夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『海の日』を迎え、幼年期の頃は里彦だった私、初めて海の匂いを感じた時は・・。

2012-07-16 07:36:57 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見て、『海の日』と朱記されていたので、
私は『海の日』かょ、と余り馴染のない祭日に苦笑しながら、思わずネットで調べたりした・・。

そして私は定年後から、何かと信愛している【日本文化いろは事典】のサイトを開き、
《・・
7月は祝日が無い月ですが、海をもっとも感じる季節です。
そのような理由から、海の仕事に従事している関係者の間で
「海の記念日」を祝日にしようという運動が起こりました。
現在7月の第3月曜日が「海の日」と制定されています
・・》

このように明記されていたが、
《・・1996(平成8)年に「海洋国家として広く国民に海への理解と関心を求める日」として休日・・》
と解説されているが、私は実感に乏しく、
燦燦の夏の陽射しを照らす庭のテラスに下り立ち、そして緑陰に身を寄せたりした・・。

そして、ぼんやりと私は、初めて海の匂いを感じたのは・・、と思いを馳せたりした。


私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

私は地元の小学校に1951〈昭和26〉年の春に入学し、
確か小学3年生の頃、先生から『山彦海彦』の話を優しく教えて頂いた時、
少し戸惑ったのである・・。

幼年の私としては、山の幸で生活されている両親に育った『山彦』でもないし、
或いは海辺で生計をたてている両親の児の『海彦』にも属さないのである。

この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と先生たちは称していた。
この当時の私は、山辺も知らなかったし、海も観たことのない少年であった私は、
やむなく里の児の『里彦』だ、と秘かに心に決めたりし。


このような心情が私の心の奥底に今だあるが、
海の匂いを初めて感じたのは、映画の『二十四の瞳』であった・・。
確か1954(昭和29)年の秋、小学4年生だった私たち生徒は、
先生に引率され学年別に指定された日に電車に乗り、
京王線の布田駅の近くの映画館で『二十四の瞳』を観賞した・・。

後年になると、木下惠介・監督の『二十四の瞳』の名作と知るのであるが、
この当時の私は、映画のシーンの小豆島の海の情景、修学旅行に行く瀬戸内海の景観に、
呆然と観て、あれが海かょ、と衝撃をを受けたのである。
そして、ストーリーも完全に理解できない私は、数多くのシーンで涙を浮かべたりしていた。

この映画で何よりも心を震わせ、感極まって涙を流したのは、
敗戦後の恩師の大石先生の教員復職の祝賀会を成人した生徒が開き、
戦争で失明した磯吉が、一年生の時に先生と生徒12名の記念写真を指差しながら、
生徒全員の位置を示すシーンであり、
この時に廊下にたった成人した生徒の女性が『浜辺の歌』を唄うシーンであった。

この『浜辺の歌』は、圧倒的に海の匂いを感じ、
その後、私は国内旅行で海辺を観たり、海岸を散策したりすると、
心の底で、『浜辺の歌』を唄ったりすることが多いのである。

そして私が初めて海を観たのは、1956(昭和31)年の小学6年生の夏、
独りで小田急線に乗り、湘南海岸の江ノ島に行き、海岸、展望台から海を観て、
田舎者の里彦の私は言葉もなく、果てしなく彼方までの海原を呆然としながら、
長らく見つめたりした。

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パリ祭に無縁な私でも、ささやかな私の若き頃のシャンソンの想いは・・。

2012-07-15 00:22:37 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
この数週間前の頃から、7月14日の『パリ祭』に向けて、テレビ、ラジオ、新聞などで、
数多くのシャンソンの歌が流れたり、掲載されてきたので、私は微笑んだりしてきたひとりである。

もとよりパリ祭に関しては、フランスで7月14日に設けられている国民の休日(Fête Nationale)であり、
1789年同日に発生しフランス革命の発端となったバスチーユ監獄襲撃および、
この事件の一周年を記念して翌年1790年に行われた建国記念日(Fête de la Fédération)が起源となっている。

そして、フランスでは単に「Quatorze Juillet(7月14日)」と呼ばれ、
「パリ祭」は日本だけの独自な名称である。

私は東京オリンピックが開催されていた1964〈昭和39〉年に映画青年の真似事をしていた時、
たまたま名画座でルネ・クレール・監督の『QUATORZE JUILLET』(1933年)を鑑賞し、
邦題として『巴里祭』と命題されていたが、
日本では、この名画の影響で7月14日のフランスの国民の休日(バスティーユの日)を「パリ祭」とも呼ぶようになっている、
と伝えられている。

私は無念ながらフランスの歴史にも疎(うと)く、パリ祭も無知であり、
せめて私の若き頃にシャンソンに魅了された時代もあったので、ささやかなシャンソンの想いを綴る。


私は映画・文學青年の真似事をして、あえなく挫折した後、
やむなくサラリーマンに転身して、民間会社に中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
そして入社した会社の一部門が、まもなく外資元の要請で、レコード会社として新設されて、
私も移籍の辞令を受けて、音楽を直接に制作する部門でない管理畑で奮闘していた。

そして26歳を迎えた頃、それまでのシャンソンの知識としては、
越路吹雪、岸洋子さんぐらいは知っていた。
本場のシャンソンとしては、ダミアの『暗い日曜日』は、私の先代の人たちが夢中になったり、
ジュリエット・グレコとか、やはりエディット・ピアフに尽きる、
とかはあくまで知識としての範囲であった。

この当時、たまたまバルバラの『私自身のためのシャンソン』アルバムのレコードで、
この中の『ナントに雨が降る』の歌を知り、
私の屈折の多い青春と私の父親を小学2生に死去された想いが加味され、
瞬時に魅了されたのである。

そして、私はバルバラの魔力にとりつかれて、
アルバムを買い求めたりし、この当時12枚のアルバムから、盛んに聴いたりした。

この間、銀座の外れにシャンソンの殿堂として名高い『銀巴里』に通ったりし、
日本のそれぞれシャンソン歌手が唄われるのを、聴き惚れたりした。

そして、この行き帰りに、ヤマハの銀座店に寄ったりして、
数多くのシャンソンを唄われる方たちのレコードを購入したり、
数年過ぎると、私の自宅のレコード棚は、シャンソンのアルバムだけでも、
少なくとも100枚は超えていた。

やがて、バルバラ自身が『黒いワシ』の異色作品を携え、日本に来日した。
そして日生ホールで公演され、私は駆けつれて、観たのである。

いずれにしても、このバルバラの『ナントに雨が降る』が
シャンソンに傾倒する10年の始まりで、熱愛した時期もあったりした・・。


この間、私は銀座の一角にある『銀巴里』に定期便のように行き、
数多くのシャンソン歌手が近くで唄われるのを、
私はコーヒーを飲みながら、名曲の数々を聴いたりしていた。

そして、近くにあるカフェ・バー形式のような『蛙たち』にも行き、
私は濃いめ水割りのウィスキーを呑みながら、数多くのシャンソン歌手が唄われるのを、
聴き惚れ、心酔していた時期であった。

このした中で、フランスはもとより、日本の方の唄ったシャンソンのアルバムを購入し、
シャンソンに無我夢中の時期であった。
アルバムの中で、日本人の中では、特に金子由香里さんに熱中していた。

『時は過ぎていく』、『ミラボー橋』、『スカーフ』、『愛の砂漠』等の50数曲に、
まぎれなく時を忘れたくらいに熱愛したのである。


こうした時に、東芝レコードから、戸川昌子の『失くした愛』と題されたアルバムを知り、
購入して聴いたのであるが、仰天したのである。

私は戸川昌子さんに関しては、推理分野を書く小説家であり、数作品は読んでいたぐらいであり、
以前に『銀巴里』で唄っていた、この程度しか知らない私であったが、
桁外れに上手いのである。

『失くした愛』と題されたアルバムの中に、B面の一曲目に『リリー・マルレーン』があるが、
この曲はもとより、『私はひとり片隅で』、『金曜日の晩に』、『暗い日曜日』、
『人の気も知らないで』、『ボンボヤージュ』等12曲であるが、
深く魅了されて、人生の姉貴である、と敬意したのである。

こうして、『失くした愛』と題されたアルバムを少なくとも100回前後、
レコード・プレイヤーで聴いたりしている間に、
私はレコード会社の本社でコンピュータの専任者で管理畑の身であったが、
洋楽の編成者、責任者に、
『東芝(レコード)で・・発売された戸川昌子さんのアルバム・・凄いですよ・・
私はシャンソンが好きなので良く聴きますが・・
桁外れに上手いです・・』
と他社のアーティストであったが絶賛し、友人にも話したりしていた。


