旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

休日はローカル線で 気動車のエンジン音が子守唄

2015-05-30 | 日記・エッセイ・コラム

 鹿島サッカースタジアムから水戸へ、鹿島臨海鉄道・大洗鹿島線に乗車する。
この駅はJR鹿島線と鹿島臨海鉄道の起点終点ながら普段は営業していない。
列車はJ1の試合開催日、KICK OFの概ね4時間前くらいから停車するようだ。

鹿島臨海鉄道は1970年に貨物線として開業。成田空港へのジェット燃料の輸送を担った。
なるほどディーゼル機関車に牽かれた長大なタンク車の写真や映像を見た覚えがある。
旅客営業は1980年からと歴史は浅い。
中心駅のひとつ大洗には酒蔵も在るそうだけど、今回は途中下車はパスしよう。 

午後の陽射しを受けた車内、気動車のエンジン音と少し大きめの揺れに身を委ね......

正確な間隔で頬を撫でる扇風機の心地よい風に吹かれながら......

良く冷えた生酒をちびりちびり、北浦の風景を眺めてうとうとしていると......

水戸までの1時間半はあっという間。
大洗鹿島線はJR水戸駅の8番ホームにちょこんと終着する。

水戸駅に降り立つのはおよそ10年ぶり。
南口ロータリーが整備され、商業ビルが立ち並び、その変貌ぶりに少々驚いた。
気動車のエンジン音を子守唄に、快適な午睡のひとときを愉しんだ大洗鹿島線の旅。 

<40年前に街で流れたJ-POP>
十七の夏 / 桜田淳子 1975年


潮来花嫁さんは舟でゆく 鹿島線を完乗!

2015-05-23 | 呑み鉄放浪記

 鹿島線は成田線の香取駅から分岐している。ホームの端にひっそりと起点であることを示す0m標がある。
1970年、臨海工業地帯開発プロジェクトのため建設された鹿島線は、全線が高架橋と鉄橋からなる高規格路線だ。

水郷潮来は5月下旬から6月下旬にかけて “あやめまつり” で賑わっている。
紫・白・黄・ピンクといろとりどりの “あやめ” が咲き競う様は見事だ。

幸運にも「嫁入り舟」に出くわす。凛とした白無垢姿の花嫁さんが祝福に包まれる。どうぞお幸せに。
花嫁を見送ったら水郷遊覧のろ舟が行き交う前川沿いを急ぐ。1時間に1本しかない電車の時間に合わせないと。

目指す先は文化元年(1804年)創業の愛友酒造さん。静かな町並みに白壁の屋敷と蔵、太い煙突が誇らしげだ。

こちらも運良くちょうど始まった酒蔵見学コースに、4人家族の皆さんとご一緒させていただいた。
試飲もたっぷり頂いて、土産に “吟醸しぼりたて本生原酒” を包んでもらってご満悦の呑み人だ。

更に2つ先の鹿島神宮へと進む。鹿島線の列車は終点まであと1駅を残してすべて鹿島神宮駅が終着となる。
この先終点までのひと区間は、鹿島臨海鉄道の気動車に乗らないとたどり着けない。

鹿島神宮は常陸国一之宮、武甕槌大神(たけみかづちのみこと)が御祭神、神武天皇元年創建の由緒ある神社だ。

中世から近世にかけては、源頼朝、徳川家康など武将の尊崇を集め、武神として仰がれてきた。
ちなみに楼門は初代藩主徳川頼房、奥宮は徳川家康、社殿は徳川秀忠が奉納したものだという。

どこへいっても門前町には蕎麦屋が多いような気がするね。鹿島神宮への参道も同様なのだ。
いくつかある店から商売っ気のない店を選んで暖簾をくぐる。老夫婦がお客さんを待たせながら切り盛りしてる。
でもこういう店って味は確かだと経験から思う。大ざるを注文する。待たされる間の一番搾りが、これまた旨い。

鹿島臨海鉄道の気動車に乗る。鹿島線の終点は鹿島サッカースタジアム、試合のある日しか列車が止まらない。
今日は19:00からアントラーズが松本山雅FCを迎え撃つ。案外、鹿島線は呑み潰し(乗り潰し)が難しい路線だ。

