旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

旧東海道・品川宿でBiz-Lunch「旬菜料理 竹乃家」

2017-01-31 | Biz-Lunch60分1本勝負

 天気のいい日は片道徒歩15分、旧東海道品川宿は北品川商店街までランチ遠征。
通りすがりの「旬菜料理 竹乃家」さんの看板に “まぐろなかおち” の文字を発見。
酒の肴に大好きな一品だ。7席のカウンターの隅で、常連さんに混じって待つこと数分、
副菜の黒豆と浅漬けを従えて、重厚な陶器にのって “まぐろなかおち” 登場。
ホクホクのご飯とともに満足の一皿でした。

 
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チューリップ咲く公園と大仏様とホッピー酒場と 新京成線を完乗!

2017-01-29 | 呑み鉄放浪記 私鉄編

 新京成線はカーブがきつい。京成津田沼を出発早々、鈴鹿サーキット顔負けのS字カーブが2つ続く。
6両編成の電車は最徐行するものの、台車とレールが擦れて、キーンキーンと甲高い音をたてる。

京成津田沼は京成本線から千葉線、新京成線が分岐する駅。新京成線が発着する6番線は車止めで塞がれている。
車体のラインは「ジェントルピンク」ってコーポレートカラー、枯葉っぽいイメージが華麗に変身したんだね。

今回の呑み鉄旅は新京成線で津田沼から松戸へと千葉県東部を縦断しようと思う。
ジェントルピンクは、高根公団までは密集した住宅街を往く。畑もちらほらしてくるとまもなく三咲駅だ。

冬晴れの青空に粉ひきの風車、新京成線三咲駅からバスで15分、アンデルセン公園にチューリップが咲き誇る。
今回の呑み鉄「番外編」は新京成線で津田沼から松戸へと千葉県東部を縦断する。


船橋市の姉妹都市オーデンセ市は童話作家のアンデルセンの出身地なのだそうだ
園内にはアンデルセン像や「みにくいアヒルの子」の噴水が4万株のチューリップに彩られる。
芝生広場には簡易テントの花が咲いて、親子連れがお弁当と冬の陽光を楽しんでいるね。

2つ先の駅は「鎌ヶ谷大仏」って?とりあえず途中下車してみよう。

     

鎌ヶ谷大仏は安永五年(1776年)に建立された釈迦如来、どう見ても大仏ではなく「大きな仏様」なのだ。(高さ1.8m)

この路線はカーブもキツイがアップダウンも激しい。幾つもの台地を越えて走っているのだろうね。
新鎌ケ谷からはほぼ下り一方になって松戸駅に滑り込む。7・8番線の車止めの先は飲み屋街が広がっている。 

西口駅前広場には「せんべろ」へと降りる階段が、赤い看板を目印にぽっかり口を開けている。
「居酒屋 大都会」は24時間営業している昼呑みの聖地だ。まだ13:00過ぎだけど既にご同輩が集っているね。
ネギとろ、串カツ、マカロニサラダにポッピーセットを択んで〆て1,140円、さてと始めますかね。

新京成線 京成津田沼~松戸 26.5km 完乗

<40年前に街で流れたJ-POP>
マイ・ピュア・レディ / 尾崎亜美 1977


溢れ出る無色透明の源泉 「妙高温泉」 を訪ねる

2017-01-27 | 日記・エッセイ・コラム

 妙高山の南地獄谷に沸く90℃の源泉を8km引湯してくる妙高温泉。
源泉かけ流しの無色透明の柔らかなお湯は絶えず湯船から溢れ出て気持ちが良い。
石田館妙高ホテルを訪ねたのも4年前。残念ながら今は営業していない。

 にいがた和牛せいろ蒸し、鯛のお造り、ふきのとうの天ぷら、ほたるいか酢味噌和え。
お膳を賑やかに飾る山海の幸を肴に呑む。火照ったからだに冷えたビールが心地よい。
ところで、ここから見る雪の妙高山は額の中の絵のように綺麗だ。


