旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

Biz-Lunch らーめん多喜屋@能生町「カニらーめん」

2013-10-19 | にいがた単身赴任始末記

 ブラック焼きそばを食べようと立ち寄った能生町弁天岩近くの「らーめん多喜屋」だ。
お品書きの "カニらーめん" が気になって予定を変更なのだ。
野菜たっぷりの塩餡かけに紅ズワイガニがのって風味豊かな旨い一杯だった。


北国街道紀行8 柏原宿~野尻宿~関川宿~田切宿~関山宿

2013-10-12 | 北国街道紀行

「柏原宿」 08:40
 北国街道を歩く第8日目も妙高市北国街道研究会の皆さんに同行する。
会にとって第10回目となる今回の散策会は70名の参加だ。
悪天候が予想されたが出発に際しては黒姫山(2,053m)の雄姿が望めた。

「野尻一里塚」 09:30
 鳥居川(千曲川水系)と関川の分水嶺を越える。
間もなく現れる野尻一里塚は一対が完全に残っていてR18がすっぽりと収まっている。

「梅が香にのっと日の出る山路哉」R18を右に離れてると芭蕉の句碑、江戸時代の建立だ。
野尻宿の手前には「従是飯山河東道」の道標がある。
高田城下方から見ると北国街道を左手に別れ千曲川東岸の脇街道に通ずる。
柏原・古間・牟礼宿を通らず松代を経て江戸方に抜けるため、荷争いの訴訟沙汰が絶えなかった。

「野尻宿」 09:50
 右手に野尻湖が広がると「野尻宿」。夏が過ぎた避暑地の湖はひっそりとしている。

野尻宿本陣は跡碑が立つのみであるように宿場を偲ばせる古い遺構はない。
豪雪地帯においてはその維持は極めて困難ということだろう。

野尻宿の北の外れに既に廃寺となった安養寺がある。
今は石垣を残すのみだが、ここは幕府御用金の金蔵跡でもある。
越佐海峡を渡って出雲崎に陸揚げされた佐渡の金は馬の背に載せ替えられ、
ここまで3日という速さで送られて一晩保管された後善光寺宿に向かう。

「赤川一里塚」 10:50
 野尻坂峠を越えると正面に妙高山の雄大な姿が現れる。まさに仰ぎ見る格好だ。
信越国境は関川が深い谷を刻んでいる。R18バイパスは信越大橋でひと跨ぎする。
一方旧R18はスノーシェードを潜り大きく4つのカーブをくねらせて谷底へ下りていく。

旧R18と絡みながら下りる北国街道はこのスノーシェードで寸断され一部廃道となっている。
長野県側最後の集落赤川に「赤川一里塚」跡がある。隣接する常田家は一茶の妻の実家だ。
52歳での結婚に際して「五十聟 天窓(あたま)を隠す 扇かな」と詠んでいる。

「関川関所」 11:20~13:40
 赤川の集落を抜けると直ぐに関川河畔、関川御関所の木札が掛かった門が塞いでいる。
この門に続く一の橋を渡ると新潟県に入る。


関川関所は幕府の命によって高田藩が管轄した。関所跡には番所が復元されている。

「関川宿・上原宿」 13:50
 関所を抜けると関川宿・上原宿。隣接する二つの村が半月交代で問屋業務を行う合宿だ。
関川宿の浄善寺は小林一茶と親交があり、一茶から住職に贈られた俳句の碑がある。
続く上原宿の問屋豊田家には石垣が残る。ここは高田藩専用の本陣としても用いられた。

 妙高高原の市街地を抜けると小学校の校地に「田切一里塚」標柱、塚はすでにない。
この先北国街道は3つの田切地形を横断する。深い侵食谷を越えるかなりの難所だ。
架橋技術の高くなかった当時は一旦谷底に下りて川を渡り再び崖を上らざるをえない。
道は大きなU字を描くことが多い。
最初は白田切川、妙高山南地獄谷に発する流れは温泉成分で白濁しているため
その名がついた白田切川は昭和53年の雪解け水による土石流で多くの犠牲者を出た。
その際下流の信越本線の築堤も流し長期間の幹線不通を引き起こしている。

「田切宿・二俣宿」 14:30
 白田切川の谷を上ると田切宿、郷田切川の田切地形を挟んで北隣の二俣宿との合宿だ。
街道時代そのままの古道は地元の方に草刈をしていただき快適に歩くことができた。
通常田切地形を越えるには上流に迂回するのだが、郷田切は例外的に下流側に迂回している。
谷底を板橋で渡り対岸の崖を上ると二俣宿だ。

二俣宿の過ぎて1kmほど、大田切は越後の北国街道最大の難所で明暦元年の道中絵図に
「大田切十三曲り」と紹介されている。この道は昭和7年に旧国道ができた際に廃道にになって歩くことができない。

旧国道は大きなU字を二度描いて深いV字谷を越える。頭上をR18と上信越道が跨いで行く。

「坂口新田・庄屋太田家」 15:10
 大田切を越えると坂口新田集落、大雪の大田切で幕府の役人が遭難したことを受けて、
家光が高田藩に命じて街道の助成村として二俣宿と関山宿から3軒づつ入植して拓いた。
水利権など特権が保証されたという。代々庄屋を勤めた太田家が築300年の邸を守っている。