鹿島線 香取~鹿島サッカースタジアム 17.4km 完乗

白い風よ / 桜田淳子 1975年  


旅情の小箱 川崎「シウマイ弁当」

2015-05-16 | 旅のアクセント

“シウマイ弁当” ってのは横浜駅の駅弁かと思っていた。今の今まで。
神奈川県内のJR・私鉄駅に広く販売店を置いている。どうやら新橋駅でも買えるらしい。
登戸のブルーパブで仕込んだクラフトビールのお供にと、川崎駅で求めた。
グリーン車のテーブルを倒して、Lagerをグビり、シウマイをひと抓み、楽しい帰り道だ。

二重唱 / 岩崎宏美 1975年


中山道紀行34 今須宿~柏原宿~醒ヶ井宿~番場宿~鳥居本宿

2015-05-09 | 中山道紀行

 

「寝物語の里」 08:15
 “正月も 美濃と近江や 閏月” の句碑が建つ寝物語の里。
おそらくはお決まりの、県境の溝を跨ぐ写真を撮ってから第34日目の行程をスタートする。
実際には長久寺集落を過ぎた辺りが、中山道と隣を走る東海道本線のピークとなる。
ここから先、水は琵琶湖に流れ込むはずだ。

中山道が柏原に向かって下りはじめると楓並木が現れる。
幕末期まで松並木であったが楓に植え替えたそうだ。晩秋には真っ赤な並木が楽しめる。

 

「柏原宿」 08:45
 柏原宿入ると左右に紅がら塗の家々が目に入り、京都が近いことを実感させる。
道路中央には白線破線の代わりにコンクリート塗の帯、消雪パイプが埋め込まれている。

伊吹山は “もぐさ” の産地、麓の柏原宿ではこれを商う店が多かったそうだ。
歌川広重は柏原宿の風景に「伊吹堂亀屋左京商店」を題材としている。

浮世絵には福助人形が描かれ、耳朶が異様に大きい福助という番頭が実在したという。

 

現存する伊吹堂亀屋左京商店周辺の風景は街道情緒に溢れている。
道中いくつかのグループとすれ違い、また抜きつ抜かれつ中山道を往く。

 

宿場を出ると左手に復元された「柏原一里塚」が一基。南北から山が迫る狭い平地の
水田は田植えを待つばかり。中山道は北側の山裾を畝って湖東へと緩やかに下っていく。

「醒ヶ井宿」 09:45~10:45
 賀茂神社に上ると醒ヶ井宿を一望できる。ちょうど春のお祭りに居合わせる。
法被姿の若者が総がかりで神社の石段を、ゆっくりゆっくり神輿を降ろしていた。

醒ヶ井宿は名水の町だ。
西行水、十王水、居醒め清水など湧水を集めて清冽な地蔵川が街道沿いを流れていく。
伊吹山の大蛇退治で遭難した日本武尊が、居醒め清水で気力回復したという伝説が残る。

 

地蔵川沿いの本陣跡は料亭に、となりの問屋場は資料館となり一般公開している。

資料館向かい側の丁子屋製菓で "さめがい名水まんじゅう" をいただいた。
練り餡を葛と寒天で包んだプルプル感は、これからの季節、冷やして楽しみたい一品だ。

 

中山道は東海道本線と米原には向かわず南に転じ、暫く名神高速道路に沿っていく。
途中、古い民家が軒先を “いっぷく場” と称して提供していた。うれしい心遣いだ。
鳥居本方面からやってきたご夫婦が涼をとっておられた。
やがて現れる「久禮一里塚跡」は名神高速と北陸道が合流する米原JCT直下に在る。

 

「番場宿」 11:45
 番場宿にはさしたる遺構はない。戯曲「瞼の母」の主人公番場忠太郎で有名らしいが、
私の世代では馴染みがない。ちなみに映画では若山富三郎さんが演じている。

 

名神高速に沿って山道を上る米原トンネル付近、高速を “鉄馬” の一隊が走り抜ける。
小さな山を越えると中山道は名神高速を右手西側に折れて離れる。
摺針峠へと向かう山道には藤が自生していて、淡い紫が目を楽しませてくれる。

登りつめた摺針峠のピークには神明宮が鎮座し、明治天皇行幸時の休憩所が在る。
眼下には琵琶湖の展望が広がる。歌川広重は鳥居本宿をここからの景色で描いている。
干拓されていない当時の景色は素晴らしかったことだろう。

摺針峠を琵琶湖方面に下ると国道8号線に合流する。暫く行くと「おいでやす彦根市」と
刻まれた碑があり近江商人の像が建っている。ここから左手旧道を進むと鳥居本宿だ。

 

