旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

奥州道中紀行9 芦野宿~白坂宿~白河宿~女石追分

2017-12-17 | 日光道中・奥州道中紀行

08:40 「芦野宿」
 上野駅05:10発の始発に乗ると黒田原駅から芦野へ行く午前中唯一本のバスに乗れる。
本陣臼井家は隈研吾氏設計の「石の美術館」となって石と水と光の空間を創っている。

 

香ばしい匂いがしてくる。炭火で鰻を焼く匂いだ。すでに昼の仕込みをしている。
旅籠から300年の歴史を持つ「うなぎの丁子屋」は芦野宿のランドマークなのだ。

苔むした石段の先、切妻四脚門は曹洞宗建中寺の山門。芦野氏の菩提寺になる。

白河方入口に座するのは新町地蔵尊、享保2年(1717年)建立、開眼の導師は建中寺住職だ。
国家安全・領主の子々孫々の繁栄、お参りする人々の良縁を願って立てられたものとある。

 

Navi90. 遊行庵食堂(右折)→<国道294号>→九番町歯科クリニック 15.8km 200分

Navi90-2. 岩倉右大臣歌碑(斜め左)→<旧道 : 350m / 4分> 

09:05 「べこ石の碑」
 芦野宿の問屋を務めた戸村右内忠怒が嘉永10年(1848年)に建立した19段、約3500文字の碑文。
孝行の大切さと善行をすすめ、堕胎の戒めと生命の尊重など儒教的精神で人の道を優しく教えている。
碑は自然石に炎帝神農氏の姿か、石の形がか臥牛に似ているため「べこ」と呼ばれたらしい。

 

Navi90-3. 国道294号合流後160m(斜め左)→<旧道 : 230m /3 分> 

Navi90-4. 国道294号合流後160m(斜め右)→<旧道 : 2.5km / 30分>

国道294号線から板屋の集落へと旧道を入る。板屋は芦谷と白坂の間の宿になる。
草地一面に白い霜が降りて今朝の冷え込みを物語る。道祖神が1体斜面を滑って助けを請っていた。 

09:25 「板屋一里塚」
 板屋の一里塚は、日本橋から44番目となる。両塚が残っている。
坂の傾斜を緩和させるために道路を掘り込んだので、左右見上げる状態で全容はうかがえない。

間の宿・板屋を抜ける2.5kmほどの旧道は街道風情が残っている。

 

次から次へと馬頭観音や道祖神をはじめ石仏群が現れ、目を楽しませてくれる。

 

Navi90-5. 寄居集落センター(斜め左)→<旧道 : 650m / 9分>

 

旧道(県道185号)を左折すると湯殿山常夜燈を見つけた。信仰の誘いにも陸奥(みちのく)の匂いだ。
山桜が有名な與楽寺の参道には大きな地蔵尊が行き来する人を見守っている。 

10:15 「泉田一里塚」
 街道が国道294号に戻ったところに在るのが泉田の一里塚だ。西塚だけが保存されている。
江戸日本橋からは45番目になる。

 

Navi90-6. 平沢石材工業手前(斜め左)→<旧道 : 450m / 6分>

芦野から白坂までの国道294号線の道程は、何度となく長閑な旧道を歩くことができる。
寄居大久保集落に入ると、 地蔵尊や馬頭観音、二十三夜塔などの石仏群を目にする。

 

芝居「箱根権現躄仇討」で、滝口上野に父を殺された初花が使ったとされる清水が流れ出ている。
この「初花清水」に水を汲みに来た小父さんと暫し談笑、これからコーヒーを淹れるのだと云う。
瓢石(ふくべいし)も仇討話に関連している。
兄の敵滝口上野を追った飯沼勝五郎はこの地で躄(いざり)になって仇討を断念する。
その時、手慰みに彫ったのがこの瓢石である。 

 

Navi90-7. 国道294号合流後450m(斜め右)→<旧道 : 550m / 7分>

堂矢場集落へと旧道に入る。下野国最後の集落になる。
旧家の庭先に、「明治天皇山中御小休所」の石碑があったので家人に訊ねてみる。
明治14年、山形・秋田・北海道巡幸の際に、県境の峠を前に休息されたと云う。 

国道294号に戻ると崖上の地蔵尊と観音像に見守られて峠へと進む。 

「境の明神(玉津島神社) 」
 玉津島神社は奥羽側の住吉神社と並立している。
天喜元年(1053年)、紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請とされ、峠神として街道とともに発展した。
明治39年、火災により類焼し昔日の面影を失ってしまっている

 

11:00 「下野陸奥国境」
 並立する二社の間が栃木県と福島県の県境の峠になる。ここからが陸奥(みちのく)となる。 

「境の明神(住吉神社) 」 
 文禄4年(1595年)、白河を支配していた蒲生氏が社殿を造営した。
現存するのは弘化元年(1844年)に建てられた祠だ。
並立する二社は、女神は内(国を守る)、男神は外(外敵を防ぐ)という信仰で祀られる。
実際、陸奥・下野ともに自らの側を「玉津島」、反対側を「住吉明神」としている。

 

11:20 「白坂宿」
 陸奥に入って最初の白坂宿には、本陣佐藤家をはじめ旧い遺構は残っていない。
秀吉が伊達正宗に命じて開いた集落は、本陣1、脇本陣1、旅籠27軒の宿場になった。 

宿並みのほぼ中央に在るのが観音寺、戊辰戦争で戦死した大垣藩士の墓がある。

 

12:00 「朝日屋食堂」
 白河はご当地ラーメンが有名だ。白坂宿を過ぎると人気の朝日屋食堂が在る。
開店の11:30を目標にしたのだが適わず、10名程の席待ちの後に並ぶことになる。 

今日の街道めしは白河ラーメン。太めの手打ちのモチモチ縮れ麺にあっさりスープが絡んで美味しい。

Navi90-8. 小丸山の貯水池先(斜め右)→<旧道 : 500m / 6分>

12:50 「戊辰の役古戦場」
 慶応4年(1868年)、薩摩・長州・大垣藩などの兵を会津藩家老西郷頼母が迎え撃った白河口をの戦い。
南側に「長州大垣藩戦死六人之墓」、北側に「会津藩戦死墓」と松平容保公題字の「銷魂碑」がある。
街道はこの地で直角に右に折れる。初代白河藩主丹羽長重が町毎に設けた防御の鉤型だ。

Navi91. 九番町歯科クリニック(左折)→<国道294号>→セブンイレブン白河天神店 1.1km 13分

谷津田川を渡ると間もなく白河宿の江戸方入口になる。
レトロモダンなボンネットバスを見かけた。白河市内を循環する「こみねっと」だそうだ。

Navi91. セブンイレブン白河天神店(右折)→<国道294号>→常陽銀行白河支店 0.9km 11分

天神神社前で三度直角に折れた街道は、鷹匠町で鉤型に折れる。車列も鉤型に行く。

 

Navi92. 常陽銀行白河支店(右折)→<国道294号>→五十嵐歯科医院 0.4km 5分

 

13:30 「白河宿」
 大手町でも鉤型に折れると宿並みの中心部になる。
幕府が管轄する奥州道中最後の白河宿。その規模は、本陣1、脇本陣2、旅籠35軒と大きい。
旧い遺構はないものの、情緒のある家並みが所々見られる。
本陣芳賀家所在地の向かい側は屋台会館になっている。

 

Navi93. 五十嵐歯科医院(左折)→<国道294号>→女石追分 1.7km 22分

本町で左直角に折れた街道は東北本線のガードを潜って北上する。左手には小峰城だ。
やがて阿武隈川に至る。ここが白河宿の北の外れになる。 

阿武隈川を渡って右手に現れる「姫神社」は、皆鶴姫を祀る古社だ。
皆鶴姫は、平治の乱で敗れた源義朝の遺臣、吉岡家三兄弟の長兄の鬼一法眼の息女だ。

14:00 「女石追分」
 会津街道と仙台街道の分岐点は戊辰戦争の激戦地で戦死供養塔が建てられている。
奥州道中は、ここ女石追分で江戸日本橋から195kmの旅を終える
追分を直進すると会津街道、緩やかに右へ往くと仙台街道。ここから先は各藩の管轄となる街道だ。 

 

 江戸日本橋を発ったのは正月3日。延べ7日をかけて紅葉前の10月、鉢石宿(日光東照宮に)至る。
宇都宮追分に戻って奥州道中は延べ4日で白河関を越えて陸奥(みちのく)に入った。

芦野宿から情緒たっぷりの街道風情を堪能、国境の境の明神を詣でて白坂宿へ。
戊辰戦争の激戦地白河を幾度も桝方、鉤型を曲がって白河宿、そして女石追分に至った。
最後の行程は21.4km、5時間30分。小峰城を見上げて奥州道中の旅を終える。 


奥州道中紀行8 佐久山宿~大田原宿~鍋掛宿・越堀宿~芦野宿

2017-12-09 | 日光道中・奥州道中紀行

10:00 「佐久山宿」
 那須塩原から市営バスを2本乗り継いで佐久山宿に戻って来た。歩きだしは10時と遅い。
今朝もずいぶんと冷え込んでいたけれど、冬の澄んだ青空に那須連峰の雄姿が際立つ。

佐久山宿を抜けると直ぐに箒川を岩井橋でわたる。街道当時から橋渡りだったようだ。
川瀬巴水の木版画に「野州佐久山 岩井橋」という作品があると云う。
近々、近代美術館に観に行きたいと思う。 

       

岩井橋から箒川の河岸段丘を上がる途中で馬頭観音をはじめとする石仏群が現れる。
道は新しくなれど、ここが奥州街道であったことを石仏群が教えてくれる。 

      

湧水から続く田谷川は、県の天然記念物である糸魚(いとよ)の生息地とされている。
川の中島には聖徳太子の碑がある。周囲の川はなるほど澄んでいる。 

 
 

大田原市親園(ちかぞの)辺りは、旧くは八木沢と云って間の宿があったところだ。
この辺りには、長屋門や四脚門、大谷石などを用いた蔵を持った立派な屋敷が多い。 

 

10:40 「浦蘆(ほろ)碑」
八木沢間の宿の外れに湯殿神社、その鳥居前に「浦蘆(ほろ)碑」が覆堂に納められている。
文化9年(1812年)のある日、兵士の隊列が刀を持って槍を立て行進する蜃気楼が現れた。
通りがかりの甲州の僧がこれは何かと土地の者に訊ねたところ「浦蘆(ほろ)」だと答えたという。

そんな話を後に石に刻んで建立したのがこの碑である。が説明板を読んでもよく解らない。

 

