旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

甲州道中紀行12 金沢宿~上諏訪宿~下諏訪宿

2016-12-03 | 甲州道中紀行

 

09:40 「金沢宿」 
 曹洞宗金鶏山泉長寺の山門前に「おてつき石」がある。
参勤交代の大名に役人が、この石に手をついて口上を述べたそうだ。 

 

明治時代のものであるが、人馬が一緒に泊まれた横棟造りの「馬宿」が残っている。
軒先には「馬繋ぎ石」を見ることができる。

     

承応三年(1654年)建立の金山大権現を祀っている権現の森。
この手前が高遠道との追分になっている。高遠道は高遠藩、飯田藩の参勤道でだ。
ってことは、この先の甲州道中を通ったのはいよいよ高島藩くらいになってしまう。

稲刈りを終えた田圃に稲ワラが敷かれ、等間隔に木材を並べる作業を見かけた。
多分、寒天の干し場の準備だと思われる。
所狭しと寒天が並べられる風景は、冬の諏訪地方で見ることができる風物詩なのだ。

     

10:10 「金沢一里塚」
 諏訪までのお付き合いになる宮川沿いを往く。
日本橋から49番目の金沢一里塚は、R20対岸のホテル脇に標石のみがぽつんと在る。
塚は崩れてしまって原形を留めていない。 

     

10:45 「酒室神社」
 坂室地区になんとも興味をそそる名前の神社がある。
諏訪大社の祭礼のひとつである御射山祭の際、濁酒を造り、山の神の供える。
この前夜祭をとりおこなう神聖な地に祀られたのがこの酒室神社だ。

坂室を過ぎると眼前が開けて諏訪盆地が確認できる。
中央道越しに雪を被っているのは木曽駒ケ岳か、標高2,956m、中央アルプスの最高峰だ。

 

11:05 「茅野一里塚」
 日本橋から50番目の茅野一里塚も標石のみが在る。塚木は松であったという。
ここに鎮座する「三輪神社」、久寿年間(1154~56年)の創建で、大和の三輪神社から迎えた。
神社に隣接する豪壮な三階建ての土蔵は、寒天を保存する使われた「宮川寒天蔵」だ。
現在はイベントスペースとして使われている。

     

11:20 「諏訪大社上社大鳥居」
 茅野駅前交差点に大鳥居が在る。諏訪大社上社は本宮と前宮の二社が鎮座している。
多くの旅人がここを左手に折れて参詣の道を進んだことだろう。

 

街道は湖岸に向かうことなく山際の高台を往く。R20、中央本線を見下ろす感じだ。
神戸地区辺りから温泉の給湯所や共同浴場を見かけるようになる。

 

12:00 「神戸一里塚」
  日本橋から51番目の神戸一里塚は跡碑が建つのみ。ここは片塚で、塚木は槻だった。
街道が往く高台は眺望は良いものの、家々に遮られてまだ湖面は見えない。

     

12:40 「秋葉神社」と「大清水」
 清水1・2丁目交差点から街道を外れて細い路地を上ること数分、
巨木の根元に四つの社が祀られた秋葉神社が在る。
石鳥居の傍らには、明治十三年の巡幸の際に供された「明治天皇御膳水」が湧く。 

  

参道を下って行くと高島藩主が使用した「殿様御膳水」が湧き、
下りきった街道脇には庶民用の「大清水」が湧いている。
身分の高いものがより上水を使用する、時代の様子がよく表れている。

 

左手に「かねさ呉服店」、街道を隔てて「染一染物店」と旧い商家が向かい合う。

12:45~13:25 「諏訪五蔵」
 街道沿いに霧ヶ峰の伏流水を仕込み水に、旧くから酒を醸し続ける5軒の酒蔵が並ぶ。
江戸口から入るとまずは「真澄」の宮坂酒造、大好きな酒だ。
寛文2年(1662年)創業の蔵は高島藩の御用酒屋を勤めていた。
先週、新酒 “あらばしり” を出荷したばかりで酒林が青々としている。
純米あらばしり、山廃ひやおろし、奥殿寒造り、とテイスティングしてご機嫌なのだ。 

 

宮坂酒造を後にすると、左手に「横笛」の伊藤酒造、昭和33年創業の新しい蔵だ。
街道を挟んで「本金」の酒ぬのや本金酒造が向かい合う。創業は宝暦6年(1756年)と旧い。
「本金」とは「本当の一番(金)の酒」という意味だそうだ。 

 

屋根に雀おどりを載せた本棟造りは「麗人」の麗人酒造、寛政元年(1789年)の創業だ。
最近ではビール「諏訪浪漫」も醸造している。
その並びに舞姫酒造、味噌・醤油を醸造していた亀源醸造から分家した新しい蔵だ。

 

13:30~14:05 「上諏訪宿」
 高島藩3万石の城下町に栄えた上諏訪宿は、本陣1、問屋1、旅籠14軒の規模。
小平本陣跡は広大な駐車場になっている。並びには温泉共同浴場「精進湯」がある。
西方の桝方になるのだろうか諏訪1丁目交差点で右手に直角に折れる。
ここには高島藩主専用の「虫湯」があった。

 

さて、上諏訪宿での昼食は “みそ天丼”、「れすとらん割烹いずみ屋」を訪ねる。
全国有数の味噌の産地である諏訪の味噌をベースにした「みそダレ」をかけた丼だ。
投網をイメージした蕎麦の素揚げ、ワカサギ、川海老、野沢菜のかき揚、しめじ等がのる。

 

14:10 「下桑原一里塚」
 上諏訪宿では長居をしてしまったので、残り6kmは1時間少々で歩きたい。
歩きはじめてほどなく左手に明治初期の純日本家屋を一部改装した喫茶店が現れる。
そして日本橋から52番目の下桑原の一里塚跡には碑と解説が在る。

14:40 「茶屋本陣跡」
 上諏訪から下諏訪への行程半ばに茶屋本陣跡が在る。
鯉料理が名物で高島藩主も賞味した。立派な門は、高島城三の丸門を移築したものだ。

藩主も旅人もこの眺望を楽しんだはずだ。湖面の向こうに上諏訪の市街地が見える。

 

14:50 「富部一里塚」
 旅人が湖面に向かって石投げに興じた「南信八名所石投場」が在る。
昔は琵琶湖が真下まで迫って、明治天皇もここから漁師たちの投網をご覧になっている。
甲州道中最後の富部一里塚は、榎を塚木とした両塚が在ったそうだ。
江戸日本橋より五十三里目、ゴールは近い。

15:05 「諏訪大社下社秋宮」
 旅の終わりは呆気なくやって来た。
住宅街の緩やかな勾配を上ると、突然視界が開けて下社秋宮の鳥居前の広場にぶつかる。
日本最古の神社のひとつ、七年に一度の「御柱祭」有名な神社も、冬は閑散としている。

 

15:15 「下諏訪宿」
 下諏訪宿は中心部の本陣岩波家辺りが丁字路になっている。
江戸方から歩いて来ると、左手に折れると木曽路を経て京都へ向かう中山道。
直進もやはり中山道で和田峠、碓氷峠をへて江戸へと逆戻りとなる。
ここが甲州道中・中山道合流之地であり、甲州道中紀行の終着点だ。
金沢宿から宮川に沿って諏訪盆地へと下り、上諏訪宿で信州の銘酒を堪能し、
諏訪湖の眺望を楽しみながら下諏訪宿までは、18.8km、5時間35分の行程となった。

下諏訪の湯に浸かる。息子と中山道を歩いた3年前と同じ「児湯」だ。
酒蔵と温泉に巡りあう行程はご機嫌だ。でも一人旅は本当は少し寂しい。
日本橋を発って延べ12日、213.5km、ここに甲州道中の旅を終える。
次はどこを歩くかは未だ思案中だ。

 


甲州道中紀行11 教来石宿~蔦木宿~金沢宿

2016-11-26 | 甲州道中紀行

09:30 「教来石宿」
 本陣跡から斜面を上ると、大石の上に馬頭観音が四基、男女双体道祖神が一基祀られている。
これを「経来石(へてこいし)」と呼び、字の誤記から「教来石(きょうらいし)」の地名となったと云う。
背景に八ヶ岳が見渡せる。

明治十三年(1880年)の巡幸の際、明治天皇が街道筋から田植風景を眺めたという。 

宿場の外れには元和三年(1617年)創建の諏訪神社がある。
甲府柳町を発ってからは諏訪神社が存在感を増している。

鎌倉時代に南宋から渡来した蘭渓禅師が鎮座させたという地蔵菩薩。
地元の方だろうか老夫婦が長い時間願掛けをされていた。 

10:00 「鳳来山口関跡」
 鳳来山口関所は、武田信玄が甲州二十四か所に設けた口止番書のひとつ。
信州口を見張った國境の関だ。
徳川幕府は「女改め」のために西番所を設けて厳しく取り締まったと云う。 

釜無川沿いに道なき道を往く。この先旧国界橋を渡って、いよいよ信州に入る。
っと長野県側には害獣除けの電流ネットが張り巡らされていた。
ネットの切れ目をおっかなびっくりすり抜けての県境越えだ。

この県境地帯を国界と呼ぶらしい、“とんかつ” が自慢のドライブインの名も「国界」だ。

     