私は35歳を過ぎた頃、他の分野の音楽に夢中になったが、
ほぼ10年間にシャンソンに熱中し、アルバムとして150枚ばかり残った時、
私にとってはピアフ、バルバラはもとより最上の神であるが、
日本語で唄われたシャンソンは、戸川昌子さんの『失くした愛』が傑作であり、
私はつたない観賞歴であるが、これ以上のアルバムは知らない。

齢を重ねた今、改めて振り返れば、これまでの私の人生に於いては、
シャンソンの限りなく深い百数十曲が
確かに心の片隅に残って折、心の宝物かしら、と微苦笑している。


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東京の郊外の我が家は、遅ればせながら熱い夏に向けて、『夏の陣』の体制となり・・。

2012-07-14 11:18:23 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

過ぎし4日の水曜日、日中は梅雨の間の快晴となり、
私の住む地域でも30度を超えて、今年初めての真夏日となった。

この時節の私は、夏の帽子を深くかぶり、半袖のスポーツシャツ、長ズボンの容姿で、
熱いと感じたら、扇子(せんす)を扇(あお)ぎながら、歩いたりしている。

いつものように日常の買物の専任者の私は、独りで日常の買い物を終えた後、
帰宅後は洗面所で冷たい水で顔を洗ったりした。

家内は窓を開け放ち、掃除をしていた・・。
そして部屋の外れで、扇風機の羽根が元気よく廻っていたのであった。

『扇風機かょ・・』
と私は心の中で呟(つぶや)き、
やむなく私は団扇(うちわ)を取り出して、扇(あお)いだりした。

翌日の5日の木曜日も、昼下りは30度に近い暑さとなり、
『XXちゃんさぁ・・ボチボチ・・エアコンのお世話にならない?』
と私は家内に言ったりした。

『節電の世の中でしょう・・もう少し熱くなったら、エアコンを点(つ)けましょ』
と家内は平然と私に言うのであった。

その後、やむなく私は和室の6畳で簡易ベットに横たわり、
部屋の片隅みで扇風機の羽根の風を頼りに、本を読んだりした。


この翌日、家内は居間を除き、和室、洋室、茶室、玄関、洗面所、トイレの窓際に、
簾〈すだれ〉を付けたりした。

我が家では、6月の梅雨入りの前の頃から秋のお彼岸の頃まで、
簾〈すだれ〉を各部屋に掛けているのが、ここ10数年の習〈なら〉わしとなっている。

洋間であったら、雨戸、網戸、ガラス戸があるが、そしてカーテンを外して簾〈すだれ〉とし、
和室も同様に、雨戸、網戸、障子となっているが、簾〈すだれ〉を掛けたりしている。

そして朝涼(あさすず)が残る9時が過ぎる頃まで、
網戸と簾〈すだれ〉にして、風を通したりしている。

私は居間で机の上に置いているパソコンに向かったり、
或いはソファーに座り、本を読んだりし、
ときおり庭を眺めたりする時、ほのかな暗さを通して、
樹木、草花が涼しげに見えたりし、夏の熱い季節を、ここ7年の年金生活を過ごしてきた。


過ぎし11日の水曜日には、梅雨の間の快晴となり、
今年一番の暑さになり、昼下りは31度近くになったりしたが、
我が家は居間だけ扇風機の羽根が元気よく廻り、
私は団扇(うちわ)を取り出して、扇(あお)いだりした。
そして居間の天上に近いエアコンを恨めし気に見たりしていた。

家内はクーラーの冷風が苦手で、独りでいる時は、32度ぐらいの室温までは殆ど平常であるが、
私は暑さが何よりも苦手なので、室温が28度以上になると、エアコンの冷風をこよなく愛している。
このような風変わりなカップルなので、この熱い季節になると、
静かな冷たい戦争が、ときおり我が家で発生する。

夏の熱い時期になると、私たち夫婦は長年の冷たい戦争の結果、
我が家の室温の妥協設定温度は、28度となっている。

こうした根拠のひとつは、確か30数年前の頃に、
強力でこの世で怖い専業主婦を中核とする団体の『主婦連』は、
27度が身体にも経済的にも最適と掲げたことがあったので、
私はこの案を利用して、
『主婦連の方たちさえも・・27度なのよ・・』
と私は家内に言ったりした結果、室温設定が28度としているのが、10年前の頃からである。


過ぎし7日の土曜日は、七夕の日でありったが、
少年・少女の夢の短冊(たんざく)の願いも関わらず、不幸にして小雨が降ったり止んだりした日中となった。
そしてこの時節としては、稀(まれ)な昼下りは26度以下となった。
私は風通しのよい作務衣を着たりして、心身絶好調で過ごし、居間のソファで本を読んだりした。
その後、気温は下り、夜は肌寒く、夏用のバジャマからスリー・シーズン用に着替えたりした。

そして節電の風潮の中、エアコンのお世話に成らず、経済的にも最良、と微笑んだりした。
これからの夏の時節も最高気温30度ぐらいの暑さであったならば、
働いて下さるサラリーマンの諸兄諸姉、そして高齢者も熱中症に悩ませられることなく、
快適な夏を過ごせるかしら、と思ったりした。


その後は幾たびか30度前後の暑さとなったりしたが、
昨日の13日の金曜日、私たち夫婦は駅前に買い物に行ったりし、
湿度も高い31度ばかりの曇り時々晴れとなった。

帰宅後、私は扇風機の風に身を寄せたりし、
『こんなに蒸し暑いと・・思考能力は・・なくなるよねぇ・・』
と私は家内に言ったりしていた。

そして私たち夫婦は、やむなく今年初めてのエアコンを稼働させる為、
居間、寝室の二部屋のエアコンのカタログを見たりしながら、清掃の要点を確認したりした。
そして昨今のエアコンは、自動清掃の機能があったので、
居間のエアコンを稼働させた。

そして、冷風を受けた私は、夏の熱い時期はこの世で一番の贈り物だ、
と確信を深めたりした。


今朝の7時過ぎ、私たち夫婦は朝涼の残る中、居間のカーテンを外して、
簾〈すだれ〉を掛けたりした。
そしてソファーに座り、ほのかな暗さを通して、庭を眺めたりした。

このように我が家は、遅ればせながら夏模様のいつもの『夏の陣』の体制となり、
暑さに苦手な私は、秋のお彼岸までお世話になります、
とエアコンに向いながら、心の中で呟(つぶや)いたりした。


余談ながら、我が家のエアコンは、熱い時期の数か月に冷房機能だけ奮戦させ、
寒い冬の季節はガスファンヒーターが活躍させるので、お休み期間が長いと思われる。

しかしながら、昨年の夏の8月初めに長年愛用してきた居間のエアコンが突然に故障して、
水漏れの惨事となり、やむなく新規交代した体験があるので、
私はエアコンに向い、壊れないでねぇ、と正直なところ祈願したりした。

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日本の現状に憂(うれ)い、無力な年金生活の私は、思わず二冊の本を再読しながら・・。

2012-07-13 15:20:12 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
総合月刊雑誌の『文藝春秋』8月号を発売日の7月10日から読んだりしている。
社会人としての常識を欠けていた私は、若き25歳から購読している雑誌のひとつである。

たまたま今月の特集のひとつとして《 政権交代は何をもたらしたか 》、
副題は《 民主解体「失敗の本質」 》と題され、
16人の著名人の方たちが寄稿されていた。

或いは、『世界史のリーダー論』と題して、山内昌之、佐藤 優、両氏による討論が掲載されていた。

私は読み終わった後、長らく溜息を重ねたりしていた。


1989年11月にベルリンの壁が崩壊してから、ここ20数年、
世界の各国で社会的や経済的などが連関して、旧来の国家や地域などの境界を越えて、
地球規模に拡大して様々な変化を引き起こす『グローバリゼーション』となっている。

こうした中で、経済全体として供給過多・需要不足が起こって物価が低下してきた。
そして商品価格が低下し、生産者の利益が減り、利益が減った分だけ従業員の賃金が低下してきている。

企業の立場からすれば、利益が減ると雇用を保持する余力が低下するので、やがて失業者は増大する。
或いは従業員と家族は、減った賃金で生活をやりくりしようとするため、
あまり商品を買えなくなる購買力の低下となる。

こうした結果として、商品は売れなくなり、生産者は商品価格を引き下げなければならなくなる。
そして物価が下がっても、名目金利は0パーセント以下に下がらず、
実質金利が高止まりし、実質的な債務負担が増す時代となっている。