浦蘆碑の斜向かいに立派な四脚門と2つの蔵を持つお屋敷、その敷地に「町初碑」がある。
碑には「此町初寛永四卯年」と刻まれている。町の起こりの年を石に刻んでいるそうだ。
歴史的価値が高いものとされ、市の記念物に指定されている。

Navi84. 神明町交差点(右折)→<国道400号~国道461号>→アブラヤパン店 0.9km 15分

 

神明町交差点を右に折れると薬師堂が在る。この辺りが大田原宿の江戸方入口だ。
寛政5年(1793年)再建とされる堂内には江戸中期の金剛力士像が2体(彫刻)ある。
境内の貞享元年(1664年)の建立の七重の塔も立派なものだ。

本堂の彫刻も此の通り美しい、其々が大田原市の有形文化財に指定されている。

11:30~12:30 「大田原宿」
 大田原は平家物語で屋島合戦の「扇の的」で著名な那須与一の出生地として知られる。
宿場の規模は本陣2、脇本陣1、旅籠42軒、残念ながら旧い遺構は見当たらない。 
宿並みの中ほどに在る「金灯籠」は文政2年(1819年)に有志により上町十字路に建立。
宿場の防火や町内安全、旅人の夜道の無事を祈願し建てられたものだ。
当時の物は太平洋戦争末期に応召、現在の物は昭和54年に商店街有志により再現された。 

Navi85. アブラヤパン店(左折)→<市道>→カメヤ生活館 0.1km 2分

 

街道は金灯籠交差点の一つ先で、寺町商店街へと左折、その後100mで右折と鉤状に進む。
この間に昭和28年創業の「岡繁」に立ち寄る。今日の街道めしは "オムビーフライス"。
特製オムライスに逸品のビーフシチューをトッピング、2倍おいしいと自画自賛の一皿だ。 

Navi86. カメヤ生活館(右折)→<市道>→斎藤川魚店 0.5km 6分

宿並みの外れに「大田原神社」、大田原藩によって創建されたこの地の総鎮守だ。
神社の参道登り口に大久保の木戸が設けられていた。ここが白河方の入口になる。 

Navi87. 斎藤川魚店(左折)→<国道461号>→河原交差点 0.2km 2分

国道461号に戻って蛇尾川(さびがわ)を渡る。
街道時代は橋渡しで流失時は人足による徒歩渡しだった。1832年からは舟渡しになったと云う。

Navi88. 河原交差点(左折)→<県道72号>→伊豆屋菓子店 19.6km 250分

12:50 「中田原一里塚」
 工事現場の誘導員さんに声を掛けられた。「一里塚はこっちだよ」ってね。
ちょうど工事区間で見逃すところだった。親切に誘導いただき写真を撮らせてもらう。 
格好を見て判るのかな。案外街道歩きの旅人は頻繁に行き過ぎるのかも知れない。 

大田原城下を抜けて、街道は長閑な田園風景の中を北上していく。

 

中田一里塚の先に八溝山地を越えて福島県棚倉地方へ抜ける棚倉街道の追分がある。
道標はすり減って読めないが、「之より左 奥殊道、之より右 たなくら」とあるらしい。
追分は
「紫衣事件」で流された沢庵と玉室が、其々の流刑地へと袂を分かった場所だ。

 

13:40 「練貫一里塚(不明)」
 日本橋から39番目になる練貫一里塚は何の痕跡もない。
所在が推測される辺りには、十九夜塔や永代常夜灯と書かれた道標がある。

 

 那須塩原市に入ると間もなく左手に樋沢神社が現れる。
後三年の役で陸奥平定に向かう源義家は、源氏の氏神である八幡神社を見かけて戦勝祈願したと云う。

 

14:30 「鍋掛一里塚」
 鍋掛愛宕峠の一里塚は片塚だけ残っている。日本橋から40番目の一里塚になる。
一里塚の脇、杉の森を進むと鍋掛神社が鎮座している。
愛宕神社、温泉神社、鶏鳥神社を合祀した旧鍋掛村の総鎮守である。

 

鍋掛宿の江戸方入口には清川地蔵尊がある。建立は延宝7年(1679年)と結構旧い。
清川地蔵は子育て地蔵として地元民の信仰が厚いそうだ。

14:40 「鍋掛宿」
 鍋掛宿は、那珂川を目前にした火の見櫓の在る静かな町並みだ。
その規模は本陣1、脇本陣1、旅籠23軒だ。本陣を担った菊池家は更地になっていた。
芭蕉はここで句を詠んでいる。
元禄2年(1689年)3月のことだ。
「野を横に 馬牽きむけよ ほととぎす」、道すがら手綱をとる馬子作り与えた句と云われる。
町並みのほぼ中央に芭蕉句碑が立っている。

那珂川を昭明橋で渡る。谷は深い。江戸初期は徒歩渡り、後期は舟橋・土橋であった。

橋を渡ると直ぐに越堀宿になる。越堀宿は鍋掛宿とニ宿で一宿の役割を果たした。
難所の那珂川が川止めになることも多かっただろうから、両岸に宿場を置いたのだろう。 

      

14:50 「越堀宿」
 越堀宿の規模は本陣1、脇本陣1、旅籠10軒、本陣藤田家をはじめ、やはり何も残っていない。

 

宿場の白河方入口は桝形になっていて、今でも県道72号は緩やかにクランクしている。
桝形前の浄泉寺境内には、黒羽藩主が自藩と他藩との境界を明確に示した境界石が残る。
文化10年(1813年)に何箇所かに建てたひとつだそうだ。

      

15:20 「寺子一里塚」
 日本橋から41番目の寺子一里塚は、東塚だけが残るが、美しい形状を保っている。

 

寺子橋で余笹川を渡る。街道当時は橋が流失した時は人足による渡しとなったと云う。
穏やかに見える余笹川は平成10年8月の那須水害で大きな被害を出している。
確か寺子橋も流されたはずだ。付近の電信柱には最高水位を示す赤い線が引かれている。 

街道は那須町に入る。栃木県最北の町、関東最後の町でもある。間もなく「みちのく」だ。
深く谷を削る川を渡り、尾根を越えての連続で結構なアップダウンを繰り返し北上する。 

 

黒川橋を渡る。下を流れるのは黒川だ。
街道当時も橋があったが、流失すると人足による渡しをしたそうだ。。

      

16:15 「夫婦石一里塚」
 夫婦石の一里塚は東塚だけが残っている。日本橋から42番目の一里塚になる。

 

芦野宿に向かって尾根を下っていくと、この先白河まで連れ添う国道294号と交差する。

芦野の宿並みが見えてきた。夕闇せまる山際にはスーパームーンが幻想的に美しい。

 

石造りの橋で奈良川を渡ると芦野宿に入る。江戸方の入口で迎えるのは大きな石地蔵尊だ。
街道は左直角に折れ、下野国最北の宿場はこの奈良川に沿って続いている。 

Navi89. 伊豆屋菓子店(直進)→<県道72号>→遊行庵食堂 1.0km 12分

16:30 「芦野宿」
 桝方を抜けて宿並みの中心部に入る。
左右の家の軒先には屋号が書かれた常夜灯が設置され、宿場らしい雰囲気を醸している。
旧くからの屋号を染め抜いた、魚屋さん、酒屋さんの淡い灯りが宿並みに美しい。
 

 

芦野宿の規模は、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒。関東最北の宿駅はすでに夕闇の中だ。
臼井本陣は何ら痕跡を残さず、代わりに武家屋敷平久江家で8日目の行程を終える。
佐久山宿から大田原宿、幾つもの深い川を渡り、鍋掛宿・越堀宿を経て歩いてきた。
関東最北の芦野宿までは28.9km、6時間30分の旅。白河までは約20kmを残すのみだ。  


奥州道中紀行7 氏家宿~喜連川宿~佐久山宿

2017-11-05 | 日光道中・奥州道中紀行

 

10:00 「氏家宿」
 宿並みのほぼ中央部、光明寺の境内の岩上に青銅像の不動明王坐像が安置されている。
丈六仏と云われる大きな仏像で江戸時代の絵巻物「奥州道中分間延絵図」にも描かれている。
剣を持ち、縄を持ち、火炎を背負った姿は凛々しくそしていかつい。
奥州道中を往く7日目は、ここ光明寺から佐久山宿をめざす。 

Navi73. 上町交差点(右折)→<市道~国道293号>→佐藤自動車前 4.0km 50分

氏家宿を抜けて旧櫻野村に入ると旧い遺構が残っている。
名主であった村上家の棟門もまた「分間延絵図」に描かれている。
この門には享保8年(1723年)の五十里洪水の際に、水に浸かった痕跡が残っている。 

紡績などで財を成した瀧澤家住宅は県の指定文化財となっている。
明治天皇が小息所として立ち寄った住宅は一般公開されている。長屋門が立派だ。 

10:50 「狭間田一里塚」
 日本橋から32番目にあたる狭間田一里塚は南塚のみが残っている。塚木が「梅」と珍しい。
坂本家の敷地内になるので、家人にお願いして拝見させていただいた。 
こんもりとした小さめの塚と梅の古木が、庭の一部として美しく残っている。 

11:00 「明治時代の水準点」
 内務省地理寮(国土地理院の前身)が明治9年の水準測量に際して、大黒天に記号を刻んだ。
水田地帯の狭間田一帯には他に不朽物がなかったからだと推測される。ちなみに標高158mだ。
R293はここを大きく右にカーブして喜連川をめざし、街道は真直ぐ山道を越えて最短ルートを行く。

Navi74. 佐藤自動車前(直進)→<市道>→古道入口 1.1km 15分 

喜連川に向けて早乙女坂(弥五郎坂)を上って行く。路傍の石仏がここが街道であったことを物語る。 

Navi74. 古道入口(斜め右)→<奥州街道古道~市道>→連城橋南詰 1.6km 20分

早乙女坂のピークから右に奥州街道(古道)を歩くことができる。
急坂は長らく難所とされ、明治13年に迂回路が開かれている。 

古道がふたたび市道に合流し、県道180号線を越えると荒川に行き当たる。
向こう岸の展望台が立っている丘が喜連川城址だ。麓には温泉が湧く。
連城橋で荒川を渡ると喜連川宿に入る。江戸時代には木橋が架かっていたと云う。 

Navi75. 連城橋南詰(左折)→<県道114号~県道74号>→台町交差点 1.3km 15分

11:35~12:15 「喜連川宿」
 龍光寺は喜連川藩主である喜連川足利氏の菩提寺である。
徳川家康は喜連川足利氏を客分として扱い、参勤交代の免除、正室の国許居住を認めた。
みちのくの諸大名が参勤交代で当地を通過する際にも、住民に土下座をする必要がなかったと云う。 

