで、詳細記事を精読した。

毎日新聞の小川直樹・記者が綴られた記事であり、無断ながら転載させて頂く。

《・・
    <原爆投下>「次は新潟」65年前の8月13日、市内から人が消えた

にぎやかだった新潟の市街地に人影はなく、音も消えた。
「ガラーンとして、猫の子一匹いないという言葉通り。不気味だった」。

緑茶販売会社「浅川園」の会長、浅川晟一(せいいち)さん(104)=新潟市中央区=は、
65年前の新潟・古町の情景をはっきりと記憶している。

終戦2日前の1945年8月13日。
大和百貨店は営業を中止し、ウインドーには郊外への疎開を急ぐよう市民に命じる役所の張り紙が掲示されていた。

    ◇

当時の新潟市は今の中央区と東区の一部が市域で、人口は約17万人。
大陸と結ぶ物資輸送の拠点港として、軍事上も重要な都市だった。

しかし8月に入っても、なぜか米軍のB29爆撃機による大規模な空襲はなかった。
同じように無傷だった広島市には6日、
長崎市には9日に原子爆弾が投下され、一瞬で壊滅した。

「次は新潟が新型爆弾にやられる」。市民に恐怖が広がった。

県は緊急に対応を協議し、当時の畠田昌福知事は10日付で市民に
「徹底的人員疎開」を命じる布告を出した。
「(広島市は)極メテ僅少(きんしょう)ノ爆弾ヲ以テ最大ノ被害ヲ受ケタ」
「酸鼻ノ極トモ謂(い)フベキ状態」
「新潟市ニ対スル爆撃ニ、近ク使用セラレル公算極メテ大キイ」。
その文面からも当時の緊迫感が伝わってくる。

知事布告は11日に町内会を通じて市民に知らされる予定だったが、
うわさは10日のうちに広まり、その日の夜から疎開が始まった。
郊外へ通じる道は、荷物を山積みした大八車やリヤカーを引いて逃げる市民であふれた。
郊外に知り合いがいない市民には集団住宅が用意され、
13日までに中心部はもぬけの殻となった。

    ◇

当時、兵器に使うアルミの製造工場に徴用され、
工員の通勤定期券を買う係だった浅川さんは、
疎開が許されず、出雲崎に家族を送り出し、古町の自宅に残った。

軍需品や生活必需品の生産・配給、交通運輸、通信、電気供給などの重要業務に従事する者は、
残留を命じられたからだ。

「どんな新型爆弾なのか、想像もできないだけに怖かった。
だが自分には職務があり、逃げるわけにはいかなかった」。
誰もが国のために尽くすことを第一に考えなければならない時代だった。

浅川さんは、今の県庁近くにあった工場と、
古町にあった交通公社の間を自転車で行き来するのが日課だった。

15日朝、交通公社に出向くと、
「正午から玉音放送というのがある」
と女子職員から耳打ちされた。

無人の街に響くラジオの音は聞き取りにくかったが、日本が戦争に負けたと知った。
「正直、ホッとした。これで爆弾を落とされることはない」。

恐怖から解放され、市民も疎開先から少しずつ戻ってきた。

    ◇

実際に米軍が一時、新潟を原爆投下目標にしていたことがわかったのは、戦後のことだ。
当時、市民が「次は新潟」と恐怖を直感したのも無理はなかった。

浅川さんはのちに広島、長崎を訪れ、資料館で原爆被害の悲惨さを知った。
もし最初の原爆投下目標が新潟だったら、
多くの市民が疎開をする間もなく犠牲になったはずだ。
「新潟が免れたのは紙一重だった」と思うと同時に、
被爆地の痛みも人ごととは思えない。

「軍人が日本を支配し、戦争を起こすような時代には戻してはいけない」。
次の世代に託したい浅川さんの思いだ。【小川直樹】


◇ことば:原爆投下目標
米軍は1945(昭和20)年7月25日までに広島、小倉、新潟、長崎を原爆投下目標に定めたが、
8月2日の作戦命令で新潟を外した。

新潟市が1998(平成10)年に「新潟歴史双書2 戦場としての新潟」を編集した際、
執筆者たちは米国の公文書などを調べ、
「新潟は工業集中地区と居住地とが離れ、原爆攻撃に適さない」
「(爆撃機が出撃する)テニアン基地から遠い」などの判断があったと推定した。