10:25 「日蓮上人高座石」
 国界橋を渡ると上蔦木交差点でR20と交差をして坂道を上る。
身延山に草庵を結んだ日蓮上人が巡錫した際に説法をした高座石がある。
隣接する公民館の様な建屋に清潔なトイレがある。女性にもお奨めだ。 

10:40 「蔦木宿」 
 本陣1、問屋2、旅籠15軒が蔦木宿の規模。江戸口、下諏訪口の双方に桝形が残る。
与謝野晶子がしばしば訪れていて、蔦木宿を詠んだ歌碑が建てられている。 

 

江戸口、南桝方あたりから延びる石段は、曹洞宗鹿島山三光寺の参道。
応永二十四年(1417年)に武田信重が創建した。 

 

中央自動車道に主役を譲ったR20は交通量も少ない。鄙びた蔦木宿の雰囲気に合っている。
本陣大阪屋源右衛門は本陣門のみを残こす。元治元年(1864年)の大火後に建てられた。 

 

11:25 「机集落」
 蔦木宿を出ると、甲州道中は釜無川沿い、R20より一段低い低地を往く。
氾濫でしばしば街道は寸断されたのではないかと思われるようなルートだ。
R20とは日本橋から177kmの机集落で合流する。
キロポストの傍らには金山彦命、甲子塔そして多数の馬頭観音が祀られている。

11:45 「瀬沢集落」 
 天文十一年(1542年)、武田信玄が木曽の信濃四将に大勝した瀬沢合戦場はこの辺り。
すでに廃業した酒屋さんの軒下に “諏訪五蔵” の銘柄が並んでいる。 

 

旧い商家・吉見屋の前に道標が残っている。
「左すわみち、右山浦」、山浦とは八ヶ岳西山麓一帯を指すようだ。 

 

瀬沢集落からはR20を大きく離れて山道を上る。
上り口に文政元年(1818年)建立の馬頭観音など多数の石仏石塔群が見られる。
その先に享和二年(1802年)建立の観世音菩薩碑が祀られている。 

山道から八ヶ岳を望む。この辺りで標高は900mだ。

     

12:30 「原の茶屋」
 蔦木~金沢間は13キロ弱の距離があるので、標高がピークでは「原の茶屋」が賑わった。
旅館桔梗屋は明治から大正にかけて、竹久夢二、田山花袋など多数の歌人文人が訪れた。
原の茶屋を抜けると目の前が開けて下り勾配になる。街道は諏訪湖へと下って行く。 

     

13:00 「御射山神戸集落」
 左手に石仏石塔群を見ながら下ってR20と合流すると御射山神戸集落へと入る。

     

集落の中ほどで立派な冠木門を残した旧家を見かけた。
神戸八幡社の社殿は宝暦十二年(1762年)の創建、樹高30mの大ケヤキは推定樹歴400年だ。
“雪ちるや 穂屋のすヽきの 刈りのこし” の芭蕉句碑がある。

     

13:10 「御射山神戸一里塚」
 集落を抜けてR20を左手に離れ小山を上って行くと、江戸日本橋より48番目の一里塚。
久しぶりに両塚をのこした立派なものにお目にかかる。西塚の塚木は樹齢400年のケヤキ、
東塚のそれは榎であったが明治年間に枯死した後ケヤキが植林されている。

 

13:40 「金沢宿」
 金沢宿は本陣1、問屋2、旅籠17軒の規模、R20で測ると江戸日本橋から187kmになる。
旧い遺構は殆ど残っていない。金沢宿本陣跡地に明治天皇金澤行在所趾碑があるのみだ。

  

唯一旧そうな建物が旧旅籠松坂屋。軒下の木製看板には「旅館 HOTEL 松坂屋」とある。
晴天の小春日和の日曜日、「教来石宿」から甲信国境を越えて「蔦木宿」、
標高960mのピーク「原の茶屋」を経て「金沢宿」まで17.7km、4時間10分の行程となった。

 

旧い遺構は無いが、日帰り天然温泉があった。
「金鵄の湯」は茅野市が運営するコミュニティー温泉、なめらかなアルカリ性単純泉に浸かる。

     

金鵄の湯の前にはお誂え向きに信州本手打ちそば「勝山そば店」がある。
ラガーを呷った後は、お湯打ち、足踏み、黒くて太い信州田舎そばを愉しむ。
と云うか、メインはボリューミーにかつ丼なのだが。 
下諏訪宿まではあと18.8km、上諏訪宿での「諏訪五蔵」が楽しみだ。 

 


甲州道中紀行10 韮崎宿~台ヶ原宿~教来石宿

2016-11-19 | 甲州道中紀行

 甲州道中の韮崎宿から蔦木宿(長野県富士見町)辺りまで続く七里岩は、
釜無川の侵食により形成された高さ10mから40mの侵食崖だ。
その南端に優美な平和観音が、市民の平和や登山者の安全を祈願して韮崎市内を見下ろす。

 

08:50 「韮崎宿」
 街道沿いの清水屋旅館は弘化二年(1845年)創業と云う。
通りを隔てた歯科医院が韮崎宿本陣の跡で問屋を兼ねていたそうだ。
甲州道中を参勤したのは、高島、高遠、飯田の信州の小藩。宿泊することは少なかった。

 

宿場を発って10分、青坂の分岐に差し掛かる。左手を直進するのは甲州道中。
右手に勾配を上って行くのは通称「原路」、甲州道中裏街道だ。
この先台ヶ原宿までの甲州道中が、しばしば釜無川の氾濫で通行不能になったことから、
七里岩上に迂回路として開削されたものだ。ちなみに甲州道中本路を「河路」と呼ぶ。

 

右手に七里岩の浸食崖を見ながら釜無川沿いを往く。
祖母石(うばいし)地区に茅葺の武家門がある。旧くは武田家に仕えた名家だそうだ。
享保九年(1724年)に遷座された神明宮は旧祖母石村の鎮守。
常夜燈が金毘羅山であるのは釜無川の舟運に由来するものだそうだ。

 

南無阿弥陀佛と彫られた碑は、表面が朱に塗られていることから赤地蔵と呼ばれている。
この辺り釜無川の対岸(南西方向)を望むと、薄らと雪を被った山々が見える。
多分、地蔵岳・観音岳・薬師岳の鳳凰三山だと思う。南アルプス北端の2800m級の山々だ。

10:35 「穴山橋」
 穴山橋で釜無川を渡る。川に沿う浸食崖が七里岩、遠く雲がかかった八ヶ岳が望める。 

 

釜無川西岸を往く。上円野地区はR20を離れて並行する旧道を進む。
緩い勾配の屋根、深い軒、雀おどり、本棟造りの立派な民家を見かけた。
中山道を往く信州は塩尻周辺で多く見かけた記憶がある。
なまこ壁の蔵を持つ内藤家は、明治十三年、明治天皇巡幸の御小休所を務めている。

11:00 「小武川橋」
 釜無川の支流を小武川橋で渡ると北杜市に入る。
左手に聳えるのは標高2970mの甲斐駒ケ岳、急峻で独立峰のように屹立する山容が美しい。
もちろん日本百名山に数えられている。 

 

上三吹(かみみふき)地区でもR20と離れる。
この辺りは集落ごと、火見やぐらがある風景を見ることができる。
集落の外れ、釜無川の堤に江戸日本橋から42番目の一里塚跡碑があった。
甲府柳町から七里目なので「七里塚」と通称される。

     

11:55 「横山道標」
 支流の尾白川を渡ると、この川に沿って500mほど古道を歩くことができる。
その江戸方入口に「横山道標」が在る。三基祀られた馬頭観音のうち二基は道標を兼ねる。
「右かうふみち、左はらぢ通」は安政五年(1776年)、
「左はらみち」は寛政四年(1792年)に建立されている。
「はらぢ」または「はらみち」は、韮崎の青坂で分岐した、七里岩上の裏街道のことだ。

 

12:10~13:20 「台ヶ原宿」
 古道を歩き切るとR20とクロスする台ヶ原下交差点が、宿場の江戸方の入口になる。
「日本の道百選」に選ばれているようで、期待に違わない素敵な町並みを見せてくれる。 

 

白味噌を商っている永楽屋さん、酒林を吊るしている岡崎酒店さんと続く。
残念ながら小松屋本陣は今はなく、跡地には火の見やぐらが建っていた。
台ヶ原宿は本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠14軒の規模だ。

圧巻なのは「七賢」の山梨銘醸、寛延三年(1750年)創業の老舗酒蔵は街道の華に相応しい。
“七賢 大中屋 純米大吟醸” は、ダボス会議の公式レセプションに4年連続で供されている。
蔵で吟醸酒「劉伶(りゅうれい)」を楽しんだ後、直営の「臺眠(ダイミン)」を訪ねる。

 
 

メニューは、白州の自然が育んだ米、野菜、果物を活かした定食が用意されている。
ついつい「呑み鉄」気分で “旬酒おつまみセット” を頼んでしまう。
小鉢五種と甲州豚の塩麹漬け焼きで1,800円、吟醸酒の肴に楽しませていただいた。