湧き出る赤い濁り湯「関温泉」を訪れる

2017-01-25 | 日記・エッセイ・コラム

 戦国時代の名将・上杉謙信も戦の疲れを癒やすために通った云う「関温泉」。
弘法大師が開いたとされる地中深くから湧き出る温泉は、湯の花が赤い濁り湯だ。
癒しの湯宿・朝日屋を訪ねたのはちょうど4年前、やはり大雪の日だった。

 

地野菜の酒粕包焼き、ふろふき大根、鰯と餅の餡かけを肴に「鮎政宗」を呑む。
"純米にごり酒湧水仕込み毘(びしゃもん)" は飲みごたえのある15度の辛口だ。
冬の一人温泉、一人酒、単身赴任時代のささやかな愉しみなのだ。


村上の千年鮭で一杯

2017-01-23 | 日記・エッセイ・コラム

 旧い城下町で築100年を優に超える町屋、雪国らしい太い天井の梁からつり下がっているたくさんの鮭。塩引き鮭が軒先にズラリとつるされ寒風に晒される「鮭のまち村上」の冬風景、そんな様子を見れるのが「村上の千年鮭 きっかわ」さんだ。

 「味匠 㐂っ川」(当時の屋号)を訪ねたのは、にいがた単身赴任時代、ちょうど大寒の頃、瀬波温泉で鮭料理を肴に村上の酒を堪能した翌日だ。大人の休日倶楽部のCMで吉永小百合さんが訪ねたことで脚光を浴びた頃だったと記憶する。こちらを睨んでるかのような何百匹もの塩引き鮭に圧倒された。

 “鮭の酒びたし” やら “鮭の生ハム” は酒の肴に最高なのだ。掘り炬燵にはいって、ガラスの酒器で差しつ差されつ。って思い出すうちから一杯やりたくなってきた。


旧東海道・品川宿でBiz-Lunch「天ぷら豊樹」

2017-01-21 | Biz-Lunch60分1本勝負

 暖簾を潜るとカウンター7席、夜訪ねるには敷居が高そうな本格的な天ぷら専門店。
でもランチなら気軽に楽しめます。
天丼は海老2本・キス・紋甲いか・野菜3品、サクッとした食感、香ばしいかおり、
濃厚なタレ、カウンターで常連さん気分でいただいてきました。
陽光が良い具合なので久しぶりのランチ遠征、旧東海道品川宿、美味い店有ります。


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非情城市・九份へ

2017-01-19 | 日記・エッセイ・コラム

 基隆から東へ10kmほど入った山間の小さな町九份。19世紀末に金の採掘がされたことにより発展し、1970年代に金鉱が閉山したことにより衰退したそうです。中華圏の町並みに、日本統治時代の雰囲気が残る独特な町並みが魅力です。

 寂れた炭鉱の町が再び脚光を浴びるのは、1989年に公開された台湾映画「非情城市」の舞台となったことによります。スタジオジブリの大ヒット作「千と千尋の神隠し」のモデルになった町並みでは、なんて語られたりもします。

 九份へは、オプショナルツアーが組まれていたり、台北からの直通バスもありますが、台湾鉄道に瑞芳まで乗車して路線バスに乗り継ぐのがお奨めです。交通費の安さもさることながら、「ちょっと遠くまで来た」感を演出してくれるからです。

 九份を訪ねるのは午後がいいですね。(台北への復路の混雑を覚悟すればですが)日が暮れるにつれて紅い提灯が点灯していく、昼間とは違ったレトロな美しさが増していきます。なるほど「千と千尋の神隠し」の世界に浸ることができそうです。


路面電車と薩摩料理と桜島と 鹿児島市交通局1系統を完乗!

