旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

甲州道中紀行4 小仏宿~小原宿・与瀬宿~吉野宿~関野宿~上野原宿

2015-11-28 | 甲州道中紀行

10:00 「小仏宿」
 高尾駅北口のバス乗り場は山登りの老若男女で溢れかえっていた。
小仏行きの京王バスは増便の2台体制であったが乗り残しを出して出発した。
登山ブームを実感するも、目を楽しませてくれるはずの“山ガール”はこの車中に少ない。
甲州街道を歩く第4日目行程は、小仏宿の外れ、小仏バス停からスタートする。

 

 都道を1kmほど上っていくと目の前に車止めが現れる。この先は峠越えの土道になる。
20名程の壮年グループの装備に比べて私の格好を恥ずかしく感じながら、追い越していく。

10:40 「小仏峠」
 九十九折の急坂「小仏峠東坂」を登って20分余りで標高548mの小仏峠に達する。
僧行基が一寺を建てて小さな仏像を安置したことが地名の由来だそうだ。
南北に延びる尾根は東京と神奈川の都県境となっている。

 

 都県境の尾根を北に向かうと陣場山。
南へ向かうと小仏城山を経て高尾山に向かう。甲州街道は登山者と分かれて西へと下る。
分岐点の「高尾山道標」は寛政7年(1795年)に建立されたものだ。

「小仏峠西坂」は落ち葉を踏みしめて行く道だ。
途中の狭い平坦地には「中峠茶屋」が在った。現在は東京電力の鉄塔が建っている。

11:30 「小原一里塚」
 舗装路に出て1kmほど進めるとJR中央本線を長久保架道橋で潜る。
江戸日本橋から十五里目の小原一里塚は、中央自動車道の敷設工事で失くなってしまった。

 

 甲州街道は底沢橋で、高尾山を南に迂回してきたR20と合流する。
っと今きた道に“山峡のいで湯 美女谷温泉”と、なんともそそる案内板。
浄瑠璃や歌舞伎に登場する「照手姫」の出身地で、その美貌が地名の由来になったと言う。

11:40~12:00 「小原宿」
 小原宿は次の与瀬宿と合宿。
問屋業務は東から来る荷物を与瀬を通過して吉野宿に継立てる“片継ぎ”であった。
ちなみに西からの荷物は与瀬宿が小原を通過して小仏宿まで継立てた。
小原宿には東海道と合わせても神奈川県下で唯一残る本陣跡として清水家が在る。

 

 清水家本陣は無料公開されている。
囲炉裏のある勝手、大名専用の畳敷きの厠、そして上段の間を拝見した。
中山道で見てきた本陣と比べると小規模で貧弱に感じられる。
もっとも利用した信州の高島藩・高遠藩・飯田藩はいずれも小藩である。
これが適正規模だったのだろう。

 

小原宿はこの清水家本陣の他に、脇本陣1、問屋1、旅籠7軒の規模であった。

小原から与瀬の間1.7kmの大半はR20を離れて古道を歩くことができる。
相模湖駅のあたりが与瀬宿の集落ということになる。

12:30 「与瀬宿」
 与瀬宿はすでにレポートした通り小原宿との合宿で、本陣1、問屋1、旅籠6軒の規模。
名物であった鮎を、歌川広重は値段は高いが不味いと評したそうだ。

与瀬から吉野の間も古道を歩くことができる。
相模湖へ流れ込む沢のひとつは、こんな丸太橋「貝沢橋」を渡る。
その先はちょっと不安にさせるような薮道を行く。

12:50 「与瀬一里塚」
 薮道を抜けて視界が広がったあたりが与瀬一里塚跡、江戸日本橋から十六番目になる。
眼下の相模湖が美しい。
もっとも相模ダムが無かった街道当時は深い谷間の景色だったことだろう。

 

高台の古道には石仏石塔群が現れる。まずは秋葉神社の下に、庚申塔、廿三夜塔、地蔵尊。
相模湖IC付近では馬頭観音を見ることができた。

13:20~13:50 「吉野宿」
 吉野宿の規模は、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠3軒。
明治29年の大火で消失した本陣吉野家は五層楼閣の威容を誇ったと云う。
その様子は案内板のモノクロ写真で見て取れる。

