旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

北国街道紀行9 関山宿~松崎宿・二本木宿~新井宿~高田宿

2017-04-23 | 北国街道紀行

「関山宿」 05:50
 妙高山は別名「須弥山」と呼ばれ古くから修験道の道場として繁栄してきた。
関山神社は妙高山を霊山と仰ぐ修験道の道場として繁栄、境内には阿弥陀三尊像がある。
門前町兼宿場町として栄えた関山宿の規模は、旅籠14軒、他宿泊可能な家が62軒だった。
3年半ぶりの北国街道紀行は、ここ関山宿から、おそらく桜花爛漫の高田城下をめざす。

関山宿の標高は380m、残雪の妙高山から吹き下ろす風は肌寒い。
センターラインの様に見えるのは消雪パイプ、降雪時には地下水を流して雪を溶かす。
地下水に含んだ鉄分がアスファルトを褐色に染める。ここは日本有数の豪雪地帯なのだ。 

      

「北沢一里塚」 06:00
 西塚だけが高さ3m、原形を保ったまま残っている。塚木はケンポナシだそうだ。
一里塚を過ぎると北国街道はR18とクロスする。
左右には江戸時代に新田開発された田圃が広がる。
新井宿までの11kmで標高差320mを下る勾配はきつい。  

福崎新田あたりで妙高山を振り返る。未だたっぷりの残雪を抱えた雄姿が美しい。
天空には下弦へとむかう白い月が浮かんでいる。

 

「松崎宿・二本木宿」 06:50
 松崎宿と二本木宿は家並が連続している。月の半分で問屋業務を交代する合宿だ。
二本木宿の北桝方にあった石柱には旅のマナーが刻まれている。
「従是内、口附無之、小荷駄乗通るべからず、邑の内、咥きせる無用」と。

 

松崎宿と二本木宿には本陣がない。では参勤交代はどこで休んだのか。
安楽寺は庫裏に上段の間を設けて加賀藩の休憩所を担ったと云う。

 

「二本木駅」 07:15
 えちごトキめき鉄道の二本木駅は、新潟県内の鉄道駅唯一のスイッチバック式駅だ。 
付近が約25パーミルの急勾配が存在することから設置された。
蒸気機関車が上り切れなかった勾配を北国街道は往く。

スイッチバック線を通した築堤の先端に立つと、その先に高田平野が、さらに日本海を見渡すことができる。
中央から右手にかけて広がる高台は陣場山、上杉のお家騒動・御館の乱に乗じて、武田勝頼がここまで進入して陣を張っている。

「藤沢一里塚」 07:50 
 東塚だけが残った藤沢一里塚、街道が掘り下げられているので、一段高い位置で行く先を見渡せる。 

 

「越後見納め小出雲坂よ。ほろと泣いたをなんじ忘られよ」と謳われた小出雲坂。
江戸をめざす旅人が坂の途中で振り返り、高田平野と日本海、米山を一望し感傷的になったと云う。
本来の松並木は現在桜並木にに代わっている。

 

小出雲に鎮座している賀茂神社は、銅板で囲われた鳥居や多くの石灯篭からすると、
かなり格式の高い神社と思われるが、創建等の詳細は不明だ。
地域の産土神に京都の賀茂神社の霊が勧請されたと推測されている。
街道脇湧く名水は旅人渇きをいやしたことだろう。

 

賀茂神社からの坂を下りきると飯山街道と合流する。
追分には「左飯山道・右善光寺道」(高田城下方から)と彫られた道標が建つ。
富倉峠を経て飯山に至る飯山街道(現在はR292)は、古くからの塩の道であり、
上杉軍が川中島へ向かう軍用路でもあった。右手から飯山街道が合流すると新井宿に入る。

「新井宿」 08:30
 荒井宿は住民の願いにより、天保9年(1838年) に新井宿に改めた。
本陣、脇本陣、問屋2軒は中町に置かれ、前後の上町・下町に旅籠が配されたが、
その件数は文書に残っていない。当時の旅籠は唯一玉屋旅館が営んでいる。

 

「君が代の こけのむすまで まちきれず 君とくむ酒 これぞ君の井」
旧い遺構の少ない宿内にあって街道風情が偲ばれる君の井酒造、酒蔵は宿場の華なのだ。
JR東日本大人の休日倶楽部、新潟県「越後杜氏篇」のCMに登場して有名になりました。

 

東本願寺新井別院には明治11年(1878年)に北陸行幸にあたって明治天皇が宿泊されている。
この際、関山宿にあった宝蔵院の建物を買収して移築改修して行在所となった。
その天台様式の建物は今はない。ここまでが新井宿だ。

      

新井宿を抜けると間もなく石塚一里塚跡。今では真新しい碑が建つのみである。

石塚一里塚を過ぎると大崎集落に入る。
街道の西側を流れる矢代川の千草石を利用した石屋街が続いている。

 