こうした状況となり、債務負担を減らすために借金返済を優先する企業や個人が増え、
やがて設備投資や住宅投資が縮小される。

その結果として、投資の縮小は総需要の減少へつながり、物価の低下をもたらし、
果てしなき悪循環の『デフレスパイラル』の時代となっている。

こうした『デフレスパイラル』のもとで進められた国家によるサービスの縮小、
そして大幅な規制緩和による市場経済重視する新自由主義と命名された『ネオリベ(ネオリベラリズム)改革』により、
世界の主要国も混迷している時代が今日の状況となっている。

こうした中で、日本は政治は混迷、経済は低迷、そして社会は劣化するばかりで、
私は専門知識にも疎(うと)く、齢ばかり重ねた無力な身ながら、憂いたりした。

しばらくした後、やむなく書庫の本棚に行き、しばらく眺めた後、
二冊の本を抜き取り、この本を再読しょう、と思ったりした。

ひとつの本は、高坂正堯(こうさか・まさたか)氏の著作の『文明が衰亡するとき』(新潮選書, 1981年)であり、
http://www.shinchosha.co.jp/book/603709/
☆【新潮社 公式サイト】 <==高坂正堯・著作の『文明が衰亡するとき』(新潮選書)☆

もうひとつの本は、中西輝政(なかにし・てるまさ)氏の著作の『なぜ国家は衰亡するのか』(PHP新書、1998年)である。
http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-60311-7
☆【PHP研究所 公式サイト】 <==中西輝政・著作の『なぜ国家は衰亡するのか』(PHP新書)☆

私は恥ずかしながら専門知識もなく、こうした確かな賢人より、
国家の歴史認識はもとより、命運、興亡など多々学んでいる。

そして読みながら、日本の今日、世界の主要国に翻弄される中、果たして・・と役立たずの高齢者の私でも、
思索させられるのである。


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パンダの赤ちゃん死去に伴い、愛称を命名した無力な私、成果は虚(むな)しく・・。

2012-07-12 08:39:12 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨日の朝、午前中に駅前で買い物したいわ、と家内が予告もなく私に言ったりした。
何かしら駅前のホームセンターに行き、雑貨品を買い求める主旨であった。
『はい! 了解しました・・行きましょう』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく大きな声で応(こた)えた。

私は何かと家事の大半は家内をしているので、
せめて家内のボディ・ガード、荷物持ちをして、お供をしなければ、
一家の主(あるじ)としての責務が果たせないと私は確信を深めている。

こうして私たち夫婦は、午前中の大半、駅前までの大通りの歩道を路線バスにも乗らず、20分ばかり歩き、
駅前のホームセンターに行き、買い物を終えた後、
家内のお好みの食事処で昼食をして、帰宅したのは午後1時半過ぎであった。

その後、家内が居間でテレビを視聴していた時、
私は付近でネットである音楽業界のサイトを見ていたが、
何かしら上野動物園で24年ぶりに誕生したジャイアントパンダの赤ちゃんが死んだことを報じていた。

そして夕方になると、都庁で記者会見した土居利光園長は
「職員も徹夜で頑張ってくれていただけに、非常に残念だ」
と声を詰まらせながら、報道陣の執拗な質疑に応(おう)じていた。

私は日本の園児、学童の多くの待望されたバンダの赤ちゃんだったので、
上野動物園の飼育された数多くの職員さんの日夜の心労は、
大変でしたね、と日夜の奮戦に、責務でありながらも同情したりしてきた。

そして私は、無力ながらバンダの赤ちゃんを『シャオボーちゃん』と名付けた私は、
たった3日で終わってしまい、成果は虚(むな)しい結果となり、心の中で苦笑した・・。

この『シャオボーちゃん』の愛称については、このサイトで過ぎし9日の深夜に、
《 バンダの赤ちゃん、愛称は『シャオボーちゃん』にすれば、と少しボケた私は夢想して・・。》
と投稿したが、今回あえて再掲載する。

【・・
過ぎし5日より、上野動物園でジャイアントパンダの「シンシン」が産んだオスの赤ちゃんが、
連日のようにテレビのニュースで報じられている。

何かしら中国の日中親善の一環として、中国政府のご厚意でお借りしたものらしく、
2年後に返還されると私に聴こえたのである。
そしてこの赤ちゃんは、未だに名前がないらしい。

私は日本の園児、学童の多くに、待望されたバンダの赤ちゃんなので、
余計なお節介と思いながら、最も相応(ふさ)しい名前はないかしら、と思案した。

そして少しボケてきた私は、玄関庭に下り立ち、
煙草を喫いながら考えたりした・・。


そして読売新聞に於いて掲載されたひとつの記事を思い浮かべた。
《・・、
中国・天安門事件で学生運動のリーダーとして投獄され、その後米国に亡命した王丹氏(43歳)が、
5日に中野区内で開かれるドキュメンタリー映画の上映会を前に初来日し、読売新聞のインタビューに応じた。
そして王氏は「中国の民主化は日本の利益にもつながる。
中国の人権問題に日本の人々も関心を持ってほしい」と訴えた。

王氏は北京大学の学生だった1989年、天安門事件の学生指導者として逮捕され、
計6年間、獄中で暮らし、1998年に渡米した。
現在は台湾の大学で中国史を教えている。

天安門事件について、王氏は「当時、改革開放政策で官僚の腐敗が横行したため、政府に改善を求めた」と説明し、
「要求を武力で弾圧した政府は、腐敗分子を守ったということだ」
と改めて政府の対応を批判した。

王氏はインターネットなどで中国の民主化を訴え続けているが、
ハッキングを受けて電子メールのアドレスを書きかえられるなど、今でも弾圧を受けているという。
「天安門事件の頃よりも言論統制は悪化している」と指摘する。
(略)
(2012年7月7日09時17分 読売新聞)
・・》
このような内容の記事であったので、改めて脳裏に浮かべたりした。

そしてバンダの赤ちゃんの名前は、『シャオボー』ちゃんにすれば相応しい、
と私は微苦笑しながら確信を深めたりした。


単細胞で少しボケた私の発想の由来は、
過ぎし2010年の秋に、中国在住の中国人として初のノーベル賞受賞者となり、
服役中の劉 暁波(りゅう・ぎょうは、発音:リュウ・シャオボー)さんのことである。

もとより氏は、中華人民共和国の著作家で元・北京師範大学文学部講師の身ながら、
人権活動や民主化運動に参加し、度々投獄された方である。
そして2008年に民主的立憲政治を求める零八憲章を起草して拘束され、
2020年6月21日までの懲役刑の判決を受け、錦州監獄で服役中の身である。

そして氏は、ノーベル賞受賞者されたと知った時、
「この受賞は天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」と語り、涙を流した、
と私は新聞の記事で読んだりした。

もとより言論、出版、集会、結社の自由を保障した中国の憲法35条があるが、
党や政府機関が定める細則によって「絵に描いたもち」になっていると報じられていた。

そして胡錦濤国家主席や温家宝首相の発言を引用し、
検閲の廃止やネット上の言論削除の禁止、記者の取材報道の自由などを要求した、
付記されていた。

私は日本の多くの園児、学童たちに、待望されたバンダの赤ちゃんを『シャオボー』ちゃんと愛称され、
2年間の間に、多くの方に親しまれた上、本国に返還されれば、と思いをめぐらしたのである。

その後、日本の多くの園児、学童たちが成長しながら、
本国に帰還された『シャオボー』ちゃんを思い浮かべると共に、
『シャオボー』ちゃんの命名された語源を考えて、
劉 暁波(りゅう・ぎょうは、発音:リュウ・シャオボー)さんの存在を知り、
多々学んで欲しい、と無力な私は夢想したのである。
・・】

このように私は熱き想いで綴ったりした。

しかし無力な私がゴットファーザのような愛称を付けた真似事も、
待望されたバンダの赤ちゃんが亡くなってしまえば、
成果はなく、せめて亡くなったバンダの赤ちゃんに、ご冥福を、と心の中で呟いたりした。

この後、日本の大手メディアのテレビ、新聞などは、バンダの赤ちゃんの報道について、
余りにも過剰であり、日本の社会の幼稚化の証(あかし)かしら、と私は苦笑したりした。
ひとつとして、ある民間の女性キャスターが、我が日本の野田首相に質疑されたことに、
私は動顚してしまった・・。

もとより野田首相は財政再建と社会保障制度改革を推進するために、
消費税率引き上げを柱とする社会保障・税一体改革に多忙のお方である。

ある民間の女性キャスターが、首相官邸か国会議事堂の通路かと思われるが、、
『総理・・バンダの赤ちゃんが亡くなったことは、ご存じですよねぇ・・
どのように思われますか?』
と野田首相に対して質疑されたのである。

