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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

梯久美子・ノンフィクション作家の発露された言葉に感銘を受けて・・。

2010-08-14 15:40:59 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日、読売新聞の朝刊を読んで、思わずひとつの特集記事に関心させられ、
深く精読させられたのである。

この記事と同一なのが、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載されて折、
無断であるが、記事を転載させて頂く。

《・・
      戦後世代が書く戦争 活躍する3人に聞く

65回目の終戦記念日を間もなく迎える。
かつて日本が空襲や原爆で焦土になり、多くの人命が失われた事実は、
都会に立ち並ぶ高層ビル群などから簡単に想像できなくなった。

一方で、今年度上半期の芥川賞では、
ナチス・ドイツ時代のユダヤ人問題を現代と重ね合わせた赤染晶子著『乙女の密告』、
直木賞では、戦前から戦争に至る都市生活のモダンな一面を慈しむような中島京子著『小さいおうち』が受賞するなど、
あの時代を直接知らない世代の、新たな試みが目立っている。

戦後世代が戦争を書く意味を、文芸評論、漫画、ノンフィクションの分野で活躍する3人に聞いた。
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

そして、活躍される3人のお方は、

◎軍隊と似通う格差社会 川村湊さん(文芸評論家 59)

◎今こそ出来る表現模索 梯久美子さん(ノンフィクション作家 48)

◎「普通の生活」敬意の絵筆 こうの史代さん(漫画家 41)

こうした人であるが、無念ながらノンフィクション作家の梯久美子さんの作品しか読んだことがなく、
特に梯久美子さんの思いを幾たびか読み、発露された言葉に私は感銘を受けた・・。

《・・
「戦争映画を見たこともなく、戦記を読んだこともなかった」が、
5年前に出した硫黄島玉砕の総指揮官だった栗林忠道の評伝『散るぞ悲しき』(新潮文庫)が作家デビュー作となった。

「あなたみたいな人が栗林中将を書いたらいいんじゃないかな」。
ある小説家にそう言われた時、
実は「栗林中将」が誰かも知らなかった。

だから、徹底的に調べた。
1次史料にあたることにこだわった。
「メディアの儀礼的、常套(じょうとう)的な表現を乗り越えて自分の言葉を持つには、
陳腐化した言説に頼らず、ナマの史料に直接触れることが必要だった」
とふり返る。

大本営による電報の改ざんを実物で確認し、遺族あての手紙41通を手に取った。
「私の知らない時代を生きた人々の声を聴いた気がした。
モノの持つ強さです」。

戦争を知らず、遺族でもない自分が書くことに迷いもあった。
が、取材の最後に1万3000柱の遺骨が埋まった島を訪れ、気持ちが固まった。

彼らの死ではなく、どう生きたかを書こう。
「骨を踏んだ」ことで縁を結んだ、と覚悟を決めた。


写真家の石内都さんの写真集『ひろしま』に衝撃を受けた。
「被爆死した若い女性が身に着けていた衣服を美しく、可憐(かれん)に撮っている。
60年以上たって初めて出来たアプローチだと思う」。

活字でも、今だからこそ成立する表現があるはずだと気づいた。

「経験者の言葉を直接聞いて伝え残す最後の世代であると同時に、
別の表現を模索すべき最初の世代」
と自覚する。

先月、デビュー作の完結編となる『硫黄島 栗林中将の最期』(文春新書)を刊行した。「公開される史料が増え、昔より可能性は広がっている」

(2010年8月13日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私は特に、
「経験者の言葉を直接聞いて、伝え残す、最後の世代であると同時に、
別の表現を模索すべき最初の世代」
とこうし自覚を発露された言葉に圧倒され、感銘を受けたのである。


私は梯久美子さんの作品を初めて読んだのは、
【『ずゐせん学徒隊』らに、ご冥福を・・。】
と題して、あるサイトに2007年10月16日に投稿している。

【・・
昨日の深夜、『文藝春秋』の読み残した記事を読みはじめた・・。

何より深く感動された寄稿文、主題が『美智子さまと昭和天皇』、副題は『沖縄の悲劇を胸に』と題され、
ノンフィクション作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんが綴られた記事である。