喜連川神社は速須佐之男命(スサノオノミコト)と櫛名田比売命(クシナダヒメノミコト)を祭神とする。
永禄6年(1563年)に創建された
近隣15郷の総鎮守だそうだ。
夏の天王祭(例大祭)の暴れ神輿は、県を代表するお祭りであると云う。

 

喜連川宿の規模は天保年間において本陣1、脇本陣1、旅籠19軒であった。
本陣上野家の跡地はカフェレストランになっていて、地元喜連川産の高級ポーク「あさの豚」が味わえる。
ひときわ立派なのは笹屋呉服店の蔵、250年を超える歴史がある。 

 

茶屋で一服を気どって紙屋菓子店に寄って、大福と栗饅頭をいただく。
お孫さんが家業を継ぐとかで店舗を新築中とか、幸せそうな女将さんの話を仮店舗で伺う。
ほんのりミルク風味の生地にモチモチ食感の黒糖のお餅が詰まった "喜連川鮎" を土産に求めた。
地元の名産でもある鮎に見立てて作った可愛らしいお菓子なのだ。

Navi76. 台町交差点(右折)→<市道>→丁字路 0.1km 1分

Navi77. 丁字路(左折)→<市道>→金竜橋南詰 0.2km 2分

Navi78. 金竜橋南詰(右折)→<県道114号>→JAしおのや 1.9km 25分

 

日本橋から33番目の喜連川一里塚は宿場の中に在ったはずだが痕跡はない。
宿並みは台町交差点で鉤状に折れて内川に行き当たって終わりとなる。
内川に架かる金竜橋は、街道当時も常設橋だったそうだ。流出した際には蓮台で渡したと云う。
それにしても雲行きが怪しくなってきた。迂闊にも雨具の用意がない。 

Navi79. JAしおのや(左折)→<市道>→ヤマギシズム 0.1km 1分

Navi80. ヤマギシズム(右折)→<古道>→さくら市南和田地籍 3.4km 45分 

 

大規模な養鶏場脇から、畑中そして雑木林の中へと尾根筋の高い地形を古道が延びている。
日本橋から34番目の南和田一里塚も山中に没している。この古道も本来の道筋とは微妙に違うようだ。 

Navi81. さくら市南和田地籍(左折)→<県道25号>→曽根田交差点 0.9km 10分

Navi82. 曽根田交差点(右折)→<県道114号~県道48号>→きらり佐久山 4.7km 60分 

 

引田一里塚の目印は見落として通り過ぎたらしい。路傍に3体のほほえみ仏像を見つける。
ここを過ぎると間もなく大田原市に入る。っと、とうとう大粒の雨が降り出した。 

 

14:00 「和楽庵」
 緊急避難の雨除けを探して5分歩かないうちに、コンビニと食事処が眼前に現れる。
喜連川宿から佐久山宿の間に在る唯一の現代の茶屋なのだから極めて幸運である。
準備中の札に掛け替えたばかりの「和楽庵」にお願いして入れてもらう。
今日の街道めしは "蕎麦セット"、野菜天ぷら、黒ごまごはん、ぶどうまめが付いてつまみにもなる。
先のことは気にせずに生ビールも呷ってしまおう。 

Navi82. きらり佐久山(左折)→<市道>→郡司理容店前 1.2km 15分 

Navi83. 郡司理容店前(直進)→<県道48号>→神明町交差点 7.0km 90分

コンビニで求めた青いポンチョを羽織って残り一里を往く。足元はグチョグチョなのだ。
左手に佐久山の日帰り温泉を通り過ぎる。恨めしい。
JAの直売所前で分かれた県道114号を佐久山前坂交差点で横切ると佐久宿の江戸方入口だ。
宿並みに旧い遺構は殆どない。長宗寺の大日堂が唯一か。中には不動明王立像が安置されている。 

15:20 「佐久山宿」
 佐久山宿は箒川の河岸段丘上に東西に延びている。
天保年間におけるその規模は本陣1、脇本陣1、旅籠27軒であった。
本陣井上家は郵便局の隣になる。ここに立つ顕彰碑は本陣とは何ら関係はない。 

 

「友白髪」という縁起物を銘柄にした酒は、日本に幾つか在るようだ。
佐久山宿の東の外れにも島崎酒造という蔵元が「友白髪」を醸していた。今は廃業している。 

街道が北に直角に折れると、健保2年(1214年)建立の正浄寺がある。
親鸞聖人が東北御巡錫の折、一宿した家に阿弥陀如来を授与したのが起源と云う。
正浄寺は佐久山宿の白河方の入口になり、街道はこの先直ぐに箒川を渡って大田原城下へと向かう。
不動明王に見送られた奥州道中7日目の行程は、喜連川宿を経て佐久山宿までの21.1km。
冷たい雨に降られながらの5時間20分の旅であった。那須岳を眺めながら白河まではあと50kmだ。 


奥州道中紀行6 宇都宮宿~白澤宿~氏家宿

2017-10-10 | 日光道中・奥州道中紀行

 この秋三度目の宇都宮宿となる。
街の中心は二荒山神社、延喜式に名を連ねる歴史ある神社で
下野國一之宮といわれている。

 

09:00 「宇都宮宿」
 日光道中との追分は伝馬町交差点。
日光道中はここを左折して清住通りを北上し、奥州道中は真直ぐJR宇都宮駅方面へと進む。
2つの本陣のうち本陣青木家は、この伝馬町交差点を日光道中と反対に右折したところにある。
もう一方の本陣石橋家跡はみずほ銀行宇都宮支店の場所らしい。
いずれにしても、終戦直前に大きな空襲に見舞われてた宇都宮に古い遺構は残っていない。 

Navi58. 裁判所前交差点(右折)→<国道119号>→NOF宇都宮ビル 800m 10分

Navi59. NOF宇都宮ビル(右折)→<市道>→BAR Maron 130m 2分

Navi60. BAR Maron(左折)→<オリオン通り>→筑波BK宇都宮 400m 5分

Navi61. 筑波BK宇都宮(左折)→<県道35号>→ファミリーマート大通り二丁目店 50m 1分

Navi62. ファミリーマート大通り二丁目店(右折)→<大町通り>→ホテルニューイタヤ裏 400m 5分

Navi63. ホテルニューイタヤ裏(左折)→<上河原通り>→博労町交差点 500m 7分

宇都宮宿の白河方の入口は田川に架かる幸橋。
ここに架橋されたのは江戸時代初期の万治4年/寛文元年(1661年)と早い。
元々上河原橋の名称を明治天皇の御渡歩を期に幸橋と改称したと云う。

Navi64. 博労町交差点(右折)→<県道125号>→小野川通商前 8.0km 100分

09:30 「旧篠原家住宅」
 奥州街道口で、醤油醸造業や肥料商を営んでいた旧篠原家住宅は国指定重要文化財。
現在の建物は
明治28年(1895年)のもので一般公開している。
宇都宮大空襲を経て残った母屋と石倉は、ここが街道筋であったことを想像させてくれる。

 

奥州道中は旧篠原家住宅の在る博労町交差点から延々と県道125号を北上する。
竹林町辺りでは豪農の家らしい立派な門構や大谷石を使った蔵が散見される。
日本橋から28番目となる竹林一里塚は、豊郷南小学校辺りと推測されるが痕跡はない。 

白沢街道の名称がついた県道125号線が海道町交差点を過ぎると並木が現れる。
桜、杉、栗であったり様々だ。
左右には近隣の農家が直売する梨や巨峰が秋を感じさせる。 

10:40 「海道新田一里塚(推定地)」
 海道新田一里塚は日本橋から29番目になるが痕跡はない。
塚があったと推測される辺りには蕎麦の畑が広がっている。 

Navi65. 小野川通商前(直進)→<市道>→白沢宿交差点 0.9km 11分

 

県道125号が新道で左手に逸れていくと間もなく白沢の集落になる。
白沢地蔵尊辺りから街道は鬼怒川の氾濫原に向かって緩やかな勾配を降りて行く。

白澤宿の江戸方の入口、大榎のたもとに「江戸時代の公衆便所」なるものがあった。
高さは160cmくらい、一畳敷きほどの小さな小屋に2つの半個室、肥桶が積み重なっている。
挿絵には用を足しているしゃがみ込んだ侍に、鼻を抓んだ順番待ちの旅人二人、微笑ましい。 

Navi66. 白沢宿交差点(左折)→<県道239号>→河内郵便局 0.4km 5分

 

白澤宿内は道路の左右に水路が流れ、家々は軒下に屋号を記した板を揚げていて雰囲気が在る。
白沢交差点を左直角に折れると、間もなく右手に本陣宇加地家がある。水路には水車が回っている。 

11:15 「白澤宿」
 天保年間の「奥州道中宿村大概帳」に印された白澤宿の規模は、本陣1、脇本陣1、旅籠13軒。
やや小ぶりの宿場だったようだ。鬼怒川で獲れる鮎、それに牛蒡が名物であったと云う。

 

宿並みは白河方の入口手前でもう一度右直角に折れるのだが、この突き当たりに井上清吉商店が在る。
明治元年創業の蔵では "澤姫" の銘柄で地酒を世に出している。"澤" はもちろん白澤宿から受けている。

Navi67. 河内郵便局(直進)→<市道>→鬼怒川堤防 1.0km 13分 

鬼怒川堤防への田舎道を進むと、土地の方が建てた白澤一里塚址碑がある。
距離的にはだいぶ手前のような気がするが、そもそも繰り返される鬼怒川の氾濫で場所は特定できない。 

 

Navi68. 鬼怒川堤防(左折)→<堤防道路>→阿久津大橋西詰 1.5km 20分  

Navi69. 阿久津大橋西詰(右折)→<県道125号>→上阿久津交差点 0.7km 10分 

阿久津大橋で鬼怒川を渡る。「鬼怒川の渡し」は500mほど下流であると思われる。
街道時代の「鬼怒川の渡し」は、春から秋にかけては舟渡し、冬の渇水期には仮橋を架けて渡ったと云う。

Navi70. 上阿久津交差点(左折)→<県道125号>→勝山城址入口 1.5km 20分

 

上阿久津の高尾神社は、人間の能力では自由にならない天候を支配する高尾神を祀る。
雷神・龍神・水神などを祀って信仰されてきたのは、暴れる鬼怒川の神を鎮めようとしたからだろうか。
今日はちょうど例祭の日らしく、引き回される彫刻屋台が見事だった。 

将軍地蔵には、源義家が奥州に進軍したときの鬼怒川釜ヶ渕の悪蛇退治の物語がある。
江戸時代には、街道の道中安全にご利益があると有名になったと云う。
なるほど、境内には遠く秋田・会津の商人たちから奉納された石灯籠などが残されている。

 

