夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

西の空の彼方にある広島に向かって、高齢者の無力な私は、哀悼の意を表して、ただ黙祷を重ねて・・。

2018-08-06 13:10:55 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の9月の誕生日を迎えると74歳の身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷したのは朝の6時半過ぎであった。

私は1944年(昭和19年)9月に都心の郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年(昭和20年)8月15日に敗戦となった。

そして敗戦時は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
8月6日のこの日の午前8時15分に、
対戦中のアメリカが人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下され、
少なくとも15万人の人が即死し、数多くの方が被ばくされたことは学んできた。
          
このことは戦勝国となったアメリカの歴史をどのように描いても、厳然たる事実である。

                    
本日は、73回目の原爆の日を迎えた。

この後、恒例となっている広島市にある平和記念公園では、
午前8時から市主催の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が行われ、
被爆者や遺族ら約5万人が参列し、松井市長が平和宣言をされた。

式典には、安倍晋三首相、85カ国と欧州連合(EU)の代表が参加する中、
原爆が投下された午前8時15分には、遺族代表らが「平和の鐘」を打ち鳴らして、
まもなく黙祷を捧(ささ)げられたりした。
 

           

私は沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そして15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』は、黙祷をして51年は過ぎている・・。

そして、かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
この日は広島の空に向い、人々に哀悼の意を表して、黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。

          
          
第2次世界大戦中、アメリカのルーズベルト大統領はドイツに原爆開発で先んじられることを恐れ、
やがて1942年8月に軍部主導によりマンハッタン計画発足させた。

そしてルーズベルト大統領が死去後、選出されたトルーマン大統領は原爆開発のマンハッタン計画の実態を知らされ、
動顛したが、やがて日本を降伏させる『ポッタム宣言』をイギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相と
協議する中、1945年7月16日 ニューメキシコ州アラモゴードで原爆実験に成功を知った。

そしてアメリカは、大戦後の状況を圧倒的な優位を確保する為に、特にソ連を意識して、
核兵器の威力を誇示させて、8月6日に 広島に原子爆弾投下、9日に長崎に原子爆弾投下した、
と私は思いを深めている。

この後は周知の通り、戦後は東西冷戦体制の中で、核開発競争は激化し、
アメリカに続き、ソ連、イギリス、フランス、中国の各国が原爆実験に成功させて、
核兵器は世界へ拡散する時代に邁進した。

こうした核兵器開発競争は、もとより地球を破壊し人類を滅亡させるにはあり余るほど、
核兵器の製造・備蓄、そして核実験による地球環境の破壊、
更に核実験場周辺に多数の被曝者を生み出してしまった。

やがて1998年5月、インド、パキスタンが相ついで核実験を行ったことにより、
世界は核兵器保有国がさらに増えていくこともあり得る危険な局面を迎えている。

このように世界の主要国は、核の威力を背景とした軍事力と経済力などで、
したたかな外交が実施され、
それぞれの国は、国益を配慮した政治が行われている現実がある。

そして核兵器廃絶と多く方から念願されても、不条理な世界となっている・・。

                       

私は1962年(昭和37年)10月、高校3年の時に『キューバ危機』が発生した。
もとよりキューバを舞台に、1962年10月14日から14日間に、
冷戦下のアメリカとソ連の威信に基づいて、核戦争寸前まで達した危機的な状況であった。

こうした中で、アメリカのケネディ大統領は、10月22日午後7時の全米テレビ演説で、
国民にキューバにミサイルが持ち込まれた事実を発表し、ソ連を非難した。

やがて27日昼頃、キューバ上空を偵察飛行していたアメリカ空軍のロッキードU-2偵察機が、
ソ連軍の地対空ミサイルで撃墜された。

そして私は夜のニュースで知り、これて世界は終わってしまうだろう、と思いながら、
布団にもぐり込み、ふるえて眠ったりした。

後年、私はこの日にアメリカ海軍は海上封鎖線上で、ソ連のフォックストロット型潜水艦に対し、
その艦が核兵器(核魚雷)を搭載しているかどうかも知らずに、爆雷を海中に投下した。

攻撃を受けたソ連の潜水艦では、核魚雷の発射が決定されそうだったが、
潜水艦隊参謀の強い反対によって、核戦争は回避された。
この日は「暗黒の土曜日」と呼ばれ、殆どの人が第三次世界大戦の勃発を覚悟した、と学んだ。

そしてこの時、核戦争が発生していたら、1億人のアメリカ人、1億人以上のソ連人、数百万人のヨーロッパ人が、
少なくとも亡くなわれる事態だった、と伝えられている。

                    

このようなことを私は学び、戦後は主要国が連合して激突する大戦なく、
核の恐怖の下で、表面上は長き平和を享受している。
そして核抑止力によって均衡されている不条理の怜悧な世界となっている。

もとより核兵器を所有する主要国は、核の兵器の甚大な被害をもたらすことは互いに認識しているので、
アメリカが広島、長崎に投下した以後、使用されていない。

核は必要悪のように世界の中で、主要国をはじめとする人々は生き、
そして高齢者の無力な私は、ただこの『広島被爆』には、黙祷を重ねるばかりである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする