私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先ほど2時間前、昼寝から目覚めて、ぼんやりと読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を読んでいたら、
【新おとな総研】の中で、定期連載の『旅のしおり』の見出しに、
《「白砂の浜とモヤイの群像 新島(東京) 》
と見出しされた記事に、私は懐かしげに読みはじめたのである・・。
松本由佳・記者が綴られた記事であり、無断ながら転載させて頂く。
《・・
白砂の浜とモヤイの群像 新島(東京)
白い砂浜が6・5キロにわたって続く羽伏浦海岸は波が高く、絶好のサーフポイント。
外国人客も少な くない 他の島や大陸とゆるやかにつながりながら、
島は独自の文化や生態系を育む。
言葉についても同じことがいえそうだ。
例えば、共同で事に当たるという意の「もやい(催合)」。
古来伝わる日本語ながら、現代では死語に近い。
だが、伊豆諸島の新島には今も残る言葉という。
東京湾から約150キロ。
朝一番の高速船に乗れば、午前中にはもうエメラルド色の海で泳げる。
島の人に聞けば、今でも 「明日の畑、もやいする?」などと隣近所に声をかけるそうだ。
新島村博物館の北村武さん(59)は
「地引き網が由来では」と推測する。
火山島である新島は、白い溶岩・流紋岩でできてい る。
崖や砂浜が白く美しいのはこのためだが、米作には適さず、年貢は塩で納めていた。
取り立ては厳しく、海の幸が生活の支え だった。
酒好きだった故人をしのび、酒だるをかたどった流人の墓
島のあちこちにモヤイ像が立つ 江戸時代は流刑地。
「流人も年寄りも障害者も、みんなで力を合わせ、分け前は平等でした」。
流人の眠る共同墓地には白 砂が敷かれ、今も供花が絶えない。
◎
島の方々に立つモヤイの群像が、「もやい」にちなむことは、もう言うまでもない。
離島ブームにわく1970年代、
「く さやと流人の島に新たな名物を」と像を仕掛けたのは、
島生まれの地元紙通信記者、大後友市さん(79)だった。
現在、本土で 病気療養中の大後さんに代わって、
長女の植松摂さん(53)から当時の話を聞いた。
島では、こことイタリア・シチリア島の属島リパリ島にしか産出しない抗火石(コーガ石)が取れる。
溶岩が冷えて固まっ た軽石で、耐火性に優れ、軟らかく加工しやすい。
江戸時代から建材として重宝され、採石は島の重要な産業だった。
「父はこの石で希望者に自由に石像を彫ってもらうことを思いついたんです。
往復の船賃と宿泊代の一部は村が負担しまし た」
これが当たった。
ユニークなアイデアにマスコミが飛びつき、全国から人を呼び寄せた。
美大生もいれば、OLや新婚夫婦 もいた。
流人、若者、島娘……。
彫られた像は100体以上に上る。
渋谷駅にあるモヤイ像は、大後さんと都会の若者が彫り、
80年に新島の東京都移管100年を記念し渋谷区に寄贈されたものだ。
◎
島は最盛期、夏のひと月に5万人もの観光客を集めた。
だが、レジャーが多様化し、海外旅行も身近になった今、
その数を 10分の1以下に減らしている。
「ナンパの島」などという不名誉なレッテルを張られた時期もあったが、その面影はない。
大型 レジャー施設も、ついぞ造られなかった。
代わりに、白い砂浜と青い海が残った。
浜辺には温泉もわく。
リアス式の海岸線が美しい式根島には渡船で10分。
歳月を 経て味わいを増したモヤイ像たちが、それらを優しく見つめる。
植松さんは最近、父から通信記者の仕事を引き継いだ。
「島に来た人に、海が澄んでるね、星がきれいだね、って言われて
改めて魅力に気づきます。
島ではあまりにも当たり前だから」
(松本由佳、写真も)
●あし 東京・竹芝から高速船で2時間20分。大型客船なら10時間半。調布から飛行機で40分。
●問い合わせ 新島観光協会=(電)04992・5・0001。
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
http://otona.yomiuri.co.jp/trip/travelwriter/100826nihon.htm
☆【YOMIURI ONLINE】【新おとな総研】
『旅のしおり』《「白砂の浜とモヤイの群像 新島(東京)☆
私達夫婦は、共通の趣味としては国内旅行であり、
たまたま昨年の2009(平成21)年5月10日から1泊2日の『新島』を訪れた。
帰宅後、分掲して投稿したが、ひとつに纏めたのを、
このサイトに今年の2010(平成22)年2月23日に投稿している。
私なりに『新島』に関しては、今でも鮮烈な思いで残っている。
こうした思いもあるので、あえて掲載する。
p://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/ca01c302f3ed9f644ab5b33aa42d1c2b
☆【年金青年たわむれ記 ~かりそめ草紙~】
愛(いと)しき光と風、そして波打ち寄せる『新島』 【2009.5.10.~.5.11.】☆
この後、私達夫婦は、島の旅も魅了されて、
小笠原諸島の『父島』に今年の2010年2月24日から3月7日まで船中泊往復路2泊、
『父島』のホテル滞在9泊として、訪れている。
このことに関しては、このサイトに、
【光と風の中、夢の島のひとつは小笠原諸島の『父島』・・。】
と題して投稿しているが、今回は省略する。
☆下段のマークを押し、次画面の『投票』を押して下さいますと、
つたない私の無上の喜びとなりますので、お願い致します♪