私は日本人のひとりとして、恥ずかしく、
どうか海外の人々が、このシーンを見なければよいが、と私は深く感じたりした。

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我が家でも、五穀米(ごこくまい)を遅ればせなから、愛食して・・。

2012-07-11 08:35:03 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

過ぎし3か月前の頃から、朝食のご飯に五穀米(ごこくまい)を入れて、頂いている。

昨今、健康食ブームにより五穀米、十穀米が身体に良いとされいる。
もとより五穀米は、古来は稲・麦・粟・稗・豆などであったりしたが、
ここ10年は、稲・畠稲・麦・小麦・蕎麦・粟・黍・蜀黍・稗・大豆・赤小豆・緑豆
蚕豆・豌豆・ささ豆・へん豆・刀豆・胡麻・よくい等から、
適度に選定されている、と『農業全書』で明記されている。

我が家の最寄りのスーパーでも、お米のコーナーに於いて、
五穀米がさまざまな組み合わで10種類ぐらい販売されている。

我が家では朝食用に、1合半の白米を研(と)いだ後、
五穀米の小袋となった一食分を入れている。
こうした小袋が5食分から15食分ぐらいが、ワンセットとなった物を買い求めている。

私たち夫婦は、共通趣味のひとつとして、国内旅行であり、
ときたま旅を重ねているが、数年前の頃に、宿泊した観光ホテル、旅館で、
朝食の時に、五穀米もありますよ、と仲居さんから言われて、頂いたりした。


私は東京の郊外に1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほど広い田畑を小作人だった人のご厚意に助けられながら耕したり、
竹林、雑木林を維持管理していた。

確かこの当時は、殆ど毎日、米の白いご飯、ときには小麦を混ぜて頂いていた。
或いは、ときおり小麦を精米し、粉状にしたのを父が『うどん』にし、母がゆで上げて、
家族そろって頂いていた。

或いは祝い事、年末には、精米した糯米(もちごめ)で餅にして、
食べたりしたのが、私の幼年期の記憶に残っている。


2004〈平成16〉年の秋、中小業の民間会社に35年近く勤めて定年退職後、
我が家の朝食は、白米のご飯、ワカメの味噌汁、
そして季節に寄り、春菊のゴマ和え、カブの醤油漬、コブの佃煮、海苔(ノリ)が五枚・・
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜』が心身の波長に合い頂いている。

このような状況が多いが、夕食は別格として、昼食はその日に応じて食べたりしている。
お蕎麦(そば)、うどん、スパゲティなどを頂いたりしている。

或いは私は食パンにマーガリンを付ただけで、
家内は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、二枚ばかり食べたりし、
お互いにコーヒーを飲みながら頂いている。

このように食事の内容であったが、過ぎし3か月前の頃から、
朝食の白米のご飯の中に、五穀米が入り、彩(いろど)り鮮やかなご飯となっている。

そして幼年期でも黍(きび)、稗(ひえ)などが無知であった私は、
ゆっくりと幾度も噛(かん)だりし、口の中で五穀の風味が相乗効味となり、
美味しく頂いている。


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瀬戸内寂聴さんの御著作から、教示された人生の格言のひとつには・・。

2012-07-10 06:30:37 | 読書、小説・随筆
私は遅ればせながら読書に目覚めたのは、高校に入学してまもない時期であり、
1960〈昭和35〉年の春であった。

創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力であった。

これ以来、小説、随筆、ノンフィクション、近代史、歴史書など乱読をしているので、
早や50数年過ぎている読書好きのひとりである。

年金生活をしている私は、過ぎし2008〈平成20〉年の初夏の頃、
たまたま石原慎太郎、瀬戸内寂聴の両氏に寄る『人生への恋文~往復随筆~』(文春文庫)を読み、
両氏から人生の哲学のようなことを数多く学んだりした。

この中で、特に瀬戸内寂聴さんの一節が深く心に残り、
温かみのある助言を頂ただけた、と私は今でも心の片隅に残り、感謝している。


私は瀬戸内寂聴さんとは、未知の人であり、
東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の頃には、
この当時は瀬戸内晴美さんの名で綴られた初期短編集を読み終えた後、
この後の『夏の終り』の作品は、友人、知人に絶賛したひとりである。

その後、1970〈昭和45)年に大手の民間会社に中途入社する時までは、
ある程度このお方の作品を読んでいたが、
その後は私なりに企業戦士の一員となり、このお方の作品から離れていた。

2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
水上 勉さんとの共著の『文章修業』(岩波書店)で、
両氏の純文学の熱く深い思いを改めて学んだりしたのである。

このように決して愛読者とはいえない立場の私であるが、
『人生への恋文~往復随筆~』を読んでいる一節に深く考えさせられ、
限りない人生の助言を頂けた、と思っている。

無断であるが、この『人生への恋文~往復随筆~』の中からの一節には、
《・・
人間はひとりひとりがこの世に自分ひとりしか持っていない、
かけ替えのない個性と資質に、誇りを持って、世俗の常識に巻きこまれず、
わが道を独りでも行くという気概を失わないことが大切だと、
わたしもかねがね思っていました。

お釈迦さまの教えの中にも
「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」
というのがあります。
わたしはの大好きなことばです。
・・》
注)「心に光を」ページ224から引用。原文よりあえて改行を多くした。

私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
この一節の文章から、つたない身ながら、
残された人生の日々に陽光を頂いた、と思ったりしたのである。

そして、私は高校生の初め、読書に熱中し始めた頃、
古文の先生が授業の合間で、どのような本でも必ず学ぶ一行はあり、読書は心の栄養である、
と私たち生徒に明言されたことを思い馳せながら、
確かにそうですよねぇ、と齢を重ねた私は、心の中で呟(つぶや)いたりしている。

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バンダの赤ちゃん、愛称は『シャオボーちゃん』にすれば、と少しボケた私は夢想して・・。

2012-07-09 00:03:26 | 時事【社会】
過ぎし5日より、上野動物園でジャイアントパンダの「シンシン」が産んだオスの赤ちゃんが、
連日のようにテレビのニュースで報じられている。

何かしら中国の日中親善の一環として、中国政府のご厚意でお借りしたものらしく、
2年後に返還されると私に聴こえたのである。
そしてこの赤ちゃんは、未だに名前がないらしい。

私は日本の園児、学童の多くに、待望されたバンダの赤ちゃんなので、
余計なお節介と思いながら、最も相応(ふさ)しい名前はないかしら、と思案した。

そして少しボケてきた私は、玄関庭に下り立ち、
煙草を喫いながら考えたりした・・。


そして読売新聞に於いて掲載されたひとつの記事を思い浮かべた。
《・・、
中国・天安門事件で学生運動のリーダーとして投獄され、その後米国に亡命した王丹氏(43歳)が、
5日に中野区内で開かれるドキュメンタリー映画の上映会を前に初来日し、読売新聞のインタビューに応じた。
そして王氏は「中国の民主化は日本の利益にもつながる。
中国の人権問題に日本の人々も関心を持ってほしい」と訴えた。

王氏は北京大学の学生だった1989年、天安門事件の学生指導者として逮捕され、
計6年間、獄中で暮らし、1998年に渡米した。
現在は台湾の大学で中国史を教えている。

天安門事件について、王氏は「当時、改革開放政策で官僚の腐敗が横行したため、政府に改善を求めた」と説明し、
「要求を武力で弾圧した政府は、腐敗分子を守ったということだ」
と改めて政府の対応を批判した。

王氏はインターネットなどで中国の民主化を訴え続けているが、
ハッキングを受けて電子メールのアドレスを書きかえられるなど、今でも弾圧を受けているという。
「天安門事件の頃よりも言論統制は悪化している」と指摘する。
(略)
(2012年7月7日09時17分 読売新聞)
・・》
このような内容の記事であったので、改めて脳裏に浮かべたりした。

そしてバンダの赤ちゃんの名前は、『シャオボー』ちゃんにすれば相応しい、
と私は微苦笑しながら確信を深めたりした。


単細胞で少しボケた私の発想の由来は、
過ぎし2010年の秋に、中国在住の中国人として初のノーベル賞受賞者となり、
服役中の劉 暁波(りゅう・ぎょうは、発音:リュウ・シャオボー)さんのことである。

もとより氏は、中華人民共和国の著作家で元・北京師範大学文学部講師の身ながら、
人権活動や民主化運動に参加し、度々投獄された方である。
そして2008年に民主的立憲政治を求める零八憲章を起草して拘束され、
2020年6月21日までの懲役刑の判決を受け、錦州監獄で服役中の身である。

そして氏は、ノーベル賞受賞者されたと知った時、
「この受賞は天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」と語り、涙を流した、
と私は新聞の記事で読んだりした。