 

本陣の向かい側には旅籠ふじや跡、藤野町郷土資料館となっていて見学ができる。
道端の庚申塔に見送られて吉野宿を後にする。
江戸日本橋から十七番目となる「関野一里塚」は場所が分からず通過してしまった。

 

今日の街道めしは、藤野駅前の「風里」で、“梅しそカツ定食” をいただく。
ボリュームあるものを食さないと、まだあと10kmは距離を稼ぎたい。

14:30 「関野宿」
 藤野駅前からは1kmほど古道を歩く。R20より一段下の河岸段丘を往くイメージだ。
狭い生活道路はやがて薮道となり、最後に中央本線の跨線橋を渡ったあたりが関野宿だ。
甲斐國との國境を控え重要視された関野宿は、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠3軒の規模。
R20沿いに関野宿本陣跡の案内板のみが建っている。

 関野宿の外れに「追手風喜多郎」の碑がある。
寛政11年(1799年)にこの地で生まれた彼は、叔父の追って力士になり、大関まで上った。
娯楽が少ない時代のこと、地元出身の名力士はヒーローであったことだろう。

甲州街道は暫くR20を往ったあと、名倉入口交差点から古道に入る。
湖面に向かって勾配を下っていくのは気が進まない、後にまた上りが待っているからだ。
勾配を下りきると古いコンクリート造りの境沢橋、神奈川と山梨の県境になる。
街道当時は長さ五間の土橋で、相模の國から甲斐國へと渡ったという。

案の定ヘアピンカーブを含む急坂が待っていた。下った分だけ河岸段丘を這い上がる。
上りきると「諏訪関所跡」、実に嫌なところ(効果があるところ)に在る。
戦国時代に武田氏が設置した二十四関のひとつで、江戸時代に「境川口留番所」とされた。

 

15:10 「塚場一里塚」
 天正3年(1575年)創建の疱瘡神社の裏手に、塚場一里塚が片塚を残している。
残っていると言えるのか無残な姿ではある。
江戸日本橋から十八番目の塚場一里塚の塚木はモミの木だったそうだ。

15:30 「上野原宿」
 右手からR20が合流してくると上野原宿に入って行く。
左手には旧上野原村の鎮守「牛倉神社」が在る、この辺りが宿並みの中心地だろうか。

 

沿道には “酒まんじゅう” の店が目立つ。今でも12軒が営業しているそうだ。
地元で収穫した小麦粉とあずきを原料に上野原の清冽な気候風土で作る “酒まんじゅう”。
甲斐絹の市に集まった商人に愛され宣伝され広まったという。
高嶋屋酒饅頭店でひとつ頬張ってみた。味噌の甘味と酸味に麹の香りが心地よい。
地元の人は10個20個と買っていく、生活に根ざした食文化であることを感じる。

上野原宿は、本陣1、脇本陣1、問屋2、旅籠20軒の甲州街道にあってはかなり大きな規模。
若松屋脇本陣はホテルに形を変えて今も旅人が宿を取る。本陣跡には立派な門が残る。
 小仏宿から小仏峠を越えて神奈川県へ、合宿の小原宿・与瀬宿、相模湖を眺めて吉野宿。
関野宿を通り、山梨県に入って上野原宿まで18.8km、所要5時間30分の行程となった。
江戸日本橋からは75.0kmだ。


都心でふるさとを味わう 食の國 福井館「越前おろしそば」

2015-11-25 | Biz-Lunch60分1本勝負

 アンテナショップの激戦区、銀座1丁目に「食の國 福井館」を訪ねた。
銀座・有楽町界隈のアンテナショップ探訪は、これで8軒(9県)目になる。
ウインドーには「福井の冬を彩る、味覚の王者。越前がに」だって。
ずいぶん大きく出たなぁという感じだけれど、赤色がインパクトのあるスクリーンです。