山梨銘醸の向かい側に信玄餅の「金精軒」がある。重厚な佇まいは旧旅籠の建物だ。
旅のつれづれに、酒まんじゅうと黒糖まんじゅうをいただいて、あとひと宿分を進もう。

 

宿場の外れには「旅籠津留や」が佇まいを残し、3枚の講札が揚げられている。
隣の新館では「つるや旅館」が営まれる。旅籠風情の建物が永く残ってくれると嬉しい。

 

 台ヶ原宿の先も、R20に並行する旧道を往く。白須地区に甲州特有の丸石道祖神を認める。
この辺りには平安時代から一里にわたって松原が続き、「白須松原」と呼ばれたそうだ。
集落の外れには馬頭観音をはじめとした石仏石塔群がある。

     

 それにしても、吟醸酒を楽しんだのが原因か、ペースがまるで上がらない。
中央本線から離れてしまった甲州道中、東京へ戻るには1日5往復の市民バスに乗らないと。
七里岩の向こうに八ヶ岳が見えてきた。

 

14:30 「教来石宿」
  教来石宿は本陣1、脇本陣1、旅籠7軒のこじんまりとした宿場だ。
河西本陣跡は更地になっていて、比較的新しい明治天皇御小休所址碑が建つのみだ。
教来石宿到着は、乗車必須の韮崎行き北杜市民バスの発車10分前、周辺散策は次回の宿題だ。
韮崎宿から台ヶ原宿で「七賢」を楽しんで教来石宿まで、21.5km、所要5時間35分の行程。
次回はいよいよ信州へと進める。下諏訪まではあと36.5kmだ。


甲州道中紀行9 甲府柳町宿~韮崎宿

2016-11-12 | 甲州道中紀行

 江戸防衛の要害とされた甲府城、なかなか堅固な天守台の石垣だ。
城郭が鶴が舞う姿に似ているところから舞鶴城と呼ばれていた。
かなり立派な天守閣が想像されるが、設計図や絵図が一切残っていないそうだ。 

     

11:20 「甲府柳町宿」
 舞鶴城公園から南に1km、相生歩道橋交差点が宿場の中心地だが、遺構は何もない。
秋晴れの中、R52を韮崎に向かう。今日は甲州道中を歩きはじめてちょうど1年目になる。

市街地を抜けて荒川、貢川を連続して渡る。正面に3,193mの北岳が雪を被って聳える。 

     

11:40 「上石田のサカイチ」
 推定樹齢300年のサカイチが2本並んで生えている。
地元では夫婦サカイチと親しんでいるが、実は両木とも雄木だ。
旅人もこの木陰で休んだろうか。 

12:00 「山梨県立美術館」
 ミレーの “落ち穂拾い” “種をまく人” の常設展示されている山梨県立美術館が賑わう。 

  

中央自動車道がちょうど市境となっていて甲斐市に入る。
高架脇には、文化10年(1813年)建立の富竹新田の道祖神。
並んで建つのは日蓮上人の五百遠忌(天明元年)、五百五十遠忌(天保2年)の碑だ。

明治天皇小休所辺り、称念寺の門前には、道祖神やら馬頭観音やら石仏群が並んでいる。 

中央本線の踏切は「信州往還第一踏切」とある。
後に整備された甲府柳町宿から下諏訪宿の間は、信州往還と通称するのだろうか。 

 

12:45 「竜王新町諏訪神社」
 踏切を渡ると急激な上り勾配となる。盆地の縁を上って行く実感だ。
甲府盆地を見下ろせる高台に諏訪神社がある。ちゃんと御柱が立っている。 

高台を行く下今井の町並みには立場があったそうだ。
2kmほど続くこの町並みには、所々なまこ壁の土蔵を見ることができる。 

やがてレンガ造りの架道橋で中央本線を潜る。明治36年(1903年)、敷設当時のものだ。 

     

13:20~50 「泣石」 
 天正10年(1582年)、信州高遠城が落城する。
この敗戦を機に、武田勝頼は韮崎城に火を放ち、岩殿城に向けて落ち延びていく。
燃える城をここで振り返り涙を流したという逸話がある。それで「泣石」と云うわけだ
旅人にとっては目印になる巨石だったことだろう。

 

泣石近くの「たわらや」で街道めし。部活帰りの高校生で席が埋まっている。
ビールのつまみにもなる "焼肉小丼" と、昔ながらの "田舎者醤油ラーメン" を注文する。
ボリュームも味も上々、なるほど高校生が集う訳だ。腹一杯でこの後歩けるのか? 

進行方向左手に在る旧庄屋宅が豪壮で立派だ。 

     

双葉西小学校の先に在る船形神社の鳥居は応永4年(1397年)のもの。
鳥居を潜れるのは身長150cm位までだろうか、当時の日本人の体格が窺い知れる。

 

田畑地籍に在る2基の二十三夜塔は、天保7年(1836年)のものだ。

 

塩川を渡ると韮崎市に入る。前方に甲斐駒ケ岳が、下流に目をやると裏富士が望める。

 

14:45 「韮崎宿」
 韮崎宿は本陣1、問屋1、旅籠17軒の規模と小さい。
そもそも甲州道中を往く参勤交代は、高島藩、高遠藩、飯田藩の信州の小藩に限られる。
また日程上、韮崎宿に宿泊することは少なかった。街道の両側に「馬つなぎ石」が残る。 

 

本陣跡の先、本町第二交差点は、信州道(佐久往還)との追分になっている。
元禄8年(1695年)建立の道標には「右信州さくの郡みち、左信州すわ上みち」と刻まれる。
街道裏には弘法大師が築いた岩屋観音堂、この先の旅の安全を祈願した。
甲府柳町宿から韮崎宿までは、13.0km、所要3時間25分の行程だった。


甲州道中紀行8 勝沼宿~栗原宿~石和宿~甲府柳町宿

2016-10-08 | 甲州道中紀行

 

11:10 「勝沼宿」
 すっかり肌寒さを感じるこの日曜日、甲府盆地の中心に向かって扇状地を下って往く。
本陣池田屋跡の「槍掛けの松」には、大名や公家が宿泊すると、目印に槍を立て掛けた。
通りを挟んで江戸時代の豪商萩野家「仲松屋」の佇まいが街道時代を想像させる。  

勝沼周辺は観光ブドウ農園とワイナリーが点在する。今日はどこも賑やかだ。
新宿から乗った臨時快速も、勝沼ぶどう郷駅で大半の乗客が降り、ワイナリーへと向かった。

     

右手に秋葉山常夜燈が現れる。
秋葉山本宮秋葉神社は東海随一の霊山・秋葉山を神体山と仰ぐ神社で、
江戸時代には全国に秋葉講が結成され参詣者で賑わったそうだ。
確か中山道でも群馬から長野、岐阜にかけて、かなりの秋葉山常夜燈を目にしてきた。

12:00 「栗原宿」
 栗原の地名はこの地を治めた栗田氏に由来している。
宿場の規模は、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠20軒だ。本陣などの遺構は残っていない。
宿場の中心地には旧栗原五十五か村の総鎮守・大宮五所大神が鎮座している。 

     

勝沼から甲府への行程は、一里塚をはじめ旧い遺構はほとんど残っていない。
察するに扇状地を暴れ下る笛吹川水系の度重なる氾濫が原因なのではないだろうか。
このあたりは郷土史家の研究誌を読めばよいのだが、それは別の機会に譲ろう。
写真は一町田中に並ぶ秋葉大権現、山神宮、石尊大権現が祀われた石仏群がある。

     

田安陣屋跡は、吉宗の次男田安宗武が山梨郡に二十八か村を領有し置かれたものだ。
ここに残る水上稲荷神社は陣屋の守護神であったそうだ。 

 

 笛吹川沿いに松並木は、明治40年の大水害の後に植林され。街道時代のものではない。
松並木の外れには笛吹権三郎像がある。
洪水で流された母が好きだった曲を吹き、日に夜に探し求め彷徨い歩いた故事に因む。 

     

勝沼を出てから目にする 「丸石神」は謎の道祖神。
東京都の山村、神奈川県津久井郡、静岡県伊豆地方、長野県の一部にわずかに存在する。
山梨にはなんと700基もあるそうだ。確かに中山道でも北国街道でも見ることはなかった。

 

日蓮宗鵜飼山遠妙寺は、弘安年間(1280年頃)、日蓮上人の高弟日朗上人が草庵を結んだ。
石和温泉では七ヶ寺に七福神を配して、観光客の周遊を演出している。
ここ遠妙寺に鎮座するのは大黒天様だ。

 

13:20 「石和宿」
 石和宿は本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠18軒の規模であった。。
後藤本陣は明治13年の大火で消失している。駐車場の奥に在る土蔵を残すのみだ。
石和温泉の歴史は浅く、昭和36年、葡萄畑の中に突如湧き出した温泉だ。
後藤本陣跡の向かい側には「足湯」が在る。暫しの休憩で癒しをもらった。 

 

甲運橋を渡ると甲府市に入る。
橋の袂にあるのは川田道標。「左甲府 甲運橋 身延道」「右富士山 大山 東京道」とある。
万延元年(1860年)建立と新しいものではあるが、すべて漢字で彫られているのは珍しい。 

 