もとより言論、出版、集会、結社の自由を保障した中国の憲法35条があるが、
党や政府機関が定める細則によって「絵に描いたもち」になっていると報じられていた。

そして胡錦濤国家主席や温家宝首相の発言を引用し、
検閲の廃止やネット上の言論削除の禁止、記者の取材報道の自由などを要求した、
付記されていた。

私は日本の多くの園児、学童たちに、待望されたバンダの赤ちゃんを『シャオボー』ちゃんと愛称され、
2年間の間に、多くの方に親しまれた上、本国に返還されれば、と思いをめぐらしたのである。

その後、日本の多くの園児、学童たちが成長しながら、
本国に帰還された『シャオボー』ちゃんを思い浮かべると共に、
『シャオボー』ちゃんの命名された語源を考えて、
劉 暁波(りゅう・ぎょうは、発音:リュウ・シャオボー)さんの存在を知り、
多々学んで欲しい、と無力な私は夢想したのである。


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『七夕(たなばた)』過ぎても、我が家は『冷たい戦争』が起こらず、私は微笑み・・。

2012-07-08 11:30:53 | 定年後の思い
東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む私は、
小雨の降る朝を迎えて、涼しいので思わず私は微笑んだりした。

そして地元の天気情報は、朝の6時は20度、昼下りは26度前後、夕暮れの6時は25度前後で、
朝と夜は小雨となりますが、日中は曇り空の穏やかな日となります、と報じていた。

家内は、肌寒いくらい、と私に言ったりしている。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

家内はクーラーの冷風が苦手で、独りでいる時は、32度ぐらいの室温までは殆ど平常であるが、
私は暑さが何よりも苦手なので、室温が28度以上になると、エアコンの冷風をこよなく愛している。
このような風変わりなカップルなので、この熱い季節になると、
静かな冷たい戦争が、ときおり我が家で発生する。

しかし寒い季節になると、家内は寒がりなタイプなので、
居間の暖房は、ガスファンヒーターで暖かくしているのが平年の状況であり、
私は幼年期に農家の児として育ったせいか、なぜかしら寒さには強く、微苦笑している。


過ぎし4日の水曜日、日中は梅雨の間の快晴となり、
私の住む地域でも30度を超えて、今年初めての真夏日となった。

この時節の私は、夏の帽子を深くかぶり、半袖のスポーツシャツ、長ズボンの容姿で、
熱いと感じたら、扇子(せんす)を扇(あお)ぎながら、歩いたりしている。

いつものように独りで日常の買い物を終えた後、
帰宅後は洗面所で冷たい水で顔を洗ったりした。

家内は窓を開け放ち、掃除をしていた・・。
そして部屋の外れで、扇風機の羽根が元気よく廻っていたのであった。

『扇風機かょ・・』
と私は心の中で呟(つぶや)き、
やむなく私は団扇(うちわ)を取り出して、扇(あお)いだりした。

翌日の5日の木曜日も、昼下りは30度に近い暑さとなり、
『XXちゃんさぁ・・ボチボチ・・エアコンのお世話にならない?』
と私は家内に言ったりした。

『節電の世の中でしょう・・もう少し熱くなったら、エアコンを点(つ)けましょ』
と家内は平然と私に言うのであった。

その後、やむなく私は和室の6畳で簡易ベットに横たわり、
部屋の片隅みで扇風機の羽根の風を頼りに、本を読んだりした。


夏の熱い時期になると、私たち夫婦は長年の冷たい戦争の結果、
我が家の室温の妥協設定温度は、28度となっている。

こうした根拠のひとつは、確か30数年前の頃に、
強力でこの世で怖い専業主婦を中核とする団体の『主婦連』は、
27度が身体にも経済的にも最適と掲げたことがあったので、
私はこの案を利用して、
『主婦連の方たちさえも・・27度なのよ・・』
と私は家内に言ったりした結果、室温設定が28度としているのが、10年前の頃からである。


昨日の7日の土曜日は、七夕の日でありったが、
少年・少女の夢の短冊(たんざく)の願いも関わらず、不幸にして小雨が降ったり止んだりした日中となった。
そしてこの時節としては、稀な昼下りは26度以下となった。
私は風通しのよい作務衣を着たりして、心身絶好調で過ごし、居間のソファで本を読んだりした。
その後、気温は下り、夜は肌寒く、夏用のバジャマからスリー・シーズン用に着替えたりした。

そして節電の風潮の中、エアコンのお世話に成らず、経済的にも最良、と微笑んだりした。
これからの夏の時節も最高気温30度ぐらいの暑さであったならば、
働いて下さるサラリーマンの諸兄諸姉、そして高齢者も熱中症に悩ませられることなく、
快適な夏を過ごせるかしら、と思ったりした。

しかし幼年期に農家の児として育った私は、
農作物の米、かぼちゃ、スイカ、瓜(うり)など、
果樹園の方たちも、ブドウ、梨(ナシ)などの発育に困苦するし、
やはり程ほどの熱さの夏が不可欠なのである。

こうした思いを重ねていると、程ほどの熱さの夏になってねぇ、
と暑さに苦手な私でも、空を眺めながら天上の気候の神々に祈願したりしている。

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朝の挨拶、年金生活となると、私はテレビのキャスターから告(つ)げられて・・。

2012-07-07 10:32:58 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤めて、2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

私は殆ど毎日、家内より早めに起き出して、日の出前に起床することか多い。
そして洗面所で歯を磨いた後に洗面し、
和室でバジャマから普段着に着替えたりしている。

この後、居間のビデオ・ケースの上に立てかけている
曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつをの『日めくり ひとりしずか』に毎朝向っている。
そして彼の綴られた本日の格言を、心の中で、呟(つぶや)いている。

たとえば、過ぎし4日には、
《・・
   自己顕示
   自己嫌悪
   わたしの
    こころ
     うらおもて
             みつを
・・》
このように氏の特有の書体で明記されたりしている。

私はこの相田みつを氏の遺(のこ)された名言を、人生の生きた哲学のように学び、
私の独断と偏見の多い日頃の言動の多い中、
人生の戒(いまし)めとして、日々教示されている。

そして私は台所で煎茶を淹れた後、家内用のコーヒーを指定されたマグカップに淹れて、
寝室にいる家内の枕元に置いたりしている。
『日中は快晴となるみたい・・洗濯日和だよねぇ・・』
と私は洗濯に何かと気に掛けている家内に、天気情報が朝の挨拶代わりに言ったりしている。

この後、私は居間で煎茶を飲みながら、購読している読売新聞を読んだりしているうちに、
家内は起きだしてきたので、雨戸を開けたりしている。

そして晴れ間のような朝には、テラスに下り立ち、
お天道様に向い、恵みの陽射しに感謝しながら、両手を合わせたりしている。


まもなくした後、NHK総合テレビのニュースを視聴していると、
『おはようございます・・』
とキャスターの朝の挨拶が聴こえた後、それぞれのニュースを報じたりしている。

そして番組の終りの頃、
『今日も一日・・お元気で・・』
とキャスターの元気に声が聴こえ、私は苦笑したりした。

私は年金生活を始めて、8年生になるが、
朝の挨拶を受けたことがないので、苦笑したのであった。

もとより現役のサラリーマン時代は、出社後、数多くの方たちと朝の挨拶を交(かわ)していた。
上司には、『おはようございます・・』と言ったり、
職場の多くに『おはよ~う・』と殆ど私の方から、明るく大きな声で言ったりしてきた。


こうした少し侘びしい心情が残っていたので、
年金生活を始めて、まもない時に私なりに、前向きに心変わりをした。

私の住む所は、世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みの地域であり、
我が家から数分歩くと野川が流れている。
この野川の川沿いに遊歩道があり、年金生活を始めてから私は殆ど毎日のように散策している。

ときおり朝の8時半過ぎに歩いたりしていると、
私と同世代の60代の方、少し上の70代の方が散策したり、ウォーキングを見かける。

私は前方から見知らぬ70代ぐらいの男性に、
『おはようございます!』
と私は明るい声で挨拶をした。

そして70代ぐらいの男性は、顔見知りかしら、と思いながらも、
『おはようございます!』
と私に応(こた)えた。

やがて今は、私は70代の男性2名、私よりひとつ齢下の男性、
そして女性は私よりひとつ齢上の方と、2歳齢下の方と、
顔馴染みとなり、お互いに逢うたびに挨拶を交(かわ)している。

たかが朝の挨拶、されど朝の挨拶かしら、と私は微苦笑している。

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家事は何かと大変と思いながら、『家事代行』サービス業を学び、つたない男性の私は微苦笑して・・。