「鳥居本宿」 13:00
 街道情緒が濃厚に残る鳥居本宿の中で、圧巻なのは赤玉神教丸本舗の有川家の建物、
その主屋は宝暦9年(1759年)の建築で重要文化財に指定されている。

宿場の中心は近江鉄道鳥居本駅付近となるが、旧本陣寺村家は現存しない。
向かいに “合羽所” の古い看板を下げた「木綿屋」がある。和紙に渋柿を塗った合羽は、
最盛期は15軒の合羽所で製造され、雨の多い木曽路に向かう旅人が買い求めたそうだ。
雨具の心配ない五月晴れを歩いた第34日目は、美濃近江国境から、福助の柏原宿、
名水の醒ヶ井宿、忠太郎の番場宿を経て鳥居本宿まで18.7km。所要4時間45分の行程。
三条大橋まではあと74.3kmを残している。

 


中山道紀行33 赤坂宿~垂井宿~関ヶ原宿~今須宿

2015-05-06 | 中山道紀行

「赤坂宿」 08:30
 初夏の陽気になりそうな朝、赤坂宿本陣跡をスタートする。
赤坂には将軍専用の休泊所お茶屋屋敷が唯一残り、ボタン園として一般公開されている。

  

赤坂宿では和宮降嫁の際、幕府の命令により宿内の見苦しい古屋や空地を取り繕うため
突貫工事で60軒余の家が急造されたそうだ。これを姫普請(嫁入普請)という。

 

「善光寺」 08:50
 赤坂宿をでると間もなく昼飯(ひるい)町なる地区に入る。難波の海で拾われた
善光寺如来を信州に収めるために運ぶ一行が、つつじの咲き乱れる美しい地で
昼飯を取ったことに由来する地名だそうだ。
実際この地に善光寺があり、門前の碑に「當寺本尊、信濃信州善光寺分身如来」とある。 

 

「蒼野ケ原一里塚」 09:35
 集落を抜け田圃が広がると蒼野ケ原一里塚。すでに塚は無く碑と常夜灯が建っている。
東山道の時代にはここに宿駅があって、遊女の宿場として有名だったそうだ。

「垂井追分」 10:05
 垂井追分は中山道と東海道を結ぶ美濃路との分岐点。
自然石の道標には「是れより 右東海道大垣みち 左木曽海道たにぐみみち」とある。
宝永6年(1709年)に立てられたもので中山道中でもかなり旧いものだ。

 

「垂井宿」 10:15
 伊吹山中に発し関ヶ原を流れてくる相川を渡ると垂井宿の東の見付(番所)跡、
大きな観光マップが建っている。当時の相川は人足渡しだったそうだ。

  

旅籠亀丸屋は安永6年(1777年)に建てられた。今なお当時の姿で旅館として営業している。
この辺の辻を入ると往時の面影を偲ぶ町並みを見ることができる。

 

垂井は美濃一宮として信仰を集めた南宮大社の門前町でもあった。
参道との辻には懐かしい信号機が点滅している。

 

小林家住宅は切妻造瓦葺二階建て平入りの建物で袖卯建が設けられている。
江戸期には油屋を営んでいたそうだ。

 

西の見付で垂井宿を振り返る。旧旅籠や商家が残る宿場情緒の道が微妙に左右して続く。
すでに関ヶ原に向けて緩やかな上り勾配になっている。

  

垂井宿を出ると濃尾平野に別れを告げ、徐々に両側に山々が迫る。500m程で踏切を渡る。
中山道が東海道本線を渡る?明治期の鉄道建設の経緯を知らないと素朴な疑問となる。

「垂井一里塚」 10:50
 9m四方の塚が南側一基、ほぼ完全な姿で残っている。
国の史跡に指定された塚は、ここ垂井と東京都板橋区の志村一里塚の二か所だけだ。
関ヶ原の戦いでは浅野幸長が陣張をした場所で、南宮山に拠る毛利秀元に備えたという。

東海道本線と東海道新幹線に挟まれ関ヶ原へと登るこの辺りには松並木が残っている。
となりを走る在来線の電車は苦しげなモーター音を唸らせて行く。

 

松並木を抜けると左手の小高い丘が桃配山。関ヶ原開戦時の徳川家康の陣地である。

 