販売しているのはやはり海産物の加工品が多いですね。
さば、いか、かれい等々。でもこれが福井って感じさせるものがないな。
「鯖のへしこ」は酒の肴に最高ですが…

 店舗の奥に小さなイートインコーナーがあります。
福井名物という「越前おろしそば」、辛味大根とかつお節が上品で確かに美味しい。

「食の國」を謳うには、コンテンツが少なく地味な印象です。
中途半端だとマイナス発信するアンテナになってしまう。も少し頑張って欲しいですね。
ただお気に入りの銘柄、越前大野は南部酒造場の「花垣」が手に入って満足な私です。


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めまい / 小椋佳 1975


甲州道中紀行3 日野宿~八王子宿~駒木野宿・小仏宿

2015-11-21 | 甲州道中紀行

08:00 「日野宿」
 日野宿は本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠20軒、大久保長安によって整備された。
このあたりで漁れる多摩川の鮎は将軍家に献上されたという。
甲州街道を歩く第3日目は日野宿本陣前をスタートする。

 

甲州街道は日野駅前で直角に西へと向きを変える。辻にはギャラリーカフェが在る。

ほどなく左手に宝泉禅寺、新撰組六番隊組長、井上源三郎の墓がある。
井上は鳥羽伏見の戦いで戦死している。

 

その先、坂下地蔵堂は“西の地蔵”と呼ばれ、ここが日野宿の京方の入口であった。
道は中央本線に塞がれてしまうので、一旦駅前に戻ってガードを潜って反対側へ。
庚申塔(元禄7年のもの)に見送られ日野台へと大坂を上る。

 

08:40 「日野台一里塚」
 日野自動車工場敷地を過ぎた日野台交差点辺りに江戸日本橋から十里目の一里塚の跡。
北塚は昭和初期、南塚も昭和30年代に取り壊されたそうだ。

 

この辺りの甲州街道はR20に上書きされているが、大和田町付近に旧い道筋が残っている。
馬頭観音、道祖神を見ながら、大和田橋で浅川を渡り、八王子市街に入って行く。

 

09:30 「竹の鼻一里塚」
 八王子宿に向かう新町の枡形手前に一里塚跡碑が建っている。
並びの永福稲荷には江戸中期に活躍した力士八光山の金剛像が在る。

 

09:50 「八王子宿」
 八王子宿は、東から横山宿・八日市宿・八幡宿からなる約2kmの宿並みの総称。
酉の市で有名な市守大鳥神社が江戸方の入口で木戸があったそうだ。
横山宿の本陣は八王子横山町郵便局のあたりだ。

 

八王子市夢美術館前には、八日市宿跡碑がある。
八木宿には酒蔵「桑の都」の小澤酒造場がある。最も醸造場自体は移転してしまっている。
絹織物の産地の八王子は別名「桑都」、この名前を銘柄に戴いたのが小澤酒造場の酒。
酒蔵は宿場の華なのだ。

 

 八王子宿の京方は追分となっている。「左甲州道中高尾山、右あんげ道」の道標。
あんげ道とは甲州街道の裏街道である陣馬街道のこと。
左甲州街道は追分から多摩御陵入口まで美しい銀杏並木が続いている。

 

多摩御陵入口の先でも甲州街道は旧い道筋を辿ることができる。
摩耗した古い地蔵尊に出会ったり、黒塀の旧家を見ることができる。
道路脇には用水が流れて街道情緒を感じる。

11:20~11:50 高尾駅
 甲州街道が再びR20と重なると高尾駅。いちょう祭と高尾山の紅葉狩りで賑わっている。

 

駅前の蕎麦処「岸本屋」の暖簾を潜る。品書きに先ほどの小澤酒造場の「桑の都」がある。
まだ先の道のりがあるのだが、ついつい手が出て山菜の盛り合わせで一杯。
ほろ酔いになったところで〆に名物「とろろそば」をいただく。

 

気を取り直して再び歩き始める。中央本線を潜る両界橋の袂に古い石地蔵尊。
これを過ぎるとR20を右手に分かれて線路沿いに勾配を上り始める。
駒木野病院の脇には新旧の地蔵尊が祀られている。

 

12:20 「小仏関所」・「駒木野宿」
 “入り鉄砲に出女” を厳しく取り締まった小仏関所。
碑の前には「手形石」と「手付き石」が残っている。
隣接する駒木野宿はこの先の小仏宿と合宿、問屋の業務は月の後半を勤めた。
本陣1、脇本陣1、問屋3、旅籠12軒がその規模だ。