2012-07-06 16:45:35 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨夜、私たち夫婦は夕食後、お互いにのんびりと過ごし、
しばらくした後、家内は居間でテレビを視聴して、
私は近くでパソコンに触れて、ネツトである音楽業界情報サイトを読んだりしていた。

まもなく私は、家内が視聴していたテレビ番組は、内容が家事代行のテーマ、と聴こえて、
私も番組の途中からであったが、視聴した。

この番組は、以前も視聴したことがあった。
作家・村上 龍がメイン・キャスターとなり、毎週、現在の経済界に於いて新風をもたらしている企業の責任者を招き、
新風の実態を克明に紹介して、企業の責任者にインタビューする内容であり、
番組名は『カンブリア宮殿』と称した斬新な番組である。

たまたま今回は、家事代行の業界で革新的な新風で成功している企業がテーマてあった。

http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/backnumber/20120705.html
☆【テレビ東京】<==【カンブリア宮殿 公式サイト】
     <==7月5日放送 『 がんばる女性を応援したい! 「家事代行ビジネス」の全貌!』☆

詳細については、あえて今回の番組のサイトを添付したので、省略するが、
家事代行サービスをベアーズ独自のサービスで展開され、
共働き夫婦、単身者、お年寄りなどに幅広く受けている理由を学び、私は感心させられた。

社内で研修された現場スタッフ「ベアーズレディ」が、
家事のスペシャリストとして各家庭に派遣され、あらゆる家事を徹底的に綺麗にされる状況を学び、
やはりプロの仕事は、すごいと家事の無知な私でも、賞賛してしまった。


私は民間会社に35年近く勤めて、2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

現役時代の私は、もとより我が家の収入の責務があるので奮闘し、
家内は結婚して3年を除き、専業主婦の身で、洗濯、掃除、料理、買い物などしたり、
親族の交際も含めて、我が家の専守防衛長官の責任を果たしてきた。

定年後の私は、年金生活を始め、家内の日常のペースを出来る限り、
乱したくないので、決意して実行してきた。

具体的には、家内は殆ど従来通りしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、独りで買物をしたりし、
その前後、独りで散策などをしている。

或いは茶坊主に徹し、殆ど朝は家内より早めに起き出して、
家内用のコーヒーを指定されたマグカップに淹れて、家内の枕元に置いたりしている。
そして日中のひととき、家内がコーヒーか煎茶を飲みたいようなことを素早く察して、
さりげなく淹れている。

このように家事に関しては、恥ずかしながら殆どしてこなく、
ときおり庭の手入れは、現役時代から私の専任者となっているぐらいである。

或いは、季節の変わり目の簾(すだれ)、エアコンの掃除、大掃除などは、
家内が主体となり、私は助手のようなことをしているが、足手まといで、殆ど役にたたないのである。


しかしながら、私は『おひとりさま』の生活となることもある。
私たち夫婦のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなり、
家内の母は我が家から2時間ばかりの地で、一戸建ての独り住まいの生活をされている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職日の直前に主人に死去され、
一戸建ての独り住まいの生活をされて、早くも8年近くなっている・・。

家内の母は友人たちのグループで、国内旅行、買い物などを楽しんで過ごしたり、
ときおり自身の故郷の新潟県の上越市に里帰りし、同期の人たちと交流を深めたりしている。
確かに80代の初めとしては、身体は衰えても心は元気である、と私は感じたりしている。

このような中で、身の廻り程度はある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて、6泊7日前後で5回ぐらい母宅に泊りがけで行っている。

この間は私は『おひとりさま』の生活となり、のんびりと気ままな独り住まいをしている。

たとえば昨年の夏の時は、起床は5時半過ぎが多く、雨戸、アルミのガラス戸を開け、簾(すだれ)越し外気を取り入れ、
この後に着替え、洗面をする。
そして、連日の猛暑なので、やむなく主庭、玄関庭にある樹木、草花、そして地面に水撒(みずま)きをして、
朝涼のひとときを享受する。

この後は、私は台所にある市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、『ペットボトル』、『古紙』、『ビン』の日を確認して、
指定された道路に面した門扉に置く。

そして、読売新聞の朝刊を読みながら、冷茶とアイスコーヒーを飲んだりしている。

食事に関しては、夏場であるので家内の料理は事前に辞退し、
私はスーパーで買い物をし、野菜コーナー、お惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、
食べたりしている。

肉類などの主食の前に、私は小さめのキャベツを四分の一ぐらい千切りし、
その脇にセロリ、トマト、ニンジン、キュウリを大皿に盛り合わせ、
この特選の野菜の盛り合わせだけは、朝、昼、晩と食べて、
この熱い夏の時節には、身も心にも良いと大量に頂いたりしている。

そして、洗濯に関しては、乾燥の機能がある洗濯機で、オール自動セットとし、
日中のひととき、きまぐれに手抜きの部屋の掃除をしたり、台所で皿洗いをしたり、
夜の入浴の時間も、平素より遅かったりしている。

このような生活を過ごしてきたが、料理に関しては素材から焼いたり、煮たりすることは無く、
掃除も簡略に済ませてしまうので、家内のいる平素から落第生となっている。


今回の番組の中に於いて、現場スタッフ「ベアーズレディ」の料金について、
テレビ局のスタッフの方が、事前に街の数多くの人に、一時間当たりの報酬単価を質問されていた・・。
私は、あれだけ懇切丁寧の業務を果たしてくれるのだから、
少なくとも3000円はするよ、と私は家内に言ったりした。

そして質問された中で、ある中年の男性が時間単価は確か700円前後、
と答えられて、この男性は家事の重労働は解っていない、と私は苦笑してしまったである。
私が苦笑させられたのは、根底には過ぎし2007〈平成19〉年5月に、
時事通信社の基幹ネットの【時事ドットコム】で、主婦の重労働であると、再認識させられたからである。

《・・
    主婦業、年棒1600万円に相当=『母の日』控え米社試算

専業主婦がこなす炊事・洗濯や育児などの家事は、年棒13万8095ドル(約1660万円)に相当。
13日の『母の日』を前に、主婦の重労働ぶりを再認識するきっかけにして貰おうと、
米・人材情報会社・サラリー・ドット・コムがこんな試算をまとめた。

同社は、子供の送迎『運転手』、調理を『料理人』、
家族の悩み相談を『カウンセラー』などと家事を10項目に分類し、
それぞれをプロに任せた場合の料金を積算した。
主婦の作業時間は週92時間で、うち52時間を残業として割り増し計算したという。
今年の年棒は前年に比べ3%上昇した。

職業を持つ母親についても、
家事に対する報酬として年8万5939ドル(約1030万円)の『ボーナス』受給資格があるとはじきだした。
・・》


こうした記事を読んでいたので、少なくとも時間当たり3000円はする、
と私は試算できたのである。

私は家内に洗濯、掃除、料理など家事全般をお願いしている身なので、
せめて家内に感謝を重ねて、日に一度は褒(ほ)め言葉を言ったりしている。

或いは家内の思いに、素直に従っている。

たとえば、本日の朝、駅前で買い物したいわ、と家内が予告もなく私に言ったりした。
何かしら駅前のホームセンターに行き、雑貨品を買い求める主旨であった。
『はい! 了解しました・・行きましょう』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく大きな声で応(こた)えた。

私は何かと家事の大半は家内をしているので、
せめて家内のボディ・ガード、荷物持ちをして、お供をしなければ、
一家の主(あるじ)としての責務が果たせないと私は確信を深めている。

こうして私たち夫婦は、午前中の大半、駅前までの大通りの歩道を路線バスにも乗らず、20分ばかり歩き、
駅前のホームセンターに行き、買い物を終えた後、
家内のお好みの食事処で昼食をして、帰宅したのは午後1時半近かった。

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曽野綾子・著作の『自分の財産』、齢ばかり重ねた私でも読み始めて・・。

2012-07-05 13:18:56 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

そして年金生活は、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
たまたま定年後にブログの世界を知り、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このような年金生活をしているが、日常の大半は、
随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

定年後は、特に愛読しているのは塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、阿川弘之、高峰秀子、
各氏の作品に深く魅了され、この著作された人たちを主軸に購読してきている。

たまたま過日、本屋に寄り、単行本のコーナーで何かしら読んで見たい本を探して、
ひとつの本に思わず微笑んだりした。
曽野綾子・著作の『自分の財産』(産経新聞出版)である。

私が初めて作家・曽野綾子さんの作品を読んだのは、
講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた文学全集からであった。

この文学全集は、確か1965(昭和40)年の頃から毎月一巻発刊され、全22巻であり、
大江健三郎(おおえ・けんさぶろう、江藤 淳(えとう・じゅん)の両氏による責任編集の基で刊行され、
この当時の老成家した作家を除外した斬新で新鮮なな全集であった。