私は沖縄に関しては、このサイト以外でも数多く綴っている上、
高校生以来、真摯な思いで関心はあるが、
皇室が係わると、何かと気後れと1日の中で、心が澄んだ時も読もうと、
あえて後回しにしていたのであった。

私はかの大戦の過酷な沖縄地上戦に於いて、
看護要員として『ひめゆり学徒隊』は知識の一端として、知っていたが、
恥ずかしながら『ずゐせん学徒隊』は全くの無知であった。

作家・梯久美子さんの記事を拝読すれば、
あの沖縄戦を深く理解すれば、このような状況が明確に想像できるのであるが、
つたない私は無知であった。

作家の綴られた記事を引用させて頂ければ、

《・・
沖縄戦で犠牲になった沖縄県出身者は約12万人、うち軍人・軍属は約2万8000人で、
残りの10万人近くが民間人である。

すべての中学校、高等女学校で学徒隊が編成され、
男子は鉄血勤皇隊、女子は看護隊として戦場に動員された。
男子は14歳から19歳、女子は15歳から19歳である。
そのうち、男子1559名、女子446名が戦場で亡くなっている。
・・》
注)原文に対し、あえて改行を多くした。

私が無知で、想像力が欠けていたのは、
すべての中学校、高等女学校・・と明記された内容であった。

作者の寄稿された記事のすべての中に於いては、
『ずゐせん学徒隊』に関しては最初のほんの一部に過ぎないが、
長年の歳月の熱い思いをしてきた当事者の心情を淡々した基調で綴られている・・。


首里高等女学校の学徒隊は『ずゐせん学徒隊』と命名されて、61名で構成され、
33名の方が亡くなわれ、ずゐせんの塔として、まつった慰霊塔である。
この中で生き残られたひとりの方の証言と念願された言動を記載されている。

作者が取材で訪れた時、
ひめゆり塔には大きな献花台からこぼれ落ちるほどの花束が供え、
数百メートルしか離れていないずゐせん塔には一輪の花もなく、
と記載されている。

『ずゐせん学徒隊』の生き残られたひとりの大正15年生まれのお方が、
「ひめゆりばかりが有名になって、
同じように戦場で亡くなったずゐせん学徒のことは、
誰も知らないし追悼もされてない。
それがずっと悲しくて、悔しくて」
と証言されて、
平成5年4月、両陛下が出席する植樹祭の会場の近くにずゐせん塔があるので、
両陛下に塔を見て頂きたく直訴した。

県知事に嘆願書を提出し、知事が不在だったので、
副知事の前で嘆願書を読み上げた・・。

『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
女性でも戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、
崇(あが)められると信じて疑わず・・
衛生兵とともに奮闘致しました』

『生き証人は黙っている事が出来ません。
33名の代わりに声を大にして、「ずゐせん隊はかく戦えり」
と叫びたいのであります』

この後、副知事から宮内庁を通し、陛下に伝えられた。

そして陛下のご希望に寄り、植樹祭の前に、両陛下から、ずゐせん塔に供える花束を託され、
『・・天皇陛下が私に、
戦争の時はこのあたりにも来ましたか、とおっしゃった。
・・
このあたりは、飛び交う弾の中をさまよい歩いたところです。
たくさんの友達が死にました・・。

陛下は、苦労なされましたね、と言ってくださった』

そして、両陛下に自作の琉歌を披露され、
沖縄の文化に造詣が深く、みずからも琉歌をつくる天皇はご理解され、
翌日、所望された陛下に清書され届けられた。

そして、両陛下の車は、
ずゐせんの塔の前を、ほとんど停止に近い最徐行でゆっくりと進み、
お2人は窓を開けて、じっと瞑目(めいもく)された。


こうした概要であるが、
かの大戦で日本本土で沖縄諸島だけが地上の戦場となり果て、
民間人、そして学生まで巻き込まれ悲惨と過酷を思い浮かべる時、
敗戦の一年前に生を受けた私さえ、胸は熱くなり、やがて深夜ひとり涙を流した。
・・】
このように私は投稿していたのである。

