のりぞうのほほんのんびりバンザイ

あわてない、あわてない。ひとやすみ、ひとやすみ。

悟りの境地には達してません

2007年04月17日 21時19分07秒 | 日常生活
gooブログ仲間の先輩から改行幅を指定したいのに
どこで指定すればいいのやら分からんぞ!
という訴えがありました。
・・・そんなこと訴えられても。
のりぞう、好奇心の赴くまま探究し、
ごくたまにストーカー並の調査力を発揮しますが
こと機械やシステムに関しては、追求派ではございません。
初期設定で満足するタイプです。
他の方をお当たりください。

と、すげなく接したところ
「こんなんじゃブログの更新ができん!」
と再度、訴えられました。
え?!改行幅がそんなに問題?!
そのこだわりは何ゆえ?!

なんでもアスキーアートを書きたいのだそうです。
色々とストックはあるのだそうです。
でも、見る人(のパソコンの設定)によって
自分のアートが壊されるのは我慢ならない模様。
数日後、先輩から再びメールが届きました。

「メールの改行幅、なんとかしてくれ~。」


・・・・まだこだわってたんですか?
いい加減、あきらめてください。

「人生、あきらめも肝心です。」
と、一言メールを素っ気なく返したところ
しばらくして返事が戻ってきました。

「さすが悟ってらっしゃる。」
・・・・さすが?
まるで「いろんな経験の末に悟らざるを得なかった人」
みたいな扱いになってませんか?
誤解しないでいただきたい。
のりぞうの人生やその他諸々に対する執着心のなさは
決して、経験の末ではございません。もともとの性質です。




・・・主張するほどのことでもございませんが。
更に言うならば、のりぞうも
人並みに執着心を持ち合わせてるわけですが。
どこかで誤解がある気がしてなりません。

ところで、先輩がこだわっていた改行幅の問題ですが
こだわり派の先輩は独力で解決し、無事に記事をアップされました。

・・・のりぞうにはアスキーアートが読み取れませんでした。
この絵が何を描いているのか分かった方
のりぞうにも教えてください。
諦めないオンナ、のりぞうは分からないことが生じたら
すぐに周囲の方に尋ねます。追求派です。

【再放送】101回目のプロポーズ

2007年04月17日 21時16分35秒 | テレビ鑑賞
■1991年!夏クール
■出演:武田鉄矢、浅野温子、田中律子、江口洋介
    石田ゆり子、浅田美代子、長谷川初範
■脚本:野島伸司

■感想
 ひっさびさの再放送だったので、はしゃいでビデオ録画
 してました。わくわくしながら見返しました。
 だって、このドラマって16年前の放送ですもの。
 当時はワタクシ中学生でしたもの。
 大ヒットしたので、色んな場面を鮮明に覚えてますが
 実際に見るのは本当に久しぶり。

 ・・・・あれ?
 当時のワタクシ、このドラマをどんなスタンスで
 見てたんだっけ?感動してたんだっけ?
 主人公に共感してたんだっけ?
 ハッピーエンドを願ってたんだっけ?

 と、軽く混乱に陥りながら見返しました。
 だって!ヒロインに共感できないんだもの!
 前半は割と楽しく見てたのです。
 なくなった恋人を忘れられないヒロインの気持ちにも
 共感できるのです。が、亡くなった恋人のそっくりさんが
 現れたあたりからヒロインが悲劇ぶりっ子にしか
 見えなくなってしまいました。

 「選べないの!どうしたらいいのか分からないの!」
 「彼と違うのは頭ではわかってるの!
  どうすればいいの?」

 ・・・・けっ。
 泣けば許されると思うなー!
 どうすればいいかわからん、だー?
 好きじゃないんだったら、さっさと見合い相手をふって
 心が動く相手のところに飛び込んでいけー!
 婚約解消までしておいて
 「どうすればいいか分からない」なんて言って泣くなー!

 以上、歳月を経て無駄に強くなってしまったオンナのひとり言です。
 この16年で女性は確実に強くなってる気がします。
 最近のドラマでは、こんなによく泣くヒロインも
 うじうじ悩むヒロインもお見かけしませんもの。
 さばさばさっぱり、もしくは男以上にオトコマエ
 そんなヒロインが多いような。
 弱さを前面に押し出さない、必要もないのに強がる
 そういうヒロインが増えたのかも。
 と16年の歳月の流れを女性像から考察してみました。
 いろんな意味でインパクト大の再放送でした。

 あ、今とはまったくキャラの違う清純派石田ゆり子さんも
 大変印象的でした。かわいい。美しい。儚げ。
 でも、今の裏がある役、我儘な女性の役を生き生きと演じる
 石田さんのほうが断然好きですけど。

幸田文の箪笥の引き出し/青木 玉

2007年04月17日 21時12分44秒 | 読書歴
■内容
 着物を愛し、さっそうと粋に着こなした幸田文。残された着物の
 一枚一枚に込められた様々な想いを娘の目からたどるとき、
 在りし日の母の姿があざやかによみがえる。四季の移り変わりを
 織り込みながら、祝い事などの場の雰囲気に合わせて、みごとに
 「装い」を調えた幸田文の独自の美意識、そして当時の日本人が
 共有していた生活感を、愛用の着物の写真とともに伝える。

■感想 ☆☆☆☆
 日本人の民族衣装である着物。
 最近、また身近な装いになりつつあるが、
 それでもまだ「好きな人」のもの。「特別」なもの。
 けれども、私たちの祖母の世代にとっては
 間違いなく着物は「日常着」だったのだ。
 日本人が急速に着物から離れていった理由は何だろう。
 面倒臭さ、値段の高さ、動きにくさ。
 様々な要因がすぐに思い浮かぶ。
 それほど今の私たちの生活にはそぐわない衣装なのだと思う。

 けれども、私たちは民族衣装である着物から離れることによって
 何か大切なことまでも見失ってきたのではないだろうか。
 大切にしなければいけないことまで手放してしまったのでは
 ないだろうか。この本を読みながら、そんな思いに駆られた。

 女性にとって「装う」ことは特別なことだ。
 それは今も昔もそんなに変わらない。
 この和服にこの帯をあわせようか、この足袋をあわせようか
 と考えるだけで華やいだ気持ちになる筆者の気持ちには
 すぐに共感できる。
 しかし、筆者とその母が衣服を大切に扱う様子
 日々の生活の中で丁寧に衣服と向き合う様子には
 自分自身を省み、恥かしい気持ちにさせられた。
 
 衣服と、家と、地域と末永く共に過ごそうとする少し前の
 女性たち。彼女たちは品を大切にし、それでいて、お金を
 かけるところ、節約に励むところのメリハリをはっきり
 つけている。品を大切にしてはいるが、身の丈にあっていない
 ものは身につけない。その潔い生き方、暮らし方が眩しかった。

 昔に戻りたいとは言わない。
 昔のほうが良かった、なんていいたくない。
 けれども確かに私たちが見失ってしまったものが
 この数十年の間に存在するのだと思う。