 さてこの区間一押しの "街道めし" は、たちばなのとん汁。
豚肉・玉ねぎ・豆腐を白味噌で仕上げたシンプルな一品、玉ねぎの濃厚で甘いスープが抜群に旨いのだ。
大崎集落を過ぎたら、妙高はねうまラインの線路を越えてR292へ寄り道すると良い。

道中絵図に「此橋稲葉候高田ノ城主タリシ時カカル、是ヨリ前ハ歩越ナリ」と瀬渡橋。
渡るのは矢代川、徒歩渡しの頃は難所だったことだろう。
上流に見えるのは北陸新幹線、今では "かがやき" と "はくたか" が東京と金沢を結ぶ。

      

「伊勢町口番所跡」 10:05
 瀬渡橋から2kmほど北上したR292の高田新田交差点が伊勢町一里塚跡になる。
高田城下の南入口であるここには番所が置かれ、目付が通行人を調べた。
城下へと入る旅人はここで馬を降り、くわえ煙草を禁止された。

伊勢町番所跡から雁木通りが始まる。雁木(がんぎ)とは、家の前に出した庇を云う。
雁木通りは、道路沿いの家々が庇を伸ばして冬の積雪時の道路を確保する雪国都市形態。
高田には総延長16kmもの雁木が残り、その長さは日本一と云われる。
雁木の北国街道は、南本町2丁目交差点で直角に西へと折れる。城下を通さないためだ。

      

700m続く南本町通りの中程に、江戸初期から粟飴を商った高橋孫佐衛門商店が在る。
寛永元年(1624年)創業の飴屋は、十返舎一九の「方言修行金草鞋」に絵入りで紹介され、
夏目漱石は「坊ちゃん」の中で『越後の笹飴が食べたい』と乳母の清に言わせている。

北国街道は本町1丁目交差点で右に直角に折れ、再び北へと向かう。
本町通りとなった2kmの直線が高田宿である。
駅周辺の一部が瀟洒なアーケードに代わっている他は延々と雁木が続く。

 

北国街道の1本東を並行する大町通りに、旧日本陸軍高田第13師団長官舎がある。
 明治43年(1910年)に長岡外史中将によって建てられた明治期の洋風木造建築物だ。
銅像の長岡外史はオーストリアからレルヒ少佐を招き、日本にスキーを発祥させた人物。
次の師団長は「坂の上の雲」の主役である秋山好古だ。

      

これまた雁木通りの大町通りには、二七の市、四九の市と二つの朝市が立つ。
野菜をごっそり並べた八百屋、海産物の加工品を扱う乾物屋、直江津港で揚がった鮮魚、
地面にゴザを敷いた農家のおばちゃんたちの店が軒を連ねる風情は情緒がある。
ただこの朝市は街道時代からのものではなく、高田第13師団を誘致した後の開設だ。

「高田宿」 11:00
 本町7丁目交差点は筋違いの交差点は北国街道追分、北国街道の終点になる。
左、江戸方から来る北国街道が、右(写真手前)に折れて東へ向かう北国街道奥州道、
出雲崎まで延びる佐渡金山からの御用金を江戸へと運ぶ道だ。
左(写真奥)に折れて西へ向かうのは、加賀街道、前田家参勤交代の道だ。

 高田城址ははたして桜花爛漫、上杉謙信・景勝が治めたこの地に、徳川家康六男の
松平忠輝が75万石の太守として封じられたのが高田藩の始まり。
しかし忠輝は大坂夏の陣への遅参や家老の失脚により異母兄・秀忠に改易させられる。
親藩大名の治世が続けば、高田は日本海側にあって金沢に並ぶ都市になったかも知れない。 

 妙高山麓の関山宿から、松崎宿・二本木宿、新井宿を経て高田宿までは、21.6km。
中山道を追分宿から分かれた北国街道紀行を終える。
この先加賀街道を往くか、北国街道奥州道を往くかは未だ決めていない。     了


北国街道紀行8 柏原宿~野尻宿~関川宿~田切宿~関山宿

2013-10-12 | 北国街道紀行

「柏原宿」 08:40
 北国街道を歩く第8日目も妙高市北国街道研究会の皆さんに同行する。
会にとって第10回目となる今回の散策会は70名の参加だ。
悪天候が予想されたが出発に際しては黒姫山(2,053m)の雄姿が望めた。

「野尻一里塚」 09:30
 鳥居川(千曲川水系)と関川の分水嶺を越える。
間もなく現れる野尻一里塚は一対が完全に残っていてR18がすっぽりと収まっている。

「梅が香にのっと日の出る山路哉」R18を右に離れてると芭蕉の句碑、江戸時代の建立だ。
野尻宿の手前には「従是飯山河東道」の道標がある。
高田城下方から見ると北国街道を左手に別れ千曲川東岸の脇街道に通ずる。
柏原・古間・牟礼宿を通らず松代を経て江戸方に抜けるため、荷争いの訴訟沙汰が絶えなかった。

