琵琶湖の夕日が見たくて、カメラを持って出かけた。パソコンに向かっていると、行き詰まりを感じる。冊子の編集は、想像よりも問題が深かった。もう少し資料を読みこまなくてはならない。(まとまるだろうか・・・)そして、ほかの問題ではキリスト者であることが、行き詰まりになる。このほうがストレスなのかもしれない。
「あい」と「いつくしみ」を持って接すれば、それは愛情を注がなくてはならないことだろう。何も受けつけないような「かたくななこころ」を気の毒には思うが・・・。その心に寄り添うことはできないように思う。そこまで私はキリスト者になれない。
壊れかけた夫婦が一緒に住んでいる苦痛というのがある。いや、壊れかけていなくても、あまりそばにいたくないと思う配偶者といることは、つらいことだと思う。それは理屈でないように思う。前述の話はそういうことではないが、一人の人として、人とかかわる以上最低限の責任というものがあるように思う。
悟りを開いたわけではないが、ものがわからない時のほうがよかった。相手を責めることも、いやみの一つも言うことができた。
琵琶湖はかすんでやさしかった。シャツがびしょびしょになるほど歩いてきた。汗とともに意地悪な心は流れていったようだ。