12:40 「勝山城址」
 鬼怒川の段丘面を天然の要害にした勝山城は、鎌倉末期に氏家氏が築いた。
その後宇都宮氏の北方防衛の拠点であったが、豊臣秀吉の命で改易したのに伴い廃城となっている。
城址からは日光連山から那須連山まで見渡せる。

Navi71. 勝山城址入口(右折)→<市道>→馬頭観音 1.5km 20分

田舎道となった街道を進む。国道4号の上阿久津バイパスを渡った辺りに氏家一里塚があったはずだ。
その先左手の「お伊勢の森」は、伊勢神宮の内宮・外宮その他末社を勧請したのが祀られている。 

 

東北本線の複線を渡る。踏切の名称は「旧奥州街道」とある。東京駅からは126kmになる。

 

田舎道の行き止まりは、奥州道中と太田街道の分岐点となっていて、旧い道標が建っている。
享保年間以前の道標には「右江戸海道、左水戸かさま、下だて、下づま」と書かれているそうだ。
正面の「右江戸海道」だけが辛うじて読み取れる。
ここを鉤の手に曲がると氏家宿の江戸方の入口で、木戸番所が設けられていた。

Navi72. 馬頭観音(斜め左)→<県道181号>→上町交差点 0.9km 10分

 

13:30 「氏家宿」
 国道293号と交差する氏家交差点を過ぎると左手にある平石歯科医院が、本陣平石家の跡になる。
天保年間の「奥州道中宿村大概帳」に印された氏家宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠35軒の規模。
鬼怒川舟運の北限である「阿久津河岸」が近いため、物資の集散地として大いに賑わったと云う。

 

氏家宿には宿場の遺構がほとんどない。代わりに宿並みの中央部「西導寺」をゴールに行程を終える。
西導寺は建久2年(1191年)に氏家氏の始祖で勝山城を築いた宇都宮公頼が開いたとされる古寺だ。
日光道中と分かれた奥州道中、白澤宿を経て、鬼怒川を渡り氏家宿までは19.0km、4時間30分の旅。
ゴールまで持ち越した今日の街道めし、西導寺門前の「なかや」で "とろろそば" と生ビールなのだ。

 


日光道中紀行7 大沢宿~今市宿~鉢石宿

2017-10-02 | 日光道中・奥州道中紀行

 日光東照宮「陽明門」に立った。
豪華絢爛な美しさは、40余年ぶりの大修理を終え、本来の輝きを取り戻したかのようだ。
正月3日に日本橋を発ってから140km、延べ7日間の日光道中の旅がここに終わる。

Navi63. 大沢郵便局(斜め左)→<旧道>→水無交差点 1.3km 17分

      

07:50 「大沢宿」
 大沢宿を発った日光道中は基本的に国道119号を往く。
時折旧道となって右へ左へ外れるが、杉並木の間を通れば良いのであって迷うことは無い。
日光方の入口から宿外にでると、直ぐに八坂神社がある。と云っても小さな祠だ。

 

八坂神社を過ぎると、旧道は突然通行止め、排気ガスや振動から杉並木を守る配慮だ。
この先は過ぎの落ち葉を踏みしめて歩く。

08:00 「水無一里塚」
 日本橋より32里目の水無一里塚、並木の中にあるので両塚が原形を留めている。
杉並木自体が道路面より高い位置に植えられているので、塚の全容を観るのは難しい。

 

08:05 「水無地蔵尊」
 杉並木の旧道は水無交差点で国道119号と合流する。
その手前に水無地蔵尊、地蔵堂を囲むように数体の地蔵が並んでいる。

Navi64. 水無交差点(直進)→<国道119号>→日光甚五郎煎餅工場 1.4km 18分

Navi65. 日光甚五郎煎餅工場(斜め右)→<旧道>→下森友交差点 0.9km 12分
Navi66. 下森友交差点(直進)→<国道119号>→森友交差点 0.5km 6分 

Navi67. 森友交差点(斜め右)→<旧道>→小倉交差点 2.8km 40分

 

08:50 「七本桜一里塚」
 日本橋から33本目の七本桜一里塚。
東塚の塚木は杉の巨木なのだが、根元が腐って大きな空洞になっている。
大人4人程度が入れることから「並木ホテル」とも云われている。

七本桜交差点の先で東武日光線のガードを潜る。杉並木と東武電車のコラボレーションだ。

まもなく西側から別の杉並木が近づき、小倉町交差点手前で合流する。日光例幣使街道だ。
この街道は倉賀野宿で中山道と分岐して、太田宿、栃木宿を経て、日光道中と合流する。
例幣使とは朝廷の勅使のことで、朝廷から神への捧げものを毎年東照宮に納めた。
往路は中山道から日光例幣使街道を、復路は江戸で将軍と対面してから帰京したと云う。 

Navi68. 小倉交差点(直進)→<国道119号>→瀧尾神社 0.8km 10分

 

09:20 「追分地蔵」
 追分の二股になったところに追分地蔵がある。
もともと如来寺に安置されていたものを、街道開設の頃この地に移したものらしい。
日光道中と例幣使街道が合流した追分が今市宿の江戸方の入口である。
小倉町交差点辺りに木戸が設けられていたと云う。

 

09:25~10:05 「今市宿」
 今市宿に入ると直ぐ右手に道の駅が広がる。その裏手にあるのが報徳二宮神社が在る。
二宮尊徳は幕府の命による農村復興事業の最中、ここ今市で70歳の生涯を閉じている。
今市宿の規模は、本陣1、脇本陣1、問屋場1、旅籠21。1と6の日には市が開かれ賑わった。
宿場は幕末に戊辰戦争の戦火に見舞われ、大半が焼失し、宿並みに当時の面影は無い。

 

道の駅の向かい側には "日光誉" 渡邊佐平商店が在る。天保13年(1842年)の創業だ。
日光山麓の清冽な名水を汲み、日光連山から吹き下ろす冬の寒気の中で酒を醸している。
将軍の行列も例幣使の行列も、市の賑わいも見つめてきた酒蔵は宿場の華なのだ。

 

宿並みの中央、春日町交差点に日光名物 "たまり漬" 上澤梅太郎商店が在る。
この向かい側辺りに本陣大橋家が在ったのだが、当然に何の遺構もない。
宿場の鎮守瀧尾神社は、日光二荒山神社を祀った際、この地にも瀧尾権現を祀った。
この瀧尾神社が宿場の日光方の入口で木戸が設けられていたそうだ。

Navi69. 瀧尾神社(斜め右)→<旧道>→日光市野口 3.5km 45分

瀧尾神社から先の日光道中は杉並木鑑賞道路となる。この辺りの杉並木が美しい。
左右に清流が流れる砂利道が杉の並木の中で緩やかに右へ左へとカーブして続いて行く。

 

日本橋から34番目、日光道中最後の瀬川一里塚は終ぞ見つけられずに通り過ぎてしまった。
戊申戦争では日光・会津への交通の要衝今市宿をめぐる官幕両軍の激しい攻防戦が展開された。
慶応4年(1868年)4月、官軍の北村砲隊が放った砲弾の痕が並木杉に残っている。

 

野口の集落に入ると薬師堂があって念仏供養塔が並んでいる。青雲山竜蔵寺の跡地だ。
貧しい竜蔵寺には釣り鐘がなく、日光廟造営の石工に造ってもらった石の釣鐘が在る。

Navi70. 日光市野口(斜め右)→<国道119号>→いろは食堂 1.9km 25分

Navi71. いろは食堂(斜め左)→<旧道>→東和町交差点 0.4km 5分
    ※JR日光線ガード下でR119と交差するので注意 

 

JR日光線のガード下で国道119号と交差してさらに旧道を行く。
鉢石宿を目前にして石段がある。
明治天皇が東北行幸の際、この階段のため、七里の御小休所で馬車から馬に乗り換えた。

Navi72. 東和町交差点(直進)→<国道119号>→神橋交差点 2.0km 30分 

11:55 「鉢石(はついし)宿」
 JR日光駅入口の相生町交差点。ここに鉢石宿の木戸が在った。
日光道中最後の宿場である鉢石宿の規模は、本陣2、脇本陣1、問屋場1だ。

 

ゴール目前、文化元年(1804年)創業と云う老舗「湯沢屋まんじゅう本舗」でひと休み。
ちょうど二つあった本陣の一方、高野本陣はこの店の向かい側と思われる。
"焼き酒まんじゅう" は、餡の入った酒饅頭を串にして、味噌だれをつけて焼いたもの。
抹茶といただく。これ中々いける。疲れも吹っ飛ぶ。これから東照宮も歩くからね。

高野本陣の先の「鉢石」は、開祖勝道上人がこの石に座って日光山を仰いだと云うもの。
「鉢を伏せたような形状」がその名の起こり、やがてこの地の地名になった。
大谷川の流れの碧に映える朱塗りの「神橋」は日光道中の終着地。対岸は神域になる。
大沢宿から今市宿を経て、美しい杉並木を歩いた最終日は、15.8km、4時間05分の行程だ。
次回は宇都宮宿に戻って奥州道中を進める。 了 


日光道中紀行6 宇都宮宿~徳次郎宿~大沢宿

2017-09-30 | 日光道中・奥州道中紀行

 2週間を経てふたたびの宇都宮宿。二荒山神社は延喜式に名を連ねる歴史ある神社。
代々の宇都宮城主が社務職を兼ね「宇都宮大明神」と称する。
郷土の祖神・総氏神さまとして篤い信仰を受け、
下野國一之宮といわれている。

 

10:00 「宇都宮宿」
 出発点の伝馬町交差点は奥州道中との追分、奥州道中は真直ぐJR宇都宮駅方面へ。
日光道中はここを左折して清住通りを北上する。
ところで伝馬町交差点を右に折れると、2軒めの民家の中庭に大イチョウが目に入る。
ここが本陣青木家の跡だそうだ。 

松峰山桂林寺は元和6年(1620年)、街道開設から間もなくに現在の場所に移ったと云う。
日本橋から27里目の宇都宮一里塚も、宿場の日光方の入口の木戸があったのもこの辺りだ。
街道は門前から北西方向に進行方向を変える。

Navi60. 松原3丁目交差点(斜め右)→<国道119号>→山口交差点 17.3km 220分 

 

11:05 「上戸祭一里塚」
 宇都宮環状道路とのクロスする宮環上戸祭交差点を過ぎると桜並木がはじまる。
日本橋から28里の上戸祭一里塚は、檜が植えられた西塚がほぼ完全に残っている。

11:30 「宝珠山玉塔院光明寺」
 旧野沢村は宇都宮宿と徳次郎宿の中間にあって立場となり茶屋などが設けられた。
光明寺は真言宗智山派の寺、街道時代には東照宮に参詣する将軍の休息所となっていた。 