「野尻宿」 09:50
 右手に野尻湖が広がると「野尻宿」。夏が過ぎた避暑地の湖はひっそりとしている。

野尻宿本陣は跡碑が立つのみであるように宿場を偲ばせる古い遺構はない。
豪雪地帯においてはその維持は極めて困難ということだろう。

野尻宿の北の外れに既に廃寺となった安養寺がある。
今は石垣を残すのみだが、ここは幕府御用金の金蔵跡でもある。
越佐海峡を渡って出雲崎に陸揚げされた佐渡の金は馬の背に載せ替えられ、
ここまで3日という速さで送られて一晩保管された後善光寺宿に向かう。

「赤川一里塚」 10:50
 野尻坂峠を越えると正面に妙高山の雄大な姿が現れる。まさに仰ぎ見る格好だ。
信越国境は関川が深い谷を刻んでいる。R18バイパスは信越大橋でひと跨ぎする。
一方旧R18はスノーシェードを潜り大きく4つのカーブをくねらせて谷底へ下りていく。

旧R18と絡みながら下りる北国街道はこのスノーシェードで寸断され一部廃道となっている。
長野県側最後の集落赤川に「赤川一里塚」跡がある。隣接する常田家は一茶の妻の実家だ。
52歳での結婚に際して「五十聟 天窓(あたま)を隠す 扇かな」と詠んでいる。

「関川関所」 11:20~13:40
 赤川の集落を抜けると直ぐに関川河畔、関川御関所の木札が掛かった門が塞いでいる。
この門に続く一の橋を渡ると新潟県に入る。


関川関所は幕府の命によって高田藩が管轄した。関所跡には番所が復元されている。

「関川宿・上原宿」 13:50
 関所を抜けると関川宿・上原宿。隣接する二つの村が半月交代で問屋業務を行う合宿だ。
関川宿の浄善寺は小林一茶と親交があり、一茶から住職に贈られた俳句の碑がある。
続く上原宿の問屋豊田家には石垣が残る。ここは高田藩専用の本陣としても用いられた。

 妙高高原の市街地を抜けると小学校の校地に「田切一里塚」標柱、塚はすでにない。
この先北国街道は3つの田切地形を横断する。深い侵食谷を越えるかなりの難所だ。
架橋技術の高くなかった当時は一旦谷底に下りて川を渡り再び崖を上らざるをえない。
道は大きなU字を描くことが多い。
最初は白田切川、妙高山南地獄谷に発する流れは温泉成分で白濁しているため
その名がついた白田切川は昭和53年の雪解け水による土石流で多くの犠牲者を出た。
その際下流の信越本線の築堤も流し長期間の幹線不通を引き起こしている。

「田切宿・二俣宿」 14:30
 白田切川の谷を上ると田切宿、郷田切川の田切地形を挟んで北隣の二俣宿との合宿だ。
街道時代そのままの古道は地元の方に草刈をしていただき快適に歩くことができた。
通常田切地形を越えるには上流に迂回するのだが、郷田切は例外的に下流側に迂回している。
谷底を板橋で渡り対岸の崖を上ると二俣宿だ。

二俣宿の過ぎて1kmほど、大田切は越後の北国街道最大の難所で明暦元年の道中絵図に
「大田切十三曲り」と紹介されている。この道は昭和7年に旧国道ができた際に廃道にになって歩くことができない。

旧国道は大きなU字を二度描いて深いV字谷を越える。頭上をR18と上信越道が跨いで行く。

「坂口新田・庄屋太田家」 15:10
 大田切を越えると坂口新田集落、大雪の大田切で幕府の役人が遭難したことを受けて、
家光が高田藩に命じて街道の助成村として二俣宿と関山宿から3軒づつ入植して拓いた。
水利権など特権が保証されたという。代々庄屋を勤めた太田家が築300年の邸を守っている。

「関山宿」 16:00
 高田平野を一望にしながら大洞原を2kmほど直線的に下ると関山宿横町に入る。
宿内に小さな泉が湧いていて、その前に2体の地蔵が収まっているのが泉地蔵。
この泉地蔵で北国街道は直角に折れて仲町に入る。豪雪地帯ゆえ旧い遺構は残っていない。

関山神社は妙高山信仰の中心で関山三社権現といい和銅元年(708年)の開基。
上杉謙信の頃に七堂伽藍70余坊と最盛を極めたのち、天正10年(1582年)に織田信長の家臣森長可により焼き払われた。