14:10 「青梅街道追分」
 山崎三差路交差点は青梅街道追分である。
内藤新宿で分かれた青梅街道は、青梅、大菩薩峠を経て、ここで再び甲州道中と合流する。
近くには江戸深川からやってきた摩利支天尊堂がある。 

14:30 「酒折宮」
 酒折宮の御祭神は日本武尊。
東征の帰途、この地の翁に与えた「火打嚢(ひうちぶくろ)」を御神体として祀っている。  

14:40 「甲斐善光寺」
 甲州道中から1kmほど外れるのだが、善光寺の門前に育った者としては気になる場所。 
甲斐善光寺は武田信玄が、上杉謙信との “川中島の合戦” の折、戦火による消失を恐れ、
本尊の “阿弥陀三尊像” を、信州からこの地へ移したのが起こりだ。

現在の金堂・山門は、宝暦四年(1754年)に消失した後、寛政八年(1796年)に再建された。
善光寺建築に特有の撞木造であり、朱塗りであることを除いては善光寺によく似ている。

 

甲斐善光寺参道を過ぎると、甲州道中は左、右へと4度にわたって直角に折れて進む。
街道特有の桝形なのか城下町の防衛上の構造なのか、どちらだろうか。 

     

15:00 「甲府柳町宿」
 甲斐國鎮守、甲斐奈神社を過ぎるといよいよ甲府柳町宿へと入る。
甲府は武田信玄の父信虎が石和からこの地「躑躅ヶ崎」に居館を移したことに始まる。
宿場の規模は本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠21軒、旧い遺構は何ひとつ残っていない。
今回の行程を終えるのは丸の内郵便局前、身延道追分だ。
近年建てられたものだが、「西志んしゅうみち、南みのぶみち」と刻まれている。

 

旅の終わりは甲府駅前で一杯、生ビールを呷った後は名物 "甲州ほうとう" で腹を満たす。
ぶどう実る勝沼宿から笛吹川扇状地を栗原宿そして石和宿と下って甲府柳町宿に至る。
17.1km、所要3時間50分の行程となった。

 


甲州道中紀行7 黒野田宿~笹子峠~駒飼宿・鶴瀬宿~勝沼宿

2016-06-25 | 甲州道中紀行

 

08:15 「黒野田宿」
 笠懸地蔵は天保の大飢饉による窮乏を村人たちが心願したものだそうだ。
前回、彼に会ったのは、霜が降りる12月末のこと。
30度の夏日が予報される今日、半年ぶりに甲州道中は黒野田宿に戻ってきた。
立派な門を残す天野本陣跡を発って、これから笹子峠を越える。 

 

 黒野田一里塚の「江戸日本橋ヨリ二十五里」碑があるのは、臨済宗妙心寺派普明院。
境内には芭蕉句碑「行くたびに いどころ変わる かたつむり」がある。
国道20号線の右手岩上に、南妙法蓮華経題目碑や馬頭観音が祀られる石仏石塔群がある。
宝暦5年(1755年)のものだ。 

 

国道を挟んで庚申塔と馬頭観音が花に囲まれている。
安政3年(1856年)建立の背の低い常夜燈には、秋葉山、愛宕山と刻まれている。 

 

 国道20号線から今や県道となった旧国道に入る。笹子峠へと向かう新田沢沿いの道だ。
更に古い石橋の美久保橋を渡った辺りで、甲州道中の峠道「笹子峠自然遊歩道」に入る。
先程から視線を感じていたのだが、カサカサと落ち葉を鳴らして野猿が山肌を上っていく。
野猿くらいならご愛嬌だが、熊と遭遇するのは御免被りたい。
独り歩きなのでiPhoneでBGMを鳴らす。結構臆病なのだ。

      

09:20 「矢立の杉」
 樹高約28m、根回り14.8m、の巨樹がある。
「甲斐叢記」には、出陣する武士がこの木に矢を射立てて戦勝を祈ったと記されている。
広重や北斎も描いている。どこかで見覚えがあると思ったら、“笹子餅” のパッケージだ。
なんでも矢立の杉の麓で “峠の力餅” として売っていたそうだ。

      

 矢立の杉を過ぎると尾根道となる。それにしてもきつい。100mほど登ってはひと息つく。
参勤交代はどうやって越えたのだろう。藩主や姫御前の輿なんか上れる筈はない。
戦に向かう馬だって引かなきゃ無理だ。絶対に。

09:45 「笹子隧道大月口」
 昭和13年に竣工した笹子隧道。
両脇の2本並びの柱形装飾など、建築的な装飾を用いたデザインに特徴がある。
昭和33年に国道20号線の新笹子トンネルの開通により、幹線としての役目を終えている。
近道だし、涼しそうだ。隧道を潜りたいが、甲州道中を辿る以上峠道を往かねばならない。

10:00 「笹子峠」
 殆どイジメのような峠道を登る。
相変わらず山道が折れる度に膝に手を付いて息を整え、15分程で標高1,096mを越える。
峠には小さな赤い鳥居に石の「天神祠」がある。往来する旅人や馬の無事を願ったものだ。

 

 甲州市側も「甲州街道峠道」が整備されている。林が間引かれていて明るい。
落ち葉を踏みしめて下る峠道は、打って変わって快適そのものだ。
笹子沢川に沿って下っていく。背丈ほどの深さがあるV字谷をこんな丸太橋で渡って進む。

11:00 「駒飼宿」
 駒飼宿は本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠6軒。ひとつ先の鶴瀬宿との合宿だったそうだ。
問屋業務は月の二十一日から晦日まで務めた。なぜ1/3なのか素人には理解が難しい。
標柱のみの渡辺本陣は酒造業も兼ね、敷地には「明治天皇御小休所址の碑がある。

 

 今なお残る旧家のうち、柏屋は立派な佇まいを残す。
大黒屋は本格的オーガニックカレーのCafeを開いている。気になるけど今日は先を急ぐ。
ところで本陣前に萬霊塔前に咲いている白い紫陽花が美しい。

 

11:20 「鶴瀬宿」
 街道に寄り添ってきた笹子沢川が日川に注ぎ、国道20号線にぶつかると鶴瀬宿だ。
本陣1、脇本陣1、問屋2、旅籠4軒の規模で、現在さしたる遺構は残っていない。
秋葉大権現、石尊大権現と刻まれた常夜燈が残っている。

 

「観音の 甍見やりつ 花の雲」 日川の谷を進むと、長柿洞門を抜けて芭蕉句碑がある。
観音は京都清水から勧請したもので養蚕の守護神として信仰が篤かったそうだ。
広重は境内からの景色を絶賛している。が、この観音堂、見逃して通過してしまった。

 

 白鉢巻に鎖帷子姿の近藤勇像が現れる。官軍と甲陽鎮撫隊が激突した柏尾古戦場だ。
剣一筋の新撰組は近代装備の官軍に歯が立たず総崩れになったと云う。

 国宝大善寺は、“ぶどう寺” と呼ばれる。
行基がこの地で修行をした際、満願の日にブドウを持った薬師如来が現れたことに由来する。
最近大河ドラマでの平岳大さん演じる武田勝頼の悲哀に満ちた好演が話題になった。
落ち延びる勝頼一行は大善寺の薬師堂で夜を明かしている。

 国道20号線が左にカーブを切る勝沼大橋の袂、眼前に甲府盆地が広がる。
残念ながら南アルプスや八ヶ岳は霞んではっきりしない。
甲州道中は直進して日川の河岸段丘上を行く。左右はぶどう農園が続く。 

 

12:10 「勝沼宿」
 勝沼宿は甲府盆地の物資集積の地として栄えた。
本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠23軒は、甲州道中においては大きな規模だ。 
旧い遺構は質屋で財をなした萩野家の仲松屋。明治の建築だが三階造りの蔵が残る。
これも明治の建築だが登録有形文化財となった旧田中銀行社屋の木造洋風建築が美しい。

 勝沼宿の池田屋本陣は残っていないが、その敷地に “槍掛けの松” という老松がある。
大名が宿泊する日には、その目印に槍を立て掛けていたと云う。
甲州道中紀行第7日目は、黒野田を発ち、1096mの笹子峠を越え、駒飼宿・鶴瀬宿を経て、
甲府盆地を見渡す勝沼宿まで、15.5km、3時間55分の行程となった。 

 さて葡萄を持つ女神像が立つ「ぶどうの丘」で温泉「天空の湯」を楽しむ。
南アルプスを背景に甲府盆地の大パノラマを堪能できる露天風呂はまさしく天空の湯だ。
湯量豊富なアルカリ単純泉に浸かってその雄大さを、たっぷり満喫してきた。 

      

 ぶどうの丘には200種類の甲州ワインを試飲できる地下ワインカーヴが併設されている。
が、1時間に1本の普通列車の発車まで、そうそう時間はない。
で、温泉施設の休憩コーナーで蕎麦をいただく。歩いて湯に浸かった後の生ビールは最高。
幸せな気分で高雄までぐっすり。新たに温泉と云う楽しみを見つけた甲州道中紀行なのだ。

 


甲州道中紀行6 猿橋宿~駒橋宿~大月宿~花咲宿~初狩宿~白野宿・阿弥陀海道宿・黒野田宿

2015-12-12 | 甲州道中紀行

 