8月13日14時35分配信 毎日新聞
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100813-00000005-maiall-soci
☆毎日新聞 <原爆投下>「次は新潟」65年前の8月13日、市内から人が消えた ☆


私は1944(昭和19)年9月に、今住んでいる近くの北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)実家で生を受けた・・。
もとより敗戦は翌年の1945(昭和20)年8月15日であるので、
戦争を知らない世代である。

後年になると祖父、父、母、叔母の同居する人達はもとより、親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰った。

北に飛行機を製造する中島工場、
西に軍事物資を生産する東京重機が数キロ先にあったので、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた我が家の崖の雑木林にある防空壕に避難した、と話していた。

祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、人手の足らない時は小作人の人々の手も借りたりしていた。
そして空襲警報が発令されると、何をおいてもとりあえず防空壕に避難したので、
慌しい恐怖の時代でもあった。

少しばかり遠方にあった軍事物資を製造する場所、軍用機を生産している場所を目標に、
米軍の爆撃機が幾たびか飛来し、爆弾を大量に落としたのであるが、
ときには付近の田畑、雑木林に落下した、
と後年に親戚の叔父さんに私は教えて貰ったりした。

そして爆弾は250キロが多く、と云われても私は定かでないので、
更に教えを乞うと、今で云うとプロパンガスの大きな物ぐらいよ、と叔父さんは私に云われた。
私は大きなプロパンガスのような爆弾が、空から大量に降ってくる状況を想像すると、
身も心も身震いをしたのは、高校生の頃であった。


我が家の実家は、戦時中の頃は、
玄関の中は広い土間となり、その一角の壁面に、各自の防空頭巾をつるしていた。
そして祖父、父、母、叔母の人々に導かれて、
私が生まれてまもない頃の時は、長兄は5歳、次兄は2歳であったので、
防空頭巾をかぶしてもらい、手をひかれながら、防空壕に避難された・・。

私は乳児であり、おしめの取れない時期であったので、
母たちは何かと大変だっただろう、と思い返したりしている。
後年になると、防空壕の内部の土の上に藁(わら)を敷いた上に、莚(むしろ)か茣蓙(ござ)に座り、
家族全員で互いの安否を確認した上で過ごした、
そして2歳過ぎた次兄が一度ばかりであったが、うんちをしたので少し困った、
と叔母たちが話されたので、私達は微苦笑したりした。


私が小学3年生の頃になると、
図画の授業で先生に引率されて、学校の近辺の丘陵の雑木林に行った時、
コンクリートできた高射砲の台の跡が数多く見受けられた。
米軍の飛行機の来襲に備えて、造られた形跡であった。

この頃までは、小学校の帰路に寄り道をすると、数多くの防空壕が見受けられたり、
実家の防空壕も小学の後年の頃までは遊んだりした。

雑木林の崖の一角に、縦横1.8メートルぐらいの入り口に木戸があり、
少し入ってまもなくすると、横に掘られ横幅が広くなり、奥は8メートルぐらいと感じたりした。
少し湿度を感じたりしたが、広間のようにゆったりとしていた。

後年の成人になった私は、
防空壕は入り口からまもなく角度が横になったのは、万一の爆風を避けることであろう、
そして幾分広めの内部は、平素の農作物の保存場所に併用していた、
とおぼろげに思ったりした。


この我が家の実家の防空壕は、私が中学に入学してまもない時、
都道が新設されることとなり、跡形もなく付近の田畑、雑木林も含め、大きく変貌したのであった。

このように戦争を知らない私は、防空頭巾、防空壕、高射砲台の跡、
この程度しか解からないひとりである。


今回、新聞記事を拝読する前はこのような思いであったが、この記事からは多々教示を受けた・・。
私は精読して、この当時の新潟市にお住まいの人たち・・
このように原爆の落下が予想され、郊外に避難される状景・・。
そして、当時の畠田昌福知事は10日付で市民に、「徹底的人員疎開」を命じる布告を出した、英断。

結果として、幸いにも被爆されずに敗戦となったが、
私は齢ばかり重ねた65歳の身であるが、
まぎれない過酷で悲惨な戦争のそれぞれの実態を目をそらせず学ぶことこそ、
たとえ戦争を知らない世代の私でも、日本人のひとりとしての責務と思っている。