明治の神仏分離令で関山神社と改名、主尊の菩薩立像は国の重要文化財に指定されている。
「柏原宿」から信越国境を越え、関川関所を経て「関山宿」までの第8日目行程はここで終了。
19.6kmを約7時間30分、散策会のゆったりした行程だった。


北国街道紀行7 牟礼宿~古間宿~柏原宿

2013-10-05 | 北国街道紀行

「牟礼宿」
 北国街道を歩く第7日目は妙高市北国街道研究会の皆さんと小玉古道を歩く。
第9回目の散策会は、新聞などに取り上げられ参加者を増やし52名の参加と盛況だ。
牟礼宿西の桝方には真宗の髻山證念寺がある。 高台の門前からは牟礼宿が一望できる。

證念寺を正面に見て桝方を左に折れるといきなりの急坂、これを十王坂と言う。
坂の途中の十王堂に亡者が極楽浄土に行き着くまでに裁きを行う閻魔大王等十体が並ぶ。
子どもを躾るには絶好の教材であったことだろう。

 

十王坂を上りきると鳥居川の河岸段丘上になる。ここに金附場跡がある。
北国街道の重要な役割は佐渡の御用金の運搬、ここは馬の乗り換えを行なった場所だ。
さらに200mほど先に小さな公園がある。武州加州道中堺碑がある。

 

 北国街道の今一つの重要な役割はもちろん参勤交代だが、中でも加賀前田公は
最大の旅客であり、その3,000名の行列通過は街道の最大行事であった。
この地は江戸と金沢の中間地点で、ここに達するに前田公は江戸屋敷と金沢城に
無事を知らせる飛脚を発したそうだ。

 R18とクロスした街道は山道に溶け込む。「美しい日本の歩きたくなる道500選」に
認証された小玉坂だ。途中小玉新道と分かれるが、新道と言っても明治9年の開削、
我々はもちろん左手小玉古道を往く。

杉木立が鬱蒼と続く小玉古道を往く。
足元は所々滲み出した湧水によって糠っていたりするが、歴史を感じさせる道だ。
途中観音平に9体の馬頭観音が佇んでいる。山の斜面下に信越本線の登り勾配が続いている。
何の用途なのかは判らないが切り出した石がゴロゴロする中を小玉古道は続く。

 

小玉新道と合流すると小玉一里塚跡。上杉謙信の馬止清水が湧き、立場茶屋もあった。
さらに1kmほどで小玉坂のピークで、清水窪といって林の中から水が滲み出している。
明治天皇が野立てをした御小休所跡で、玉堂の他岩倉具視らの随行員棟も設けられた。

 

明治天皇北陸行幸時に開削された直線的な小玉新道を1kmほど下ってようやく人里に戻る。
折しも蕎麦の白い花が満開の落影集落には所々茅葺きの古い納屋などが残っている。

 再びR18とクロスすると小古間の集落、色付き始めた水田の向こうに黒姫山の雄姿を望む。
古間には三軒の酒屋があったが、現在では「清酒松尾」の高橋酒造店に受け継がれている。

「古間宿」
 古間一里塚は跡の碑のみが立つ。一里塚跡を過ぎR18を横断すると古間宿に入る。
鳥居川を挟んで北隣りの柏原宿と合宿の古間宿は古間鎌(現信州鎌)の産地として知られる。
豪雪地帯の冬の労働力を活用したもので、今でも播州鎌に次ぐ産地だそうだ。

残念ながら古間宿にも多くのものは残っていない。
本陣古屋の標注があるのみだが、ここに設けられた明治初年の古間宿地図が興味深い。

「柏原宿」
 宿場の外れで鳥居川を跨ぐ寿橋を渡り、河岸段丘の坂道を上るともう柏原宿だ。
柏原といえば何と言っても俳人・小林一茶、宿内と言わず町内いたるところに句碑が建つ。
宿場に入ると左手に一茶終焉の土蔵と一茶旧宅(実際には遺産折半した弟の家)がある。

宿場ほぼ中央西側で戸隠三社への参道が分岐する。江戸初期に刻まれた碑で、
「従是戸隠山道」とある。戸隠信仰でも多くの旅人で賑わったことだろう。
さらに先に小林家の菩提寺・明専寺には「我と来て遊べや親の無い雀」の句碑がある。
三歳で母を亡くした一茶がその菩提寺でひとり遊びをする姿が想像される。

柏原宿本陣は街道東側に跡の碑と切石が残る。本陣中村家は新田開発を進めた豪農で
一茶のスポンサーであったといい、その死後は顕彰に努めたそうだ。
「牟礼宿」から「小玉古道」を歩いて「古間宿」そして「柏原宿」までは7.9km、
研究会の皆さんとゆっくり歩いて約5時間の行程だった。


