夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

《昨年の一月の旅路》 函館の冬は風花慕情《2014.1.13.~1.17》 第2回 

2015-01-18 20:45:55 | 旅のあれこれ
      第2章 立待岬の代わりに穴澗海岸を訪れて、過ぎし日々の思いを重ね

今回、冬の函館を訪れる最初の動機は、何かと烈風の多い立待岬を観たいことでもあった・・。
このことは過ぎ去り年の2008年12月下旬の時、『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観るために、
『ススキノ駅』から5分前後歩いたビジネスホテル風に4泊5日で訪れた。

こうした旅路の中、『北海道文学館』が中島公園の付近にあると知り、
偶然に『北海道文学百景』とを題された一冊の本に瞬時に魅せられ、買い求めたりした。

そして滞在しているホテルで精読していたら、ひとつの詩に思わず涙を流し、
首に巻いたタオルで頬をぬぐったりした・・。

私は詩に関しては、無知であり、単なる私の感覚を頼りに読んでいる程度である。

無断であるが、転載をさせて頂く。

     立待岬               
                      作・三吉良太郎

ぼうぼうと草原に風はなびき
風をかきわけて少年は草の中をゆく
蒼々と広い空間にそれは影のようだ
しかも、海につき出た天と地の間の時間

ようやく突端にでて
身体(からだ)をささえるほどの石にすわれば
風はまっすぐに身体をぬけてゆき
目は流れる潮をのりこえて天につらなり
耳も、岩頭にくだける波とともに海に沈む

塩辛い霧は湧きあがり
少年は霧と風にぬれてじっと立っている

(後略)

この前後に、立待岬は函館山の東端の岬で、断崖を津軽海峡の波濤が洗う所、と解説されていた。

この後、私はこの後、この詩を詠まれた作者の略歴を読んだりしたのである。

三吉良太郎(みよし・りょうたろう)
詩人。明治40年、弘前に生を受け、昭和33年、函館で死去。
大正8年から函館に居住。
掲示作は詩集『虹の門標』(昭和30年、土曜詩学社)

このように紹介されていたのであるが、
このひとつ詩からは孤独を直感し、純粋な少年の魂の孤独を感じたのである。

こうした私の心の片隅に残っているので、未知の『立待岬』を冬の時節に訪れたかったのであったが、
無念ながら、冬季は閉鎖と知り、戸惑ったりした・・。
          

やがて旅路の一週間に、ネットで偶然に穴澗海岸(あなま・かいがん)を学んだりした・・。
《・・函館山の「裏側」にある絶景の海岸。
GLAYのTERUさんが思い出の場所として紹介したスポットでもある。
天気のいい日には、正面に沈む美しい夕日が見られる。

「函館でとびきりの夕日を見たいならここ」と、地元通の人が絶賛する穴澗海岸。
函館山のロープウェイがあるほうの裏側、西側の崖の下あたりの岩場で、
目の前に広がる海を見ていると、時間のたつのを忘れそうになります。
気持ちよく飛んでいくカモメ、鼻をくすぐる潮の香り、波の音、行き交う船......。
天気のいい日には、海と対岸の山と空を赤く染めながら沈む夕日が見られ、運がいいとイルカの群れが横切ることもあるそうです。

知る人ぞ知る場所だったこの地ですが、函館出身のGLAYのTERUさんが生まれ育った場所で、
「一番大事な、癒される場所」と紹介したことから、足を運ぶ人も増えました。
ここに来る途中の外人墓地の一角には、GLAYのミュージックビデオにも登場する「カフェテリア モーリエ」があり、
このあたりはGLAYファンの聖地と言われています・・》

このように『函館市公式観光情報』に記載されていたので、私は魅せられて家内を誘い、訪れた。

私の現役時代のサラリーマンの時代は、音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めていた。
音楽を制作する部門でなく、管理畑で情報、経理、営業などの部署であったが、
それなりに音楽を聴く機会が多かった。

確か1994年(平成6年)の春過ぎ、私が経理畑に所属していた頃、
ロビーの掲示板に数多くのポスターが掲載されていたが、
この中のひとつが、無念ながら私には解からなかったのである。
女性のような若き男で長髪の4人が写しだされていたポスターであった。
『GLAY』と明示されていたが、私の心からは、ほど遠い存在であった。