「関山宿」 16:00
 高田平野を一望にしながら大洞原を2kmほど直線的に下ると関山宿横町に入る。
宿内に小さな泉が湧いていて、その前に2体の地蔵が収まっているのが泉地蔵。
この泉地蔵で北国街道は直角に折れて仲町に入る。豪雪地帯ゆえ旧い遺構は残っていない。

関山神社は妙高山信仰の中心で関山三社権現といい和銅元年(708年)の開基。
上杉謙信の頃に七堂伽藍70余坊と最盛を極めたのち、天正10年(1582年)に織田信長の家臣森長可により焼き払われた。

明治の神仏分離令で関山神社と改名、主尊の菩薩立像は国の重要文化財に指定されている。
「柏原宿」から信越国境を越え、関川関所を経て「関山宿」までの第8日目行程はここで終了。
19.6kmを約7時間30分、散策会のゆったりした行程だった。


北国街道紀行7 牟礼宿~古間宿~柏原宿

2013-10-05 | 北国街道紀行

「牟礼宿」
 北国街道を歩く第7日目は妙高市北国街道研究会の皆さんと小玉古道を歩く。
第9回目の散策会は、新聞などに取り上げられ参加者を増やし52名の参加と盛況だ。
牟礼宿西の桝方には真宗の髻山證念寺がある。 高台の門前からは牟礼宿が一望できる。

證念寺を正面に見て桝方を左に折れるといきなりの急坂、これを十王坂と言う。
坂の途中の十王堂に亡者が極楽浄土に行き着くまでに裁きを行う閻魔大王等十体が並ぶ。
子どもを躾るには絶好の教材であったことだろう。

 

十王坂を上りきると鳥居川の河岸段丘上になる。ここに金附場跡がある。
北国街道の重要な役割は佐渡の御用金の運搬、ここは馬の乗り換えを行なった場所だ。
さらに200mほど先に小さな公園がある。武州加州道中堺碑がある。

 

 北国街道の今一つの重要な役割はもちろん参勤交代だが、中でも加賀前田公は
最大の旅客であり、その3,000名の行列通過は街道の最大行事であった。
この地は江戸と金沢の中間地点で、ここに達するに前田公は江戸屋敷と金沢城に
無事を知らせる飛脚を発したそうだ。

 R18とクロスした街道は山道に溶け込む。「美しい日本の歩きたくなる道500選」に
認証された小玉坂だ。途中小玉新道と分かれるが、新道と言っても明治9年の開削、
我々はもちろん左手小玉古道を往く。

杉木立が鬱蒼と続く小玉古道を往く。
足元は所々滲み出した湧水によって糠っていたりするが、歴史を感じさせる道だ。
途中観音平に9体の馬頭観音が佇んでいる。山の斜面下に信越本線の登り勾配が続いている。
何の用途なのかは判らないが切り出した石がゴロゴロする中を小玉古道は続く。

 

小玉新道と合流すると小玉一里塚跡。上杉謙信の馬止清水が湧き、立場茶屋もあった。
さらに1kmほどで小玉坂のピークで、清水窪といって林の中から水が滲み出している。
明治天皇が野立てをした御小休所跡で、玉堂の他岩倉具視らの随行員棟も設けられた。

 

明治天皇北陸行幸時に開削された直線的な小玉新道を1kmほど下ってようやく人里に戻る。
折しも蕎麦の白い花が満開の落影集落には所々茅葺きの古い納屋などが残っている。

 再びR18とクロスすると小古間の集落、色付き始めた水田の向こうに黒姫山の雄姿を望む。
古間には三軒の酒屋があったが、現在では「清酒松尾」の高橋酒造店に受け継がれている。

「古間宿」
 古間一里塚は跡の碑のみが立つ。一里塚跡を過ぎR18を横断すると古間宿に入る。
鳥居川を挟んで北隣りの柏原宿と合宿の古間宿は古間鎌(現信州鎌)の産地として知られる。
豪雪地帯の冬の労働力を活用したもので、今でも播州鎌に次ぐ産地だそうだ。

残念ながら古間宿にも多くのものは残っていない。
本陣古屋の標注があるのみだが、ここに設けられた明治初年の古間宿地図が興味深い。

「柏原宿」
 宿場の外れで鳥居川を跨ぐ寿橋を渡り、河岸段丘の坂道を上るともう柏原宿だ。
柏原といえば何と言っても俳人・小林一茶、宿内と言わず町内いたるところに句碑が建つ。
宿場に入ると左手に一茶終焉の土蔵と一茶旧宅(実際には遺産折半した弟の家)がある。

宿場ほぼ中央西側で戸隠三社への参道が分岐する。江戸初期に刻まれた碑で、
「従是戸隠山道」とある。戸隠信仰でも多くの旅人で賑わったことだろう。
さらに先に小林家の菩提寺・明専寺には「我と来て遊べや親の無い雀」の句碑がある。
三歳で母を亡くした一茶がその菩提寺でひとり遊びをする姿が想像される。

柏原宿本陣は街道東側に跡の碑と切石が残る。本陣中村家は新田開発を進めた豪農で
一茶のスポンサーであったといい、その死後は顕彰に努めたそうだ。
「牟礼宿」から「小玉古道」を歩いて「古間宿」そして「柏原宿」までは7.9km、
研究会の皆さんとゆっくり歩いて約5時間の行程だった。