 

駒木野宿を抜けると念珠坂碑と地蔵尊、その先荒井地区には庚申塔など石仏石塔がある。

 

右手頭上に中央道と圏央道の八王子JCT。道沿いの道標は「是れより高尾山道」を刻む。

13:00 「小仏宿」
 甲州街道はいよいよ本格的な山道となって小仏川沿いをいく。
小仏宿は本陣、脇本陣は無く、問屋1、旅籠11軒と難所小仏峠を控えては寂しい規模だ。
道沿いに十数件の民家があるが、宿場を感じさせるものは無い。
宿場を抜けるとバスの折り返し所、高尾山から下りてきたハイカー達で混み合っている。
日野宿~八王子宿~駒木野・小仏宿 16.0km 所要5時間、次回は小仏峠を越える。


甲州道中紀行2 布田五ヶ宿~府中宿~日野宿

2015-11-14 | 甲州道中紀行

 

09:00 「布田五ヶ宿(布田)」
 布田五ヶ宿は、国領宿・下布田宿・上布田宿・下石原宿・上石原宿と5つの宿場からなる。
本陣、脇本陣は無く、旅籠9の小宿で、月の6日づつ宿場の役務を負担し合っていた。
甲州街道を歩く第2日目は、このうちの下布田宿からスタート。
成田不動尊は「布田のお不動様」と呼ばれて篤く信仰されてきた。

 

09:20 「小島一里塚」
 調布駅の入口を過ぎると上布田宿となる。
小島1丁目交差点に「小島一里塚跡碑」が建っている。江戸日本橋からは六里目となる。

上布田宿と下石原宿の境、常演寺門前には地蔵祠がある。

下石原宿と上石原宿の境は中央自動車道と交差する西調布駅付近。
西光寺の門前には新撰組局長近藤勇坐像がある。近藤勇は多摩郡上石原村の生まれだ。

高速道路を潜ると黒板塀の立派な旧家がある。
少しづつ街道筋の雰囲気が窺えるようになってきた。

飛田給薬師堂から道がV字に分岐する。
左手は貞享年間(1684~1688年)以前の甲州古道、右手が旧甲州街道だ。
2本の道は3km先の東府中駅付近で合流する。

10:30 「常久一里塚」
 江戸日本橋より七里目の常久一里塚跡は甲州古道沿いに在る。
塚木は松と杉であったそうだ。現在は跡碑があるのみだ。

甲州古道と旧甲州街道が合流すると京王線の踏切を越えて府中へと向かう。

11:00~11:40 「府中宿」
 生糸の商家が軒を連ねて賑わった府中宿、規模は本陣1、脇本陣2、問屋2、旅籠29軒。
宿場の中心には「大國魂神社」が鎮座する。七五三のお宮参りの家族連れで賑やかだ。

 

鎌倉街道(現府中街道)との交差点は札の辻といい「高札場」が現存している。
向かい側の蔵造りの酒屋さんは万延元年(1860年)創業、隣地が問屋場であったらしい。

ところで府中宿矢島本陣の表門は1kmほど先の街道沿い、名主内藤家に移築されている。

 

府中宿を外れ、分倍河原の京王線踏切を渡って「そば処砂場」、今日もかつ丼をいただく。
距離を歩くにはボリュームが必要だ。

 

 まもなくR20と合流する。この先5kmは情緒のない国道を行く。
左手には旧本宿村の鎮守熊野神社、裏手には飛鳥時代の上円下方墳、埋葬者は不明だ。

国立インター入口を過ぎた辺りの谷保地区に立派な薬医門を持つ旧家本田家住宅がある。
ちょうど東京都の文化財ウィークで敷地内を見せていただけた。
主屋は慶安年間(1648~1651年)の建築とされ、喰違形六間型としては都内最古例だそうだ。
代々医家・書家・名主の家柄で、日記には縁続きの土方歳三が泊まった旨の記述が残る。

 