その後、私は営業本部の片隅に異動した後、
GLAY(グレイ)を意識したのは、3枚目のアルバム『BELOVED』であり、
確か1996年(平成8年)の11月だったと思うが、
普遍的であるが感覚として私の好みの詞であり、そしてサウンドも抵抗なく溶け込めていった・・。
私が50代の前半の時であった。

その後、シングル盤の『口唇』の後に、
翌年の1997年(平成9年)の秋、べスト盤のアルバム『REVIEW』発売され、
この頃の業界として空前の500万枚を超えた売り上げとなり、私は最も勢いのあるGLAYに、
秘かに私が予測した以上に、ただ驚き、ため息をさせられたりした。

私はこの前後に『BELOVED』、『HOWEVER』、『ずっと2人で・・』、『軌跡の果て』を盛んに聴いたりした。

そして、NHKの『紅白歌合戦』に初出場され、函館に馴染みのある歌手・北島三郎さんに再紹介され、
ボーカルのTERUが、『HOWEVER』を唄いあげていた。

この年は最もCD、ビデオ等でセールスに貢献したアーティストに日本レコード協会の主催で、
翌年の1998年(平成10年)の1月に於いて、
第12回『日本ゴールドディスク大賞』のアーティスト・オブ・ザ・イヤーを獲得している。
こうした実績を残されたので、私は年賀状を受け取った中のひとつに、
ある営業所の所長から、昨年はGLAYの年でした、と書かれていた。

その後、1998(平成10)年の4月にシングル盤の『SOUE LOVE』、『誘惑』同時発売され、
相変わらずミリオン・セラーが続き、
確か7月だったと思うが、『pure soul』のアルバムを270万枚を出荷した後、
やがて私はGLAYから離れた・・。

この当時の私は、X JAPANの数多くの曲に、遅ればせながら魅せられて、
無我夢中に熱中していたからである。


そしてこの当時の業界全体の売上げピークは1998年(平成10)年で、
この前後は、各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われた。

そして激動の1998年(平成10年)の前後、
先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、
早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。

その後、1999年(平成11年)の新春、
私は人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
《何で・・俺が・・》
と思いがあったが、私は物流情報会社に出向となった。

この中のひとつの職場は、音楽のCD、DVDなど商品を管理する商品センターであり、
CD、DVD販売店からの日々の受注により、出荷したり、或いは返品を受けたり、
製造会社より入荷したりする処であった。
もとより音楽商品は、それぞれ一枚一枚が激変し、多品種であり、曜日、季節の変動も加わり、
現場は多忙であった。

私はこうした商品センターに、センター長はじめ正社員4名と共に、
男性の20代の契約社員10名、パートの女性120名前後の中で、奮闘した。

しかし最初の頃は、30年近く本社に勤めていた私は、出向の身となった直後は、
まぎれなく都落ちで、失墜感が心身にあった。
この商品センターで大きな取り扱いの最初のCDは、
1999年(平成11年)2月3日発売のひとつGLAYの『Winter、again』であり、
確か数ヶ月で177万枚を出荷した。

このCDシングル盤を最後に、GLAYは私の勤めている社から契約が切れ、他社に移籍した。
          
そして私は商品センターのあるフロアーにある『pure soul』のアルバムの
大量な在庫を微苦笑しながら見たりした。
このことは前作のべスト盤のアルバム『REVIEW』が空前に売れて、
570万枚を超えていたので、『pure soul』のアルバムを大量にプレスした結果であった。

しかしながら、この『pure soul』のアルバム時代でも、270万枚を超えていたので、
会社の業績を影響させるビックなGLAYであったことは事実であった。

この年、5月5日ら放映された『GLAY 奇跡と栄光の向こうに』
と題されたドキメンタリーの番組がNHKから放映された。
この番組はGLAYと命名したロックバンドの結成時の状況、5年後のメジャー・デビューするまでの苦節、
そしてブレイクするまでの実態、その後の4大ドームのライブ・コンサートを成功するまで、
結成から頂点に立つまでの10年間の軌跡を描いたドキメンタリーの良質作品である。


