先程、ときおり愛読している公式サイトの【 プレジデント・オンライン 】を見たりした中で、
『 なぜ80歳以上は年齢を上にサバ読むのか 』と題された見出しを見てしまった・・。
私は東京の調布市に住む年金生活の74歳の身であるが、
どのようなことですか・・と思いながら、知的好奇心に負けて、
こっそりと記事を精読してしまった・・。
この記事は、社会学者の女性の春日キスヨさんが、『百まで生きる覚悟』(光文社新書)を上梓され、
プレジデントの編集部が、本書の第2章を再編集し、
【 プレジデント・オンライン 】に2018年12月5日に配信され、
無断であるが転載させて頂く。
《・・70代までの女性は、自分の年齢を隠したがる。
一方、80代を超えると、尋ねられなくても自分から年齢を明かし、
さらに上の年齢に、サバを読む人が増えてくる。
なぜなのか。
社会学者の春日キスヨ氏は「若さの価値観が変化している」と指摘する・・・。
■70代までは年齢を隠し、80代超えは年齢を明かす
世間一般が持つ長寿者の年齢イメージと、元気長寿者自身が持つそれとにはズレがあり、
元気長寿者が、自分の年齢に示す反応には、ユニークな面がいろいろあることである。
まず、不思議に思ったのは、インタビューする時、
最初に名前を聞き、次に、年齢、生年月日を聞いていくのだが、
その時、自分の実年齢に、サバを読む人がけっこういるのである。
88歳の人なら「もうすぐ90歳」、
93歳の人なら「もうすぐ95歳」、
98歳の人なら「もうすぐ100歳」という具合に。
70代くらいまでの女性には、自分の年齢を隠し、
「何歳ですか」と聞かれるのは、不愉快という人が多いのに、
80代を超えると、尋ねられなくても自分から年齢を明かし、
かつ、年齢にサバを読む人が増えてくるのである。
■99歳なのに100歳とサバを読む高齢者
そうした事実について、今、思い出しても
笑いがこみあげる「元気長寿者」たちとの出会いのシーンがある。
行きつけの温泉場での出来事である。
脱衣室で入浴の支度をしていると、
かなりの高齢と思われる女性が3人、おしゃべりしながら入ってきた。
1人は多少背が曲がっているが、3人とも耳も口も達者で、80代前半かなという感じだった。
間をみて、「皆さんおいくつなんですか」と話しかけた。
すると、一番年長者と見える女性から、「私は100歳。大正7年生まれ」
と言葉が返ってきた。
「ウホーッ! 100歳ですか。スゴーイ!
皆さん80代前半かと思いました。お元気ですねえ! 」
その後、湯に浸かりながらのおしゃべりとなった。
ところが、この2人が入浴を済ませ退出した後、なお、のんびり湯に浸かっていた私のもとに、
外される形になっていたもう1人の女性がツツーッと寄ってきて、
次のように告げたのだった。
Iさん「私も88歳だけど、元気ですよ。
で、さっきの人、100歳だ、100歳だと言っていたけど、
まだ誕生日が来ていないから、本当は99歳なんですよ。
奥さん(私のこと)に嘘をついていたんで、教えてやろうと思って」
なんでこの人、こんなことを言うのだろう。
出ていった2人に、私が「スゴーイ! お元気ですねえ」と連発したために、
「88歳だけど、私も元気だ」と告げ、「お元気ですねえ」と言ってほしいのかもしれない。
そう思いながら、「100歳」と言ったGさんに限らず、
端からは「嘘つき」と言われかねない「実年齢にサバを読む」行為は、
いったい、何歳ぐらいから、どんな心理が働いて始まるのだろうかと思ったのだ。
■60・70代までの「若さ」の価値観が変化
60代くらいまでは、年齢にサバを読むどころか、年齢を隠し、
実年齢より若く見せたい、見られたい人の方が多い。
テレビの美容関連のコマーシャルを見ても、
40代、50代に見せるための高齢者向け若作りの美容法が溢れている。
そう考えると、こうした「サバ読み現象」が生じる年齢分岐点は、
虚弱化し、心身の不調を抱える高齢者というイメージが、
社会通念化している年齢、せいぜい80歳間近ぐらいと考えていいのではないだろうか。
この年齢ぐらいになると、女性は「若くて美しい方がいい」という「若さ」と「美」を重視する評価基準が、
「若くて元気な方がいい」と「若さ」と「元気」とが結びつく方向に移行する。
「若さ」はそのまま大事だが、加齢とともに、「元気であること」が「美しさ」に取って代わるのだ。
そんな中で、人から「元気」と言われることが
「自分は若い」という自己評価につながり、サバを読みたい心理が働くようになる。
だから、高齢になるほど、実年齢に、サバを読む人が増えてくる。