この辺りの並木は街道より高い位置に土塁のように続いている。
東北自動車道を潜る手前に高谷林一里塚があったはずだが見逃してしまった。 

東北自動車道を越える。
右手に煉瓦造りの八角形の建物、「宇都宮市水道第六号接合井」と右書きの文字。
大正3年に竣工した水道施設で赤煉瓦と大谷石の建屋は国登録有形文化財だ。
威風堂々たるこの建屋を過ぎると街道は徳次郎宿に入って行く。
右手の滝乃金田屋パン工場が下徳次郎宿の金田仮本陣だ。

12:30 「徳次郎宿」
 江戸から18番目の徳次郎宿は、厳密には下徳次郎宿、中徳次郎宿、上徳次郎宿の合宿。
人馬継立などの宿場業務を月の10日ずつ分担していた。
その規模は3宿合わせて本陣2、仮本陣1、脇本陣3、問屋場3、旅籠72軒だ。
中徳次郎宿を過ぎると智賀都神社、宝亀9年(778年)に勧請した徳次郎3宿の総鎮守だ。 

上徳次郎宿の館野本陣があった辺りまで来ると田園風景が広がる。
その先に見えるのは篠井富屋連峰だ。 

 

12:55 「石那田一里塚」
 日本橋から30里の石那田一里塚は船生街道入口に東塚だけが残る。
塚の上には塚木の代わりに石の標柱が立つ。ちなみにバス停の名称も「一里塚」だ。 

 

「馬力神」は民間信仰から生まれた馬の守護神、栃木県や宮城県で見られる。
荷駄を運んだ馬の供養のための馬頭観音とは異なる。この辺りから左右に石仏が目立つ。 

 

「うらない地蔵」は享保15年(1730年)に建立の阿弥陀像、大谷石なので風化が激しい。
「上小池一里塚」は杉並木の傍らに西塚だけが辛うじて痕跡を残していた。
訝しいので80代位の散歩中のお爺さんに訊ねる。
俺が若い衆の頃には二つあったよ遠い目をして教えてくれた。 

 

14:00 「そば処栗山」
 今日の茶屋はそば処栗山、街道が宇都宮市から日光市に入って間もなくだ。
コスモスが揺れている。飲んだら後が辛いのを承知でもビールは止められない。

街道めしは "大根そば"、辛み大根を溶くのかと思いきや、千切り大根がのってきた。  

Navi61. 山口交差点(直進)→<旧道>→大沢交差点 1.5km 15分 

山口交差点の先で二股に分かれる、直進する旧道が日光道中だ。
杉並木は慶安元年(1648年)、松平正綱によって植栽され日光東照宮へ寄進された。
杉並木の入口には「並木寄進碑」が建っている。

Navi62. 大沢交差点(斜め右)→<国道119号>→大沢郵便局 0.5km 6分

14:50 「大沢宿」
 美しい杉並木の旧道がR119と合流する大沢交差点が大沢宿江戸方の入口だ。
幕末期の大沢宿の規模は本陣1、脇本陣1、問屋場1、旅籠41軒。
度重なる大火に見舞われた宿並みは街道時代を思い起こさせるものは残っていない。
源頼朝を祀った王子神社を右手に見て、大沢小学校前の歩道橋の辺りが福田本陣跡だ。
宇都宮宿は奥州道中との追分、伝馬町交差点から徳次郎宿を経て大沢宿まで、19.9km。
所要4時間50分がこの日の行程だ。日光二荒山神社の「神橋」までは、あと15.8kmだ。

 


日光道中・奥州道中紀行5 小金井宿~石橋宿~雀宮宿~宇都宮宿

2017-09-18 | 日光道中・奥州道中紀行

10:30 「小金井一里塚」
  日本橋から22番目の小金井一里塚は東塚西塚の一対が立派に残っている。
故に日光道中では唯一の国指定史跡だ。西塚には榎、東塚には檪(くぬぎ)と榎の巨木。
日光道中はこの一里塚を過ぎると小金井宿に入って行く。

 

慈眼寺(じげんじ)は上野国の豪族 新田義兼が建久7年(1196年)に創建した古刹。
三間四面朱塗りの観音堂、鐘楼は江戸時代のものだ。
境内には将軍が日光参詣時の御座所が在って昼食休憩をとったと云う。

10:45 「小金井宿」
 江戸から14番目になる小金井宿の規模は本陣1、脇本陣1、問屋場1、旅籠43軒。
宿駅となったのは延宝9年(1681年)と街道制定よりかなり後のことである。
本陣大越家には四脚門が残っている。

 

宿並みには2棟の見世蔵が残っているのだが老朽化が著しい。

 

小金井宿の日光方の入口は薬師堂がある辺り、街道当時は土塁で固められていたそうだ。

 

Navi52. ミニストップ自治医大駅西店(左折すぐ右折)→<市道>→レストラン倉井 1.7km 21分

退屈な国道を進んだ後、真新しい下野市役所の先に本来の道筋を歩くことができる。
真直ぐに延びる農道からは薄らと日光連山を眺め、左右には名産かんぴょうの畑もある。

Navi53. レストラン倉井(右折すぐ左折)→<国道4号線>→上御田入口バス停 10.0km 120分

11:55 「夕顔橋の石仏群」
 のんびり歩いた農道もやがて林に道を塞がれ、すぐ東側を北上する国道4号線に戻る。
下石橋交差点の手前には夕顔橋の石仏群が在る。
年代が明らかなものとしては享保3年(1718年)の地蔵菩薩立像が祀られている。
石仏群が国道に背を向けていることが、本来の街道がやや西側を通っていたことを教える。

 

本町交差点を過ぎると右手に見える愛宕神社は、天平宝字3年(759年)創建の古社である。
この辺りが日光道中江戸方の入口で、かつては土手が築かれていたと云う。

 

12:20 「石橋宿」
 石橋宿は江戸から15番目の宿場である。現在の国道4号線では93キロのポストが立つ。
その規模は本陣1、脇本陣1、問屋場2、旅籠30軒になる。
遺構は殆ど残っていないが、脇本陣をつとめた伊沢邸が街道時代風の建物になっている。

本陣跡から少し先、石橋山開雲寺は、慶長9年(1604年)に将軍家から寺領を拝領した。
日光東照宮造営後は徳川将軍家の日光参詣時の休泊所となっている。


延々と続く退屈な国道歩きはいつしか宇都宮市に入って行く。
この間、江戸から24番目の下古山一里塚と25番目の雀宮一里塚が在ったはずだ。
安塚街道入口交差点は雀宮宿の入口になる。かつては木戸と土塁があったと云う。

 

13:45 「雀宮宿」
 雀宮宿は江戸から16番目の宿場になる。
本陣1、脇本陣1、問屋場2、旅籠38軒と云うのが江戸時代末期の宿場の規模だ。
本陣小倉家は天正年間には真岡城主になった家、今では跡碑のみが建つ。
明治天皇の奥州巡幸の小休所となった名主の仮本陣芦谷家には門構と板塀が残る。

 

日光方の入口には雀宮神社が在る。秋祭りの準備中だ。
東に筑波山、加波山の眺望が良いと道中記にある。東京から丁度100キロになる。

Navi54. 上御田入口バス停(左折すぐ右折)→<国道4号線脇の路地>→コナカ雀宮店 0.8km 10分

Navi55. コナカ雀宮店(右折すぐ左折)→<国道4号線>→西原交差点 3.7km 45分

14:50 「江曽島一里塚跡」
 日本橋から26番目の江曽島一里塚は東北本線と並行する辺り、痕跡は残っていない。
鉄道の建設時に消滅したと云う。交差点の名前が「一里」なのが名残と云えば名残か。
ちなみに宇都宮では、市内から南へ向かう日光道中(国道4号線)を「東京街道」と呼ぶ。 

Navi56. 西原交差点(直進)→<国道119号線>→不動前交差点 0.7km 9分

Navi57. 不動前交差点(斜め左)→<市道>→裁判所前交差点 2.2km 27分

15:10 「不動堂」
  不動明王は、日光道中と奥州街道(明治以降の)との分去れにあり、宇都宮に入る目印だ。
傍ら昭和3年の道標には、「右奥州・日光街道、左裁判所、正面東京に至る」とある。
「左裁判所」方面が江戸時代の日光道中・奥州道中である。

      

15:40 「宇都宮宿」
 不動前交差点を左折すると300mほどで東武宇都宮線のガードを潜る。
この辺りが日光道中江戸方の入口で、木戸・土塁に加えて番所が置かれていた。
その先新町の推定樹齢800年のケヤキの巨木は宇都宮城下の目印だ。
さらに1.5kmを直進すると街道は裁判所に突き当たる。
標識に示す日光とは反対に日光道中はJR宇都宮駅方面に右折する。
宇都宮宿は日光道中随一の賑わいの地、南北2.2km、東西2.1kmに広がり、
本陣2、脇本陣1、問屋場1、旅籠42軒の規模だったと云う。

Navi58. 裁判所前交差点(右折)→<国道119号>→伝馬町交差点   140m 2分 日光道中へ
Navi58. 裁判所前交差点(右折)→<国道119号>→NOF宇都宮ビル 800m 10分 奥州道中へ

Navi59. 伝馬町交差点(左折)→<清住町通り>→松原3丁目交差点 1.6km 20分

 

本陣青木家跡は伝馬町交差点辺りだが、残念ながら何の痕跡も残っていない。
ここは日光道中と奥州道中の追分、日光道中は左折し北上、奥州道中はさらに直進する。
奥州道中方面へ進むと、毛野国の開祖である豊城入彦命を主祭神とする二荒山神社がある。
宇都宮宿が道中随一の賑わいであったのは、二荒山神社の門前町であったからでもある。

小金井宿から石橋宿、雀宮宿を経て宇都宮宿までは、21.3km、5時間10分。
古い遺構も少なくやや退屈な国道歩きであった。首筋の日焼けが痛い。
さて随分遅くなった今日の街道めしは餃子舗宇都宮みんみん。
本店は長蛇の列につき、駅ビルで焼き餃子と水餃子。鉢石(日光)まではあと35.3kmだ。

 
 


日光道中・奥州道中紀行4 古河宿~野木宿~間々田宿~小山宿~新田宿~小金井宿 

2017-06-19 | 日光道中・奥州道中紀行

07:20 「古河宿」
 福法寺の山門は古河城二の丸御殿にあった「乾門」を移築したものだ。
唐破風(からはふ)造りの屋根をのせた平唐門(ひらからもん)は、唯一残る城内遺構となる。 

 

