私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
過日の6日、NHK総合テレビの夜の7時半より8時45分まで放映された、
『吉永小百合 被爆65年の広島・長崎』を視聴した。
番組の概要は、NHKの解説文を借りれば、
《・・
女優・吉永小百合は20年以上にわたって、
原爆詩の朗読をライフワークとして取り組んできた。
手弁当で全国をまわってきた朗読会では、
地元の子供たちに詩と音楽で平和を伝えてきた。
しかし今、多くの若者が昭和20年8月6日、9日という日のできごとを知らない。
「このままでは日本から被爆体験が消えてしまう」と、
被爆65年にこれまでの活動の集大成としてNHKホールで、
詩を朗読し事実を語り継ぐ会を開催する。
若者と子供たち、被爆者によって埋め尽くされた客席、
そして吉永の呼びかけに応えて集まったミュージシャンたちのパフォーマンスとともに
コンサートは平和への祈りの場となる。
総合テレビでは、このコンサートとともに、
吉永の原爆との出会いから四半世紀にわたる活動の軌跡をたどっていく。
一人の女優としてヒロシマを知り、一人の人間として原爆詩を語り続ける吉永小百合。
被爆65年の広島・長崎を訪ね、吉永自らが物語る場所に立ち、語る映像とともにドキュメントする。
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。
私は吉永小百合さんについては、何となくくすぐったい存在の方である。
こうしたことは、私は1944(昭和19)年9月に東京郊外の農家の児として生を受け、
吉永小百合さんは、翌年の1945(昭和20)年3月に都心で生を受けているので、
学年としては同級生のようである。
もとより環境もその後の軌跡もまったく違うが、
同級生なので社会の出来事の空気を共にし、時代を重ねてきた。
私が吉永小百合さんの名前を初めて知ったのは、
私が小学生の時、漫画の月刊雑誌の『少年画報』を愛読し、
この中の『赤胴鈴之助』が連載されていた。
その後、ラジオドラマとして、1957(昭和32)年にラジオ東京から放送されて、
出演されたのが吉永小百合さんであった。
そして1962(昭和37)年に浦山桐郎・監督の『キューポラのある街』は観たが、
私としては苦手な日活の青春映画の数々は避けたりしていた。
その後、ラジオから『寒い朝』、そして『いつでも夢を』が、盛んに流れたし、
私は好感したひとりであった。
この後、吉永小百合さんが出演された映画は、わずかしか鑑賞していない。
『海峡』(1982年、東宝)
『細雪』(1983年、東宝)
『天国の駅 HEAVEN STATION』(1984年、東映)
『おはん』(1984年、東宝)
『夢千代日記』(1985年、東映)
『映画女優』(1987年、東宝)
この程度しか思い出させなく、世に云われているサユリストの方たちから、
まったく遠い存在の私である。
その後、何かのテレビ出演された時、偶然に私は視聴し、
《・・私は(10代の青春映画も含めて)数多く出演できたのは、
時代に恵まれて・・》
《尊敬する女優さんは、メリル・ストリープ・・》
このふたつの発言を私は聴いて、これまでの吉永小百合さんへの評価が、
大きく飛躍したのである。
私は吉永小百合さんが、原爆の被爆などにに関して、
朗読会を行っていると、何かで知ったりしたが、
どのようなことが起因だったのか、知れたらと思い、今回のテレビ番組を視聴したひとつであった。
若き頃、渡哲也さんと共演した映画に於いて、
被爆者の役柄を演じた渡哲也さんと交友し、原爆ドームの中でのシーンを互いに演じて、
これが原点であり、
その後は、『夢千代日記』(1985年、東映)の前後の頃からは・・
このように語られていたので、私は理解したのであった。
私が何よりも感銘をうけたのは、
東京大空襲は1945年3月10日に行われ、被害は死者はもとより、
多大な被害を受けた都心で、
その直後の3月13日に都心で生を受けた。
やがて過酷で悲惨な戦争は起こってもほしくないし、
かの大戦を風化させてはならない責務を感じたり、
伝える時代のひとりと感じながら、
今日の朗読会のひとつの原因にもなっている。
このような意味合いを発言されたことである。
そして番組の中で、朗読会で取り上げた詩を書かれた方たちに、
吉永小百合さんが訪ねて、お気持ちを語り合う・・。
このように私は多々教示されたのである。
尚、余談ながら、吉永小百合さんは黒髪で、白き物を召され、
真の日本の女性の美しさを知っている人、と改めて知ったりした。