09:00「猿橋宿」
 田畑や車のフロントグラスに霜が降りた寒い朝、三嶋神社前から第6日目をスタート。
結局、猿橋宿では本陣や脇本陣などの遺構は認められなかった。
宿場の京方出口と覚しきほぼ直角のカーブに、青面金剛王庚申塔が在る。
江戸日本橋から二十三里目の「殿上一里塚」もこのあたりで、塚木は桃だったそうだ。

桂川の対岸に見えるのは「岩殿城址」、武田家の武将小山田信茂の居城であった。

09:20「駒橋宿」
 厄王大権現が見えてくると駒橋宿。猿橋宿からはわずかに1.5kmだが独立した宿場だ。
本陣も脇本陣もなく、問屋1、旅籠4軒からなっていた。

 

旅籠橿屋跡が立派な井桁造りの家屋を残す。門柱に旧い屋号である「橿屋」を刻んでいる。

09:40「大月宿」
 大月宿はJR大月駅構内の南側に並行して延びる。
本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠2軒となんともバランスを欠いている。
前後の宿場と相互補完するのか、本陣・脇本陣を持たない駒橋宿からは1.1kmと近い距離。
駅前広場を横切る街道には、中沢屋・浜野屋・市川屋と現代の旅籠、ビジネスホテルが並ぶ。

 

明治天皇御召換所跡碑が立つ溝口本陣跡を過ぎると桂川の谷にぶつかる。
橋の袂に「富士山道追分道標」が並ぶ。
R20は桂川を渡って直進、左に分かれて桂川沿いを往くのが富士山道だ。

 

10:10「下花咲一里塚」
 “しばらくは 花の上なる 月夜かな” の芭蕉句碑は天保13年(1842年)建立されたもの。
ここは江戸日本橋から二十四里目、下花咲一里塚は小ぶりな南塚が復元されている。

 

10:20「下花咲宿」
 下花咲宿は、本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠22軒からなっている。
次の上花咲宿と合宿で、問屋業務は月の後半15日を担った。
星野本陣は天保6年(1835年)の火災後に再建されたものだそうだ。

 

10:30「上花咲宿」
 0.6km先の上花咲宿は、本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠13軒からなる。
問屋業務は月の前半15日を担って下花咲宿と合宿だ。本陣・脇本陣などの遺構はない。
旧道左手に馬頭観音、庚申塔、地蔵尊の石仏石塔群、右手に廿三夜塔を見て宿場を抜ける。

大月市真木のR20沿いに古びた食事処が2店軒を連ねている。
昭和30~40年代のドライブインってところか。なんだか懐かしい風景ではある。

 

R20の99km地点あたりから笹子川の南岸、中央本線に沿った旧道を歩くことができる。
11:00を過ぎたというのに路面の日陰部分には霜が降りたままだ。

 

11:25「下初狩宿」
 左手に初狩駅のかつてのスイッチバック構造が見えると、下初狩宿の宿並みに入っていく。
本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠12軒からなり、次の中初狩宿と合宿だ。
問屋業務は月の後半を担っていた。
奥脇本陣跡には門構えが残り、小説家「山本周五郎生誕之地」碑が立っていた。

 

11:40「中初狩宿」
 0.9kmでほどなく中初狩宿に入る。本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠25軒からなる。
問屋業務は月の前半を担っていた。やはり小林本陣跡が門構えを残している。

中初狩宿を出て暫く進むと、石垣の段上に石仏石塔群が行き交う車を見下ろしている。
このうち地蔵尊は正徳元年(1711年)、秋葉山常夜燈は安永7年(1778年)のものだ。

 

12:15「白野宿」
 R20から右手に旧道を入っていくと白野宿となる。
滝子川沿いの白野一里塚は江戸日本橋から二十六里目、西塚は榎、東塚は松が塚木だった。
白野宿の規模は、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠4軒だ。
笹子峠を控え阿弥陀街道・黒野田と3宿が合宿で、問屋業務は毎月23日から月末までを担った。

 

立派な山門を有する白野山宝林寺下あたりが今泉本陣、天野脇本陣が在った場所のようだ。

宿場の京方出口の子神社は旧白野村の鎮守だ。ここから大鹿峠を越える裏街道が分岐する。

12:55~13:25「阿弥陀海道宿」
 奈良時代の僧行基が、笹子峠の悪霊を鎮める為、この地に阿弥陀如来像を安置した。
この阿弥陀堂が地名に由来した宿場は、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠4軒の規模であった。
問屋業務は毎月16日から22日までを担った。本陣、脇本陣などの遺構は残っていない。
代わりに存在感を示しているのは笹一酒造。
常々酒蔵は宿場の華だと主張しているのがだ、この蔵に限って創業は大正8年。
すでに輸送の主流が甲州街道から鉄道(中央本線)に移ってからなのだ。

 

笹一酒造の直営ショップ「酒遊館」で昼食休憩。
“笹一純米吟醸” で喉を潤して、地野菜たっぷりの “田舎うどん” を楽しむ。
さすがに味付けは濃い目だ。

 

難所笹子峠の矢立の杉で、峠の力持ちとして売られていた名物 “笹子餅” のお店がある。
かつては駅売りや車内販売が主であったが、いまではサービスエリアでの販売が中心だ。

 

13:40「黒野田宿」
 難所笹子峠を控えて賑わった黒野田宿は、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠14軒。
問屋業務は月初から15日までを担い、過ぎてきた白野宿、阿弥陀海道宿と合宿だ。
宿並みには愛らしい笠懸地蔵が鎮座する。天野本陣跡には本陣門が残っている。
甲州街道を歩く第6日目は、猿橋宿~駒橋宿~大月宿と刻み、富士山道を追分て、
下花咲宿・上花咲宿、笹子川沿いに下初狩宿・中初狩宿を通り、笹子峠を控える
白野宿・阿弥陀海道宿・黒野田宿まで15.7km、所要4時間40分の行程となった。


甲州道中紀行5 上野原宿~鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~鳥沢宿~猿橋宿

2015-12-05 | 甲州道中紀行

 

10:00「上野原宿」
 甲州街道を歩く第5日目行程は、“酒まんじゅう” の上野原宿、本陣跡からスタートする。
R20で測ると東京日本橋から74.0kmになる。
甲州道中は宿場の外れ本町交差点でR20別れ、中央自動車道と絡みながら段丘の上を往く。

上野原の町は桂川の支流鶴川の谷で途切れ、中央自動車道は谷をひと跨ぎして西進する。 

旧甲州街道は谷底まで下りて鶴川を渡る。橋の反対側に直線状に延びる集落が鶴川宿だ。

 

10:25「鶴川宿」
 鶴川橋を渡ってから山道に入るまでの300mほどの直線が鶴川宿の中心。
上野原宿からわずか1.8kmの距離で宿場が開かれている。
おそらくは鶴川が川留となった際に旅人を逗留させるためだろう。

 

鶴川宿は本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠8軒からなっていた。
宿並みの中に鎮座する鶴川神社は寛文元年(1661年)の創建だ。
富田本陣も脇本陣も残っていないが、双方とも門構えなく玄関付だったそうだ。
本陣跡あたりには日に何本かしかやって来ないバス停が立っている。

 

桂川の河岸段丘を上っていく道は、新しい住宅とこんな古い土蔵などが混在している。
段丘を上りきると中央自動車道が緩やかな勾配で西へ向かっていた。
これから先、旧甲州街道の道筋は自動車道に上書きされたり潰されたりしている。

     

11:00「大椚一里塚」
 江戸日本橋から十九里目の大椚一里塚は新しい碑と解説板があるのみ。
塚木は無かったという。

 

大椚集落あたりは石塔石仏をたくさん見ることができる。
左)廿三夜塔 : 寛政12年(1800年)建立
右)秋葉山常夜燈 : 安永6年(1777年)建立、念仏供養塔 : 文政2年(1819年)建立

 

左)男女双体道祖神、馬頭観音、庚申塔など
右)大日如来坐像と千手観音坐像が安置された「大椚観音堂」と裏手の石仏群

大椚集落をぬけると暫し中央自動車道と並行する。いや旧道は自動車道に潰されている。
渋滞情報で頻繁に耳にする談合坂サービスエリア付近だ。

 

11:35「野田尻宿」
 下り線の談合坂SAの北側に並行して野田尻宿が在る。
本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠9軒で、ここも鶴川が川留になると賑わったという。
宮田本陣跡は更地になって、向かい側の旅籠大黒屋跡の旧家前に野田尻宿碑がある。
宿並は明治19年の大火で消失している。

宿場の西の外れに臨済宗西光寺、天長元年(824年)の創建は街道よりずっと歴史が旧い。 

野田尻宿を抜けて山道の入口に天満宮の祠がある。
傍らには馬頭観音。ずっと昔から西へ往く旅人を見送り、江戸へ往く旅人を迎えていた。

 

11:50「萩野一里塚」
 江戸日本橋から二十里目の萩野一里塚も残っていない。
県道の擁壁上に跡を示す杭が打たれているだけだ。塚木は松であったという。

 