 その先は単調なR20を行く。
時折思い出したように、秋葉山常夜燈、五智如来など旧い遺構が退屈をしのいでくれる。

 

日野橋へと向かうR20と分かれて、街道は立川市街地方向へ直進する。
やがてほぼ直角に左に折れると多摩川に向かって勾配を下っていく。
柴崎体育館前の親水公園には鴨たちが遊んでいた。

 

13:40 「日野の渡し」
 多摩川を渡る「日野の渡し」は立日橋の直下だったようだ。
春から秋にかけては舟渡し、水量が少ない冬場は土橋が架橋されたそうだ。
大正15年に日野橋が架橋されて、今では頭上を多摩都市モノレールが走る。
なお、立川市錦町下水処理場前には “日野の渡し碑” が在る。

 

 左手に見えてくる「東の地蔵」が日野宿の江戸口(東口)となる。
街道は枡形に西へ向きを変える。交差点には終焉間近の渡しの写真が掲示されてた。

 

14:00 「日野宿」
 日野宿に入ると川崎街道入口交差点に高幡不動道標。問屋場、高札場跡には碑が建つ。
「下佐藤家本陣」は都内に残る唯一の本陣建築、主屋は文久3年(1863年)に上棟したものだ。
主屋を再建した佐藤彦五郎は、ここに「天然理心流佐藤道場」を開いた。
新撰組の近藤勇、土方歳三、沖田総司らが、激しい稽古に励んだそうだ。
甲州街道を歩く第2日目は「布田五ヶ宿」から「府中宿」を経て「日野宿」まで16.9km。
所要5時間の行程となった。


稲田堤で昼呑みなど 京王・相模原線を完乗!

2015-11-11 | 呑み鉄放浪記 私鉄編

 甲州街道を日本橋から調布まで歩いて来た。この機会に京王相模原線に乗車する。

相模原線の起点調布駅は、調布市の京王線連続立体交差事業で地下駅に姿を変え、
すっきりした駅前広場(駅上広場とでも呼ぶ?)では「調布マルシェ」で賑わっていた。

調布駅の1番ホームから橋本行の準特急に乗ると、結構な勾配を駆け上って地上に出る。
右手に競輪場を見て多摩川の鉄橋を渡ると、最初の停車駅が京王稲田堤だ。

稲田堤ではJR南武線と連絡するのだけど両駅は300mほど離れてる。
この微妙な距離に点在する飲み屋は、仕事帰りの男たちを面白いように吸込むだろうな。
などと考えつつ、明るいうちから串かつの店に自ら吸い込まれてみた。

何年ぶりかのホッピーを呷る。兎のごとくお通しのキャベツをかじる。
晩酌セットの串揚げは、牛・チキン・ウインナー・なす・たまねぎ。
カラッと揚げたて、中身もっちりでなかなか良い出来、美味しく飲ませていただいた。
もちろんソースは「二度づけ禁止やで!!」。

京王稲田堤駅にもどって再び準特急に乗る。
準特急は結構なアップダウンを繰り返し、幾つかのトンネルを潜って飛ばして行く。
多摩ニュータウンの開発とともに段階的に延伸してきた相模原線は、1990年に橋本まで
全線開業、JR横浜線、相模線と結節する終点の橋本までは調布から20分の旅だ。
いつの日にかここでリニア新幹線に乗り換えることになるのだろうか。

京王・相模原線 調布~橋本 22.6km 完乗

 

<40年前に街で流れたJ-POP>
青空、ひとりきり /  井上陽水 1975


甲州道中紀行1 日本橋~内藤新宿~高井戸宿~布田五ヶ宿

2015-11-07 | 甲州道中紀行

08:00 「日本橋」
 慶長8年(1603年)に架橋された日本橋、現在の橋は19代目、明治44年(1911年)のものだ。
5年前は北に向かって旅立った日本橋を、今回は西に向かって進めることになる。
日本橋交差点を南へ直進するR15は東海道、右折して大手町方面に向かうのが甲州街道だ。

 

呉服橋交差点の手前、甲州街道(永代通り)の北側のビルの谷間に「西河岸地蔵」がある。
日本橋芸者衆の信仰が篤かったそうだ。
甲州街道は左手に折れて、東京駅日本橋口とシャングリラホテル東京の間を入って行く。
遠山の金さんの北町奉行所跡の石碑が大丸の通用口前にがある。