私は、この映像を幾たびか視聴するたびに、GLAYに熱中した曲と時代、
そして熱気帯びた観衆のシーンを想いだし、愛惜を重ねたりしている・・。

そして、思いだすように私はときおり、
保有しているメジャー・デビュー作品からアルバム『pure soul』までを取り出して、
聴いたり、手元の3本ばかりのビデオテープも視聴したりしている。


このようなGLAYに対しての私のささやかな想いで秘めている。
          

そして家内を誘い、滞在している観光ホテルの湯の川温泉より、
          
市電の路面電車に乗車して、函館どつく前で下車した後、雪道の坂道を上がりながら外人墓地を眺めたり、
海沿いの景観を眺めたりした・・。
          

          

そして20分ぐらい歩き穴澗海岸の近くで、閉鎖の看板を見かけて、
やむなく戻ったりした。
          

          

やがて外人墓地の一角には、GLAYのTERUさんが生まれ育った場所で、
何かと信愛している癒される場所にある「カフェテリア モーリエ」に私たち夫婦は立ち寄ったりした。
          

そして私たち夫婦は、店内からの眺められる景観も良く、
          
店内も好感し、たまたまお客さんは私たちだけであったので、
                    
店のスタッフの若き男性と談笑したり、昼食をしたりした。
          

こうした談笑の中で、音楽のGLAYの話しをしたり、あの当時の時代を駆け抜けた熱気あるGLAYの情況を
私が知る限り若き男性のスタッフに私は話したりした。

そして若き男性のスタッフも、やはりGLAYに心酔し、今やバンドを結成していますので、
聴いて下さい、と若きバンドの曲が収録されたCDを私は頂いたりした。
 
やがて私たち夫婦は、この「カフェテリア モーリエ」に別れを告げながら、
雪道を歩きながら、音楽業界はCD販売は減少しネットが加速され、
ビックなアーティストでもCD収入とネット収入を合算しても激少している・・。

まして今後、プロを目指すアーティストは、烈風下となっている。

このような純粋にCD販売で各社が熾烈な競争できた1998(平成10)年の頃まで、
私は愛惜したり、GLAYが躍動し、熱気のあった時代を思い重ねたりした。

そして無力な私は、彼らGLAYがメジャーデビーするまで、
函館の地でバンドを結成した頃の叙景は、市の中心街にある八幡坂からの情景が相応しい、
と私は家内を誘い歩き廻ったりした。
          

          

そして教会のある地、その後に赤レンカのある地をひたすら歩き廻り、
          
やがて滞在している観光ホテルに帰館した。

                                   《つづく》

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温根湯温泉4泊5日の旅路、あえなく出発日に敗退し、やむなく帰還して・・。

2015-01-18 09:12:24 | 
私は東京郊外に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかった為か、若き新婚時代の頃から国内の旅を重ねてきた。

そして冬の時節は、何かと北の地方で雪舞い降る山里を歩いたり、街並みを歩き、
その地の風土、文化を多々学んだりしてきた。

たまたま昨年の1月下旬には、北海道の函館市の郊外にある湯の川温泉の観光ホテルに4泊5日で滞在して、
函館市内とか湯の川温泉の周辺をひたすら歩き廻り、遊学したりした。

2月初めになると、札幌市の郊外にある奥地の定山渓温泉の観光ホテルに13泊14日で滞在して、
札幌市内、郊外、そして定山渓の周囲を歩き廻り、遊学したりした。
       

このふたつの旅路は、通販の大手旅行会社のクラブツーリズムのフリープランを利用してきた。

私は自動車の運転免許証は判断力が衰えてきたので、更新時に断念したのは62歳の時であった。
このような事情で、旅行先もレンタカーの利用できず、
幾たびかクラブツーリズムのフリープランを利用したりしてきた。

交通機関の航空機、新幹線、在来線など、そして宿泊所のリゾートホテル、観光ホテル、旅館などを指定されるが、
滞在期間は自由に周遊して下さい・・このようなフリープランを活用してきた。