北国街道紀行6 善光寺宿~新町宿~牟礼宿

2013-09-28 | 北国街道紀行

「善光寺宿」
 残暑厳しいこの日善光寺に戻ってきた。これから新町宿を経て牟礼宿をめざす。

北国街道は善光寺を正面に見て上ってくると本陣の先参道入口で右手に折れる。
この交差点に長野の道路元標がある。振り返ると宿場のあった通りを一望できる。

 街道はこの角も含めて右左右左と4回鈎状に折れて宿場を出て行く。
勾配も上下上下上とその度に変化し複雑な造りになっている。

 

二つ目の角、西宮神社は恵比寿様が祀られ、暮れのゑびす講の夜は大変な賑わいとなる。

 

四つ目の角を折れると一里塚跡に柏崎地蔵が鎮座する。謡曲「柏崎」にちなんだものだ。
街道はここから長く緩やかな右カーブを続け北から東へと進路を変えていく。
時折格子のある古い家が現れて街道筋の面影を見せてくれる。

 

左手に大きな古木が茂る吉田神社、ここには全国六十八の「一の宮」の石祠が祀られている。
お砂踏みのようなご利益があったのだろうか。さらに500mほど信濃吉田駅付近を左に折れる。
角には角源という古からの商店がある。

 

「新町宿」
 北に進路を変えた街道が浅川を渡った辺りからが新町(あらまち)宿。
稲積・徳間・東条の三村一宿で月を上中下旬で分けて役割を担ったそうだ。
遺構は残っていないが、本陣を兼ねた稲積の問屋吉田家の敷地に辛うじて案内板がある。
本陣問屋の先500mほどで飯山道との分去れになる。
道標には「右いひ山なかの志ふゆくさつ道、左北國往還」とある。
「右は飯山・中野・渋温泉・草津温泉へ」とは現代の道路案内にも負けない情報量であり
観光案内ではなかろうか。

蚊里田八幡宮の鳥居辺りから街道は長野盆地を抜けるための丘陵越えの勾配となる。
この先所々道の両側に石垣積みのある箇所があり、すれ違いのできない幅員になって、
本来の北国街道の道幅を感じることができる。
さて蚊里田神社は男根石を神体としているので、花街からの参詣者が多かったとされる。

左右にりんご畑が広がり始める。品種によっては真紅に色付いて収穫の日を待っている。
明治天皇北陸巡幸の小休所には飯山城の薬医門が移築されている。

田子神社裏に清水が湧く。田子清水を利用して街道には茶屋が建ち八軒の造酒屋があった。
先ほどの小休所に供せられたのもこの湧水だ。さらに北側には田子池という溜池がある。
この
辺りに東山道支道の田子駅があったと言われる。

 丘陵越えのピークに三本松がある。県道の交差点も三本松だ。
江戸に奉公にでる15才の一茶を父親が柏原宿からこの辺りまで送ってきたとされる。
“父ありて明ぼの見たし青田原” の句碑が刻まれている。

 

 街道が丘陵を下ると眼前に北信五岳(飯綱・戸隠・黒姫・妙高・斑尾)の眺望が広がる。
四ッ谷一里塚は一対が残る。東塚は民家の裏、西塚はりんご畑、所有者は牟礼神社だ。

 

「牟礼宿」
 牟礼宿は鳥居川の谷にある。街道は信越本線・R18と再会する。段丘を降りる坂がきつい。
信越本線のガードを潜り八蛇川の橋を渡ると桝方になっていて牟礼宿となる。

 

牟礼宿は約600mほどのほぼ直線で広がっているが古い遺構は殆ど残っていない。
鎌問屋をしていた山本家が卯建を揚げる幕末の建築を残しているくらいだ。
牟礼宿は鉄道建設に反対し駅は500mも離れて設置された。これも衰退の一因だ。

     

牟礼宿本陣は飯綱町(旧牟礼村)役場辺り、その敷地は旧国道18号線が横切っている。
牟礼宿付近は一里一尺、つまり4km進むごとに積雪が30cm増えると言われる豪雪地帯。
役場前交差点の信号機は積雪の負担を減らすため縦型になっている。
本陣跡裏の高台には牟禮神社が鎮座し、境内には上杉景勝の制札が残る。
「善光寺宿」から「新町宿」を経て「牟礼宿」までは13.7km、約3時間30分の行程だった。


北国街道紀行5 戸倉宿~矢代宿~丹波島宿~善光寺宿

2013-08-03 | 北国街道紀行

07:40 戸倉宿
 10ヶ月ぶりに北国街道は戸倉宿に戻ってきた。
戸倉宿の本陣は現存しない。跡地に明治天皇行幸の行在所跡碑が建っている。
むしろ “下の酒屋” 坂井名醸の主屋が存在感がある。こちらは江戸中期の建築だ。

