私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳り身であるが、
小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
高校の時に遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。
こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞していたが、
脚本家の橋本 忍さんの『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。
そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。
その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、小説に転じ、
文學青年の真似事をして、契約社員などをしながら、小説の習作をしたりした。
そして純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。
そして、やむなくサラリーマンに転職する為に、何とか民間会社に中途入社したく、
コンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
この当時としてある大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
まもなく一部門の音楽のレーベルが外資元の要請で、レコード会社として新設され、
私も移籍の辞令を受けて、その後35年近く音楽業界のあるレコード会社のサラリーマン生活をして、
2004(平成16)年の秋に定年退職を迎えた。
たまたま現役時代は、あるレコード会社に勤めていたが、
音楽に直接に携わる制作部門でなく、間接な情報畑・管理畑などであったが、
もとより会社の業績に伴い、年収に影響もあり、楽譜も読めなく楽器もさわれない身であったが、
つたない感性を頼りに、自社、他社から発売されるレコードを数多く聴いたりしていた。
こうした中のひとつとして、他社からマドンナの『ライク・ア・ヴァージン』が、確か1984年の頃に大ヒットし、
この後もアルバムの代表作に『トゥルー・ブルー』『ライク・ア・プレイヤー』『レイ・オブ・ライト』などがあり、
シングルも数多くのヒット曲もあったりした。
この間、日本の市場で、その年に最も売り上げに貢献したアーティストに賞賛する日本ゴールドディスク大賞に於いて、
洋楽部門で、1986年 (第1回) 、1989年 (第4回)、1990年 (第5回) 、1992年 (第7回) 、
と日本の数多くの方から買い求められて、絶賛される人でもあった。
そして音楽の専門家からも、
ポピュラー音楽のチャートで成功を収め、その大胆かつ挑発的なイメージで一躍世界的なメガスターになり、
MTVの到来により人気を得たミュージック・ビデオを駆使しながら、
ポップアートと音楽を融合し、日本では「マドンナ旋風」と呼ばれた現象的な成功を収める。
そしてシングルとアルバムの全世界での合計セールスは、女性ソロアーティスト最高の3億枚以上を記録し、
「全世界で最も売れた女性レコーディング・アーティスト」そして「史上最も成功した女性アーティスト」と認定され、
そして米国タイム誌では、「過去1世紀で最も影響力を持つ25人の女性」の一人に選ばれた、
と報じられている。
しかしながら私としては、マドンナの1980年代からのセックス・シンボルとして圧倒的な存在、多彩的な活動も、
私は茫然と眺めてきたひとりで、本心は苦手であった。
私は、この世の中にセレブと称される女性は苦手であるが、
知性を秘めて、それぞれの分野で活躍されている方たちには、女神のような人、と私は思ったりしている。
歌の世界に於いて、マドンナはまぎれなく圧倒的な存在感として知ったのは、
遅ればせながら、1996年のアラン・パーカー監督の映画『エビータ』を観てからである。
この『エビータ』は、アルゼンチンの伝説の大統領夫人の短くも激しい生涯を描いた感動作でもあり、
私は本来、ミュージカル映画は苦手であるが、この監督は私をねじ伏せてくれた。
完成まで監督候補はハーバート・ロス、リチャード・アッテンボロー、フランシス・F・コッポラ等の7人、
主役はメリル・ストリープ、ライザ・ミネリ等7人となったという。
最初、首都の大通りをエビータの葬儀で始まる・・
映像美と音楽でアラン・パーカーは期待された重圧を押しのけ、
最良の演出を与えてくれた・・。
そして主役のマドンナは、民衆の前で大統領の官邸のバルコニーから、
民衆に呼びかける『泣かないでアルゼンチーナ』を歌うシーンは、涙なくして視られないシーンである。
私は、このシーンを描く筆力も乏しく、
この映画の『エビータ』のオリジナル・サンドトラックのCDアルバムも保有しているが、
無念ながらこのサイトに掲載する技量がないので、
【YouTube】の動画をお借りして掲載させて頂く。
http://www.youtube.com/watch?v=TA1QHtFkH48&feature=related
☆ Madonna - 『Evita』(1996)
『 Don't Cry for Me Argentina』 (泣かないでアルゼンチーナ) ☆
この映画はアラン・パーカーとマドンナの最良な面が発露されている。
たとえ他の方が担当しても、これ以上の作品は作れない、と確信している。
私はメリル・ストリープの大ファンであるが、この映画はマドンナが最適である上、
マドンナには余り感心を持っていなかった私でも、圧倒的に魅了されられて、
マドンナの評価を改めたりしたであった。
何よりもマドンナは、映画の宣伝キャンペーン先のひとつのローマで
熱狂的な歓迎の中、エビータについてこう語った、と語りづかれている・・。
『エバはアルゼンチンの労働者階級にとって聖母であり、
救世主として崇拝された。
でも一方で、女性の武器を使って次々に野心を満たしたのも事実。
私が彼女を演じたかったのは、
人々が作り出した偶像としてのイメージをだれよりも理解でき、
生身の人間である彼女の意志の強さ、
もろさをスクリーンで体現できると思ったからなの』
そして才女らしく、
『自分が何かをなすべき者てあるという運命を予感していた彼女に
強く共感したのであって、私自身の歩みが彼女に似ているからではなかったわ・・』
私はマドンナの理性に、瞬時に感服したのである。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村

にほんブログ村
小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
高校の時に遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。
こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞していたが、
脚本家の橋本 忍さんの『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。
そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。
その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、小説に転じ、
文學青年の真似事をして、契約社員などをしながら、小説の習作をしたりした。
そして純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。
そして、やむなくサラリーマンに転職する為に、何とか民間会社に中途入社したく、
コンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
この当時としてある大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
まもなく一部門の音楽のレーベルが外資元の要請で、レコード会社として新設され、
私も移籍の辞令を受けて、その後35年近く音楽業界のあるレコード会社のサラリーマン生活をして、
2004(平成16)年の秋に定年退職を迎えた。
たまたま現役時代は、あるレコード会社に勤めていたが、
音楽に直接に携わる制作部門でなく、間接な情報畑・管理畑などであったが、
もとより会社の業績に伴い、年収に影響もあり、楽譜も読めなく楽器もさわれない身であったが、
つたない感性を頼りに、自社、他社から発売されるレコードを数多く聴いたりしていた。
こうした中のひとつとして、他社からマドンナの『ライク・ア・ヴァージン』が、確か1984年の頃に大ヒットし、
この後もアルバムの代表作に『トゥルー・ブルー』『ライク・ア・プレイヤー』『レイ・オブ・ライト』などがあり、
シングルも数多くのヒット曲もあったりした。
この間、日本の市場で、その年に最も売り上げに貢献したアーティストに賞賛する日本ゴールドディスク大賞に於いて、
洋楽部門で、1986年 (第1回) 、1989年 (第4回)、1990年 (第5回) 、1992年 (第7回) 、
と日本の数多くの方から買い求められて、絶賛される人でもあった。
そして音楽の専門家からも、
ポピュラー音楽のチャートで成功を収め、その大胆かつ挑発的なイメージで一躍世界的なメガスターになり、
MTVの到来により人気を得たミュージック・ビデオを駆使しながら、
ポップアートと音楽を融合し、日本では「マドンナ旋風」と呼ばれた現象的な成功を収める。
そしてシングルとアルバムの全世界での合計セールスは、女性ソロアーティスト最高の3億枚以上を記録し、
「全世界で最も売れた女性レコーディング・アーティスト」そして「史上最も成功した女性アーティスト」と認定され、
そして米国タイム誌では、「過去1世紀で最も影響力を持つ25人の女性」の一人に選ばれた、
と報じられている。
しかしながら私としては、マドンナの1980年代からのセックス・シンボルとして圧倒的な存在、多彩的な活動も、
私は茫然と眺めてきたひとりで、本心は苦手であった。
私は、この世の中にセレブと称される女性は苦手であるが、
知性を秘めて、それぞれの分野で活躍されている方たちには、女神のような人、と私は思ったりしている。
歌の世界に於いて、マドンナはまぎれなく圧倒的な存在感として知ったのは、
遅ればせながら、1996年のアラン・パーカー監督の映画『エビータ』を観てからである。
この『エビータ』は、アルゼンチンの伝説の大統領夫人の短くも激しい生涯を描いた感動作でもあり、
私は本来、ミュージカル映画は苦手であるが、この監督は私をねじ伏せてくれた。
完成まで監督候補はハーバート・ロス、リチャード・アッテンボロー、フランシス・F・コッポラ等の7人、
主役はメリル・ストリープ、ライザ・ミネリ等7人となったという。
最初、首都の大通りをエビータの葬儀で始まる・・
映像美と音楽でアラン・パーカーは期待された重圧を押しのけ、
最良の演出を与えてくれた・・。
そして主役のマドンナは、民衆の前で大統領の官邸のバルコニーから、
民衆に呼びかける『泣かないでアルゼンチーナ』を歌うシーンは、涙なくして視られないシーンである。
私は、このシーンを描く筆力も乏しく、
この映画の『エビータ』のオリジナル・サンドトラックのCDアルバムも保有しているが、
無念ながらこのサイトに掲載する技量がないので、
【YouTube】の動画をお借りして掲載させて頂く。
http://www.youtube.com/watch?v=TA1QHtFkH48&feature=related
☆ Madonna - 『Evita』(1996)
『 Don't Cry for Me Argentina』 (泣かないでアルゼンチーナ) ☆
この映画はアラン・パーカーとマドンナの最良な面が発露されている。
たとえ他の方が担当しても、これ以上の作品は作れない、と確信している。
私はメリル・ストリープの大ファンであるが、この映画はマドンナが最適である上、
マドンナには余り感心を持っていなかった私でも、圧倒的に魅了されられて、
マドンナの評価を改めたりしたであった。
何よりもマドンナは、映画の宣伝キャンペーン先のひとつのローマで
熱狂的な歓迎の中、エビータについてこう語った、と語りづかれている・・。
『エバはアルゼンチンの労働者階級にとって聖母であり、
救世主として崇拝された。
でも一方で、女性の武器を使って次々に野心を満たしたのも事実。
私が彼女を演じたかったのは、
人々が作り出した偶像としてのイメージをだれよりも理解でき、
生身の人間である彼女の意志の強さ、
もろさをスクリーンで体現できると思ったからなの』
そして才女らしく、
『自分が何かをなすべき者てあるという運命を予感していた彼女に
強く共感したのであって、私自身の歩みが彼女に似ているからではなかったわ・・』
私はマドンナの理性に、瞬時に感服したのである。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪



マクロビオティックの生活は、余程の意志の強く、
マドンナは1980代より常に第一線を堅持する為、
持続できている稀なお方と思ったりしています♪
マドンナと言えば自分に厳しいひとのイメージが強いです
確かもう50才超えしてるかと思いますが彼女は日本人の料理人を専属に雇っていて、古来からの日本の無農薬玄米菜食マクロビオティックの生活をして若さを保っていると聞きます
私も一時期マクロビオティック生活をしていて、てきめんに心身の健全に違いを感じましたが、節制と継続はとても大変で断念してしまいました(∋_∈)