江戸時代から両替商を経て、その後酒問屋として栄えた「坂長(さかちょう)」の店蔵は、
旧古河城の文庫蔵を移築したもの。現在はお休み処として観光客を迎えている。

Navi22-2. 本町2丁目交差点先2つめ信号(左折) 曲の手通りを140m

Navi22-3. スーパーとみや(右折) よこまち柳通りを700mで県道261号に戻る

 

城下町特有に鉤の手に曲ると「よこまち柳通り」、旅籠・茶店・遊郭が並んでいた界隈だ。
古民家が多く残っている、うなぎの武蔵屋本店もそのひとつだ。

Navi23. 野木交差点(左折) → <国道4号> → 粟宮交差点 11.3km

 

08:00 「野木宿」
 江戸から10番目の「野木宿」は下野国に入って最初の宿場だ。現在その面影はない。
宿場の規模は天保年間に於いて、本陣1、脇本陣1、問屋場4、旅籠25軒となっている。 

少々寄り道をした「野木神社」は、約1600年前、仁徳天皇の時代の建立。
征夷大将軍・坂上田村麻呂が延暦21年(802年)にここに詣で、勝どきを挙げたと謂われる。
境内脇には紫陽花が今を盛りに咲いている。

 

野木宿の町並みは10町55間(約1.2km)と長い。
宿並みの中に「野木一里塚」があった筈だが何の痕跡もない。
宿場の北口には「是より大平」の道標が建っている。
観音堂と十九夜塔が建つ辺りに、土塁と木戸が設けられていたそうだ。 

 

08:55 「法音寺・友沼八幡」
 友沼には立場があって "とろろ汁" が名物であったと云う。
「法音寺」には安永9年(1780年)に建てられた芭蕉句碑がある。
「道の辺の むくげは馬に 喰われけり」とあるがこの地で詠まれた句ではない。
斜向かいの「友沼八幡神社」は日光参詣の将軍の小休場であった。

 

09:10 「乙女一里塚」
日本橋から18番目の「乙女一里塚」は西塚のみが残る。国道4号線の69キロポストが建つ。

 

09:55 「逢いの榎」
 江戸へ18里、日光へ18里、日光道中の中間地点に在るので「間の榎」と呼ばれていた。
時代の流れとともに、いつしか縁結びの「逢いの榎」として祖師堂が建てられた。
願をかけに訪れる男女が多かったと云う。
榎を過ぎ緩やかな上りになる琴平神社辺りが間々田宿の南入口、土塁と柵があったそうだ。 

10:10 「間々田宿」
 江戸から11番目の「間々田宿」は、本陣1、脇本陣1、問屋場3、旅籠50軒の規模。
元和4年(1618年)に宿駅となってから、結城藩領、古河藩領、直轄領、宇都宮藩領と
目まぐるしく所属が変わっている。

旧い遺構はなく、本陣青木家跡にも真新しい案内板があるのみだ。

 

宿内の茶屋「乙女家」で一休み。
栃木県特産の "かんぴょう" がジャムになって入っている「るかんた」をいただく。
甘夏風味と抹茶風味が美味しい。

少々寄り道をして「間々田八幡宮」、宿の総鎮守で天平年間(729~749年)の勧進。
平将門の乱の折、藤原秀郷が戦勝祈願をし、見事乱を平定したと云われる。
文治5年(1189年)、奥州藤原氏との合戦に臨む源頼朝も戦勝祈願に立ち寄ったと云う。

10:35 「西堀酒造」
 日本橋から19番目の「間々田一里塚」は何の痕跡も残っていない。
粟宮には "若盛"・"門外不出" の「西堀酒造」が日光連山から湧き出す天然水で酒を醸す。
まだ先が長いので泣く泣く試飲を断念する。

Navi24. 粟宮交差点(直進) → <県道265号> → 喜沢分岐点 6.0km

 

11:45~13:15 「小山宿」
 「小山宿」は五街道追分と云われ、壬生通り・佐野道・結城道が分岐した交通の要衝だ。
本陣1、脇本陣2、問屋場4、旅籠74軒とかなり大きい規模なのだが、遺構は何ひとつない。
それにしても大衆食堂やら蕎麦屋の1軒も見つからず、なんと1時間30分も費やした。

 

街道から左右に朱塗りの灯籠がびっしり並ぶ参道を進むと「須賀神社」が鎮座している。
天慶の乱に際し、藤原秀郷公が日夜、素盞嗚命に戦勝を祈願し、成就することが出来た。
そこで天慶3年(940年)、京都の八坂神社から御分霊を勧請して祀ったのが始まりと云う。
社宝の「朱神輿」は、日光東照宮を造営した職人により東照宮を縮尺して造られたものだ。

 

小山市役所は、関ヶ原前夜の慶長5年7月24日、上杉討伐途上の徳川家康が、石田光成
挙兵の報を受け軍議「小山評定」を開いた所であり、評定所跡の碑がある。
さらに北隣りは日光参詣に向かう徳川将軍の宿泊所である小山御殿跡だ。

 

12:50~13:30 「喜沢追分」
 壬生通りの分岐点「喜沢追分」は旅人が休息した茶や立場があったところ。
現代の旅人もやっとこの地でお昼にありつく。「蕎麦きはる」で生ビールを呷る。
"酢蛸" で疲れはとれるだろうか。"十割蕎麦" は "とろろ" でいただくのだ。

Navi25. 喜沢分岐点(斜右) → <市道> → 羽川小学校 2.3km

 

13:35 「喜沢一里塚」
 日本橋から21番目の「喜沢一里塚」、西塚は雑木林の中にほぼ原形を残している。
一方、東塚は宅地の売れ残った一角に残土が盛られている感じだ。
一里塚を過ぎると街道は暫し東北新幹線の側道となって北上する。 

Navi25-2. 菅沼整骨院(斜左) 400mでR4に戻る

Navi26. 羽川小学校(斜右) → <国道4号> → ミニストップ自治医大駅西店 5.3km

14:00 「新田宿」
 羽川小学校あたりが、江戸から13番目「新田(しんでん)宿」の江戸方の入口になる。
本陣1、脇本陣1、問屋場1、旅籠11軒の規模は、日光道中では最も小さな宿場であった。
本陣跡には四脚門が残っている。

 

新田宿には幕府代官陣屋が置かれていた。もちろん遺構は残っていない。
陣屋跡の向かいには薬師堂がある。

 

Navi26-2. 銅市金属工業(左折すぐ右折) 1.9km、力道寿しでR4に戻る

右手に佐野手打ラーメンの赤い看板が見えたら銅一金属工業の角を左折。
さらに15m先を右折すると、建物(倉庫)の影に石仏群が佇んでいる。
宝暦2年(1752年)の供養塔、寛政12年(1800年)建立の馬頭観音などだ。
ここは新田宿の日光方の入口でもある。

国道4号線の概ね100m西側を約2km、道なりに真直ぐ進む。
市道が遊歩道になり、暗渠道になり、一部私道?を通り、再び住宅街の市道になる。
やがて街道は畑に突き当たるのだが、公園になった一里塚が目の前だ。
右折して30mで国道4号線に戻って左折となる。

 

14:40 「小金井一里塚」
 日本橋から22番目となる「小金井一里塚」は、東塚西塚の一対が立派に残っている。
西塚には榎、東塚には檪(くぬぎ)と榎の巨木が生えている。
梅雨の晴れ間の日曜日、古河宿からひたすら焼けたアスファルトの国道4号線を歩いた。
行程は25.0km、7時間20分。小金井一里塚は「小金井宿」の江戸方の入口でもある。

 


日光道中・奥州道中紀行3 杉戸宿~幸手宿~栗橋宿・中田宿~古河宿

2017-05-05 | 日光道中・奥州道中紀行

 

09:30 「杉戸宿」
 日光道中・奥州道中紀行、第3日目は杉戸宿から歩きだす。 江戸日本橋からは43.5km。
町中心部の交差点は「本陣跡地前」、実際にはここは問屋場跡、明治14年(1881年)には、
奥州・北海道巡幸に向かう明治天皇が休憩している。

 

日光方の入口に残る商家の屋号は「角穀」、桝方(曲がり角)にある穀物問屋だからだ。
傍らの道標は新しいもの。街道は角穀前を右にカーブして杉戸宿を出て幸手へと向かう。

ところで杉戸宿には旅籠が48軒、旅人だけでなく近郷から泊まりに来る客も多かった。
それと云うのも旅籠の多くは飯盛旅籠、つまり飯盛女(遊女)を抱えていたからだ。 

Navi15. ホンダカーズ埼玉中・杉戸店(斜め左) → <国道4号線> → 上高野小入口交差点 2.6km

 

10:00 「厳島神社」
 見どころの少ない国道を往く。左手に朱塗りの社が目立つのは厳島神社。
山田うどんの駐車場には茨島一里塚の案内板がある。

Navi16. 上高野小入口交差点(斜め左) → <市道> → ベルク幸手南店 1.3km

 

Navi17. ベルク幸手南店(右折) → <県道65号線> → 内国府間交差点 2.8km

10:40 「神宮寺」
 神宮寺の山号の「鷹尾山」は源頼朝が贈ったと云う物語がある。
奥州征伐に向かう頼朝が愛鷹を見失ったが、寺の薬師如来に祈って発見したことに由る。

 

11:00 「幸手宿」
 幸手宿は日光御成街道との合流点、筑波道の分岐点として栄えた。
天保年間におけるその規模は、本陣1、脇本陣、旅籠27軒である。
問屋場跡は小さな公園になっていて絵地図と明治初期の写真を見ることができて興味深い。 

 

問屋と名主を兼ねた幸手本陣・知久家は、鰻割烹の「義語家」になっている。
案内板に知久家は信州伊那の出身、幸手宿の繁栄、久喜町の開拓に尽力したと記される。

 

本陣の先に「名物・太郎焼」のサインが目に留まる。
普段甘いものは食さないのだけれど2つ求めてみる。粒餡いっぱいの大判焼きだ。
疲れた時には身体が甘いものを欲する。往く旅人も団子などを頬張ったのだろうか。

 

幸手宿には旧い商家も残っているが、それでも明治・大正期のもの。
唯一、日光東照宮に参詣する将軍の休憩所・聖福寺の勅使門は400年近い歴史を持つ。
勅使門は将軍一行あるいは例幣使(天皇の使者)が来たときにしか開かない門だ。

 

聖福寺の前は日光方の桝方で、榎を塚木にした幸手一里塚がこの位置にあったそうだ。
「右ごんげんどうがし、左日光道中」の道標が正福寺の境内にある。 

Navi18. 内国府間交差点(斜め左) → <国道4号線> → ライブシアター栗橋 4.7km

 

Navi18-2. 行幸橋北詰(左折すぐ右折) 雷電社まで市道を1.0km

 