12:30「犬目宿」
 犬目宿に着く。ずいぶんと上ってきた。
街道時代には房総の海、富士の眺望が良いところと評判だったそうだ。
犬目宿碑の立つ無料休憩所には “冷えたビール有ります” と手書きPOPがある。
けれど土曜日曜は13時からともある、残酷だ。

犬目宿は本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠15軒の規模。
左)笹屋脇本陣跡は白壁が雰囲気を出している。岡村本陣跡は一般的な住宅が建っている。

曹洞宗宝勝寺の小高い境内に上ると、犬目宿評判の富士山の眺望が楽しめる。
北斎の描いた「富嶽三十六景甲州犬目峠」もこの境内から描いたという。

 

県道30号となっている旧甲州街道は山肌に沿ってカーブを繰り返す。
所々幾つかのカーブをショートカットするように古道を歩くことができる。
その一つが君恋坂、日本武尊が東国征伐の帰途、弟橘姫を恋しく思い偲んだことに由来する。
この坂を上りきると一軒宿の君恋温泉、鉱泉の沸湯だそうだ。

12:55「恋塚一里塚」
 江戸日本橋から二十一番目の恋塚一里塚、片塚(南塚)が残っている。
甲州道中初めて一里塚に出会う。塚木は南塚は杉、今は無き北塚は松だったそうだ。

 

一里塚からわずかで山住神社、鳥居の傍らに古い石仏が並んでいる。
ここから先の古道は急な下り坂の古道は滑り止めの石畳を敷いた道になっている。

古道から県道に戻ると間もなく市境となり大月市山谷集落に入る。
集落の入口には馬頭観音の祠があり、石仏石塔が並んでいる。

 

旧甲州街道は山谷集落から沢沿いに桂川に向かってその河岸段丘を下っていく。
その距離2kmほど、苦労して上ったのに勿体ない。坂を下りきって桂川まで達する。
谷底の桂川にR20と中央本線が絡みあって西へ向かう。街道もここでR20に合流するのだ。

13:35「下鳥沢宿」
 R20と合流したあたりから下鳥沢宿なのだが何の遺構もない。
下鳥沢宿は本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠11軒の規模、1km先の上鳥沢との合宿であった。

 

13:40~14:20「上鳥沢一里塚」
 江戸日本橋から二十二番目の上鳥沢一里塚は小さな標柱が商店の前にあるだけだ。
茶屋ならぬ大衆食堂で遅めのランチ、上高井戸宿、府中宿に続けて3食目のカツ丼。
味噌汁には春菊が入っていた。

 

14:25「上鳥沢宿」
 上鳥沢宿は、合宿の下鳥沢宿から一里塚を挟んで1km。
これが中山道の大きめの宿場ならひとつの宿並みの内、輸送量の違いが分かる。
本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠13軒、問屋業務は月の後半15日間を担っていた。
井上本陣跡は更地で、明治天皇駐蹕地の碑がある。

深い横吹沢を渡って上鳥沢宿を出て西へ向かう。
橋のたもとの竹林に大小の馬頭観音が祀られ旅人を見送っている。

15:00「猿橋」
 幅広の河原をつくって流れていた桂川は、この辺りでは狭くて深い渓谷を刻んでいる。
名勝猿橋は、橋脚を使わずに両岸から張り出した四層のはね木で橋を支えている。
岩国の錦帯橋、中山道の木曽の桟と並んで日本三大奇橋と呼ばれる。
現在の橋は昭和59年に、嘉永4年(1851年)の図面により、復元されたものだ。

15:20「猿橋宿」
 R20に上書きされた甲州街道を大月方面に向かう。冬至を目前の陽はすでに低く弱い。
左手に大小の馬頭観音に迎えられ猿橋宿に入って行く。
猿橋宿は本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠10軒からなり、芝居小屋も立つ大きな宿場だった。
電車の時間が迫るので、旧殿上村の鎮守三嶋神社で今回の行程を終える。
上野原宿から鶴川宿、野田尻宿を経て、“富士の絶景奇絶たる” 犬目宿へ。
恋塚一里塚を見ながら下鳥沢・上鳥沢宿、名勝猿橋を渡って猿橋宿までは19.2km。
所要5時間20分の行程となった。


甲州道中紀行4 小仏宿~小原宿・与瀬宿~吉野宿~関野宿~上野原宿

2015-11-28 | 甲州道中紀行

10:00 「小仏宿」
 高尾駅北口のバス乗り場は山登りの老若男女で溢れかえっていた。
小仏行きの京王バスは増便の2台体制であったが乗り残しを出して出発した。
登山ブームを実感するも、目を楽しませてくれるはずの“山ガール”はこの車中に少ない。
甲州街道を歩く第4日目行程は、小仏宿の外れ、小仏バス停からスタートする。

 

 都道を1kmほど上っていくと目の前に車止めが現れる。この先は峠越えの土道になる。
20名程の壮年グループの装備に比べて私の格好を恥ずかしく感じながら、追い越していく。

10:40 「小仏峠」
 九十九折の急坂「小仏峠東坂」を登って20分余りで標高548mの小仏峠に達する。
僧行基が一寺を建てて小さな仏像を安置したことが地名の由来だそうだ。
南北に延びる尾根は東京と神奈川の都県境となっている。

 

 都県境の尾根を北に向かうと陣場山。
南へ向かうと小仏城山を経て高尾山に向かう。甲州街道は登山者と分かれて西へと下る。
分岐点の「高尾山道標」は寛政7年(1795年)に建立されたものだ。

「小仏峠西坂」は落ち葉を踏みしめて行く道だ。
途中の狭い平坦地には「中峠茶屋」が在った。現在は東京電力の鉄塔が建っている。

11:30 「小原一里塚」
 舗装路に出て1kmほど進めるとJR中央本線を長久保架道橋で潜る。
江戸日本橋から十五里目の小原一里塚は、中央自動車道の敷設工事で失くなってしまった。

 

 甲州街道は底沢橋で、高尾山を南に迂回してきたR20と合流する。
っと今きた道に“山峡のいで湯 美女谷温泉”と、なんともそそる案内板。
浄瑠璃や歌舞伎に登場する「照手姫」の出身地で、その美貌が地名の由来になったと言う。

11:40~12:00 「小原宿」
 小原宿は次の与瀬宿と合宿。
問屋業務は東から来る荷物を与瀬を通過して吉野宿に継立てる“片継ぎ”であった。
ちなみに西からの荷物は与瀬宿が小原を通過して小仏宿まで継立てた。
小原宿には東海道と合わせても神奈川県下で唯一残る本陣跡として清水家が在る。

 

 清水家本陣は無料公開されている。
囲炉裏のある勝手、大名専用の畳敷きの厠、そして上段の間を拝見した。
中山道で見てきた本陣と比べると小規模で貧弱に感じられる。
もっとも利用した信州の高島藩・高遠藩・飯田藩はいずれも小藩である。
これが適正規模だったのだろう。

 

小原宿はこの清水家本陣の他に、脇本陣1、問屋1、旅籠7軒の規模であった。

小原から与瀬の間1.7kmの大半はR20を離れて古道を歩くことができる。
相模湖駅のあたりが与瀬宿の集落ということになる。

12:30 「与瀬宿」
 与瀬宿はすでにレポートした通り小原宿との合宿で、本陣1、問屋1、旅籠6軒の規模。
名物であった鮎を、歌川広重は値段は高いが不味いと評したそうだ。

与瀬から吉野の間も古道を歩くことができる。
相模湖へ流れ込む沢のひとつは、こんな丸太橋「貝沢橋」を渡る。
その先はちょっと不安にさせるような薮道を行く。

12:50 「与瀬一里塚」
 薮道を抜けて視界が広がったあたりが与瀬一里塚跡、江戸日本橋から十六番目になる。
眼下の相模湖が美しい。
もっとも相模ダムが無かった街道当時は深い谷間の景色だったことだろう。

 

高台の古道には石仏石塔群が現れる。まずは秋葉神社の下に、庚申塔、廿三夜塔、地蔵尊。
相模湖IC付近では馬頭観音を見ることができた。

13:20~13:50 「吉野宿」
 吉野宿の規模は、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠3軒。
明治29年の大火で消失した本陣吉野家は五層楼閣の威容を誇ったと云う。
その様子は案内板のモノクロ写真で見て取れる。

 

本陣の向かい側には旅籠ふじや跡、藤野町郷土資料館となっていて見学ができる。
道端の庚申塔に見送られて吉野宿を後にする。
江戸日本橋から十七番目となる「関野一里塚」は場所が分からず通過してしまった。

 

今日の街道めしは、藤野駅前の「風里」で、“梅しそカツ定食” をいただく。
ボリュームあるものを食さないと、まだあと10kmは距離を稼ぎたい。

14:30 「関野宿」
 藤野駅前からは1kmほど古道を歩く。R20より一段下の河岸段丘を往くイメージだ。
狭い生活道路はやがて薮道となり、最後に中央本線の跨線橋を渡ったあたりが関野宿だ。
甲斐國との國境を控え重要視された関野宿は、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠3軒の規模。
R20沿いに関野宿本陣跡の案内板のみが建っている。

 関野宿の外れに「追手風喜多郎」の碑がある。
寛政11年(1799年)にこの地で生まれた彼は、叔父の追って力士になり、大関まで上った。
娯楽が少ない時代のこと、地元出身の名力士はヒーローであったことだろう。