2017-01-17 | 呑み鉄放浪記 私鉄編

 鹿児島市交通局1系統で鹿児島駅前をめざす。600円の「市電・市バス・シティビュー1日乗車券」が便利だ。
谷山電停の駅舎は顔に見えるね。大きなオモチャ箱かビックリ箱って感じでユーモラスだ。
途中の涙橋電停までの4kmは専用軌道なので電車はグングン走る。ずいぶん激しく揺れるけどね。

鹿児島随一の繁華街・天文館まではちょうど30分。
その地名は薩摩藩8代藩主 島津重豪公が建てた天文観測や暦の作成などを行う明時館(天文館)に因んでいる。

 格式ある郷土料理店「熊襲亭」だけど、ランチなら意外と手頃な予算で楽しめる。
ここ2日は焼酎漬けだったので久しぶりに生ビールを呷る。旨い。 


代表的な薩摩料理は、酢味噌で味わう "キビナゴの刺身"、おなじみ "さつま揚げ"、骨付き黒豚を味噌と
焼酎で煮込んだ "豚骨" が美味しい。鶏肉・根菜・コンニャクが入った "さつま汁" は甘めの味噌汁だ。 

 山形屋デパート前の朝日通電停で降りたら、城山を背景に直立不動する西郷隆盛に会える。
上野恩賜公園のそれとは対照的に陸軍大将の正装だ。決っして "西郷さん" ではない。 

 桜島フェリーに乗船するには、水族館口電停で下車すると良い。鹿児島のシンボルといったら桜島。
その雄姿はフェリーから眺めるのが良いらしい。往復30分のちょっとしたクルーズを楽しめる。
フェリーのうどんスタンド「やぶ金」は、秘密のケンミンshowでも紹介された隠れた名物だ。

2泊3日の「呑み鉄」南九州の旅、そのハイライトは船上から眺める雄大な桜島になる。

桟橋に戻ってから市電最後の2区間に乗車すると、ほどなく鹿児島駅前に終着して旅は終わる。
鹿児島駅は鹿児島本線と日豊本線の終点だけど、鹿児島中央駅と比べると寂しい。その分旅情たっぷりだ。

鹿児島市交通局1系統 谷山~鹿児島駅前 9.4km 完乗


ぶり大根と八千代伝と鹿児島の夜 鹿児島市交通局2系統を完乗!

2017-01-15 | 呑み鉄放浪記 私鉄編

 東京とは緯度が違うにせよ18:30ともなれば鹿児島も真っ暗、今宵は郡元電停から市電2系統に乗車をする。
2系統は郡元で1系統と分岐、鹿児島中央駅前を経て高見馬場で合流する。どちらにしても行先は鹿児島駅前だ。

郡元から数えて9番目の電停が鹿児島中央駅前、以前訪れた時よりもずいぶん賑やかになった気がする。
新幹線開通を潮に街の賑わいが天文館から駅前へとシフトしつつあるんじゃないかな。 
さらに一つ先の高見橋電停を降りる。甲突川に架かる高見橋の東詰には大久保利通卿が立っている。

 高見橋電停近くの「かごっまふるさと屋台村」は、鹿児島グルメと焼酎を堪能できる25店舗で構成されている。
どの店もカウンター8席。自然に客同士あるいはスタッフと会話を楽しむことになるって仕掛けのようだ。

「港町食堂たるみず」は、垂水の食材を使って美味いものを食べさせてくれる。
袖触れあったのは、山口の60代男性、地元の男性二人連れは20代だね。東京の30代と思しき女性二人組。
みなさん昨日の「菜の花マラソン」を走ったそうだ。

店長・追立さんが奨めてくれたのは勿論垂水の焼酎「八千代伝」を愉しむ。
まずはスッキリした “かめ壺仕込み” を。肴は垂水で揚がったブリ・ハマチなど5点盛を抓む。

二杯目は芳醇な “冬の限定むろか”、三杯目はロックで。そして甘めに煮込んだ “ぶり大根” が絶品なのだ。

結局看板まで長居して、良い具合にほろ酔い気分であと2区間を乗車する。降り立った高見馬場電停の交差点を、
若き日の大山巌、西郷従道そして山本権兵衛が駆ける。鹿児島湾にイギリス艦隊出現の報に港へと急いでいるのだ。
てなこと妄想している間に鹿児島の美味しい夜は更けて行く。

鹿児島市交通局2系統 郡元~高見馬場 3.7km 完乗


薩摩富士と菜の花と鰹船人めしと 指宿枕崎線を完乗!