「関ヶ原宿」 12:00~13:20
 関ヶ原宿は交通の要衝。中山道(現R21)と北国脇往還(現R365長浜方面) 、伊勢海道
(現R365四日市方面)が交差する。さらに西に今須峠を控えて多くの旅人で賑わったという。

 

とはいえ、関ヶ原に往時の反映ぶりをしのぶ史跡はまったく無い。
この辺りは先陣を競ったひとり福島正則が陣取った場所。宿場の外れに西の首塚が残る。

「不破ノ関」 13:40
 関ヶ原宿を出て程なく藤古川を渡る。関ヶ原の戦では大谷吉継が陣を張ったところだ。
ここは古代東山道の不破ノ関が置かれたところで関ヶ原の名の起こりでもある。
672年壬申の乱で大友皇子率いる西軍(近江朝廷軍)を大海人皇子(天武天皇)率いる
東軍を撃破している。歴史は二度とも東軍を勝たせている。

 

更に1km程先に「常盤御前の墓」がある。
源義朝の側室として牛若丸をもうけた絶世の美女がこの地で亡くなったという説がある。
哀れに思った土地の人がこの塚を築いたという。
山桜の花びらが散る今須峠を越える。わずか標高160mの峠だが急勾配の坂が続き、
特に冬場は積雪があり難儀したそうだ。峠を越えると「今須一里塚」がある。

  

「今須宿」 14:20
 一里塚を過ぎると美濃路最後の今須宿,、本陣・脇本陣は小学校の庭の位置に在った。
美濃16宿の中で二軒の脇本陣を持ったのは今須宿だけだ。

 

今須宿を抜けて暫くすると「車返し坂地蔵尊」が見頃を終えた八重桜の花を残している。
南北朝の時代に荒れ果てた不破ノ関屋を歌に詠もうと都をでた貴族が、その来訪を知った
家人によって見苦しい関屋が修理されてしまったことを聞き、大いに落胆して牛車を
引き返してしまったことから「車返し坂」と呼ばれている。 

 

「寝物語の里」 15:00
 中山道が国道21号線と東海道本線を相次いで越えると県境(美濃近江国境)になる。
その昔国境を挟んで宿があった。都から奥州へ義経を追う静御前が近江側に宿をとった。
すると偶然にも隣の美濃側の宿に義経の家来が泊まっていることに気付き「義経のもとに
連れて行ってくれ」と懇願したと謂われる。
この国境越しのやり取りをを土地の人々が「寝物語の里」と名を付け語り継いでいる。
第33日目は、赤坂宿を発ち、垂水宿から濃尾平野を後にして関ヶ原宿、美濃近江国境の
今須宿まで14.5km、 6時間30分の行程となった。三条大橋までは残り92kmだ。


ORAHO

2015-05-02 | 日記・エッセイ・コラム

 故郷に急な所用があって1年半ぶりに帰省した。今更ながら初めてのE7系。
1本目の “はくたか号” に乗車したけど、大型連休を前に指定席はガラガラ、自由席はというと80%位の乗車率。
ビジネス客が高崎で入れ替わり、佐久平と上田で席を埋めた通勤通学客は長野で殆ど下車しまう。
東京⇔北陸のビジネス客は先を走る “かがやき号” を利用するのだろうけど、まだまだ余裕がありそうだ。

 所用を済ませて飯綱町の「そば処よこ亭」を訪ねる。飯綱山の裾野で景色が良い。大きな水車が目印だ。
“堅物おやじそば” は、固ゆでのそばを辛いそばつゆで食べる。お好みでもみじおろしを入れていただく。

 「おらほ」とは、俺たち、俺の方、の意味で使われる信州の方言だ。
少なくとも我々世代が使うことはなかったけれど、確かに小学生の頃「おらほ」と発する年配の先生がいた。

新しくなった駅ビルの2階フロアが「信州おみやげ参道ORAHO」と名付けられている。
なるほど信州一円の美味いものが揃って、見て買って味わって楽しい、信州のゲートウェイにふさわしい空間だ。
南北に長くて盆地毎に文化の違う信州にあって「信州一円」なんて少し前までは考えられなかったこと。

 ゆっくりしたいところだが仕事の都合もあって滞在5時間の今回、
善光寺御開帳を訪ねることなく新幹線車中の人となる。それにしても買い忘れてはならない八幡屋礒五郎だ。

千曲川 / 五木ひろし 1975年