私はこの以前には、中央公論社から、
確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいであったと思われる文学全集を読んでいたが、
この『われらの文学』は、この当時に最も勢いのある大江健三郎、江藤 淳の両氏による責任編集に寄り、
選定された28名の作家の作品を私なりに精読していた。

そして、この全集の中で、第16巻として『曽野綾子、北 杜夫』が、
1966(昭和41)年5月に発刊されて、
私は初めて曽野綾子さんの『たまゆら』、『遠来の客たち』を含む8作品を初めて精読した。

これ以来、ときおり読んできたが、私はサラリーマンの多忙時期に重なったりし、
ここ5年は見逃してきた曽野綾子さんの作品を購読し、
一か月前に『堕落と文学 ~作家の日常、私の仕事場』(新潮社)を買い求めて精読していたので、
今回の『自分の財産』の本も私にとっては必読書のような感じたりした。

そして、私は午後のひととき、この『自分の財産』を開き始めて、読みはじめたのである。

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垣添忠生・著作の『妻を看取る日』、男性がおひとりさまになる前の確かな教科書、と深めて・・。

2012-07-04 14:20:09 | 読書、小説・随筆

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は民間会社の中小業に35年近く勤めて、2004(平成16)年の秋に定年退職後、
その直後から年金生活をしている。
そして私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりして過ごしてきた。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このような生活をしているが、私は60代に五体満足で生かしてくれれば、
70歳以降は余生と思っている・・。
そして痴呆症などあわず、心が明確な時にポックリと死去できれば良い、
と秘かに念願しているが、こればかりは天上の神々の采配に寄るものである。

或いは、平素の私は、煙草を喫う愛煙者のひとりで、スポーツは無縁で、
根がケチな性格なのか、駅前までの路線バスなどは乗らず、ひたすら歩き廻ったり、
遊歩道、公園などを散策するぐらいである。、

そして、お酒大好きだった呑兵衛の私は、一昨年の晩秋に何とか卒業して、
冠婚葬祭、国内旅行以外は週に一度ぐらいは呑むぐらいとなっているが、
このような齢ばかり重ねぐうだらな生活をしている私は、
私としては家内より早くあの世に行く、と確信をしている。

そして家内より先にあの世に行くと思っている私は、
私の葬儀、お墓、そして家内の独りの老後で程ほどに生活できそうな状況のことも、
話し合ったりしている。

こうした思いのある私は、定年直後に公正証書の作成できる処に出向き、
残された家内の生活が困苦しないように、私の遺言書を作成したりした。

しかし、このことも天上の神々の采配に寄るものであり、
家内に先立たれることもあり、私が独りぽっちとなることも、一年に数回ぐらいは、
おひとりさまの生活を思いめぐらすこともある。

ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
仲良し恋し、と好評を頂いている私たちでも、
実際は日常生活の中で、ときおり私が失敗事をしたりすると、
『ボケチンねぇ・・』と家内から微笑みながら私に苦言される時もある。
こうした些細(ささい)なこともあるが、いずれは片割れとなり『おひとりさま』となるのである。


私は家内と日頃から、葬儀、お墓のことも何度も話し合ったりしている。
葬儀は親族関係だけの家族葬とした後、お墓は樹木園に埋葬し、
それぞれ好きな落葉樹の下で土に還る、
そして四十九日が過ぎたら、その時の心情でお墓参りをすればよい、
とお互いに確認し合っている。

私は家内が亡くなった時は、世の中はこのようなこともあるの、
と茫然(ぼうぜん)としながら四十九日を終えて、樹木園に行き、埋葬をすると思われる。

そして私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行うが、
何より長年寝食を共にし、人生の大半の苦楽を分かち合い、
気楽に安心して話す相手がいなくなったことが、何よりも困ると思ったりしている。

こうした時を過ごした後、やむなく小庭のある古惚けた一軒屋を処分し、
都立の大きな公園が隣接した場所で、小さな2DKのマンションに転居すると思われる。
そしてスーパーと本屋に徒歩10分前後で行けた上で、
大学総合病院に公共の交通機関の利便性のある場所を選定するだろう。

この前提として、もとより住まいが狭くなるので、
やむなく本の大半は処分し、1000冊前後に厳選した上、
映画作品のビデオテープ、DVD、そして音楽のCD、DVDは程々に多いがすべて移動する。

こうした独り身の『おひとりさま』になった時の私の日常生活は、
付近の公園で四季折々の情景を眺めながら散策したり、
スーパーでお惣菜コーナーの売り場で買い求めたり、本屋に寄ったりして、
数冊を購入する。

そして週一度は定期便のような居酒屋に行き、
中年の仲居さんと談笑し、からかわれながら、純米酒を二合ばかり呑むだろう。
こうした中でも、私は家内の位牌の代わりに、
定期入れに愛用した革のケースに、家内のスナップを入れて、
いつも持ち歩くと思われる。

こうした日常生活を過ごすと思われるが、
私は国内旅行も好きなので、月に3泊4日前後で、各地を訪れるだろう。

劇作家のチェーホフの遺(のこ)された、
《・・男と交際しない女は次第に色褪せる、女と交際しない男は阿呆になる・・》
と人生の哲学のような名言は、
どうしたらよいの、と私は考えたりするだろう。

やむなく、私は宿泊先の仲居さんで、お酌をして下さる方たちと、
やさしくふるまいながら語りあうと想像される・・。

そして、その夜は枕元に革ケースを置いて、
人生はいつまで続くの・・、と天上の人となった家内に呟(つぶや)きながら、眠るだろう。

このような思いを時折を秘めて、私は年金生活をすごしてきた・・。


私が垣添忠生(かきぞえ・だだお)氏を初めて知ったのは、
確か購読している読売新聞で2008〈平成20〉年の11月に寄稿された『がん経験者 特別視しない社会へ』であり、
その後は総合月刊誌に寄稿された文で、氏の奥様が亡くなわれた状況を学んだ。

氏は医師として精進され、やがて2002〈平成14〉年に国立がんセンターの総長に栄進された方で、
その後に2007〈平成19〉年に退職されて、名誉総長になられたお方と知った。

この間、そして国立がんセンターの総長を2007〈平成19〉年3月に退職され、
その年の年末に名誉総長の身でありながら、末期がんの奥様をせめて年末年始ぐらいは自宅で過ごし、
氏は切実な思いで看病されたが、大晦日の日に亡くなり、
新年にうつろな心情で過ごした心情が綴られていたのに、私は感銘の余り涙を浮かべたりした・・。

その後、私は確か2009〈平成21〉年12月の頃、
本屋で氏の著作の『妻を看取る日』(新潮社)の単行本を見かけたが、
概要内容は知っているつもりであったので、買い求めることはしなかった。

一昨日の7月1日、私たち夫婦は駅前で買い物に行った時、
私は本屋に寄り、文庫本のコーナーでこの作品にめぐり逢えた。

『妻を看取る日』(新潮文庫)と題された副題には、
《国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録》と明記されていた。

そして何よりも真摯に微苦笑させられたのは、本の帯に、
《 夫に読ませたい本 No.1 
   「自分が先に死ぬ」そう思いこんでいる男たちの
    目を覚ますために 》
と明記していた。

私は遅ればせながら本書を読み、
氏の生い立ち、少年期、学生時代、そして医師の助士の苦闘、
やがて奥様となられるお方の出逢い、その後の結婚生活を初めて知った。

そして2006(平成18)年の春に、奥様のがんが見つかり、
その後、幾たびかの治療を得て、やがて末期がんとなり、2007〈平成19〉年の年末に、
名誉総長の身でありながら、末期がんの奥様をせめて年末年始ぐらいは自宅で過ごし、
氏は切実な思いで看病される状況が克明に綴られている。

そして大晦日の日に亡くなり、その後の喪失の中で失墜感を綴られ、
私は涙を浮かべながら読んだりした。
やがて再生していく状況も克明に綴られ、おひとりさまとなった生活を明記されている。

本書は、男性が愛(いと)しき妻といずれ片割れとなり、
おひとりさまとなる前に、心の準備としての心構え、
その後のおひとりさまの日常生活の確かな人生の晩期の教科書のひとつ、
と私は感銘させられながら確信を深めている。

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映画『シェーン』に思い馳せると、あの当時の頃が想い浮かび・・。

2012-07-03 16:01:57 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昼下りのひととき、書棚の映画雑誌のコーナーから、一冊の本を取りだして、
読んだりした。

共同通信社の編集された『MOOK21 20世紀の映画監督名鑑』であり、
1999年11月1日に発行された本で、
映画好きだった私は、まもなく本屋で見かけて買い求めた雑誌であった。