2017-01-13 | 呑み鉄放浪記

 北緯31度11分。開聞岳を望むJR日本最南端の駅が西大山駅。裾野を広げる「薩摩富士」が美しい。
咲き誇る菜の花の黄色いじゅうたん、降り注ぐ春の陽光、周辺は季節を先取りしている。

 起点を示す「0キロポスト」を1番ホームの車止め脇に見つけた。ここから指宿枕崎線の旅が始まる。
鹿児島中央08:38発の山川行は、アイボリーにブルーのラインが引かれた年季の入ったキハ40系気動車だ。

キハ40系は、左手に桜島や大隅半島を見ながら錦江湾沿いを南下する。喜入までは県都鹿児島のベッドタウン、
なんと50往復もの列車が走っている。その先は本数がぐっと少なくなるが、引き換えに明媚な車窓が展開する。 

「東洋のハワイ」指宿温泉は砂蒸し風呂で有名。高度経済成長期にはハネムーンのメッカだった。
沿線の中心駅指宿、駅前広場には菜の花に飾られた足湯がある。次の列車の時間までまったりと足を浸す。

人気の観光特急 "指宿のたまてばこ" の到着を待って、たった1駅を走る短距離ランナー山川行が動き出す。

 小さな港町山川からは、鹿児島湾を横断して大隅半島の根占とを結ぶフェリーが出航している。
大型車2台、乗用車6台を積載する小さなカーフェリーは、強風によって欠航になっていた。

山川から先は日に6往復の超ローカル線、2つ目が最南端駅の西大山、列車は記念撮影のために2分間の停車する。
駅前には「幸せを届ける黄色いポスト」と「幸せの鐘」があって、若い女性グループで華やいでいる。

開聞岳の裾野をなぞってキハ40は西へと転じる。車窓の東シナ海は凪いでいた鹿児島湾と対照的に白波が立つ。
シラス大地の畑中を1時間ほど揺られると終点の枕崎、かつお漁は350年の歴史を持ち、鰹節生産量は日本一だ。

市内の「だいとく」を訪ねる。“枕崎鰹船人めし” は、船乗りが食べていた料理を現代風にアレンジしたもの。
鰹の切り身と鰹節たっぷりのトッピング、熱いだし汁を注いだら、茶漬け風丼にしていただく。旨い。
半分食べたら、お好みで追い鰹と鰹のごまマヨあえを加える、これがまた旨い。満足の丼なのだ。 

旅の締めくくりに薩摩酒造明治蔵を訪ねる。銀ねずみの和瓦、白い漆喰壁、太い梁や桁、石の床がそのまま残る。
「ちょい水で、香りはひらく」って、米倉涼子さんのCMでおなじみ “さつま白波” の蔵元なのだ。
年季の入ったかめ壺や木桶を拝見してから利き酒を愉しむ。どんぶり仕込みの「明治の正中」骨太な味が一押しだ。

指宿枕崎線 鹿児島中央~枕崎 87.8km 完乗

おんな港町 / 八代亜紀 1977


小京都・飫肥と若黒潮とおび天と 日南線を完乗!

2017-01-11 | 呑み鉄放浪記

 鹿児島空港から路線バスを乗り継いで、やっとの思いで志布志にやってきた。凄まじい横殴りの雨だ。
トンネル貯蔵庫「千刻蔵」の木樽蒸留で焼酎を醸している若潮酒造を訪ねようと思ったけど諦めるしかない。
隣接のDCストアでワンカップとミニボトルを買い求めて始まる「呑み鉄」日南線の旅だ。

志布志駅はかつて、大隅線、志布志線、日南線が連絡する鉄道の要衝だった。
大隅線と志布志線は1987年3月、国鉄最後の日を待たずに廃止、現在はホーム1本の静かな日南線の終着駅だ。

ガクンと身震いをして年季の入った単行ディーゼルカーが走り出す。志布志から串間まではダグリ岬など
風光明媚な海岸線が見え隠れするはずだけど、車窓は大きな雨粒で見通しが利かない。荒天が恨めしい。