たとえば洞爺湖の観光ホテルに9泊10日間、石垣島のビジネスホテル風のシティホテル9泊10日したりして、
周辺を歩きながら、遊学を重ねたりしてきた。
       

こうした中で、個人型の旅行として、私の住む最寄駅の近くにある旅行代理店に、
私たち夫婦の独自プランを依頼して、幾たびか旅路を重ねてきた。

たとえば父島のリゾートホテルに11泊12日(船中泊2日を含む)、
或いは北東北として周遊として不老不死温泉3泊、竜飛岬にある観光ホテル3泊、酸ヶ湯1泊、
蔦(つた)温泉2泊を周遊したりしてきた。
        


たまたま昨年の晩秋の時、私たち夫婦は、オホーツク海に面した流氷の到来する2月に、
紋別の観光ホテルに3泊、サロマ湖のリゾートホテル3泊、網走湖のリゾートホテルⅠ泊を7泊8日で、
訪づれよう、と旅行代理店に予約したりした。

そして12月になると、新年の一月に雪のある温泉地に行っみたいねぇ、
とお互いに話し合ったりしてきた。

このような時、クラブツーリズムの月刊誌が郵送され、
この中のひとつに、北見市の郊外に温根湯温泉のある観光ホテルに4泊5日滞在し、
破格に廉(やす)い旅費のフリープランが掲載されていた・・。
      
そして私たち夫婦は何かと北海道の旅は、心身波長が合い、幾たびか訪れているが、
北見市、温根湯温泉に関しては、未知の世界であった・・。

『ここの温根湯温泉の湯は、評判が良いみたい・・』
と何かと温泉大好きな家内は言ったりした。

『信じられないくらい・・廉(やす)いね・・羽田と女満別を飛行機で往復し、
観光ホテルに4泊して食事付きで、たった3万円・・』
と私は国内で長年デフレ烈風の中、たえず観光ホテルの一同が努力をしても、
このような価格下で採算が合うのかしら、と微苦笑したりした。

『気分転換に行きましょうか?』
と家内は呟(つぶや)くように言ったりした。

『行きましょう!』
と私はボケてはいけないと、若き自衛官のように元気よく大声で応(こた)えたりした。

こうした私の根底には、家内は何かと年末年始の奮闘してきたので、
疲れを感じたりしているので、館内の温泉でもつかって、のんびりと過ごせれば・・
と思い深めたりした。

何よりも私は70歳、家内は65歳の身であるが、お互いに意欲のある中、
行きたい所に行ければ・・という思いもあった。

その上、2月にオホーツク海に面した紋別、サロマ湖、網走を6泊7日で訪れるので、
今回の旅で、厳冬の予行練習と思ったりしたのであった。
       


昨日の旅立ちの朝、私はネットで温根湯温泉の地域の天気情報をクリックした。
こうしたことは、私としては旅をする時には、一週間前の頃から現地の状況を調べる習性がある。

そして1月17日の現地の温根湯温泉の地域に於いては、
朝の6時はマイナス12度、昼の12時にはマイナス4度、そして夜の6時はマイナス4度、
午前中は曇り、午後より乾雪、と報じられていた。

寒さは私は想定していた通りで、女満別空港に着陸した時は、スノーパウダーの雪で、
歓迎して下さる、と私は微笑んだりした。

やがて私たち夫婦は羽田空港に行き、
クラブツーリズムの担当者に往路の搭乗券などの手続きをした。

私たちが搭乗する航空便は、羽田空港・12時35分・発===>女満別空港・14時20分・着、
日本航空1189便であった。

こうした中で、女満別空港は雪が降っていて着陸が不可能の場合は、羽田空港に引き返しすこともあります、
と付帯条件で、航空券を受け取ったりした。


こうした付帯条件を聞いたりした後、
私たち夫婦は昨年の湯の川温泉の旅路の出発日の時を思い重ねたりした・・。

航空券を受け取る時、何かしら前日の函館空港の風雪により、欠航便、遅延便の影響もあり、
羽田空港・発10時35分で函館空港・着11時55分の全日空853便は、
3つのフライトプランを提示されたりした。