そして、そうした傾向があるのだとしたら、自分の年齢にサバを読み始める年齢が
何歳ぐらいかを知ることで、自他ともに高齢者であると認める年齢が
何歳ぐらいからかを知る目安にすることが可能かもしれない。
そう考えたのである。
■他人の目からでないと、自分の歳を自覚しない
自分の「歳」について、78歳(記事中)の落語家の柳家小三治さん(1939年生まれ)が
語る新聞記事を読んだ直後に、聞き取りをしていた91歳の男性Lさんが、
小三治さんとほぼ同じことを語ったのだ。
記事中、小三治さんはこう語っていた。
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「年をとるっていうのは、突然来るんですかねえ。
だんだんなんですかねえ。
(中略)年をとってるなんて、ちっとも思わなかったんだけどねえ。
クラス会に出かけて同級生たちを見ると、やっぱり年寄りだな、
自分もこんな年なのかなって思ったりしますね。
だけど私は、少年のまま、噺家になったときのまんまで、ずーっと来てるとしか思えないんですね」
(「語る──人生の贈りもの── 噺家 柳家小三治(1)」『朝日新聞』2017年10月30日付朝刊)
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そして、Lさんもまた、次のように言ったのである。
Lさんは、みかん農家。
軽トラックを運転し、みかん山と作業場を往復する暮らしをしている人である。
Lさん「自分は、歳とったなんて思ってなかったんだが、
この間、街を歩いてたら、3歳下の子ども時代の知り合いと出会って、
『歳とったなあ、この男! 』と思うて。
でも、よく考えてみれば、わしの方が3つも歳上で、
『わしも歳をとったんかいなあ』と思いましたよ」
■元気高齢者は「歳」を独自の基準で捉えている
2人とも、自分が「歳」を自覚するのは、
他人を見る目を媒介にして、自分を見る時で、
日頃は「歳をとった」という自覚がないという。
それを聞き、改めて「エッ? 70代だけでなく、90歳を超えても歳をとったと思わないのか。
じゃあ、何歳ぐらいに、どんなことをきっかけに、人は自分が歳をとったと自覚するのか」と考えたのである。
その後、「元気長寿者」の話を聞くたびに、
「自分は歳をとったと思いますか」と聞いていった。
するとやはり、幾人もから、Lさんと同じような答えが返ってきたのである。
こうした話からわかるのは、他人は相手が「歳をとった」ことを、
その人の外見の変化や暦年齢を基準に判断するが、
長寿者本人は、自分自身の「歳」に関して、別の基準を持つということである。
それはどのような基準なのだろうか。
■先のことは考えず、83歳でミシンを購入した
私が前提にしていた暦年齢に立つ年齢観と、
長寿者本人のそれとが異なっている事実を自覚させられた、元気長寿者とのやりとりの場面がある。
Bさん(95歳・女性)と、その夫(98歳)の話を聞いた時である。
Bさんが83歳でミシンを購入した理由を確かめる質問から始まった、
夫婦との会話を紹介しよう。
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春日「83歳という高齢でミシンを買われたのは、
まだまだこれから生きたいと考えられてそうされたんですか。
歳だからとは考えられなかったのですか」
Bさん
「これから生きたいとか考えたんではなくってね、
とにかく何かしたい何かしたいという思いが先ですよ。
自分の歳がどうとか、これから先どうなるなんて全然考えないで、
とにかくそのときの目の前だけです。
わたしはズーッと先のことというのは、頭にないんですよ。
とにかく一日、目の前のことだけ、視野が狭いんです、
その中で一人が楽しんでいるというか」
春日
「じゃあ、現在は若い頃の延長のままですか。
歳をとったなぁとは思われないんですか」
Bさん
「歳だなんて思わないですねえ。おじいさんは? 」
夫
「そう。歳は今いくつかと聞かれたら、
ええと今、自分はなんぼじゃったかいなあという感じ。
『えっ! 90なんぼ! 』って相手に驚かれると、
ああそうか、俺はそんな歳かなと思うくらいで」
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■目の前のことだけを自分が楽しめればいい
私がBさんに発した「まだまだこれから生きたいと、考えられてそうされたんですか。
歳だからとは、考えられなかったのですか」という質問は、
ミシン購入当時のBさんの83歳という年齢、