JR九州のローカル列車はボックスシートだが、窓枠のテーブルが撤去されている。なんという無粋な。
呑み人には憤懣この上ないのだ。で、時刻表をテーブル代わりに "さつま黒若潮" を並べて一杯始める。
つまみはこの辺りでポピュラーらしい揚げ餅なのだ。

 まもなくプロ野球のキャンプで賑わうであろう日南市。いつのまにか雨は上がって青空が広がってきた。
"かつおめし" の油津か、"天ぷら"の飫肥か、迷った末に飫肥駅で途中下車、九州の小京都「飫肥」を訪ねる。

武家屋敷を象徴する門構え、風情ある石垣、漆喰塀、掘割の清流に泳ぐ鯉。
時代に取り残されたかのような飫肥の風景は、江戸時代の町並を想像させる。

飫肥城は、天正15年(1587年)に九州征伐の功により豊臣秀吉より賜って以来、廃藩置県までの280年間、
飫肥藩・伊東氏5万1千石の居城として栄えた。丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城で天守閣は持たない。

“おび天” は、近海でとれた魚のすり身に、豆腐や黒砂糖、味噌を混ぜ合せて作る郷土料理だ。
江戸時代から伝わる庶民の味は、城下の「元祖おびてん本舗」で求めることができる。 
大手門前に直営の「蔵」で、“おび天” とこれまた名物の “厚焼き玉子” と “カニ巻き汁” が美味しい。

飫肥城下を巡ったら、15:07発の南宮崎行きに乗車する。この列車もキハ40系たった1両での運用になる。 

油津から飫肥そして伊比井までの20kmほどを、日南線は海岸線を離れて内陸を走っていく。
海岸線を避けているのは鵜戸神宮の辺りになる。伊比井から青島までは日向灘が見え隠れするのだ。

加江田川鉄橋を渡ると突然に車窓が開ける。肥沃な宮崎平野に抜けると日南線の旅もラストスパートとなる。 

終点の一つ手前、田吉に途中下車する。ここから1.4km、宮崎空港へと延びる宮崎空港線も乗り潰さないと。 

宮崎空港駅はSFチックなデザインの駅だ。1面2線のホームには、博多や大分からの特急も乗り入れてくる。
宮崎から宮崎空港までの区間は乗車券だけで特急に乗車できるのだ。

深紅のボディーの2両編成がラストランナー、田吉から再びの日南線は日豊本線と合流して南宮崎で旅を終える。
ロータリーから西へ延びる通りには南国らしいフェニックスの並木が長く細い影を落としていた。

  日南線 志布志~南宮崎 88.9km 完乗
宮崎空港線 田吉~宮崎空港   1.4km 完乗

<40年前に街で流れたJ-POP>
しあわせ未満 / 太田裕美 1977


Alta Velocidad Españolaで往く

2017-01-09 | 日記・エッセイ・コラム

 バルセロナ、バレンシア、アンダルシア方面行きのAVEが出発するアトーチャ駅、改札でパスポートチェックを済ませると、クラブ(特等)、プレフェレンテ(1等)の乗客は「AVEラウンジ」を利用できるので、駅へは時間に余裕をもって向かうと良い。

 深いソファーに腰を沈め、読めもしない西語新聞を広げてセルベッサを愉しむ。赤ラベルの Cruzcampo(クルスカンポ)がお気に入りだ。スペイン高速鉄道の旅には日本の新幹線にはない「旅情」がある。

 荷物置き場にスーツケースを収め、プレフェレンテの革張りシートに自分の座席を見つけた頃、セビーリャ行きはごく軽い振動を残してプラットフォームを静かに滑り出す。そう云えば駅構内でも車内でもアナウンスが響くことはなかった。

 白い14両編成は最初こそ実力を出し惜しんでいたものの、市街地を抜けるとぐんぐんと速度を上げ、窓の景色が猛烈なスピードで流れはじめる。1時間もすれば左右の車窓に満開のヒマワリ畑が広がるはずだ。