甲州街道は暫くR20を往ったあと、名倉入口交差点から古道に入る。
湖面に向かって勾配を下っていくのは気が進まない、後にまた上りが待っているからだ。
勾配を下りきると古いコンクリート造りの境沢橋、神奈川と山梨の県境になる。
街道当時は長さ五間の土橋で、相模の國から甲斐國へと渡ったという。

案の定ヘアピンカーブを含む急坂が待っていた。下った分だけ河岸段丘を這い上がる。
上りきると「諏訪関所跡」、実に嫌なところ(効果があるところ)に在る。
戦国時代に武田氏が設置した二十四関のひとつで、江戸時代に「境川口留番所」とされた。

 

15:10 「塚場一里塚」
 天正3年(1575年)創建の疱瘡神社の裏手に、塚場一里塚が片塚を残している。
残っていると言えるのか無残な姿ではある。
江戸日本橋から十八番目の塚場一里塚の塚木はモミの木だったそうだ。

15:30 「上野原宿」
 右手からR20が合流してくると上野原宿に入って行く。
左手には旧上野原村の鎮守「牛倉神社」が在る、この辺りが宿並みの中心地だろうか。

 

沿道には “酒まんじゅう” の店が目立つ。今でも12軒が営業しているそうだ。
地元で収穫した小麦粉とあずきを原料に上野原の清冽な気候風土で作る “酒まんじゅう”。
甲斐絹の市に集まった商人に愛され宣伝され広まったという。
高嶋屋酒饅頭店でひとつ頬張ってみた。味噌の甘味と酸味に麹の香りが心地よい。
地元の人は10個20個と買っていく、生活に根ざした食文化であることを感じる。

上野原宿は、本陣1、脇本陣1、問屋2、旅籠20軒の甲州街道にあってはかなり大きな規模。
若松屋脇本陣はホテルに形を変えて今も旅人が宿を取る。本陣跡には立派な門が残る。
 小仏宿から小仏峠を越えて神奈川県へ、合宿の小原宿・与瀬宿、相模湖を眺めて吉野宿。
関野宿を通り、山梨県に入って上野原宿まで18.8km、所要5時間30分の行程となった。
江戸日本橋からは75.0kmだ。


甲州道中紀行3 日野宿~八王子宿~駒木野宿・小仏宿

2015-11-21 | 甲州道中紀行

08:00 「日野宿」
 日野宿は本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠20軒、大久保長安によって整備された。
このあたりで漁れる多摩川の鮎は将軍家に献上されたという。
甲州街道を歩く第3日目は日野宿本陣前をスタートする。

 

甲州街道は日野駅前で直角に西へと向きを変える。辻にはギャラリーカフェが在る。

ほどなく左手に宝泉禅寺、新撰組六番隊組長、井上源三郎の墓がある。
井上は鳥羽伏見の戦いで戦死している。

 

その先、坂下地蔵堂は“西の地蔵”と呼ばれ、ここが日野宿の京方の入口であった。
道は中央本線に塞がれてしまうので、一旦駅前に戻ってガードを潜って反対側へ。
庚申塔(元禄7年のもの)に見送られ日野台へと大坂を上る。

 

08:40 「日野台一里塚」
 日野自動車工場敷地を過ぎた日野台交差点辺りに江戸日本橋から十里目の一里塚の跡。
北塚は昭和初期、南塚も昭和30年代に取り壊されたそうだ。

 

この辺りの甲州街道はR20に上書きされているが、大和田町付近に旧い道筋が残っている。
馬頭観音、道祖神を見ながら、大和田橋で浅川を渡り、八王子市街に入って行く。

 

09:30 「竹の鼻一里塚」
 八王子宿に向かう新町の枡形手前に一里塚跡碑が建っている。
並びの永福稲荷には江戸中期に活躍した力士八光山の金剛像が在る。

 

09:50 「八王子宿」
 八王子宿は、東から横山宿・八日市宿・八幡宿からなる約2kmの宿並みの総称。
酉の市で有名な市守大鳥神社が江戸方の入口で木戸があったそうだ。
横山宿の本陣は八王子横山町郵便局のあたりだ。

 

八王子市夢美術館前には、八日市宿跡碑がある。
八木宿には酒蔵「桑の都」の小澤酒造場がある。最も醸造場自体は移転してしまっている。
絹織物の産地の八王子は別名「桑都」、この名前を銘柄に戴いたのが小澤酒造場の酒。
酒蔵は宿場の華なのだ。

 

 八王子宿の京方は追分となっている。「左甲州道中高尾山、右あんげ道」の道標。
あんげ道とは甲州街道の裏街道である陣馬街道のこと。
左甲州街道は追分から多摩御陵入口まで美しい銀杏並木が続いている。

 

多摩御陵入口の先でも甲州街道は旧い道筋を辿ることができる。
摩耗した古い地蔵尊に出会ったり、黒塀の旧家を見ることができる。
道路脇には用水が流れて街道情緒を感じる。

11:20~11:50 高尾駅
 甲州街道が再びR20と重なると高尾駅。いちょう祭と高尾山の紅葉狩りで賑わっている。

 

駅前の蕎麦処「岸本屋」の暖簾を潜る。品書きに先ほどの小澤酒造場の「桑の都」がある。
まだ先の道のりがあるのだが、ついつい手が出て山菜の盛り合わせで一杯。
ほろ酔いになったところで〆に名物「とろろそば」をいただく。

 

気を取り直して再び歩き始める。中央本線を潜る両界橋の袂に古い石地蔵尊。
これを過ぎるとR20を右手に分かれて線路沿いに勾配を上り始める。
駒木野病院の脇には新旧の地蔵尊が祀られている。

 

12:20 「小仏関所」・「駒木野宿」
 “入り鉄砲に出女” を厳しく取り締まった小仏関所。
碑の前には「手形石」と「手付き石」が残っている。
隣接する駒木野宿はこの先の小仏宿と合宿、問屋の業務は月の後半を勤めた。
本陣1、脇本陣1、問屋3、旅籠12軒がその規模だ。

 

駒木野宿を抜けると念珠坂碑と地蔵尊、その先荒井地区には庚申塔など石仏石塔がある。

 

右手頭上に中央道と圏央道の八王子JCT。道沿いの道標は「是れより高尾山道」を刻む。

13:00 「小仏宿」
 甲州街道はいよいよ本格的な山道となって小仏川沿いをいく。
小仏宿は本陣、脇本陣は無く、問屋1、旅籠11軒と難所小仏峠を控えては寂しい規模だ。
道沿いに十数件の民家があるが、宿場を感じさせるものは無い。
宿場を抜けるとバスの折り返し所、高尾山から下りてきたハイカー達で混み合っている。
日野宿~八王子宿~駒木野・小仏宿 16.0km 所要5時間、次回は小仏峠を越える。


甲州道中紀行2 布田五ヶ宿~府中宿~日野宿

2015-11-14 | 甲州道中紀行

 

09:00 「布田五ヶ宿(布田)」
 布田五ヶ宿は、国領宿・下布田宿・上布田宿・下石原宿・上石原宿と5つの宿場からなる。
本陣、脇本陣は無く、旅籠9の小宿で、月の6日づつ宿場の役務を負担し合っていた。
甲州街道を歩く第2日目は、このうちの下布田宿からスタート。
成田不動尊は「布田のお不動様」と呼ばれて篤く信仰されてきた。

 

09:20 「小島一里塚」
 調布駅の入口を過ぎると上布田宿となる。
小島1丁目交差点に「小島一里塚跡碑」が建っている。江戸日本橋からは六里目となる。

上布田宿と下石原宿の境、常演寺門前には地蔵祠がある。

下石原宿と上石原宿の境は中央自動車道と交差する西調布駅付近。
西光寺の門前には新撰組局長近藤勇坐像がある。近藤勇は多摩郡上石原村の生まれだ。

高速道路を潜ると黒板塀の立派な旧家がある。
少しづつ街道筋の雰囲気が窺えるようになってきた。

飛田給薬師堂から道がV字に分岐する。
左手は貞享年間(1684~1688年)以前の甲州古道、右手が旧甲州街道だ。
2本の道は3km先の東府中駅付近で合流する。

10:30 「常久一里塚」
 江戸日本橋より七里目の常久一里塚跡は甲州古道沿いに在る。
塚木は松と杉であったそうだ。現在は跡碑があるのみだ。

甲州古道と旧甲州街道が合流すると京王線の踏切を越えて府中へと向かう。

11:00~11:40 「府中宿」
 生糸の商家が軒を連ねて賑わった府中宿、規模は本陣1、脇本陣2、問屋2、旅籠29軒。
宿場の中心には「大國魂神社」が鎮座する。七五三のお宮参りの家族連れで賑やかだ。

 

鎌倉街道(現府中街道)との交差点は札の辻といい「高札場」が現存している。
向かい側の蔵造りの酒屋さんは万延元年(1860年)創業、隣地が問屋場であったらしい。

ところで府中宿矢島本陣の表門は1kmほど先の街道沿い、名主内藤家に移築されている。

 