そして私はここ35年ちかく、秘かに国民の責務のひとりとして、
6月23日の沖縄戦が事実上集結した『沖縄慰霊の日』、
8月6日のアメリカが人類史上初めて広島に原子爆弾が投下された『広島被爆』、
この後にも9日、長崎に原子爆弾が投下された『長崎被爆』、、
そして15日の終戦記念日と称している『敗戦記念日』、
この日の朝には、手を合わせながら黙祷をしたりしている・・。

かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。


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『同年代の少年兵、なぜ特攻=生還者に聞く・・』、ニュースを知り・・。

2010-08-13 13:38:06 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程、ネットでニュースを見ようと、時事通信社の基幹ネットの【時事ドットコム】を開き、
《 同年代の少年兵、なぜ特攻=生還者に聞く「戦争体験」-大学生が証言映像製作 》
と見出しされた記事を見て、
思わずクイックし、記事を深く精読した・・。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
   同年代の少年兵、なぜ特攻=生還者に聞く「戦争体験」-大学生が証言映像製作

僕らと同年代だった少年兵は、どんな気持ちで特攻に赴いたのか-。
中央大(東京都八王子市)の学生が、
太平洋戦争中に東京陸軍航空学校(武蔵村山市)から特攻隊へ志願した元少年兵らを取材し、
10分間の映像にまとめ公開した。

前夜に涙した同僚。生き残った苦しみ。元少年兵の言葉に改めて戦争の事実を見た。

同大法学部4年冨田佑さん(21)ら10人余りが今年5月ごろから取材。
飛行学校で学び、19歳で特攻隊へ志願した長野県松本市の島田昌往さん(84)にインタビューし、
出撃基地があった鹿児島県南九州市の「知覧特攻平和会館」や静岡県牧之原市にある隊員の墓なども取材した。

出撃前夜に泣きだした最年少の同僚隊員。
機体トラブルで生還した島田さんが「なぜ死ねなかった」と苦しむ姿。

その話に「亡くなった人にも生き残った人にも傷跡や不幸を与える。
それが戦争の生む事実だ」と冨田さんは感じた。

特攻隊入隊希望を学校側から聞かれた際、
「迷いなく志願した」という島田さんの言葉を、
冨田さんはすんなり納得できず何度も真意を尋ねた。

「戦争という非常事態だからか」
「われわれも同じだったら迷わないのか」。
取材後、仲間と議論したという。

図書館で見つけた資料から何人ものつてをたどり島田さんを見つけ出したが、
その過程には亡くなったり病気のため話を聞けなかったりした元隊員もいた。

「早いうちに戦争の記憶や証言を集め、伝えることが重要では」。
冨田さんは力を込めた。

映像は、冨田さんらが属するゼミが毎月番組提供している都内や九州地方のケーブルテレビや、
番組のホームページで視聴できる。
教育関係者には無料でDVDを提供するという。
http://tamatan2.exblog.jp/。
(2010/08/13-11:32)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010081300050
☆【時事ドットコム】 同年代の少年兵、なぜ特攻=生還者に聞く「戦争体験」-大学生が証言映像製作☆


私は1944(昭和19)年9月に、今住んでいる近くの北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)実家で生を受けた・・。
もとより敗戦となった時は、翌年の1945(昭和20)年8月15日であるので、
戦争を知らない世代である。

後年になると、戦争のさなかの事はもとより、この当時の前後のことを
祖父、父、母、叔母の同居する人たち、そして親戚の叔父、叔母からも教えて貰った。
中には戦地から帰還した近所の小父さんからも、話しを聞き、
過酷で悲惨な戦地の様子を教示したりしていた。

こうした中で、特攻隊に関しては、
定年退職後の翌年の2005年4月初旬に、九州の南部を団体観光ツアーに私達夫婦は参加し、
島津家の別邸『仙厳園』に立ち寄った後、知覧にある『特攻平和会館』に寄った。

私は、歴史の中で不幸にも、
若き日に命を国家に捧げた隊員の遺書が確認したかった。

私の特攻隊に関する根底は、ニュース、歴史書物、映画から得た知識があり、
何より阿川弘之・著の『雲の墓標』を二十歳過ぎの時に読んだのが
基礎知識として影響を受けていた。