宿場を出ると直ぐ姨捨道道標、“左おはすて・やハた道” と月の名勝姨捨山を案内している。
まもなく北国街道はR18を左に離れ、暫くしなの鉄道とR18の間をを北上していく。
国道が新たに開削されたゆえ道は趣を残して現在に至っている。

 

08:10 水除土堤
 千曲駅を通過する。新しい駅の清潔なトイレと清涼飲料水の自販機は歩く旅にも嬉しい。
ここに残る水除土堤は、千曲川の洪水に備えて寂蒔はじめ4ヶ村が元禄年間に築いた。

08:30 寂蒔茶屋本陣
 戸倉・矢代両宿の中間に位置する寂蒔には茶屋本陣が置かれた。
千曲川を隔て名勝姨捨山の眺望良く、家ごとに遠目鏡を置いて客に見せたと名所図会にある。

屋代駅前を通過すると左手に一里塚の碑、屋代小学校には明治の洋風建築旧校舎。
松本の開智学校、佐久の中込学校など信州にはこうした建築が多く残されている。

09:00 矢代宿
 街道は宿場の入口で枡形が作られいるケースが多い。矢代宿でも本町・横町・新町と
右折・左折で鈎の手に折れる。本町には旧旅籠藤屋が藤屋旅館として続いている。
本町の突き当たりに須々岐水神社、ここを右折で横町、更に数10mを左折で新町だ。

新町を400mほど進むと矢代追分、右に分岐する松代道は松代宿・川田宿など五宿を経て、
牟礼宿の手前で再び北国街道と合流する脇街道だ。
この追分には矢代宿の本陣と脇本陣があったそうだが現在はなんの遺構もない。

 

09:20 矢代の渡し
 更に500mほどでR18に合流する。高崎から直江津まで延びる北国街道を継ぐ国道だ。
R18をオーバーパスする上信越道と新幹線。北国街道最大の旅客は加賀前田家の参勤交代、
長野新幹線は2年後北陸新幹線となって東京と金沢を結ぶ。
首都圏と長野・北陸を結ぶ幹線は時代が変わってもここで千曲川を越える。
矢代の渡し跡を見ようと新幹線高架橋下を進むが、夏草に行く手を阻まれ叶わなかった。

 矢代の渡しは舟綱越しの渡しで、明治時代に舟橋から木橋に変わったそうだ。
R18の篠ノ井橋まで迂回して北岸に回る。新幹線鉄橋の西側が渡し跡だ。
母校の校歌に『草木も萎ゆる 真夏日に、渦巻き流るる 千曲川』とあったけれど
その情景を想起させる暑い日の千曲河畔だ。

近くの軻良根古(からねこ)神社に矢代の渡し跡の説明書きが立っている。

10:00 篠ノ井追分
 渡しから500mで篠ノ井追分。中山道洗馬宿から松本城下を経た北国西街道と合流する。
北国西街道は塩尻~篠ノ井間を結ぶJR篠ノ井線に沿っている。
写真は善光寺を背にして左手は上田方面への北国街道。右は松本方面への北国西街道。
間に碑が立っている。左右いずれも中山道へ連絡して道を終える。
要衝のこの地は茶屋が並んで賑わい、役所や学校が集まる旧更級郡の中心地だった。

 

10:10 見六の道標
 合流後北国街道は東に1kmほど進んで北に向きを変える。ここに見六の道標が立つ。
嘉永年間に作られたこの道標は、橋の付替工事中に川底から見つかったものだ。
“せんく王うし(善光寺)道”と掘られた上に丸囲みで右手人差し指が方向を示して洒落てる。

10:30 御幣川(おんべかわ)
 甲越戦争の上杉謙信と武田信玄が合戦した歴史舞台のこの辺りは曰くの地が多い。
薬師堂(左)は鬼女紅葉と平維茂由来の堂、幣川神社は川中島合戦の武将の金幣が由来だ。

篠ノ井市街地の東端を通る。昭和の匂いのする商店街に「おやき」の店をみつける。
信州のソウルフードだ。お袋は作らなかったが伯母が得意だった丸ナスをひとついただく。
さすがに手作りモノは駅頭で販売しているものよりはるかに旨い。愉しい寄道だ。

11:50 丹波島宿
 北上する北国街道は於佐加(おさか)神社が西の枡形、右に折れると丹波島宿となる。
大河犀川を控えて川止め時にはさぞかし賑やかであったと思われる800mの規模だ。
家々は表札の他に旅籠当時の屋号を掘った木札を掲げて雰囲気を醸し出している。

宿場を東に歩いてまず目に付くのが高札場(復元)。町内会の案内が昔風に標されている。
続いて脇本陣の柳島家、江戸中期の母屋と冠木門が残っている。

本陣の門と明治天皇小休所跡碑、この家からは犀川の初鮭が加賀前田家に献上された。
東の桝方で左に折れて街道は再び北へ、立派な蔵の屋根の上に鍾馗様が鎮座している。
丹波島宿では魔除けの守り神に鍾馗を屋根に飾る風習があってこの蔵を含め四軒に残る。