 

甲州街道は更に右手に折れて西に向かう。
ちょうど八重洲と丸の内を結ぶ北自由通路が旧甲州街道にに沿っているそうだ。
その延長線上、日本工業倶楽部と新丸ビルの間を和田倉橋に向かう。

和田倉濠にはすでに白鳥の番いが水面を滑っている。
和田倉橋前を左折して再びR1と重なる、日比谷通りが甲州街道のルートだ。

08:50 「日比谷見附跡」
 日比谷交差点を右折して内堀通りに入る。
ここからはR20、下諏訪宿で中山道と合流するまでの長い付き合いとなる。
ここは日比谷見附跡、江戸城外郭城門のひとつだ。ここから半蔵門まで皇居を半周する。

 

カラフルなウエアで身を包んだランナー達と逆回りに桜田門を通過。
国会前交差点近くには加藤清正が掘り当てた江戸の名水「櫻の井」がある。

半蔵門で左折していよいよ西へと向きを変える。門外には服部半蔵の伊賀屋敷があった。
有事の際、家康は服部半蔵の手引きで甲州街道を甲府を経て駿府に逃れる計画だったとか。

四谷見附は江戸城防御の城門、JR四谷駅のタクシープールの場所に一部石垣が残っている。
中央線を渡る四谷見附陸橋は都内最古の陸橋だそうだ。

 

10:00 「内藤新宿」
 四谷4丁目交差点から甲州街道最初の宿場「内藤新宿」に入る。
ここには大木戸と玉川上水水番所が設置されていた。四谷大木戸跡の碑が建っている。
内藤新宿は請願により元禄12年(1699年)に新設された。
内藤氏の下屋敷の一部を割いて成立したので内藤新宿という。
東海道の品川宿とともに娼家が置かれ、大いに賑わったそうだ。

 

新宿3丁目交差点は内藤新宿の西口、ここは青梅街道との追分になっている。
直進するのは青梅街道。甲州街道は左折し、100mほど明治通りを南下してから西進する。
ちなみに交番の名前は新宿3丁目交番ではなく「追分交番」なのだ。
江戸日本橋から二里目になる「追分一里塚」は所在不明だ。

JR新宿駅南口から西へと甲州街道が延びる。
駅の西側は1本北側の国際通りを進んで西新宿2丁目交差点で再びR20に複する。
折しも文化学園大学の学園祭が行われていて、界隈は若者たちで賑わっていた。

 

笹塚交差点あたりは窪地になっている。ここは刑場跡で「牛裂きの刑」が執行された。
後年疫病が流行った際に、処刑された罪人の祟りといわれ「牛窪地蔵尊」が建立された。
さらに200mほど先、笹塚駅入口に「笹塚一里塚」があった。今は案内板のみが建っている。
塚木は“榎”で、塚は笹に覆われていたため「笹塚」の地名由来となったという。
さらに200m先に甲州街道筋では初めて目にする庚申塔がある。

明治大学和泉校舎から築地別院和田堀廟所。
それに続く寺社群の連なりが途切れると、左手に明治40年創業の竹細工店「竹清堂」。
このあたりから下高井戸宿と思われる。

12:00 「下高井戸宿」
 下高井戸宿は、本陣1、問屋1、旅籠3の小さな宿場、隣の上高井戸宿と合宿だ。
宗源寺境内の不動堂が「高井堂」と呼ばれていたのが、高井戸の地名に由来した。

首都高速4号線が頭上から右手に離れていく辺りが日本橋から四里目の下高井戸一里塚。
ちょうどR20のキロポストも起点から16kmを指している。この辺りから上高井戸宿に入る。

 

12:20 ~ 12:50 「上高井戸宿」
 上高井戸宿も、本陣1、問屋1、旅籠2の小さな宿場、月の後半15日間役務を勤めた。
そもそも甲州街道を参勤交代に利用したのは信州高島藩、高遠藩、飯田藩の3藩だけ。
いずれも小藩であるから、この規模の宿場で足りたのであろう。
お昼は上北沢商店街の天兼&海老蔵で “かつ重” をいただいた。
今回の旅は宿場の大衆食堂で類似のメニューを食しながら味を比べようと思う。