この『雲の墓標』は、阿川弘之氏が純文学月刊雑誌のひとつの『新潮』に、
1954(昭和29)年に於いて、連載し発表された作品である。

私はこの当時の時代の空気も描かれ、
鹿屋基地にある海軍海兵団の青少年の心情も深く表現されている作品に感銘を受けたひとりであった。

  《・・雲こそ吾が墓標
        落暉よ碑銘をかざれ・・》 

この小説は、私の人生観を揺さぶられたひとつの書物である。

そしてここ数年前に映画の『ホタル』(2001年)を観た。
この映画は、知覧にあった陸軍の特別攻撃隊をテーマにしている。

このような拙(つたな)い知識の上で、この平和会館に入った。


おびただしい遺書、日記が展示されていたが、20分過ぎると、心重くなった。


うみやまに まさるめぐみに むくひなむ
        道をゆくなり いさみいさんで
                       佐藤 新平


君がため 雄々しく散らん 桜花
                  上成 義徳


会館を出ると、大通りの桜並木があった。

おびただしい石燈篭の中で、桜の花びらが空をさまよい、
地上に舞い降りていた・・。

そして路肩に吹き寄せられた花びらが、薄い絨毯のように敷き占めていた。

この後、この会館で買い求めた村永薫・編の『知覧特別攻撃隊』を精読したのであった。


私はここ35年ちかく、国民の責務のひとりとして、
6月23日の沖縄戦が事実上集結した『沖縄慰霊の日』、
8月6日のアメリカが人類史上初めて広島に原子爆弾が投下された『広島被爆』、
この後にも9日、長崎に原子爆弾が投下された『長崎被爆』、、
そして15日の終戦記念日と称している『敗戦記念日』、
この日の朝には、手を合わせながら黙祷をしたりしている・・。

かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。

そして私はいつも感じることは、若き10、20代の少なくとも日本の国民の方には、
こうした現実が過去の日本にあった、と認識して欲しい、
固く願っているひとりである。

このような心情を重ねている私であるが、
今回のこのニュースを知り、大学生の一部には、
真摯に戦争、そして特攻隊の心情を再確認される言動に、
私は秘かな感動を頂いたのである。


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写真家・竹内敏信さんに、改めて私は敬意し・・。

2010-08-13 10:58:08 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
いつものように読売新聞を読んで、最も感動した記事は、
24面の【地域】のニュースのひとつである。

《 移ろう季節 とらえる
         写真家・竹内敏信さん作品展 》
と見出しされた記事である。

この記事と同一なのが、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載され、
無断であるが、記事を転載させて頂く。

《・・
     移ろう季節とらえる写真家・竹内敏信さん作品展

写真家の竹内敏信さん(67)が、日本写真芸術専門学校の校長に就任したことを
記念する写真展「心で撮る日本の風景」~未発表のフィルム作品より~が13日、
中央区銀座5のフレームマンエキシビジョンサロン銀座で始まる。

右半身マヒを患いながらも活動を続ける竹内さんが、
約40年間に撮影した約2万枚のフィルムから、53点の未発表作品を展示。
竹内さんは「一度壊れたら取り戻せない日本の自然の美しさを感じてほしい」と話している。

日本の風景写真の第一人者として知られる竹内さんは、
3年前、脳出血で倒れて以来、右半身マヒを患っている。
それでも写真への情熱を失わず、妻の西潟昭子さん(65)と二人三脚で撮影を続け、
今年5月に同校校長に就任した。

撮影の原動力は、自然への感謝と畏敬(いけい)の念。
刻一刻と変わる光や風、気温に感覚を研ぎ澄ませ、頂点に達した瞬間にシャッターを切る。
そうして「移りゆく季節の美しさ」を追い求めて来たという。

同展でも、落ち葉で彩られた川べりや、春に一斉に芽吹くみずみずしい野花など、
四季折々の自然の表情をとらえた作品が並ぶ。

19日まで。入場無料。問い合わせは同サロン(03・5638・2213)へ。

(2010年8月13日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/news/20100813-OYT8T00096.htm?from=navr
☆【YOMIURI ONLINE】 移ろう季節とらえる写真家・竹内敏信さん作品展☆

私は東京の郊外に1944(昭和19)年に農家の子として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほどの田畑、竹林、雑木林を維持管理していた。
そして、田んぼの中央の外れに湧き水があり、
幼年期の私は、夏も冬も変ることこんこんと湧き出る水を不思議に思ったりしていた。
そしてこの湧き水は、田んぼの中央に流れる小川に流れていった。
田んぼの外れに半反程度の広さの蓮(ハス)専用の田んぼもあったし、
この当時は田畑やケヤキ、クヌギなどの雑木林の多い緑豊かな村里の情景であった。

