私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見て、『海の日』と朱記されていたので、
私は『海の日』かょ、と余り馴染のない祭日に苦笑しながら、思わずネットで調べたりした・・。
そして私は定年後から、何かと信愛している【日本文化いろは事典】のサイトを開き、
《・・
7月は祝日が無い月ですが、海をもっとも感じる季節です。
そのような理由から、海の仕事に従事している関係者の間で
「海の記念日」を祝日にしようという運動が起こりました。
現在7月の第3月曜日が「海の日」と制定されています
・・》
このように明記されていたが、
《・・1996(平成8)年に「海洋国家として広く国民に海への理解と関心を求める日」として休日・・》
と解説されているが、私は実感に乏しく、
燦燦の夏の陽射しを照らす庭のテラスに下り立ち、そして緑陰に身を寄せたりした・・。
そして、ぼんやりと私は、初めて海の匂いを感じたのは・・、と思いを馳せたりした。
私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
私は地元の小学校に1951〈昭和26〉年の春に入学し、
確か小学3年生の頃、先生から『山彦海彦』の話を優しく教えて頂いた時、
少し戸惑ったのである・・。
幼年の私としては、山の幸で生活されている両親に育った『山彦』でもないし、
或いは海辺で生計をたてている両親の児の『海彦』にも属さないのである。
この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と先生たちは称していた。
この当時の私は、山辺も知らなかったし、海も観たことのない少年であった私は、
やむなく里の児の『里彦』だ、と秘かに心に決めたりし。
このような心情が私の心の奥底に今だあるが、
海の匂いを初めて感じたのは、映画の『二十四の瞳』であった・・。
確か1954(昭和29)年の秋、小学4年生だった私たち生徒は、
先生に引率され学年別に指定された日に電車に乗り、
京王線の布田駅の近くの映画館で『二十四の瞳』を観賞した・・。
後年になると、木下惠介・監督の『二十四の瞳』の名作と知るのであるが、
この当時の私は、映画のシーンの小豆島の海の情景、修学旅行に行く瀬戸内海の景観に、
呆然と観て、あれが海かょ、と衝撃をを受けたのである。
そして、ストーリーも完全に理解できない私は、数多くのシーンで涙を浮かべたりしていた。
この映画で何よりも心を震わせ、感極まって涙を流したのは、
敗戦後の恩師の大石先生の教員復職の祝賀会を成人した生徒が開き、
戦争で失明した磯吉が、一年生の時に先生と生徒12名の記念写真を指差しながら、
生徒全員の位置を示すシーンであり、
この時に廊下にたった成人した生徒の女性が『浜辺の歌』を唄うシーンであった。
この『浜辺の歌』は、圧倒的に海の匂いを感じ、
その後、私は国内旅行で海辺を観たり、海岸を散策したりすると、
心の底で、『浜辺の歌』を唄ったりすることが多いのである。
そして私が初めて海を観たのは、1956(昭和31)年の小学6年生の夏、
独りで小田急線に乗り、湘南海岸の江ノ島に行き、海岸、展望台から海を観て、
田舎者の里彦の私は言葉もなく、果てしなく彼方までの海原を呆然としながら、
長らく見つめたりした。
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今朝、ぼんやりとカレンダーを見て、『海の日』と朱記されていたので、
私は『海の日』かょ、と余り馴染のない祭日に苦笑しながら、思わずネットで調べたりした・・。
そして私は定年後から、何かと信愛している【日本文化いろは事典】のサイトを開き、
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7月は祝日が無い月ですが、海をもっとも感じる季節です。
そのような理由から、海の仕事に従事している関係者の間で
「海の記念日」を祝日にしようという運動が起こりました。
現在7月の第3月曜日が「海の日」と制定されています
・・》
このように明記されていたが、
《・・1996(平成8)年に「海洋国家として広く国民に海への理解と関心を求める日」として休日・・》
と解説されているが、私は実感に乏しく、
燦燦の夏の陽射しを照らす庭のテラスに下り立ち、そして緑陰に身を寄せたりした・・。
そして、ぼんやりと私は、初めて海の匂いを感じたのは・・、と思いを馳せたりした。
私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
私は地元の小学校に1951〈昭和26〉年の春に入学し、
確か小学3年生の頃、先生から『山彦海彦』の話を優しく教えて頂いた時、
少し戸惑ったのである・・。
幼年の私としては、山の幸で生活されている両親に育った『山彦』でもないし、
或いは海辺で生計をたてている両親の児の『海彦』にも属さないのである。
この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と先生たちは称していた。
この当時の私は、山辺も知らなかったし、海も観たことのない少年であった私は、
やむなく里の児の『里彦』だ、と秘かに心に決めたりし。
このような心情が私の心の奥底に今だあるが、
海の匂いを初めて感じたのは、映画の『二十四の瞳』であった・・。
確か1954(昭和29)年の秋、小学4年生だった私たち生徒は、
先生に引率され学年別に指定された日に電車に乗り、
京王線の布田駅の近くの映画館で『二十四の瞳』を観賞した・・。
後年になると、木下惠介・監督の『二十四の瞳』の名作と知るのであるが、
この当時の私は、映画のシーンの小豆島の海の情景、修学旅行に行く瀬戸内海の景観に、
呆然と観て、あれが海かょ、と衝撃をを受けたのである。
そして、ストーリーも完全に理解できない私は、数多くのシーンで涙を浮かべたりしていた。
この映画で何よりも心を震わせ、感極まって涙を流したのは、
敗戦後の恩師の大石先生の教員復職の祝賀会を成人した生徒が開き、
戦争で失明した磯吉が、一年生の時に先生と生徒12名の記念写真を指差しながら、
生徒全員の位置を示すシーンであり、
この時に廊下にたった成人した生徒の女性が『浜辺の歌』を唄うシーンであった。
この『浜辺の歌』は、圧倒的に海の匂いを感じ、
その後、私は国内旅行で海辺を観たり、海岸を散策したりすると、
心の底で、『浜辺の歌』を唄ったりすることが多いのである。
そして私が初めて海を観たのは、1956(昭和31)年の小学6年生の夏、
独りで小田急線に乗り、湘南海岸の江ノ島に行き、海岸、展望台から海を観て、
田舎者の里彦の私は言葉もなく、果てしなく彼方までの海原を呆然としながら、
長らく見つめたりした。
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