もとより映画監督の作品を基軸とした洋画作品が羅列され、解説も的確に表現されていたので、
この後、幾たびか読んだりしてきた雑誌である。

たまたまが、ジョージ・スティーヴンス監督の欄を再読していた時、
『シェーン』を初めて映画館で観た時を思い馳せたりした。

この作品はジョージ・スティーヴンス監督の昭和28(1953)年に公開された作品であり、
私は後年の高校時代の昭和37(1961)年の頃、リバイバル興行として、映画館で初めて観たひとりである。

この作品が日本で初めて上映された昭和28(1953)年を過ぎた頃、
私は小学3年生の頃から、ひとりで映画館に行き、東映の時代劇などを観はじめていた。

この当時、私の住む地域から少し離れた大きな街の駅前の映画館に於いて、
ニュース、予告編、本編の合間、スクリーンの脇にあった煌(きらび)やかなカーテンが動き、そしてスクリーンは閉じられて、
華やかな銀幕となった情景となり、音楽が流れていた・・。

こうした中、雪村いづみの『遥かなる山の呼び声』、『青いカナリア』の唄声が流れ、
時代劇の本編に期待を膨らましながら、
少年なりに華やかな都会のお姉さんの唄声を聴いたりしていたのである・・。
そして唄声を聴いたりすると、東京郊外の映画館であったが、
こうした空間は都会の匂いを感じ、夢のようなひとときであった。

後年の高校生になった頃、『遥かなる山の呼び声』は映画『シェーン』の主題歌だった、
と遅ればせながら知ったのである。

その後、映画『シェーン』を真摯に観たのであるが、
主役のアラン・ラッドより、悪役としてのジャック・パランスに圧倒的に魅了されたりした。

この前後の時代は、映画館に於き、リバイバルを含め西部劇だけでも数多く上映されていた。
『駅馬車』、『荒野の決闘』、『真昼り決闘』、『大いなる西部』、
『OK牧場の決斗』、『リオ・ブラボー』、『アラモ』など満天の星空のように上映され、
私は高校の下校の時、日比谷とか新宿の映画館で観たりしていた。

私は確か3年前に、居間にある映画ビデオ棚から『シェーン』を観賞したのであるが、
45年ぶりだったので、懐かしげに鑑賞し、
あのようなシーン、セリフがあったのかしら、と微苦笑させられたのである。

もとより私の青春期からサラリーマンの時代、そして年金生活の現在まで月日が過ぎているので、
忘れ去ることも多いが、やはり名作のひとつは、この齢になっても、
教示させられることがある。
そして、あの昭和28(1953)年の少し前に、
アメリカであのような西部劇が制作されたことに思いを重ねたりしたのである。

私は、ジョージ・スティーヴンスの遺(のこ)された作品は、
『陽のあたる場所(1951年)』、 『シェーン(1953年)』、 『ジャイアンツ(1956年)』、
『アンネの日記(1959年)』 、『偉大な生涯の物語(1965年)』とたった五本の作品しか鑑賞していないが、
最良の作品は『陽のあたる場所(1951年)』であり、
完成度が未熟であるが好きな作品としては『ジャイアンツ(1956年)』である。
しかし、あの時代に制作された『シェーン(1953年)』は名作と感じている。


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初夏の頃に彩(いろど)る木槿(ムクゲ)の花、齢ばかり重ねた私のささやかな想いは・・。

2012-07-02 12:03:46 | 定年後の思い
東京郊外の調布市の片隅みに住む私は、
昨日が小雨が降ったり止んだりして、今朝の9時過ぎに雨は上がり、
まもなく空が明るさを増してきた。

そして私は玄関の軒下に下り立ち、玄関庭の片隅で、
たわわに莟(つぼみ)を付けている木槿(ムクゲ)の樹を眺めて、微苦笑したりしている。

梅雨の時節の終る頃から、50日前後、
紫紅色の花が彩(いろど)ってくれる高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)がある。

私は初夏から真夏に咲く花の中で、特に木槿(ムクゲ)には魅了させられている。
私の住む周辺は、底紅で花びらは紫紅色した高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)、
もうひとつは底紅であるが、花びらは純白の色合いの宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)が多い。

独断と偏見が許されるならば、
高砂木槿の紫紅色は洋室、ホテルなどのロビーに相応しく、
宗旦木槿の純白の色合いは和室に相応しい、と確信を深めている。

どちらも茶花に愛用される花のひとつであるが、
私は独りたたずんで、毎年この時節で心を慰めてくれる花のひとつである。

朝の冷気が残る頃、ひとつの花びらは秘かに開き、日中の熱い陽射しを受けながら凛として美麗を見せて、
夕暮れの時に閉じ、花の命(いのち)は終わりを告げ、
余りにも儚(はかな)さを感じさせるので、
古来より『槿花(きんか)一朝の夢』と伝をえられている。

こうした一輪が花びらは、わずか一日で命を果てるが、
たわわな莟(つぼみ)からは、競演するように初夏から盛夏に向けて彩りとなり、
この時節にときおり私は眺めたりしている。

私は2004(平成16)年の秋に定年退職後、
年金生活を始めて、自主的に日常の買物担当となり、殆ど毎日のように独りでスーパーなどに行ったりしている。
こうした時に、住宅街の中の道を歩いたりし、
その後は川沿いの遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

一昨日、いつもりように買物に行った時、住宅街を歩いていると、
あるお宅の庭先で宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)が咲きはじめていた・・。

私は宗旦木槿の底紅で白い花で、
心澄んだ気品を秘めたような花と感じながら、少なくとも16年は過ぎている。

私が50歳の頃までは、公園、ご近所のお宅にも咲いていたと思われるが、
意識させられたのは、一冊の文庫本であった・・。

今は亡き作家・山口 瞳(やまぐち・ひとみ)さんの作品を
確か1985〈昭和60〉年の頃から愛読してきた私は、
たまたま1994(平成6)年の夏、氏の『男性自身 木槿の花』(新潮文庫)を読み、
亡くなわれた作家・向田邦子(むこうだ・くにこ)さんへの鎮魂曲のように綴られた随筆を読んだりしていた。

この随筆を読み終わった後、白の花の木槿、と綴られていたのであるが、
向田邦子さんの作品であったなら、宗旦木槿が相応しい、と私は勝手に思い重ねたりした。

この時以来、私は宗旦木槿を見るたびに、山口 瞳さんの随筆に導かれて、
向田邦子さんの顔立ちを思い浮かべながら、
向田邦子さんの数多くの遺(の)こされた作品を甦(よみがえ)ったりした。

いつの日だっか、都立公園で丹精込められた五種類ばかりの彩(いろど)り豊かな木槿を観たが、
近くのお宅で、さりげなく咲いている宗旦木槿の方に、遥かに魅了される。

このような思いを私なりに秘めているので、
山口 瞳さんの数多くの遺(の)こされた小説、随筆の作品、
そして向田邦子さんの数多くの遺(の)こされた小説、随筆、テレビドラマ・脚本の作品、
散策をした時などで、不意に私の心の片隅みから蘇(よみが)ってくることがある。


このような心情のある私は、いつの日にか我家では宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)を植えよう、
と思っていた時、
2007(平成19)年の夏に、伊勢神宮に近い鳥羽の観光旅館で、
滞在型の団体観光ツアーの旅の帰路、
道の駅のドライブ・インの売店の外れで、偶然に木槿(ムクゲ)の幼い樹を見かけたのである。

簡素なビニール鉢に入り、樹高が20センチ足らずで、花芽は5つ前後付いていた・・。
値段は確か200円程度であったと記憶している。

そして売店の販売員のお方に
『宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)は、ありませんか?・・』
と私は尋(たず)ねたのであるが、
無念ながら、販売員のお方は花木に全く無知の方である上、観光バスの出発も迫ってきたので、
妥協して購入したのが、高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)であった。

帰宅後、地植えにしたが、かぼそい樹形であったが、
夏の終りの頃まで、10数輪咲いてくれた。

そして毎年成長して、3年過ぎた初夏に、
樹高は2メートルを超えて、100輪ぐらい花を咲かせ、私は悦んだのである。

私はここ20数年、樹木・花木・草花は、
太陽の恵みの陽差し、そして雨、その地の土に馴染んで成長しなさい、
と身勝手な主(あるじ)の私であるが、
この高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)は、孤軍奮闘し私の期待に応(こた)え、勢い良く成長してくれた。

私は木槿(ムクゲ)に関して、底紅で、花びらは純白の色合いの宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)に、
気品ある美を感じて魅了されているが、
缶ビール1本に満たない価格で、成長している高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)が意地(いじ)らしく、
愛着を深めたりしている。

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