 

12:10 丹波島の渡し
 北アルプスの雪解け水を集めて流れる犀川は、合流する本流の千曲川より水量が多い。
江戸期は舟綱渡しだったそうだが、水量水速からして相当の難所であったと推測できる。
明治期の木橋から3代目の丹波島橋を渡ると江戸期に建った善光寺常夜燈がある。

いよいよ長野市街地に入り北国街道は北に真直ぐ善光寺を目指す。
丹波島橋から2km、源頼朝が善光寺参詣時に立ち寄った観音寺裏で行く手を駅に塞がれる。

 

1.7kmの表参道を行く。かるかや山西光寺、石堂丸と苅萱上人の像が建つ。
この辺りは高校時代まで過ごした街でもある。徒歩での帰省はもちろん初めてだ。
参道の中程にある権堂、江戸時代には水茶屋が並び精進落としの花街で発展したところだ。

権堂を過ぎると登り勾配がきつくなり左右には白壁の店が軒を連ねるようになる。
有名な七味唐辛子店や栗菓子の店が並ぶあたりが善光寺宿の中心だ。
ちょうどこの日は「びんずる祭り」で子ども神輿が次々と善光寺を目指していた。
夜は「びんずる踊り」の連と見物客でこの夏一番の人出になるはずだ。

 

13:30 善光寺宿
 江戸中期から藤井家が務める善光寺宿本陣、現在は大正時代建築の3階建て、
少し前までは旅館業を営んでいたが、現在はレストラン&バーとして営業している。
本陣の並び、文政十年(1827年)創業の「門前そば 藤木庵」で街道めし。
黒姫山麓の霧下を、もり汁・胡麻汁・長芋とろろ汁で味わう “ごくらく蕎麦” が美味い。

北国街道は本陣の先で左手に折れる。真直ぐ行くのは御影石を敷きつめた善光寺参道だ。
江戸期には伊勢神宮と並んだ一大観光地であった善光寺。多くの信者が北国街道を通って
ここに達したと思うと感慨深い。夏の日差しの中「戸倉宿」から矢代宿・丹波島宿を経て
「善光寺宿」まで 22.9kmと距離を稼いだ。約6時間の行程だった。


北国街道紀行4 上田宿~坂木宿~戸倉宿

2012-10-13 | 北国街道紀行

「上田宿」
 北国街道を歩く第4日目、さすがに10月半ば、信州の朝はやや肌寒さを感じる。
08:00上田城跡公園をスタートする。城の北側を西進する北国街道は、城下の外れで
松本街道と追分となる。別所温泉を経るので、道標は「北向観音道」と標されている。
その後直ぐに枡形に折れて外堀の役割を果たす矢出沢川を渡る。
明治時代の富豪丸山家の邸宅は、買い取った上田城の石垣を積み直した上に建っている。
道は更に枡形に折れるが、今度は「せん加うし道」と善光寺に導く道標が北国街道を示す。

 北国街道を西進してR18上田バイパスを潜る手前に一里塚公園がある。
ここの道標に「右北國往還、左さくばみち」とある。左は農道ですよとはウイットに富む。
更に長野新幹線の高架を潜って山裾に達すると塩尻。その名の通り塩流通のターミナルだ。

高田から上ってきた日本海の塩と、利根川を遡り倉賀野から下ってきた太平洋の塩が出会う地だ。
塩の商いで潤った集落は、石垣積みの立派な家が並んでいる。

 しなの鉄道西上田駅で妙高市北国街道研究会の一行と合流する。
今日は同会の第5回北国街道散策会「街道の難所を辿る」のツアーで、地元坂城町の
坂木宿ふれあいガイドの会の田原氏が同行し解説がなされる。

 西上田をでると早速その難所が眼前に現れる。
千曲川両岸の段丘が迫り狭窄部をつくる地形、北国街道が通る右岸を塞ぐ「岩鼻の嶮」だ。
岩鼻の崖下を千曲川が洗うため、川が大水になると街道は通行不能となった。
崖の中間には通称 “六寸街道” という幅20cmに満たない迂回道が設けられたそうだが
現在は廃道となっ
ている。

岩鼻の嶮を越えると「鼠宿」。ここは松代藩の私宿で本陣・口留番所・物産会所が置かれた。
丁度岩鼻が上田領と松代領の境界にあたり、口留番所における穀物・酒・漆などに対する
取締は関所なみに厳しかった。宿場の上田寄りには会地速雄(おうぢはやお)神社があり、
万葉集防人の歌の句碑と去来の句碑がある。大岩に囲まれた本殿は見応えがある。