さらに女性の平均寿命87.14歳(2016年の数字、ちなみに同年の男性は80.98歳)という暦年齢の基準を
暗黙のうちに含むものだった。
しかし、Bさんはそれを否定し、
「これから先どうなるなんて、全然考えない」、
「とにかく一日、目の前のことだけ、・・・その中で一人が楽しんでいる」と、
自分は、別の時間軸に生きていると言ったのである。
こうした事実は、暦年齢のみを基準として、長寿者が生きる世界を考えることが、
いかに偏ったものであるかを示すものといえるだろう。
■暦年齢によって、人生を閉ざさず、いまを生きよう
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哲学者・中村雄二郎は、暦年齢による「老年」観が見落としがちな点を、
次のように述べている。
「『老年』や『老い』を問題にすると、どうしても人生のライフ・サイクルというテーマが出てきて、
『老い』は、生まれてから死ぬまでのあいだの最後のほう、
つまり死に近づく段階ということになる。
だから、時計が示すような水平の時間にそって見ていくと、
人間の一生は、なんだか若いときには元気がよくて、
年齢を取れば、元気がなくなるということだけになってしまいます。
しかし、われわれは、必ずしもそう生きているのではなく、
水平の時間を横切る垂直の時間というか、各瞬間にある充実感をもって、
別の世界に躍り出ていくということもある。
たしかに物理的な時間・空間の中に、生物として人間は生きているけれども、
実際にはそういうものより、はるかに別の空間とか時間をつくり出す能力があるし、
また、そういう楽しみ方をしている」
(中村雄二郎監修『老年発見』NTT出版、1993年、48頁)
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まさに、私が話を聞いた元気長寿者たちは、
90歳を超えて高齢であるという物理的な制約を持ちながらも、
それぞれが生きる暮らしの場で時・空を拓き、
「自分は歳だから」と自分を閉ざすことなく、「いま・ここ」での楽しみを持って生きている人たちだったのである。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖におしゃべりが好きで、
年金生活の2004年の秋の当初からでも、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。
そして私は、遊歩道、公園などを散策していると、見知らぬ男性、
女性グループの御方たちと、話しかけられたり、或いは話しかけたりして、談笑し、
殆ど毎日過ごしている。
こうした中、過ぎし2週間前、遊歩道で落葉樹が紅葉、黄葉に染められた情景を眺めていた時、
女性グループのおふたりから、話しかけられたりした。
こうした中で、私は、『74歳の身ですが・・体力の衰えを実感しています・・』
と微苦笑しながら、私は言ったりした。
『あらぁ・・うちの主人は71歳ですが、貴方はお若いわ・・』
とひとりの御方から社交辞令のお世辞を頂いたりした。
或いは、ここ10年は、OB懇親会と処して、年に一度の集会に私は出席している。
こうした時、上司だった御方たち、或いは同世代の数多くの人と盛んに談笑したりしている中、
数人から、XXさんは感性もお若いですょ、と私は社交辞令のお世辞を頂くこともある。
或いは女性グループの中で談笑している中、たまたま音楽の話題となり、
他社の『いきものがかり』を定年後に偶然に聴き、
何かと吉岡聖恵(よしおか・きよえ)ちゃんの歌声に、励まされていますょ、
特に『YELL(エール)』は、高齢者の私でも心身のビタミン剤ですょ、と私は言ったりした。
この後、洗面所で手を洗った時、鏡で自分の顔を見たりすると、
俺も歳がとったよなぁ・・と改めて自分の実年齢を自覚させられたりしてきた。
今回、多々教示させられ、特に圧倒的に感動させられたことは、
《・・ミシン購入当時のBさんの83歳という年齢・・
「これから先どうなるなんて、全然考えない」、
「とにかく一日、目の前のことだけ・・・その中で一人が楽しんでいる」・・》
こうしたお気持ちで、人生の晩年期をすこやかに過ごせれば・・
深く感動させられたのである。
そして社会学者の女性の春日キスヨさんの今回の中で、
《・・高齢であるという物理的な制約を持ちながらも、
それぞれが生きる暮らしの場で時・空を拓き、
「自分は歳だから」と自分を閉ざすことなく、
「いま・ここ」での楽しみを持って生きている人・・》
こうした名言を私は学び、今後の人生の晩秋期の主軸にしょうかしら、
と私は深く学んだりしている。