安永4年(1775年)に建立された道標「右つくば道、左日光道」が筑波道との分岐点にある。

 

Navi18-3. 雷電社(左折) 国道4号線(側道)に戻る

12:15 「小右衛門一里塚」
 日本橋から13番目の小右衛門一里塚には、宇堤外から移築された弁財天堂が建つ。 

Navi19. ライブシアター栗橋(斜め左) → <市道~県道60号> → 利根川橋南詰交差点 2.4km

 

Navi19-2. 会津見送り稲荷(斜め左) 八坂神社前交差点まで1.6km

12:50 「炮烙(ほうらく)地蔵」
 「関所破りで火あぶりの刑にされた者を供養するために建立された」と説明書にある。
しかし江戸時代の関所破りの刑罰は磔(はりつけ)と定められていた。
栗橋関所や宿場で火あぶりが執行されたという記録は見つかっていない。

 

12:55 「栗橋宿」
 栗橋は利根川の渡河地点で、日光道中から江戸への出入りを監視する関所が置かれた。
栗橋宿の規模は天保年間において、本陣1、脇本陣1、旅籠27軒である。
池田本陣跡、栗橋関所跡は発掘調査が進行中だ。

栗橋宿は利根川対岸の中田宿とは合宿になる。
したがって、荷物や人夫の継ぎ立てを行う問屋業務は半月毎の交代制で担っていた。

 

宿場の外れには八坂神社の祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。
拝殿前には狛犬ならぬ狛鯉(こまこい)が鎮座する。
口を大きく開いた鯉は招福乃鯉、口をぎゅっと結んだ鯉は除災乃鯉だそうだ。

 

Navi19-3. 八坂神社前交差点(斜め右後方) 200mでR4に戻る

Navi20. 利根川橋南詰交差点(左折) → <国道4号線> → 利根川橋東詰 0.7km

Navi21. 利根川橋東詰(左折) → <市道~県道228号線> → 中の台交差点 4.2km

13:20 「中田宿」
 中田宿の規模は天保年間において、本陣1、脇本陣1、旅籠6軒。
宿並みは大正元年(1912年)の利根川改修工事により河川敷となった。
中田宿北の入口と推定される利根川堤交差点に火の見櫓が立っている。
中田宿の鎮守、鶴峯八幡宮は養和元年(1181年)に源頼朝が鶴岡八幡宮の分霊を勧請した。

13:50 「中田の松原」
 鶴峯八幡宮の先には「中田一里塚」があったのだが場所を特定できるものは無い。
ところで中田宿を出てから古河宿の入口までは、約6kmのウンザリするような直線が続く。
日光道中分間延絵図によると1里半延々と続く松並木を「中田の松原」と記している。
『東海道にもこれほどきれいな松並木はない』とされた。

Navi22. 中の台交差点(直進) → <県道261号線> → 野木交差点 4.1km

14:20 「古河宿」
 「原町一里塚」は県立古河第二高校のグランドに片塚がある。
ネット越しに覗くとややこんもりとした上に塚木の榎が繁り、一里塚の面影が残る。
古河宿の江戸方入口は台町三叉路、街道は鈍角に右手に折れて古河宿に入って行く。

 

城下町古河の藩主は目まぐるしく代わったが、土井勝利など大老職格が入城している。
古河城は将軍の日光参詣の宿城として重要視され、街道筋に城内への入口が設けられた。
御茶屋口に設けられたのが御成道で史蹟碑が建っている。

 

古河宿の規模は天保年間において、本陣1、脇本陣1、旅籠31軒だ。
本陣、脇本陣、問屋場、高札場など宿場の中枢は本町2丁目交差点に集中している。
街道は本町2丁目交差点の更に2つ先の辻で、左、右と鉤状に折れて宇都宮へ向かう。
この辻には常夜燈式の道標が在って、正面に「左日光道」と刻んでいる。
さらに、左側面には「右江戸道」、右側面には「東筑波道」とある。

 

次回は古河城下も巡ろう、などと手打そば処で "きのこ汁そば" を啜りながら思案する。
杉戸宿から幸手宿、坂東太郎を隔てた栗橋宿・中田宿を経て古河宿まで22.2km、4時間50分。
日光道中・奥州道中の旅第3日目は、田植えの風景を見ながらの「立夏」の1日となった。

 


日光道中・奥州道中紀行2 草加宿~越ヶ谷宿~粕壁宿~杉戸宿

2017-02-12 | 日光道中・奥州道中紀行

09:00 「新越谷入口交差点」
 冬型の気圧配置、関東は快晴なのだが冷え込んでいる。
今日は新越谷入口交差点から甲州道中(県道49号)を北へと発つ。 

 

Navi9. 瓦曽根ロータリー交差点(直進) → <県道52・325号> → 陸橋入口交差点 5.7km

 

09:30 「越ヶ谷宿」
 瓦曽根ロータリー交差点で旧道に入ると越ヶ谷宿だ。
宿場は、本陣1、脇本陣4、旅籠52軒と大規模で、街道筋では千住宿に次ぐ。
本陣・脇本陣は残っていないが、延長2キロの宿内には趣のある建物がちらほら残っている。
レンガの立派な卯建を持つのが塗師屋、その隣が雑貨商だ。

越ヶ谷宿は宿内の中程を元荒川が流れ、南側の越谷と北側の大沢に分かれている。
越谷側は商家と旅籠が混在し、大沢側は純粋な宿場だったと云う。
元荒川に架かる橋の袂には、日本橋から6番目の越谷一里塚があった。今は痕跡がない。

橋を渡って左手のパン屋さんが福井本陣が在ったところだが、何の遺構も残っていない。
遠くに見える高層マンションが宿場の日光方入口(北越谷駅前)だ。

 

越ヶ谷宿を出るとやがて東武伊勢崎線の高架橋を鉤型に潜って元荒川の堤にぶつかる。
この堤上を往くのは、日光道中・奥州道中が整備される前の「古奥州道」だ。
低い堤の規模が人力で築かれたことを想像させる。
堤下に見つけた三基の道標は古奥州道時代のものだ。

09:55 「宮内庁埼玉鴨場」
 鴨場は、皇族が皇室関連行事や、駐在外交官あるいは海外からの賓客を接待する場だ。
伝統的鴨猟の紹介を通じで日本の自然・伝統・文化・歴史を伝えているそうだ。
元々は幕府や紀州藩の鷹場であり、家康もこの地を訪れで鷹狩りなどに興じたそうだ。
明治の世になり、正式に宮内庁埼玉鴨場として創立している。

注)宮内庁埼玉鴨場の先で県道325号は右に折れてしまうが、日光道中・奥州道中はあくまで直進。

10:20 「間久里の立場」
 東武伊勢崎線の大袋駅近くの間久里は、越ヶ谷宿と粕壁宿の中間にあたる。
旅人の休息所である立場が設けられ「八軒茶屋」と呼ばれ、ウナギが名物だったようだ。
下間久里香取神社付近に所在した、日本橋から7番目の下間久里一里塚は何の痕跡もない。
街道はせんげん台駅手前で国道4号に合流する。

Navi10. 陸橋入口交差点(直進) → <国道4号線> → (春日部)一宮交差点 5.5km

武里駅入口手前には大枝香取神社、この街道沿いには下総国一之宮香取神社の末社が多い。

 

右手に古利根川が近づいてくる辺りに国道4号線の33キロポストが立っている。
反対側の歩道には備後一里塚跡碑を見つけた。
退屈な国道を歩くこと70分、東武野田線のガードを潜ると春日部の市街地に入ってくる。
一宮交差点を斜め左に入る。この辺りが粕壁宿の江戸方入口となる。

Navi11. 一宮交差点(斜め左) → <県道2号線> → 新町橋(西)交差点 1.1km

  

宿場入口には東陽寺、山門脇には「伝芭蕉宿泊の地の寺」の碑が在る。
通りには “粕壁宿めぐり” の立派な道標が立つが、街道風情を味わうことはできない。
ビルには空きテナントが目立ち、東京近郊とは云え地方都市の中心商店街は寂しくなりつつある。

11:50~12:30 「粕壁宿」
 曾良の日記には「廿七日夜 カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」とある。
粕壁宿の規模は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒、問屋1軒だ。
唯一趣がある蔵造りの商家「問屋場田村本家」、軒先には天保五年(1835年)の道標が立つ。
「南西い八つき(岩槻)、北日光、東江戸、右乃方陸羽みち」と刻まれている。

 

 街道から1本路地を入った昔ながらの中華屋「宝来家」で腹ごしらえ。
ボリュームたっぷり、中華そばに玉子丼のセット、4つの小皿が嬉しい。
粕壁宿は正面に最勝院を見て新町橋西交差点を右折して終わる。この辻には高札場があった。

Navi12. 新町橋(西)交差点(右折) → <県道319号線> → 小渕(南)交差点 0.8km 

 

 新町橋は、江戸時代には大橋と呼ばれ、古利根川に架かる唯一の橋であった。
長さ16間、横3間の板橋で高覧が付いていた。
新町橋の上流には、上喜蔵河岸と呼ばれた船着場があり、石垣の一部が現存している。
江戸時代には高瀬船などで米や生活物資を運搬したそうだ。

 

街道は小渕交差点で国道4号線に合流するのだが、少し手前に関宿道との追分がある。
小さな道標は宝永六年(1709年)の建立、「右方せきやど道、左方あふしう道」とある。
日本橋から9番目の小渕一里塚もこの辺りのはずだ。

Navi13. 小渕交差点(斜め左) → <国道4号線> → 堤根交差点 3.6km

12:55 「小渕観音院」
 左手現れる立派な山門、小渕観音院は正嘉二年(1258年)開基と伝わる古刹だ。
山門の左右で睨みを利かす仁王像は、時代がさがって元禄年間に建立されたものだと云う。

 

東洋ケミカル埼玉工場を過ぎて旧道を斜め左に入る。この辺りは堤根立場となる。

Navi13-2. 東陽ケミカル埼玉工場(斜め左) 旧道を700mでR4に戻る

 

13:20 「堤根立場」
 九品寺の境内に庚申塔には「左日光、右江戸」と刻まれ道標の役割も兼ねている。
並びの古民家はなかなか立派な門構えだ。

国道に戻ると右手に見える旦照山馬頭院観音寺、本尊は伝教大師最澄の作と云われる。

Navi14. 堤根交差点(斜め左)→ <県道373号線> → ホンダカーズ埼玉中・杉戸店 2.6km

 堤根交差点で国道4号線を離れて旧道に入ると、日本橋から10番目の三本木一里塚跡。
文政五年(1822年)創業の関口酒造の銘柄は “杉戸宿” なのだ。 

 