①函館空港・着陸が不可能で、羽田空港に引き返し、改めて函館空港行きの航空便を検討します。

②やむなく新千歳空港に着陸して、その後は何らかの方法で函館市に行きます。

③予定通り、函館空港・着陸します。

この3つのフライトプランの説明を受けた私たち夫婦は、
このようなことは初めてだよねぇ、と私は戸惑いながら家内と話し合ったりした・・。

やがて予定時に航空機に搭乗できて、羽田空港を離陸できたが、
機内でも、3つのフライトプランが客室乗務員の方から報じられ、
この中のひとつの羽田空港に引き返した場合、
旅行気分の高揚感は吹き飛ばされ、余りにも惨(みじ)めだよなぁ、と私は不安が増したりした。

その後、函館空港に予定着陸時間の20分前頃に、
機長、そして客室乗務員の方から、
予定通り函館空港に着陸します・・お客さまには大変ご心配をお掛けしました、
と告知されて、私を含めて周囲の方たちも安堵の表情と言葉を重ねたりした。

やがて白い大地が観えて、函館空港に着陸態勢となった。

          
            この後、食事処の窓辺から観える空港の滑走路、小雪降る中で風が伴い、小雪は横殴り舞っていた・・。

          

このような体験をしてきた私たち夫婦は、今回の場合でも多少し遅れても女満別空港に着陸できるょ、
と私たちは言葉を交わしたりした。

やがて予定時に航空機に搭乗できて、羽田空港を30分ぐらい遅れて(私は寝ていて正確には不明)離陸できた。
40分過ぎた頃、機長から、女満別空港は雪が降っていて着陸が不可能の場合は、羽田空港に引き返し場合もあります、
と機内の客員に報じられたりした・・。

そして下北半島と北海道の南端が視(み)えた頃、
機長から、女満別空港の除雪はしていますが、滑走路の路面が滑りやすい状況でありますので、
残念ながら羽田空港に引き返します、と機内の客員に報じられたりした・・。

やがて機内の数多くのスクリーンには、本州の上部の下北半島から三陸海岸、そして関東地域の航路が映し出されて、
私たちが登場している航空機がユータンして、羽田空港を目指している白線が明示されたりした。

私たち夫婦はスクリーンを視(み)ながら、
『こうした出発地の羽田空港に引き返すこともあるんだぁ・・
スゴロクみたいだよねぇ・・』
と私は落胆を秘めながら、家内に小声で言ったりした。


その後、私たちが搭乗している航空機が、羽田空港に着陸した。

やがて到着ロビーの片隅に、クラブツーリズムの担当者が待機して下さり、
今回の温根湯温泉4泊5日のフリープランに参加した20数名の私たちに、
旅行の中止、そして旅費の全額を返金の連絡を受けたりした。

私たち夫婦は今回の参加されたメンバーを始めて知ったりしたが、
家内は、この中のひとりの60歳前後のご婦人と、
『飛行機が引き返して、旅行が中止になったは、初めてですわ・・』
このような意味合いの言葉を交わして、お互いに微苦笑したりしていた。

この後、私たち夫婦は食事処で、遅い昼食した。
『旅行の中止・・何かしら・・力が抜けてしまうよねぇ
今回は太平洋側の下北半島と羽田空港・・無料ご招待の往復の遊覧飛行のようになってしまったねぇ』
と私は家内に言ったりした。

やがて、今回の旅路も宿泊先に旅行ケースを宅配便で送付したので、
宿泊先にお願いして、旅行ケースを到着払いで送付依頼をしょう、
と私たちは話し合ったりした。
            

余談であるが、今回の旅費は余りにも廉(やす)く、宿泊先に恐縮を感じていたので、
クラブツーリズムの案内書の中で、夕食のオプションメニューとして、数品を追加を記載したりした。

あの追加した毛ガニとかイバラ蟹なども、今回の旅行中止に伴い、
あえなく幻(まぼろし)になってしまった、と私は家内に微苦笑しながら、言ったりした。


★今回の旅路、このような事情で中止となり、平素の生活に戻りましたので、
 閉鎖していたコメント欄は、いつものようにオープンに致します。

 そして《昨年の1月の旅》として題して、昨年のほぼ同時期の旅路を6話ばかり写真を含めて再編集をした分、
 予約セットした投稿文を一挙に公開しますので、お読み頂き、ご笑話を願えれば幸いであります。

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