こうした実態を淡々と綴られ、鎮魂歌の基調のように綴られた作家・梯久美子さんに、
瞬時魅せられたのある。

この2ヶ月前の頃、家内は実母より、
死ぬまで一度は、『ひめゆり塔』と『平和の礎(いしじ)』を観たいわ、
と念願に基づいて、
私達夫婦は家内の母と共に、この年の2007年10月29日より、
沖縄本島を8泊9日で訪れた。

この旅路に関しては、このサイトに投稿しているが、
作家・梯久美子さんの『文藝春秋』に寄稿された『美智子さまと昭和天皇』を感銘を受けていたので、
影響された心情で私は投稿している。

【・・
   第1章  機中、ひとり涙をながせば

10月29日(月)
羽田空港を20分ばかり遅れて、那覇行きの航空便は離陸した。

私は2時間半ばかりの機中の時間は、煙草も喫えず、退屈きわまりない時であったので、
過日知った『ずゐせん学徒隊』のことを思い浮かべてた・・。

そして、このことを私は別ブログに綴って投稿し、
この私の掲示板に、沖縄の男性より、
『友の碑~白梅学徒の沖縄戦~』のサイトを教示して下さり、
私は初めてこのことも知り、感銘を受けた後、資料として印刷した。

この資料を今回の旅に持参し、機中で再読した。

http://www11.ocn.ne.jp/~cr21/tomo/friends.html
☆『友の碑~白梅学徒の沖縄戦~』☆

改めて、監督のメッセージ、企画制作意図を精読し、あの時代に思い馳せると、
心は高まり、そして瞼(まぶた)が熱く、やがて涙があふれてきた・・。

航空便の機長より、着陸のアナンサーがあり、機は下降し、雲の中を通り過ぎると、
眩(まぶ)しい陽射しの中、那覇空港が観えた。

(略)
   第3章  クファデーサーの樹の下で

『ひめゆりの塔』を行く前に、『ずゐせんの塔』に花をささげたいと、
私は家内たちに云った・・。

家内たちには、ずゐせん学徒隊に関しては、旅行の合間に話していたのである。

『ずゐせんの塔』は、午前の陽射しを受け、さわやかな風が吹いていた。

私達は花をささげて、両手を合わした後、しばらく黙祷をした・・。


この後、『ひめゆりの塔』の資料館を見いていたが、
私は早めに出て、庭園を散策し、庭の手入れをされている年配の男性に、
『クファデーサー・・樹・・
この庭園に有りましたなら・・教えて下さいますか・・』
と尋ねた・・。

男性の庭の周辺を歩きながら、
大きな樹木で空まで伸ばすかのように枝葉を広げた大木を指して、
『この樹が・・クファデーサーですよ・・』
と私に云った。

古来から沖縄に於いては、墓地の付近に植えて、さんさんと照り続ける中、
大きなクファデーサーは周囲に日陰をつくりだすので、長年人々にいとしまれている樹である。

かの沖縄戦で民衆、少年少女、そして幼児まで巻き込まれた悲惨な地上戦を思い馳せながら、
私はクファデーサーの樹の下で煙草を喫ったりした。

このクファデーサーに関しては、
両陛下が終戦50年の慰霊の旅として沖縄に訪れた折、
『平和の礎(いしじ)』をご覧になった後、
皇后陛下は平成七年にひとつの歌を詠まれた・・。

   クファデーサーの苗木添ひ立つ
           幾千の礎(いしじ)は重く死者の名を負(お)ふ
                                作者・皇后陛下

この一句に導かれて、この樹木を知り、私なりに沖縄戦の過酷な戦場と思いを重ねた。

この後、『平和の礎』のある『平和祈念公園』に、私たち三人は行った。

(略)