この時節、初夏の頃から、農作物のナス、キュウリ、スイカなどを青果市場に出荷していたし、
湧き水の周辺は、ミソハギの花が咲き、そして蓮の純白な花が咲いたりしていた。
宅地の外れには百日紅の猿滑り(サルスベリ)と称された淡紅色の花が、
7月の初めの頃から、秋にかけて長い期間彩(いろど)ってくれた。

このような村里の情景で育った私は、小学低学年に祖父と父が死去し、
大黒柱を失った生家は衰退した。

その後、4年過ぎた頃から、都心のベットタウンに急速に変貌した。


私は都心の高校に通いはじめ、クラブは写真部に所属し、
ポートレートよりも何故かしら風景写真に魅せられ撮ったりした。
そして漠然と写真家になりたいと思ったりした夢想の時期もあった。

結果として、大学を中退し、映画・文学青年の真似事した後、
挫折し、民間会社に中途入社し、35年ばかり勤め、定年退職を迎えた。

この間、私は休日になると、家内と共に近所を散策したり、公園の樹木を眺めたりし、
四季のうつろいを享受したりしている。
そして家内との共通趣味の国内旅行で、各地の四季の美しさにも教示されてきた。


私が写真家・竹内敏信さんを知ったのは、
確か40代の後半の頃から、総合月刊教養誌のひとつの『サライ』に於いて、
この中の『竹内敏信の「風景写真講座」』と題された連載を深く魅せられたのである。

四季のそれぞれの美しさを表示した写真はもとより、
氏が綴られた解説文に圧倒的に私の心を揺さぶり、感銘したのである。

このような期間を確かに過ごした私は、今回、このニュースを知り、
改めて私は写真家・竹内敏信さんに敬意を重ねたりしている。


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年金不正受給者に対して、自治体は公表せよ・・。

2010-08-13 08:19:13 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夜、ネットでニュースを見ようと【YAHOO! JAPAN】を開き、
《 返信なければ年金差し止めへ 》
と見出しされていたので、私は思わずクイックした。

そして、《 返信なければ年金差し止めへ=生存確認の書類、臨時郵送―厚労省 》
と題された時事通信の配信の記事を読んだりした。

《・・
高齢者所在不明問題を受け、厚生労働省は12日、
安否が不明の年金受給権を持つ高齢者に対し、生存確認を求める文書を近く郵送し、
返信がなければ年金支給を一時差し止めることを決めた。
(時事通信)
・・》

この後、私はこの下段に明示された、
《  ◇年金不正受給の問題を指摘
    「100歳未満も調査せよ」の声 年金不正受給者たくさんいる 》
と見出しされた記事に関心させられて、読んだのである。

J-CASTニュースの配信記事であり、無断ながら転載させて頂く。

《・・
    「100歳未満も調査せよ」の声 年金不正受給者たくさんいる 

記録上は100歳以上だが所在が確認できない人が続々判明している。
一方で「100歳未満も調査しないと解決にならない」
「100歳未満の不明者も多数いるはず」
と指摘する識者の声も大きくなっている。

100歳以上の所在不明者は、新たに神戸市で105人が判明するなど全国で187人――。
2010年8月11日の情報番組「みのもんたの朝ズバッ!」(TBS系)はこうした数字を伝え、
司会のみのもんたさんは「まだ増えるんでしょうね」と懸念を示した。

■全件チェックしないと解決にならない

不明「100歳以上」が続出する事態を受け、
厚労省は、長妻昭大臣を長とする「高齢者所在不明・孤立化防止対策チーム」を8月5日に立ち上げた。

また同省は、日本年金機構に対し、市町村と連絡を取りながら、
市町村に調査予定がなかったり調査に時間がかかったりする場合は、
110歳以上の年金受給者について、機構職員が面談調査をするよう指示を出した。
110歳以上の年金受給者は、概ね50~100人とみられる。

不明高齢者について、連日のように各自治体の独自調査結果が発表されているが、
対象は「100歳以上」だ。
なぜ100歳以上なのか。疑問の声が出ている。

「99歳以下のところも全件チェックしないと解決にならない」。
8月11日の「朝ズバッ!」の中で、一橋大の高山憲之特任教授(年金研究)はこう提言した。
年金受給者のうち「100歳以上は少ない」とし、
「100歳未満の方が死亡者の年金を家族らが、受給し続けているケースが多い」
と指摘した。