2013.06.20


日光道中・奥州道中紀行1 日本橋~千住宿~草加宿

2017-01-07 | 日光道中・奥州道中紀行

 冬晴れの日、三度の日本橋からの旅立ちは北をめざすことにする。
日光道中は東照宮まで二十一次の参詣の道、
奥州道中は白河までの二十七次、江戸と陸奥とを結ぶ人流物流の道だ。
宇都宮宿伝馬町追分までの十七次は両道中共通となっている。

 

10:20 「日本橋」
 ずいぶん出遅れとなった日本橋。街はすでに三越の福袋を手にした人たちで賑やかだ。
カメラを手にした訪日観光客が目立っている。道路元標を確認して中央通りを北へ進む。

Navi1. 日本橋 → <国道4号線> → 室町3丁目南交差点 0.4km

 

三越を過ぎた室町3丁目南交差点が中山道との追分、日光道中は右に折れて隅田川へ向かう。

Navi2. 室町3丁目南交差点(右折) → 浅草橋交差点 1.3km

 

昭和通りを地下道で渡ると左手に「寶田恵比寿神社」がある。
御神体の恵比寿神は運慶作、徳川家康から下賜されたもだと云われている。
馬喰町の呉服問屋街を抜けてひたすら直進すると浅草橋交差点南に至る。

Navi3. 浅草橋交差点(左折) → <国道6号線> → 言問橋西交差点 3.0km

 

10:50 「浅草見附」 
 浅草橋で神田川を渡る。右手隅田川との合流地点まで屋形船がびっしりと並んでいる。
神田川北詰の「浅草見附」は 江戸城の警護のために設けられた36箇所に見附の一つ。
浅草御門と呼ばれた枡形の門は、浅草観音参詣者や遠く奥州へ往来する人々を取り締まった。

 

Navi3-2. 駒形橋西詰交差点(斜め左) → 雷門交差点 300m

11:20 「雷門」
 街道は駒形橋西詰交差点から浅草観音の総門「雷門」を正面に見て進む。
この間に「浅草一里塚」があったはずなのだが、痕跡はおろか場所も特定されていない。
参道は初詣に訪れた人でいっぱい。この光景は街道時代から変わらないことだろう。

Navi3-3. 雷門交差点(右折) → 吾妻橋交差点 200m

 

Navi3-4. 吾妻橋交差点(斜め左)

Navi4. 言問橋西交差点(斜め左) → <都道464号> → 南千住交差点 2.5km

11:50 「待乳山聖天」
 標高10m、東京で一番低い山「待乳山」は隅田川から東の眺望を得るには絶好の高台だ。
待乳山聖天には大根をお供えする。二股の大根が交わる印しは夫婦和合を示している。
 街道は岡林信康が謳った「山谷ブルース」のドヤ街を抜けていく。
なるほど左右の路地には簡易宿所が並び、路上で焼酎を酌み交わすおじさん達を見かける。

     

12:10 「小塚原刑場跡」
  南千住駅南口に小塚原回向院がある。小塚原は鈴ヶ森、大和田と並ぶ江戸の刑場の一つ。
明治初頭に廃止されるまでに、磔、斬罪、獄門などの刑が執行された。
吉田松陰もここに眠っている。首切地蔵は寛保元年(1741年)に建立されたものだ。

12:20 「素盞雄(スサノオ)神社」
 言問橋西詰から北上した街道が国道4号線と合流する南千住交差点に「素盞雄神社」がある。
延暦十四年(795年)に創建された神社には素盞雄大神と飛鳥大神が祀られている。

Navi5. 南千住交差点(右折) → <国道4号> → 千住新橋北詰交差点 3.2km

 千住大橋で隅田川を渡る。
家康は江戸入府後直ちにここへ架橋を命じ、文禄三年(1594年)に初代の大橋が完成している。

「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」
元禄二年(1689年)、深川から舟に乗りここに上陸した芭蕉はここを矢立ての地とした。
この先日光道中・奥州道中は「奥の細道」を辿る旅でもある。

 