      最終章  昭和の初期に生を受けた人々は

家内の母は、昭和5年生まれで、3年前に死去した家内の父は昭和2年生まれである。

家内の父は、大学を繰り上げ卒業で召集され、
初年兵として仙台の郊外、浜松の郊外で軍事訓練に明け暮れ、
古参兵の洗礼を受けている中、敗戦時を向えた・・。

家内の母は、新潟県の高田の女学校の時代に、軍事工場の支援に強制従事させられた身である。

家内の母は、今回の沖縄の旅として、
特にひめゆりの塔、そして平和祈念公園の中で、
沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地に花をささげたい、という要望であった。


那覇に着いた翌朝、朝8時過ぎにタクシーで『ひめゆりの塔』を目指して、
最初は私の熱い思いの『ずゐせんの塔』に花をささげ、しばらく黙祷をした。

この後、徒歩5分の『ひめゆりの塔』に行き、
『ひめゆり平和祈念資料館』の中で私は別れ、独りで早めに庭に出て、
クファデーサーの樹木を探したり、
資料館の中で厚い一冊の本を買い求めたのをベンチで読んだりしていた。

1時間半前後して、家内達がベンチに座っている私の所に来た・・。
家内の母は、
『XXさん・・ご免なさい・・遅くなってしまって・・
ひめゆり学徒の方たち・・私と同じぐらい齢なの・・』
と私に云った。

私は家内の母の顔を見ると、目に涙を浮かべていた・・。


この後、タクシーで『平和祈念公園』に移動し、
私達3人は、無名者の墓地、新潟県の墓地に花をささげ、黙祷をした。

私は敗戦の一年前に生を受けた身で、戦争を知らないひとりである。
あくまで、親族から教えて貰ったり、教科書、歴史書、小説、随筆などの書物、
そして映画などで観る限りである。

つたない身の私は、戦時で亡くなわれた数多くの墓石、
平和の礎に無数の刻まれた戦死者名を見ると、言葉を失い、呆然と戦争の残酷さを痛感させられた。


昭和の初期に生を受けた人々は、余りにも若くして、戦いのさなかで亡くなわれた人、
特攻隊で散った人、戦地に向かう折、米軍の攻撃で亡くなった方、
或いは沖縄の地上戦で戦死された方・・原爆、空襲で亡くなった住民の方、
それぞれの立場の人々が、戦争という旗の下で、命を落とされている。

そして、日本の各地で強制支援として、軍事工場、病院などで従事させられたりした・・。


平和祈念公園を辞する時、家内の母は私にぽっりと云った。
『私も・・ひとつ早く生まれていたら・・
戦地の病院などで行かされたかも知れないし・・どうなったか・・わからないわ・・

父さんも・・よく云ってた・・俺より・・たったひとつ齢の上ひと・・
多く戦死された・・と』
・・】
このように私は投稿しているが、
《・・
皇后陛下は平成七年にひとつの歌を詠まれた・・。

   クファデーサーの苗木添ひ立つ
           幾千の礎(いしじ)は重く死者の名を負(お)ふ
                                作者・皇后陛下
・・》
このことも作家・梯久美子さんの『文藝春秋』に寄稿された『美智子さまと昭和天皇』で学んで、
私は拝借したことである。

この後、作家・梯久美子さんの新聞、雑誌などの寄稿された文、
そして出来うる限り単行本、文庫新書などを読んだりしている。

あえて苦言すれば、『昭和の遺書 ~55人の魂の記録~』(文春新書)は、
許容された枚数か、取材などの制約なのか、深みのない心情となっている。

もとより作家・梯久美子さんは、
当事者の深淵まで描ききれる稀な才能がある方で、
ノンフィクション作家に於いては男性は佐野眞一氏とすれば、
女性は梯久美子さんである、と私は幾たびか感銘を受けたので、
更に期待しているひとりである。


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今宵9時、脚本・倉本聰の『歸國(きこく)』を私は待ち焦がれ・・。

2010-08-14 08:50:37 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞を読んだりして、思わず微笑んだりした。
28面に【テレビ番組】であり、最下段には、