老舗の鶴牧せんべい本店で風味の良い青海苔入りの堅焼きを求め、齧りながら歩く。
高札場が復元してあるこの辺りが江戸方の入口だろうか。

14:05 「杉戸宿」
 杉戸宿の規模は本陣1、脇本陣2、旅籠46軒、残念ながらここにも旧い遺構はない。
本陣跡に建つ民家の門が思いがけず立派なのだが本陣門なのだろうか。
日光道中・奥州道中の旅2日目は、新越谷駅入口から越ヶ谷宿、粕壁宿を経て杉戸宿まで。
19.8kmを5時間5分かけての行程となった。ゴールはその名も本陣跡地前交差点だ。

 


日光道中・奥州道中紀行1 日本橋~千住宿~草加宿

2017-01-07 | 日光道中・奥州道中紀行

 冬晴れの日、三度の日本橋からの旅立ちは北をめざすことにする。
日光道中は東照宮まで二十一次の参詣の道、
奥州道中は白河までの二十七次、江戸と陸奥とを結ぶ人流物流の道だ。
宇都宮宿伝馬町追分までの十七次は両道中共通となっている。

 

10:20 「日本橋」
 ずいぶん出遅れとなった日本橋。街はすでに三越の福袋を手にした人たちで賑やかだ。
カメラを手にした訪日観光客が目立っている。道路元標を確認して中央通りを北へ進む。

Navi1. 日本橋 → <国道4号線> → 室町3丁目南交差点 0.4km

 

三越を過ぎた室町3丁目南交差点が中山道との追分、日光道中は右に折れて隅田川へ向かう。

Navi2. 室町3丁目南交差点(右折) → 浅草橋交差点 1.3km

 

昭和通りを地下道で渡ると左手に「寶田恵比寿神社」がある。
御神体の恵比寿神は運慶作、徳川家康から下賜されたもだと云われている。
馬喰町の呉服問屋街を抜けてひたすら直進すると浅草橋交差点南に至る。

Navi3. 浅草橋交差点(左折) → <国道6号線> → 言問橋西交差点 3.0km

 

10:50 「浅草見附」 
 浅草橋で神田川を渡る。右手隅田川との合流地点まで屋形船がびっしりと並んでいる。
神田川北詰の「浅草見附」は 江戸城の警護のために設けられた36箇所に見附の一つ。
浅草御門と呼ばれた枡形の門は、浅草観音参詣者や遠く奥州へ往来する人々を取り締まった。

 

Navi3-2. 駒形橋西詰交差点(斜め左) → 雷門交差点 300m

11:20 「雷門」
 街道は駒形橋西詰交差点から浅草観音の総門「雷門」を正面に見て進む。
この間に「浅草一里塚」があったはずなのだが、痕跡はおろか場所も特定されていない。
参道は初詣に訪れた人でいっぱい。この光景は街道時代から変わらないことだろう。

Navi3-3. 雷門交差点(右折) → 吾妻橋交差点 200m

 

Navi3-4. 吾妻橋交差点(斜め左)

Navi4. 言問橋西交差点(斜め左) → <都道464号> → 南千住交差点 2.5km

11:50 「待乳山聖天」
 標高10m、東京で一番低い山「待乳山」は隅田川から東の眺望を得るには絶好の高台だ。
待乳山聖天には大根をお供えする。二股の大根が交わる印しは夫婦和合を示している。
 街道は岡林信康が謳った「山谷ブルース」のドヤ街を抜けていく。
なるほど左右の路地には簡易宿所が並び、路上で焼酎を酌み交わすおじさん達を見かける。

     

12:10 「小塚原刑場跡」
  南千住駅南口に小塚原回向院がある。小塚原は鈴ヶ森、大和田と並ぶ江戸の刑場の一つ。
明治初頭に廃止されるまでに、磔、斬罪、獄門などの刑が執行された。
吉田松陰もここに眠っている。首切地蔵は寛保元年(1741年)に建立されたものだ。

12:20 「素盞雄(スサノオ)神社」
 言問橋西詰から北上した街道が国道4号線と合流する南千住交差点に「素盞雄神社」がある。
延暦十四年(795年)に創建された神社には素盞雄大神と飛鳥大神が祀られている。

Navi5. 南千住交差点(右折) → <国道4号> → 千住新橋北詰交差点 3.2km

 千住大橋で隅田川を渡る。
家康は江戸入府後直ちにここへ架橋を命じ、文禄三年(1594年)に初代の大橋が完成している。

「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」
元禄二年(1689年)、深川から舟に乗りここに上陸した芭蕉はここを矢立ての地とした。
この先日光道中・奥州道中は「奥の細道」を辿る旅でもある。

 

さて、初日の街道めしは足立市場内の「とくだ屋」で。寒いけれど生ビールを呷る。
定番の海鮮丼「とくだ屋丼」をいただく。新鮮な刺身の下にはネギトロの山が嬉しい。 

 

Navi5-2. 足立市場前交差点(斜め右) 名倉医院まで1.9km

12:50~13:20 「千住宿」
  足立市場前から荒川堤防に突き当たるまで2キロ弱の直線が旧街道。
天空劇場辺りが江戸方の入口で日本橋から2番目の「千住一里塚」があった。
北千住駅に向かう大通りと交差すると宿場町商店街(サンロード商店街)で一筋目が本陣跡。

 

千住宿は本陣1、脇本陣1、旅籠55軒。旧い遺構は少ないが宿場町風情を今に伝える旧家が2軒。
江戸中期から代々、絵馬や行灯、凧を描いてきた際物問屋「絵馬屋」の吉田家。
そして、紙問屋「松屋」の横山家が向かいあって残っている。

江戸期に「骨接ぎ所」として名を成した名倉医院には立派な長屋門が残っている。
医院の前が下妻街道との追分で、日光街道は左手に折れ、直進するのが下妻街道だ。
追分は宿場の日光方の入口でもある。

Navi5-3. 名倉医院(斜め左) 千住新橋南詰でR4に戻る

 

千住宿から先の街道は荒川放水路によって分断されているので千住新橋を渡る。
橋中央部に日本橋から9kmのポスト、ここまで2時間50分、ずいぶんなスローペースだ。
千住新橋を渡ると荒川の土手を北上、千住新橋ランプ下の川田橋交差点で旧街道に繋がる。 

Navi6. 千住新橋北詰(左折) → <荒川土手> → 川田橋交差点 400m

Navi7. 川田橋交差点(右折) → <都道103号> → 保木間水神宮 5.1km

 

 川田交差点からは5kmを超えて退屈な一本道が続く。
街道当時も沼地を埋め立てた中を行くのだから、旅人にも退屈な行程だったろうと思う。
梅田に明王院への道標「石不動尊」、梅島駅手前のY字路に「旧日光街道道標」がある。

 

島根に入って「將軍家御成橋御成道松並木跡碑」、続いて日本武尊を祀った「鷲神社」がある。
『日光道中分間延絵図』によると神社の少し北に「六月一里塚」があるのだが痕跡はない。

Navi8. 保木間水神宮(左折) → <都道49号~県道49号> → (越谷市)瓦曽根ロータリー交差点 9.3km

 

都道49号に入ると間もなく毛長川を渡ると左右に煎餅屋が目につくようになる。
稲作が盛んなこの地では、蒸した米を潰し丸めて干し、塩を塗して焼いて食べていた。
宿場の発展とともに塩味の煎餅が旅人向けの商品として売り出され、各地に広まった。
その後、野田で生産された醤油で味付けをしたものが、現在の草加煎餅の原型と云われる。
草加市内には煎餅の製造所や販売所が60軒を超えている。

     

15:15 「火あぶり地蔵尊」
 千住宿から奉公に来ていた働き者の娘が、放火の咎で火あぶりの刑に処せられた。
此の娘を哀れんで建てられたものだと云われる瀬崎の「火あぶり地蔵尊」だ。
地蔵尊近くには日本橋から4番目の「吉町一里塚」があったが、これもまた痕跡がない。

Navi8-2. 吉町2・5丁目高砂1丁目Y字路(斜め左) 旧道を1.4km

 

15:25 「草加宿」
 草加宿の江戸方の入口は市役所から、敷地の端に地蔵堂が鎮座する。
その先の藤城家は国登録有形文化財、内蔵・外蔵は街道時代の重厚な土蔵造りを残している。 

 

草加宿の規模は本陣1、脇本陣1、旅籠67軒。
清水本陣跡地の案内板によると、会津藩の松平氏、仙台藩の伊達氏、盛岡藩の南部氏、
米沢藩の上杉氏が休泊した記録がある。
その先の東福寺は、草加宿の祖・大川図書が創建した寺、慶長十一年(1606年)の創建。
正に街道の盛衰を見つめてきたことになる。

 

宿場の日光方の入口の久野家(大津屋)は、安政二年(1855年)の江戸大震災に耐えた。
ずいぶんと旧い平入切妻造り瓦葺きの町屋建築だ。
芭蕉の門人・河合曾良の像が、先を歩く芭蕉に呼び掛けているかのように立っている。

 

Navi8-3. 神明町交差点(左折) 草加松原を蒲生大橋まで 2.3km

 

神明交差点で県道49号と合流すると直ぐに「札場河岸」だ。
綾瀬川は江戸中期から運河として利用され多くの船が行きかっていた。
河岸には望楼が建ち、松尾芭蕉は呼び掛ける曾良に応えるように江戸方を振り返る。

15:50 「草加松原」
  札場河岸からは綾瀬川沿いに約1.5km続く松並木を往く。
松の植樹時期は定かではないが、天和年間(1681~1684年)の綾瀬川開削時と云われている。
千本松原は、夏の日差しを遮り、冬の北風を防ぎ、旅人には快適な道程だったと想像される。

Navi8-4. 蒲生大橋東詰(左折) 蒲生本町交差点で県道49号に戻る 1.0km

16:15 「蒲生一里塚」
 街道が蒲生大橋で綾瀬川を渡ると日本橋から4番目の「蒲生一里塚」が在る。
教育委員会の案内板には東側の一基が現存とされているが塚には見えない。
塚木であるとされるムクエノキの古木が立っている。
何れにせよ、埼玉県内の日光街道筋に唯一現存する一里塚だそうだ。

16:50 「新越谷駅入口」
 蒲生本町交差点で県道49号(旧国道4号)に戻る。
16:40過ぎ、茜を残して冬の弱い陽が没した。情けないが日没サスペンデッドだ。
第1日目、日本橋を発って初詣で賑わう浅草観音を経て千住宿、芭蕉の足跡を辿って草加宿。
草加松原を抜けて越谷宿の手前、新越谷駅入口交差点迄、所要時間6時間の行程となった。

日本橋~千住宿~草加宿~越谷宿(新越谷駅入口交差点) 23.7km