さて、初日の街道めしは足立市場内の「とくだ屋」で。寒いけれど生ビールを呷る。
定番の海鮮丼「とくだ屋丼」をいただく。新鮮な刺身の下にはネギトロの山が嬉しい。 

 

Navi5-2. 足立市場前交差点(斜め右) 名倉医院まで1.9km

12:50~13:20 「千住宿」
  足立市場前から荒川堤防に突き当たるまで2キロ弱の直線が旧街道。
天空劇場辺りが江戸方の入口で日本橋から2番目の「千住一里塚」があった。
北千住駅に向かう大通りと交差すると宿場町商店街(サンロード商店街)で一筋目が本陣跡。

 

千住宿は本陣1、脇本陣1、旅籠55軒。旧い遺構は少ないが宿場町風情を今に伝える旧家が2軒。
江戸中期から代々、絵馬や行灯、凧を描いてきた際物問屋「絵馬屋」の吉田家。
そして、紙問屋「松屋」の横山家が向かいあって残っている。

江戸期に「骨接ぎ所」として名を成した名倉医院には立派な長屋門が残っている。
医院の前が下妻街道との追分で、日光街道は左手に折れ、直進するのが下妻街道だ。
追分は宿場の日光方の入口でもある。

Navi5-3. 名倉医院(斜め左) 千住新橋南詰でR4に戻る

 

千住宿から先の街道は荒川放水路によって分断されているので千住新橋を渡る。
橋中央部に日本橋から9kmのポスト、ここまで2時間50分、ずいぶんなスローペースだ。
千住新橋を渡ると荒川の土手を北上、千住新橋ランプ下の川田橋交差点で旧街道に繋がる。 

Navi6. 千住新橋北詰(左折) → <荒川土手> → 川田橋交差点 400m

Navi7. 川田橋交差点(右折) → <都道103号> → 保木間水神宮 5.1km

 

 川田交差点からは5kmを超えて退屈な一本道が続く。
街道当時も沼地を埋め立てた中を行くのだから、旅人にも退屈な行程だったろうと思う。
梅田に明王院への道標「石不動尊」、梅島駅手前のY字路に「旧日光街道道標」がある。

 

島根に入って「將軍家御成橋御成道松並木跡碑」、続いて日本武尊を祀った「鷲神社」がある。
『日光道中分間延絵図』によると神社の少し北に「六月一里塚」があるのだが痕跡はない。

Navi8. 保木間水神宮(左折) → <都道49号~県道49号> → (越谷市)瓦曽根ロータリー交差点 9.3km

 

都道49号に入ると間もなく毛長川を渡ると左右に煎餅屋が目につくようになる。
稲作が盛んなこの地では、蒸した米を潰し丸めて干し、塩を塗して焼いて食べていた。
宿場の発展とともに塩味の煎餅が旅人向けの商品として売り出され、各地に広まった。
その後、野田で生産された醤油で味付けをしたものが、現在の草加煎餅の原型と云われる。
草加市内には煎餅の製造所や販売所が60軒を超えている。

     

15:15 「火あぶり地蔵尊」
 千住宿から奉公に来ていた働き者の娘が、放火の咎で火あぶりの刑に処せられた。
此の娘を哀れんで建てられたものだと云われる瀬崎の「火あぶり地蔵尊」だ。
地蔵尊近くには日本橋から4番目の「吉町一里塚」があったが、これもまた痕跡がない。

Navi8-2. 吉町2・5丁目高砂1丁目Y字路(斜め左) 旧道を1.4km

 

15:25 「草加宿」
 草加宿の江戸方の入口は市役所から、敷地の端に地蔵堂が鎮座する。
その先の藤城家は国登録有形文化財、内蔵・外蔵は街道時代の重厚な土蔵造りを残している。 

 

草加宿の規模は本陣1、脇本陣1、旅籠67軒。
清水本陣跡地の案内板によると、会津藩の松平氏、仙台藩の伊達氏、盛岡藩の南部氏、
米沢藩の上杉氏が休泊した記録がある。
その先の東福寺は、草加宿の祖・大川図書が創建した寺、慶長十一年(1606年)の創建。
正に街道の盛衰を見つめてきたことになる。