《 終戦ドラマスペシャル 歸國(きこく)」
       今晩9時  脚本・倉本聰  》

と大きく明示され、右側には、

《 愛する妻よ、恋人よ、妹よ!
  君たちは幸せだったのか。
  現代によみがえった英霊たちが見たものは--。 》

と明記されていた。

そして私は定期コーナーの『試写室』に於いても、
このドラマが取り上げられて折、私は精読したりした。

無断であるが、笹島拓哉氏の綴られた批評文を転記させて頂く。
《・・
本当の豊かさとは何か、幸せとは何か。
これらの問いに対する答えは人それぞれだろう。

戦後65回目の終戦記念日、秋吉部隊長(長渕剛)、大宮上等兵(ヒートたけし)ら
戦争で命を落とした兵士の英霊を乗せた列車が、
未明の東京駅に到着した。
英霊たちは夜明けまでの限られた時間、
それぞれの愛する者を訪ねていく。

利己的な現代人の醜さを描くだけではない。
愛する人を思い続ける洋子(八千草薫)や
戦地から生還した秋吉の上官・遠山(笈田ヨシ)ら、
戦争体験者の言葉は切なさに満ちている。

脚本の倉本聰と演出の鴨下信一は、子どもの頃に戦争を経験している。
ドラマに込められた強烈なメッセージに、
豊かさや幸せについて改めて考えさせられた。
・・》
注)批評の原文をあえて改行を多くした、


私は過ぎし9日の夕方、読売新聞の夕刊を読んで、
【テレビ&ラジオ】に於いて、ひとつの記事に思わず精読したのである。
この記事と同一なのが、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載されて折、
無断であるが、記事を転載させて頂く。

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/tnews/20100809-OYT8T00362.htm
☆【YOMIURI ONLINE】
     TBS系ドラマ「歸國(きこく)」に出演、長渕 剛(ながぶちつよし)
             「長渕色」とことん消した☆

この記事を私は読んで、敬愛している創作家の倉本聰氏が、
テレビ・ドラマ化にされた、と知ったのである。

この後、まもなくして、秘かにTBSのホーム・ページを検索し、
http://www.tbs.co.jp/kikoku2010/intro.html
☆TBS 「歸國(きこく)」 終戦ドラマスペシャル ☆

そして私は1時間ばかり読んだり、見たりしていたのであるが、
『脚本・倉本聰』コーナーで、氏の作品の思いを幾度も読んだりしたのである。

そして、このドラマを今宵14日の夜9時より放映されるので、
待ち焦がれていたのである。


私は倉本聰氏にはお逢いしたこともないが、
数多くのテレビのシナリオ、放送されたテレビの作品、映画の脚本、作品に思いを重ねたりしたのである。
或いは随筆の数々を私が熱愛し読んだのは昭和が終る頃であった。

どなたでも作家の作品、シンガー・ソングライターの歌などで、偶然に接して、
ある日突然に心がざわめき魅了され、無我夢中に熱愛すると思われる。
私も創作家の倉本聰氏を書物で偶然に知り、
その後にある時から魅了されて、夢中に過去の作品を読んだり、観たりしたひとりである。

このサイトに於いても、私は創作家・倉本聰氏から、
数多く教示されたことがあり、投稿したりしているが、今回は省略する。

私が倉本聰氏の作品に初めて触れたのは、1975(昭和50)年1月過ぎであった。
映画の脚本家・橋本忍(はしもと・しのぶ)氏の『砂の器』のシナリオが読みたくて、
本屋で雑誌の『シナリオ』(シナリオ作家協会)の1月号を買い求めた。

その中に、東芝日曜劇場の『りんりんと』のシナリオがあった。
なんてシリアスなドラマを書く人、と倉本聰氏の作品に初めて知り、印象が残った。

この後、10数年後に私にとっては、倉本聰氏に信愛するひとりとなり、
人生は不思議な賜物(たまもの)があると深く思ったりしている。


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