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過日の6日、NHK総合テレビの夜の7時半より8時45分まで放映された、
『吉永小百合 被爆65年の広島・長崎』を視聴した。
番組の概要は、NHKの解説文を借りれば、
《・・
女優・吉永小百合は20年以上にわたって、
原爆詩の朗読をライフワークとして取り組んできた。
手弁当で全国をまわってきた朗読会では、
地元の子供たちに詩と音楽で平和を伝えてきた。
しかし今、多くの若者が昭和20年8月6日、9日という日のできごとを知らない。
「このままでは日本から被爆体験が消えてしまう」と、
被爆65年にこれまでの活動の集大成としてNHKホールで、
詩を朗読し事実を語り継ぐ会を開催する。
若者と子供たち、被爆者によって埋め尽くされた客席、
そして吉永の呼びかけに応えて集まったミュージシャンたちのパフォーマンスとともに
コンサートは平和への祈りの場となる。
総合テレビでは、このコンサートとともに、
吉永の原爆との出会いから四半世紀にわたる活動の軌跡をたどっていく。
一人の女優としてヒロシマを知り、一人の人間として原爆詩を語り続ける吉永小百合。
被爆65年の広島・長崎を訪ね、吉永自らが物語る場所に立ち、語る映像とともにドキュメントする。
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。
私は吉永小百合さんについては、何となくくすぐったい存在の方である。
こうしたことは、私は1944(昭和19)年9月に東京郊外の農家の児として生を受け、
吉永小百合さんは、翌年の1945(昭和20)年3月に都心で生を受けているので、
学年としては同級生のようである。
もとより環境もその後の軌跡もまったく違うが、
同級生なので社会の出来事の空気を共にし、時代を重ねてきた。
私が吉永小百合さんの名前を初めて知ったのは、
私が小学生の時、漫画の月刊雑誌の『少年画報』を愛読し、
この中の『赤胴鈴之助』が連載されていた。
その後、ラジオドラマとして、1957(昭和32)年にラジオ東京から放送されて、
出演されたのが吉永小百合さんであった。
そして1962(昭和37)年に浦山桐郎・監督の『キューポラのある街』は観たが、
私としては苦手な日活の青春映画の数々は避けたりしていた。
その後、ラジオから『寒い朝』、そして『いつでも夢を』が、盛んに流れたし、
私は好感したひとりであった。
この後、吉永小百合さんが出演された映画は、わずかしか鑑賞していない。
『海峡』(1982年、東宝)
『細雪』(1983年、東宝)
『天国の駅 HEAVEN STATION』(1984年、東映)
『おはん』(1984年、東宝)
『夢千代日記』(1985年、東映)
『映画女優』(1987年、東宝)
この程度しか思い出させなく、世に云われているサユリストの方たちから、
まったく遠い存在の私である。
その後、何かのテレビ出演された時、偶然に私は視聴し、
《・・私は(10代の青春映画も含めて)数多く出演できたのは、
時代に恵まれて・・》
《尊敬する女優さんは、メリル・ストリープ・・》
このふたつの発言を私は聴いて、これまでの吉永小百合さんへの評価が、
大きく飛躍したのである。
私は吉永小百合さんが、原爆の被爆などにに関して、
朗読会を行っていると、何かで知ったりしたが、
どのようなことが起因だったのか、知れたらと思い、今回のテレビ番組を視聴したひとつであった。
若き頃、渡哲也さんと共演した映画に於いて、
被爆者の役柄を演じた渡哲也さんと交友し、原爆ドームの中でのシーンを互いに演じて、
これが原点であり、
その後は、『夢千代日記』(1985年、東映)の前後の頃からは・・
このように語られていたので、私は理解したのであった。
私が何よりも感銘をうけたのは、
東京大空襲は1945年3月10日に行われ、被害は死者はもとより、
多大な被害を受けた都心で、
その直後の3月13日に都心で生を受けた。
やがて過酷で悲惨な戦争は起こってもほしくないし、
かの大戦を風化させてはならない責務を感じたり、
伝える時代のひとりと感じながら、
今日の朗読会のひとつの原因にもなっている。
このような意味合いを発言されたことである。
そして番組の中で、朗読会で取り上げた詩を書かれた方たちに、
吉永小百合さんが訪ねて、お気持ちを語り合う・・。
このように私は多々教示されたのである。
尚、余談ながら、吉永小百合さんは黒髪で、白き物を召され、
真の日本の女性の美しさを知っている人、と改めて知ったりした。
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