年金の「老齢給付」を受けている人は、約3360万人(2010年3月末)で、
100歳以上の人数(無年金者含む)は4万399人(2009年3月1日現在、厚労省)なので、
単純計算で約0.1%だ。
高山特任教授の指摘通り「少ない」割合だ。


■片山元知事「役所は怠慢だ」
死亡した家族の年金を不正受給して逮捕・送検された例は、
2007年11月以降の新聞記事をざっと検索しただけでも、少なくとも7件以上ある。
それ以前に逮捕された裁判記事もあるが、「100歳以上」が絡むのはレアケースだ。

「100歳で(調査を)区切るのではなく、
90歳以上、男は80歳以上で一気に調査をやらないと厚労省の対応は不十分だ」。

白鴎大の福岡政行教授(政治学)も、
8月9日の「ビートたけしのTVタックル」(テレビ朝日系)でこう述べた。
調査対象が100歳以上だけでは、年金不正受給問題などの解決にはつながらない、
という認識はかなり広まりつつあるようだ。

ある行政書士は、J-CASTニュースの取材に対し、
相続絡みの仕事をする中で「80歳以上の所在不明者は相当数いるはず」
と感じていると語った。

一方で、自治体の側からは、調査対象を広げると業務が膨大になりすぎ、
費用もかかるため事実上無理だ、との声も上がる。
個人情報保護法による「壁」を指摘する向きもある。

しかし、片山善博・元鳥取県知事は、こうした指摘について
「言い訳だ。役所の怠慢」と切り捨てた。
8月11日の「朝ズバッ!」で、
「(調査対象を広げる)金がないというが、使い方の優先順位を間違っている」と断罪した。
個人情報保護の関連でも、役所が外部にもらすのが問題なのであって、
「目的外利用の禁止」を調査できない理由として持ち出すのは
「怠慢」だとの考えを示した。

総務省の人口推計(2009年10月)によると、
80歳以上100歳未満は785万1000人だ。
現在、100歳以上が約4万人(厚労省調査)で不明者が187人(朝ズバ)とすると、その割合は0.46%。
仮に80歳以上100歳未満の人の中に、
100歳以上の人の場合の「10分の1」の割合で不明者がいたと大胆に仮定すると、
「不明者」は3600人超となる。

厚労省は2010年6月から、一定の条件の85歳以上の年金受給者について、
不正受給がないかサンプリング調査をしており、近く結果をまとめる予定だ。

8月11日19時22分配信 J-CASTニュース
・・》
注)記事の原文にあえて改行など多くした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100811-00000002-jct-soci
☆J-CASTニュース 「100歳未満も調査せよ」の声 年金不正受給者たくさんいる☆


私は65歳の高齢者で厚生年金を受給している身であるが、
昨今の国家財政の悪化、そして高齢化社会を迎え、社会保障費は毎年1兆円前後が増加している現状は、
新聞、テレビのニュース、雑誌などで学んでいる。

もとより日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用を、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)となっている。
具体的には、現役世代がその時の高齢者を支えてくれる制度である。

このような中で、社会保障費の中の年金不正受給者のニュースを知ると、
高齢者の私さえ、現役世代の方たちに恥じることがないのか、
国の負担分すなわち国民の目をごまかしてまでと思いながら、
悪質きわまる人がいると思ったりしている・・。

今回、このJ-CASTニュースを読んだ後、
徹底的に厚労省は、日本年金機構と市町村と連絡を取りながら解明すべき、
と深く感じている。

調査対象者は、年金の「老齢給付」を受けている人、約3360万人(2010年3月末)として、
年金不正受給者が発覚した場合、自治体で公表する制度を設定する。

たとえば私の住む市に於いては、毎月『調布 市報』が配達されているが、
この『調布 市報』の中に、『年金不正受給者』のコーナーを設定して、
明確に氏名と年齢、住所、そして不正受給の期間、金額を明記する。

実施に際して、事前に厚労省は制度を公表して、3ヶ月の猶予期間後、
判明次第、逐次に公表する。

このくらいの制度を実施できなければ、
悪質きわまる年金不正受給者の撲滅の解決には、ならないと思案している。

 
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