↓
先ほど2時間前、昼寝から目覚めて、ぼんやりと読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を読んでいたら、
【新おとな総研】の中で、定期連載の『旅のしおり』の見出しに、
《「白砂の浜とモヤイの群像 新島(東京) 》
と見出しされた記事に、私は懐かしげに読みはじめたのである・・。
松本由佳・記者が綴られた記事であり、無断ながら転載させて頂く。
《・・
白砂の浜とモヤイの群像 新島(東京)
白い砂浜が6・5キロにわたって続く羽伏浦海岸は波が高く、絶好のサーフポイント。
外国人客も少な くない 他の島や大陸とゆるやかにつながりながら、
島は独自の文化や生態系を育む。
言葉についても同じことがいえそうだ。
例えば、共同で事に当たるという意の「もやい(催合)」。
古来伝わる日本語ながら、現代では死語に近い。
だが、伊豆諸島の新島には今も残る言葉という。
東京湾から約150キロ。
朝一番の高速船に乗れば、午前中にはもうエメラルド色の海で泳げる。
島の人に聞けば、今でも 「明日の畑、もやいする?」などと隣近所に声をかけるそうだ。
新島村博物館の北村武さん(59)は
「地引き網が由来では」と推測する。
火山島である新島は、白い溶岩・流紋岩でできてい る。
崖や砂浜が白く美しいのはこのためだが、米作には適さず、年貢は塩で納めていた。
取り立ては厳しく、海の幸が生活の支え だった。
酒好きだった故人をしのび、酒だるをかたどった流人の墓
島のあちこちにモヤイ像が立つ 江戸時代は流刑地。
「流人も年寄りも障害者も、みんなで力を合わせ、分け前は平等でした」。
流人の眠る共同墓地には白 砂が敷かれ、今も供花が絶えない。
◎
島の方々に立つモヤイの群像が、「もやい」にちなむことは、もう言うまでもない。
離島ブームにわく1970年代、
「く さやと流人の島に新たな名物を」と像を仕掛けたのは、
島生まれの地元紙通信記者、大後友市さん(79)だった。
現在、本土で 病気療養中の大後さんに代わって、
長女の植松摂さん(53)から当時の話を聞いた。
島では、こことイタリア・シチリア島の属島リパリ島にしか産出しない抗火石(コーガ石)が取れる。
溶岩が冷えて固まっ た軽石で、耐火性に優れ、軟らかく加工しやすい。
江戸時代から建材として重宝され、採石は島の重要な産業だった。
「父はこの石で希望者に自由に石像を彫ってもらうことを思いついたんです。
往復の船賃と宿泊代の一部は村が負担しまし た」
これが当たった。
ユニークなアイデアにマスコミが飛びつき、全国から人を呼び寄せた。
美大生もいれば、OLや新婚夫婦 もいた。
流人、若者、島娘……。
彫られた像は100体以上に上る。
渋谷駅にあるモヤイ像は、大後さんと都会の若者が彫り、
80年に新島の東京都移管100年を記念し渋谷区に寄贈されたものだ。
◎
島は最盛期、夏のひと月に5万人もの観光客を集めた。
だが、レジャーが多様化し、海外旅行も身近になった今、
その数を 10分の1以下に減らしている。
「ナンパの島」などという不名誉なレッテルを張られた時期もあったが、その面影はない。
大型 レジャー施設も、ついぞ造られなかった。
代わりに、白い砂浜と青い海が残った。
浜辺には温泉もわく。
リアス式の海岸線が美しい式根島には渡船で10分。
歳月を 経て味わいを増したモヤイ像たちが、それらを優しく見つめる。
植松さんは最近、父から通信記者の仕事を引き継いだ。
「島に来た人に、海が澄んでるね、星がきれいだね、って言われて
改めて魅力に気づきます。
島ではあまりにも当たり前だから」
(松本由佳、写真も)
●あし 東京・竹芝から高速船で2時間20分。大型客船なら10時間半。調布から飛行機で40分。
●問い合わせ 新島観光協会=(電)04992・5・0001。
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
http://otona.yomiuri.co.jp/trip/travelwriter/100826nihon.htm
☆【YOMIURI ONLINE】【新おとな総研】
『旅のしおり』《「白砂の浜とモヤイの群像 新島(東京)☆
私達夫婦は、共通の趣味としては国内旅行であり、
たまたま昨年の2009(平成21)年5月10日から1泊2日の『新島』を訪れた。
帰宅後、分掲して投稿したが、ひとつに纏めたのを、
このサイトに今年の2010(平成22)年2月23日に投稿している。
私なりに『新島』に関しては、今でも鮮烈な思いで残っている。
こうした思いもあるので、あえて掲載する。
p://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/ca01c302f3ed9f644ab5b33aa42d1c2b
☆【年金青年たわむれ記 ~かりそめ草紙~】
愛(いと)しき光と風、そして波打ち寄せる『新島』 【2009.5.10.~.5.11.】☆
この後、私達夫婦は、島の旅も魅了されて、
小笠原諸島の『父島』に今年の2010年2月24日から3月7日まで船中泊往復路2泊、
『父島』のホテル滞在9泊として、訪れている。
このことに関しては、このサイトに、
【光と風の中、夢の島のひとつは小笠原諸島の『父島』・・。】
と題して投稿しているが、今回は省略する。
☆下段のマークを押し、次画面の『投票』を押して下さいますと、
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