夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

年金生活の私、残された人生、『退屈』は死語なり・・。

2010-08-01 18:15:12 | 定年後の思い
私は中小業の民間会社を定年退職し、年金生活の6年生の身であるが、
昨夜、7月の『文月』のカレンダーに別れを告げ、
8月の『葉月』に、こんにち~は、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

そして、早くも7月が過ぎ去ったというのが実感であった・・。

現役時代の50代の時、先輩が定年退職された後、
お逢いした時、暇でねぇ、と聞いたりしたりしたりする時もあった。

そして、私は駅前に出で、小用の合い間にときおり、
コーヒーショツプの『ドトール』でコーヒーを飲んだりしている時、
私と同年代の男性の1部の方が、
暇を持て余しているのを見かけたりする。

私はこうした男性を見かけたりした時、
退屈そうにしている人のことが解からないのである。


私は日頃は買物、散策をしたりする時に四季の移ろいを享受し、
小説、随筆、歴史書、現代史などの読書をしたり、
古き良き時代の映画を居間で観たり、或いは音楽を居間などで聴いたりしている。
その上に、日常の生活で感じた事や思考したことを文章に綴り、
ブログのサイトに殆ど毎日投稿している。

そして、ときおり小庭の手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行で、その地の風土、文化などを学んだりしている。

こうしたことを定年退職後の6年近く過ごしてきたが、
退屈とか、暇だとか感じたことはないのである。

むしろ一日が早くも終ってしまった、
とため息をしながら、
明日もあるのだからと枕元のスダンドの灯を消すこともある。

私は退職後の年金生活に入った時は、
せめて10年間だけは五体満足で生かしてくれ、
その後は余生と思ったりしている。

人は永(なが)らえても100年程度の命であるので、
残された人生の後半は、出来る限り自身の心に忠実に日々を過ごしたい、
と念願しながら毎日を過ごしている。


何よりも時間の配分を自在に使える年金の身なので、
ご自分の好きなことに精進、そして深化できれば、
この人生に於いて、限りない贅沢な時期と確信している。

このことは年金の多少にかかわらず、
その人の心の自覚と思っているのである。

私は高齢者の方も含めて、生きがいをなくされた方、
暇で退屈な人生と思われる方には、
言葉をかけることなく、目の輝きを失ったご自分を粗末にされている、
と思ったりしているのである。

このようなことを樹木を眺めたりしながら、思ったりしている。


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毎年この日には、『お盆の日』を迎えて、お墓参りとなり・・。

2010-08-01 06:18:23 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
私の実家は付近の地域は、古来より8月1日は『お盆の日』となっている。

私は東京の郊外に1944(昭和19)年に農家の子として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほどの田畑、竹林、雑木林を維持管理していた。
そして、田んぼの外れに半反程度の広さの蓮専用の水田があった。

私は父、祖父が亡くなる小学三年生の頃までの、この頃を思いだしたりしていた。
遠い55年以上の前のことであるが、記憶を頼りに思い浮かべていたのである・・。


【迎え火】

7月30日の午前中のひととき、
仏間にある仏壇から位牌と仏具一式を取り出した後、仏壇の扉は、このお盆の期間だけ閉じられ、
この前に畳一帖ぐらい台に盆棚と称せられたこのお盆の時だけの棚が設置された後、
この盆棚に移された。

そして盆棚の中央の奥に位牌を置き、周辺に野菜、果物を供えられ、
胡瓜(キュウリ)に割り箸のような足を付け馬を見立て、
茄子(ナス)も同様な形で牛に見立てたものを飾っていた・・。

後年になると、叔父さんから、
馬は祖先の霊に乗って、この世にに戻り、
牛はお墓に戻る時に乗って帰られる、と私は教えられたりした。

台の手前は、座布団を敷き、その脇に桶に水を入れ、蓮の葉に茄子を小さく刻んだのを浮べ、
淡いピンクのミソ萩を小箒(こぼうき)のように作ったのを、水にしたし、清めていた。
そして台の左右に、この時節の百合の花などの草花を飾り、この中で蓮の花が中核となっていた。

この日の夜から、お盆の送り火が終えるまで、
朝昼夜に水とご飯、そしてボタ餅を供えたりしていた。

この日の夕刻になると、稲の藁(ワラ)で作った松明(たいまつ)の灯りを先頭に、
祖先が埋葬されているお墓に行き、
参列者の家族は、おのおの手を後ろに組み、祖先を乗せて、帰宅するが、
盆棚の前で、手を解く、
こうしたことが、この地域の迎え火の暗黙のしきたりとなっていた。


【お盆の日の当日は・・。】

叔父、叔母をはじめとする親戚、縁者が来宅し、
盆棚でお線香を上げて頂き、盆棚の近くの広間で、煮しめ、ボタ餅を食べながら、
世間話をし、帰宅して頂く。
この間、僧侶を招き、読経をして頂くのが、恒例となっていた。


【送り火】

お盆の日の当日の夕刻、
家族は盆棚の前で、各自に手を後ろに組み、あたかも祖先を乗せて、
お墓に行き、手を解くのが、送り火と定められていた。


その後は、盆棚は整理され、位牌、仏具などは、いつものように安置している仏壇に納められる。


このように記憶していたが、遠い昔の出来事であるから、
定かでないが、心に残っている。


私が定年後になると、家内と共に8月1日の『お盆の日』は、
朝の9時半前に、実家の長兄宅に行き、
簡略となった盆棚でお線香を上げ、長兄夫婦と談笑した後、
この後に来宅された親戚の叔父、叔母たちに私の少年期まで何かとお世話になったので、
この頃の時代の話を私はしたりしたりすることが多い。
このようなことが6年ばかり続いている・・。


長兄宅を辞した後、家内とお墓参りに向うが、
自宅に戻り、お線香、お米を持ち、途中で花屋に寄り、
生前の母が好きだったお花を買い求めたりしている。

その後、路線バスに乗り、お寺に着く。

境内は広く、大きな樹木が数多くある上、平日が多く、尚一層に静寂であった。
そして外気は、暑さを樹木がさえぎっているので、幾分涼しげだった・・。
ときおり、蝉の声が境内と墓地の間の大きな樹木から聞こえる程度だった。

私は少なくともお墓参りは、生者の慰めと知っているが、
亡くなった父と母、そして祖父に守られ、
こうして私は生きてこられてきたのは、まぎれないことであるので、
私は感謝の一心で、お墓参りをしている。

生前の母と家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、
私は今でも家内と母に秘かに、今でも感謝している。

お墓に行き、墓石を水で清め、お花を挿して、お米を備える。
そして、お線香を奉げる。

私はお参りをするたびに、母のおもかげがよぎる。

私の場合は、父が私の小学校の2年の時、
その数ヵ月後に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。

このためか、ときたま生前の母のわずかなしぐさ、
言葉づかいが想いだされる。

お線香の煙が芳香を残して、空の中、立ち昇りながら消える・・。

その後、水屋の周辺の大木の樹木の中、
蝉の鳴き声が響きかせながら、盛大に聴こえることが多いのである・・。

このように私は、旧来からの『お盆の日』を迎えているので、
これから外出する準備を家内と共にする。


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