        

上高井戸宿の武蔵屋本陣は上高井戸1丁目交差点辺り、ここも遺構も碑も案内板もない。
この先R20はV字に新道旧道に分岐する、千歳烏山市街へ向かう旧道が本来の甲州街道だ。
分岐して直ぐに井之頭辨財天道道標、井の頭公園の弁財天までは1里半と刻まれている。

 

芦花公園駅を過ぎたあたりに烏山用水に架かっていた大橋場跡には出世地蔵が佇む。
千歳烏山駅付近の路地脇には石仏石塔群が並ぶが、地蔵尊はことごとく頭が落ちていた。

仙川一里塚は江戸日本橋から五里目となる。
R20と再び合流する仙川駅付近に跡碑が建つ、塚木は無かったそうだ。

        

仙川一里塚跡を過ぎると左手にキューピー食品のオフィスが在る。
からくり時計のキューピー人形がハロウィーンの装いで癒してくれる。

 

仙川2丁目交差点から右手に入る200mほどの旧道が残る。
瀧坂といって、一旦雨が降ると滝のように水が流れる急坂の難所であったそうだ。

 

右手に妙円地蔵を見ると間もなく、旧甲州街道入口交差点でまたしてもV字にR20と離れる。

 

14:20 「布田五ヶ宿」
 旧道に入ると、国領宿、下布田宿、上布田宿、下石原宿、上石原宿と5つの宿場が並ぶ。
布田五ヶ宿は、本陣・脇本陣は無く、旅籠9の小宿で、月6日づつ宿場の役務を分担した。
国領駅入口には昇福稲荷大明神が祀られ、少し先には庚申塔が交通安全を祈っている。
国領の地名は古代国衙直轄地、あるいは江戸時代に天領だったことに由来をしている。
樹齢500年の御神木「千年藤」が見事な國領神社を第1日目のゴールとした。

日本橋~内藤新宿~下高井戸宿・上高井戸宿~布田五ヶ宿 23.3km 所要06時間20分


休日は各駅停車で 燗酒と深川めしとスカイツリー 半蔵門線で呑む!

2015-11-04 | 旅のアクセント

 「深川 釜匠(かましょう)」は東京メトロ清澄白河駅から直ぐ、深川めしの人気店だ。
 大粒のあさりにネギと刻み海苔がたっぷりのった「深川丼」は半熟卵をのせると一層美味しい。

清澄白河へと通じる東京メトロ半蔵門線の起点は渋谷駅、東急田園都市線と相互乗り入れしている。
飲み会と言えば新宿歌舞伎町に繰り出す学校に通っていたので、渋谷は馴染みが薄い。

半蔵門線のシンボルカラーは「パープル」だ。
東急田園都市線を走ってきた電車は、半蔵門線を走り抜けて東武伊勢崎線の久喜まで達する。
およそ100kmのロングランになる。

清澄白河を訪れたのは、友人が深川江戸資料館で寄席を主催するからだ。
開場前に界隈を散策。清澄庭園は回遊式林泉庭園、岩崎弥太郎が造園した明治を代表する庭園だ。

 

門を潜るとサザンカの淡いピンクが咲き、秋の陽を浴びて咲くツワブキの黄色が映えている。

 

下町の庭園にも秋の気配が感じられ、ひとり散歩をするのも良い。

 

寄席の後は深川名物を愉しむ。そろそろ燗酒もいい季節だ。蟹みそ豆腐ともろきゅうを肴にまずは一杯。
からだが温まったところで「深川丼」をいただく。

すっかり暮れた清澄白河を後に残り区間を行く。住吉、錦糸町を経て終点の押上に滑り込む。
でも大抵の電車は東武伊勢崎線に乗り入れてさらに先を急ぐ。旅はまだまだ続くのだ。
改札をでて地上に出るとスカイツリーが青く輝いている。

<40年前に街で流れたJ-POP>
眠れぬ夜 / オフコース 1975