府中宿を外れ、分倍河原の京王線踏切を渡って「そば処砂場」、今日もかつ丼をいただく。
距離を歩くにはボリュームが必要だ。

 

 まもなくR20と合流する。この先5kmは情緒のない国道を行く。
左手には旧本宿村の鎮守熊野神社、裏手には飛鳥時代の上円下方墳、埋葬者は不明だ。

国立インター入口を過ぎた辺りの谷保地区に立派な薬医門を持つ旧家本田家住宅がある。
ちょうど東京都の文化財ウィークで敷地内を見せていただけた。
主屋は慶安年間(1648~1651年)の建築とされ、喰違形六間型としては都内最古例だそうだ。
代々医家・書家・名主の家柄で、日記には縁続きの土方歳三が泊まった旨の記述が残る。

 

 その先は単調なR20を行く。
時折思い出したように、秋葉山常夜燈、五智如来など旧い遺構が退屈をしのいでくれる。

 

日野橋へと向かうR20と分かれて、街道は立川市街地方向へ直進する。
やがてほぼ直角に左に折れると多摩川に向かって勾配を下っていく。
柴崎体育館前の親水公園には鴨たちが遊んでいた。

 

13:40 「日野の渡し」
 多摩川を渡る「日野の渡し」は立日橋の直下だったようだ。
春から秋にかけては舟渡し、水量が少ない冬場は土橋が架橋されたそうだ。
大正15年に日野橋が架橋されて、今では頭上を多摩都市モノレールが走る。
なお、立川市錦町下水処理場前には “日野の渡し碑” が在る。

 

 左手に見えてくる「東の地蔵」が日野宿の江戸口(東口)となる。
街道は枡形に西へ向きを変える。交差点には終焉間近の渡しの写真が掲示されてた。

 

14:00 「日野宿」
 日野宿に入ると川崎街道入口交差点に高幡不動道標。問屋場、高札場跡には碑が建つ。
「下佐藤家本陣」は都内に残る唯一の本陣建築、主屋は文久3年(1863年)に上棟したものだ。
主屋を再建した佐藤彦五郎は、ここに「天然理心流佐藤道場」を開いた。
新撰組の近藤勇、土方歳三、沖田総司らが、激しい稽古に励んだそうだ。
甲州街道を歩く第2日目は「布田五ヶ宿」から「府中宿」を経て「日野宿」まで16.9km。
所要5時間の行程となった。


甲州道中紀行1 日本橋~内藤新宿~高井戸宿~布田五ヶ宿

2015-11-07 | 甲州道中紀行

08:00 「日本橋」
 慶長8年(1603年)に架橋された日本橋、現在の橋は19代目、明治44年(1911年)のものだ。
5年前は北に向かって旅立った日本橋を、今回は西に向かって進めることになる。
日本橋交差点を南へ直進するR15は東海道、右折して大手町方面に向かうのが甲州街道だ。

 

呉服橋交差点の手前、甲州街道(永代通り)の北側のビルの谷間に「西河岸地蔵」がある。
日本橋芸者衆の信仰が篤かったそうだ。
甲州街道は左手に折れて、東京駅日本橋口とシャングリラホテル東京の間を入って行く。
遠山の金さんの北町奉行所跡の石碑が大丸の通用口前にがある。

 

甲州街道は更に右手に折れて西に向かう。
ちょうど八重洲と丸の内を結ぶ北自由通路が旧甲州街道にに沿っているそうだ。
その延長線上、日本工業倶楽部と新丸ビルの間を和田倉橋に向かう。

和田倉濠にはすでに白鳥の番いが水面を滑っている。
和田倉橋前を左折して再びR1と重なる、日比谷通りが甲州街道のルートだ。

08:50 「日比谷見附跡」
 日比谷交差点を右折して内堀通りに入る。
ここからはR20、下諏訪宿で中山道と合流するまでの長い付き合いとなる。
ここは日比谷見附跡、江戸城外郭城門のひとつだ。ここから半蔵門まで皇居を半周する。

 

カラフルなウエアで身を包んだランナー達と逆回りに桜田門を通過。
国会前交差点近くには加藤清正が掘り当てた江戸の名水「櫻の井」がある。

半蔵門で左折していよいよ西へと向きを変える。門外には服部半蔵の伊賀屋敷があった。
有事の際、家康は服部半蔵の手引きで甲州街道を甲府を経て駿府に逃れる計画だったとか。

四谷見附は江戸城防御の城門、JR四谷駅のタクシープールの場所に一部石垣が残っている。
中央線を渡る四谷見附陸橋は都内最古の陸橋だそうだ。

 

10:00 「内藤新宿」
 四谷4丁目交差点から甲州街道最初の宿場「内藤新宿」に入る。
ここには大木戸と玉川上水水番所が設置されていた。四谷大木戸跡の碑が建っている。
内藤新宿は請願により元禄12年(1699年)に新設された。
内藤氏の下屋敷の一部を割いて成立したので内藤新宿という。
東海道の品川宿とともに娼家が置かれ、大いに賑わったそうだ。

 

新宿3丁目交差点は内藤新宿の西口、ここは青梅街道との追分になっている。
直進するのは青梅街道。甲州街道は左折し、100mほど明治通りを南下してから西進する。
ちなみに交番の名前は新宿3丁目交番ではなく「追分交番」なのだ。
江戸日本橋から二里目になる「追分一里塚」は所在不明だ。

JR新宿駅南口から西へと甲州街道が延びる。
駅の西側は1本北側の国際通りを進んで西新宿2丁目交差点で再びR20に複する。
折しも文化学園大学の学園祭が行われていて、界隈は若者たちで賑わっていた。

 

笹塚交差点あたりは窪地になっている。ここは刑場跡で「牛裂きの刑」が執行された。
後年疫病が流行った際に、処刑された罪人の祟りといわれ「牛窪地蔵尊」が建立された。
さらに200mほど先、笹塚駅入口に「笹塚一里塚」があった。今は案内板のみが建っている。
塚木は“榎”で、塚は笹に覆われていたため「笹塚」の地名由来となったという。
さらに200m先に甲州街道筋では初めて目にする庚申塔がある。

明治大学和泉校舎から築地別院和田堀廟所。
それに続く寺社群の連なりが途切れると、左手に明治40年創業の竹細工店「竹清堂」。
このあたりから下高井戸宿と思われる。

12:00 「下高井戸宿」
 下高井戸宿は、本陣1、問屋1、旅籠3の小さな宿場、隣の上高井戸宿と合宿だ。
宗源寺境内の不動堂が「高井堂」と呼ばれていたのが、高井戸の地名に由来した。

首都高速4号線が頭上から右手に離れていく辺りが日本橋から四里目の下高井戸一里塚。
ちょうどR20のキロポストも起点から16kmを指している。この辺りから上高井戸宿に入る。

 

12:20 ~ 12:50 「上高井戸宿」
 上高井戸宿も、本陣1、問屋1、旅籠2の小さな宿場、月の後半15日間役務を勤めた。
そもそも甲州街道を参勤交代に利用したのは信州高島藩、高遠藩、飯田藩の3藩だけ。
いずれも小藩であるから、この規模の宿場で足りたのであろう。
お昼は上北沢商店街の天兼&海老蔵で “かつ重” をいただいた。
今回の旅は宿場の大衆食堂で類似のメニューを食しながら味を比べようと思う。

        

上高井戸宿の武蔵屋本陣は上高井戸1丁目交差点辺り、ここも遺構も碑も案内板もない。
この先R20はV字に新道旧道に分岐する、千歳烏山市街へ向かう旧道が本来の甲州街道だ。
分岐して直ぐに井之頭辨財天道道標、井の頭公園の弁財天までは1里半と刻まれている。

 

芦花公園駅を過ぎたあたりに烏山用水に架かっていた大橋場跡には出世地蔵が佇む。
千歳烏山駅付近の路地脇には石仏石塔群が並ぶが、地蔵尊はことごとく頭が落ちていた。

仙川一里塚は江戸日本橋から五里目となる。
R20と再び合流する仙川駅付近に跡碑が建つ、塚木は無かったそうだ。

        

仙川一里塚跡を過ぎると左手にキューピー食品のオフィスが在る。
からくり時計のキューピー人形がハロウィーンの装いで癒してくれる。

 

仙川2丁目交差点から右手に入る200mほどの旧道が残る。
瀧坂といって、一旦雨が降ると滝のように水が流れる急坂の難所であったそうだ。

 

右手に妙円地蔵を見ると間もなく、旧甲州街道入口交差点でまたしてもV字にR20と離れる。

 

14:20 「布田五ヶ宿」
 旧道に入ると、国領宿、下布田宿、上布田宿、下石原宿、上石原宿と5つの宿場が並ぶ。
布田五ヶ宿は、本陣・脇本陣は無く、旅籠9の小宿で、月6日づつ宿場の役務を分担した。
国領駅入口には昇福稲荷大明神が祀られ、少し先には庚申塔が交通安全を祈っている。
国領の地名は古代国衙直轄地、あるいは江戸時代に天領だったことに由来をしている。
樹齢500年の御神木「千年藤」が見事な國領神社を第1日目のゴールとした。

日本橋~内藤新宿~下高井戸宿・上高井戸宿~布田五ヶ宿 23.3km 所要06時間20分