 

宿場の日光方の入口の久野家(大津屋)は、安政二年(1855年)の江戸大震災に耐えた。
ずいぶんと旧い平入切妻造り瓦葺きの町屋建築だ。
芭蕉の門人・河合曾良の像が、先を歩く芭蕉に呼び掛けているかのように立っている。

 

Navi8-3. 神明町交差点(左折) 草加松原を蒲生大橋まで 2.3km

 

神明交差点で県道49号と合流すると直ぐに「札場河岸」だ。
綾瀬川は江戸中期から運河として利用され多くの船が行きかっていた。
河岸には望楼が建ち、松尾芭蕉は呼び掛ける曾良に応えるように江戸方を振り返る。

15:50 「草加松原」
  札場河岸からは綾瀬川沿いに約1.5km続く松並木を往く。
松の植樹時期は定かではないが、天和年間(1681~1684年)の綾瀬川開削時と云われている。
千本松原は、夏の日差しを遮り、冬の北風を防ぎ、旅人には快適な道程だったと想像される。

Navi8-4. 蒲生大橋東詰(左折) 蒲生本町交差点で県道49号に戻る 1.0km

16:15 「蒲生一里塚」
 街道が蒲生大橋で綾瀬川を渡ると日本橋から4番目の「蒲生一里塚」が在る。
教育委員会の案内板には東側の一基が現存とされているが塚には見えない。
塚木であるとされるムクエノキの古木が立っている。
何れにせよ、埼玉県内の日光街道筋に唯一現存する一里塚だそうだ。

16:50 「新越谷駅入口」
 蒲生本町交差点で県道49号(旧国道4号)に戻る。
16:40過ぎ、茜を残して冬の弱い陽が没した。情けないが日没サスペンデッドだ。
第1日目、日本橋を発って初詣で賑わう浅草観音を経て千住宿、芭蕉の足跡を辿って草加宿。
草加松原を抜けて越谷宿の手前、新越谷駅入口交差点迄、所要時間6時間の行程となった。

日本橋~千住宿~草加宿~越谷宿(新越谷駅入口交差点) 23.7km


LONG BEACH にて

2017-01-05 | 日記・エッセイ・コラム

 ダウンタウンのMetoro Centerからブルーラインでロングビーチへ。
海外へ出た時こそ鉄道(もちろん路線バスも)の旅は興味深い。
その土地で暮らす人々の生活と云うか風俗文化を五感で感じることができますよね。

車社会のLAですが、ダウンタウンから8系統のMetro Railが放射線状に延びています。
ハリウッドへも、パサデナへも鉄道で訪ねることができます。
南へと下るブルーラインは、少々治安の良くない地域も抜けるので緊張感も伴いますが、
ロングビーチまでの1時間はご機嫌なショートトリップです。

ロングビーチは旧くは美しい海岸のリゾート地、今では貿易港として栄える工業都市。
ブルーラインはループしてLAへと戻ってしまうので、Transit Mallで下車します。
ロングビーチ内はここから乗車できるトランジットバス「パスポート」の利用が便利。

ショートトリップの目的地の「クイーンメリー号」は、全長300m、排水量80,000t。
時速55kmは建造された1930年代には世界最速だったそうです。
豪華なレストランやバーは、大西洋や太平洋を横断する優雅な旅を想像させてくれます。


知床峠を越えて

2017-01-03 | 日記・エッセイ・コラム

 斜里町ウトロから羅臼町へと抜ける知床横断道路。
峠へと延びるワインディングの内側に向けて右へ左へとCBを倒しながら高度を稼ぐ。
知床連山の尾根筋にあたる標高738m地点が知床峠だ。
雄大な羅臼岳も8月ともなれば残雪はないが、ひと月もすれば紅葉が山を下りてくるはずだ。
ゆく手には太平洋が午後の陽を鈍く反射させている。浮かぶ大きなシルエットは国後島だ。

2011.08.27