「坂木宿」
  岩鼻を抜けた街道は千曲川の流れとともに北に向きを変え、3km程で「坂木宿」に入る。
北国街道は南西に開けた扇状地を、まるで城下町のように5回直角に曲がって行く。
それ故、南から入って南に抜ける、曲がるたび勾配の上り下りが逆転する構造になっている。

明治期の養蚕、昭和期の精密機械で比較的豊かな坂城町は、街道時代の旧い物は
殆ど立て替えられてしまったとガイドの会の蒲原顧問は残念がる。
昭和30年代までは街道の中央に用水が流れる情緒ある町並みだったそうだ。
それでも今はふるさと歴史館になっている旧本陣表門など幾つかの町家が残っている。

 

 宿場を出る最後の直角には嘉永6年(1853年)に建立された善光寺常夜燈が残っている。
坂木宿を出ると難所「横吹八丁」岩鼻同様に左右の段丘がせり出した狭窄地形になる。
この狭窄部を吹き抜ける横なぐりの風に悩まされたことから横吹。
八丁とは河岸を歩けない分、急峻な山腹を開削した道の延長、八町=870mから付いた。
年中強風が吹きつける街道随一の難所は、前田公といえども輿を降りて歩いたと云う。
加賀藩は参勤交代行列が岩鼻・横吹八丁の難所を越えるとその旨国許に飛脚を飛ばした。

横吹を巻いて抜けると視界が開け、数キロ先の対岸に戸倉上山田温泉が見渡せる。
戸倉は2キロ離れて上下二村に分村したため、月の二十一日までを下戸倉が、
以降を上戸倉が問屋業務を務める合宿となった。
上戸倉はR18から外れ旧道の静かな佇まいの中、本陣小出家が本陣門や松の老木を残す。

「戸倉宿」
 やがて北国街道はそのままR18に上書きされて、下戸倉は旧いものは残っていない

寛政元年建立の水上布奈山神社、境内にある稲荷社の灯籠は宿の飯盛女が奉納したもの。
一対の片方には飯盛女52名の名が、今一方には雇い主14名の名が刻まれている。

本陣跡を過ぎると戸倉駅入口に唯一とも言うべき茅葺の旧家がある。
築250余年のこの建物は清酒「雲山」の坂井名醸、通称下の酒屋と言われる。
現在は直営ショップ・蕎麦処・資料館として旅行者を迎えている。
第4日目は「上田宿」から「坂木宿」を経て「戸倉宿」まで18.3km、7時間の行程となった。


北国街道紀行3 海野宿~上田宿

2012-09-15 | 北国街道紀行

「海野宿」
 北国街道を歩く3日目、晴天の海野宿は相変わらず日差しは強いが風が心地よい。
観光案内に役割を替えた高札場を後に海野宿を後にする。

西海野の集落も中央に用水が流れる景観が続く。左手に千曲川が迫ってくると大屋の町。
戌の満水(1742年の土石流災害)で流されてしまった仁王堂と大屋神社の前を街道は行く。

 大屋を出て暫くは千曲川の流れを間際に沿う。対岸の崖も近づき名勝が展開される。
明治天皇が休息した岩下小休所跡、名勝太鼓淵を左手に進むと前方に長野新幹線の斜張橋。
菅平から流れ出た神川を渡るが、ここは関ヶ原前夜、真田昌幸が秀忠軍を破った合戦場だ。
橋のたもとにある馬頭観音像は加賀の飛脚組合が立てたもの、江戸と加賀の通信や物流が
盛んであったことを示すものだろう。

 神川を渡って信濃国分寺跡、今日はここから妙高市北国街道研究会に合流する。
聖武の号令で建立された寺は、平将門の乱に付随する小競り合いで消失されたとされる。
今は2つの寺の跡を二分するように、しなの鉄道が走っている。

城郭のような石垣に塀、重厚な門は、柳沢家が明治時代に移築した旧上田宿本陣邸だ。
この辺りには他にも養蚕で財をなした立派な屋敷が多い。

 暫く新幹線の高架に並行した後、しなの鉄道を跨ぐと上田市街地に入る。
踏入から常田にかけて街道沿いには古い建物が良く残っている。
常田には桝方の名残があり、信州大学繊維学部正門前を右折左折して進む。
正面に現れる木立は科野(しなの)大宮社は古代には信濃の総社であったそうで、
御神木である2本の欅の大木が聳えている。
さらにその先の毘沙門堂は私塾多聞庵の跡、佐久間象山が学んだところである。

「上田宿」
 城下町上田は何度も街道を直角に曲げて城を迂回させる。折れる度に街の様相は一転。
最初のT字路を右折すると「横町」、日輪寺・宗吽寺と立派な山門を有する寺が並び、
また瀟洒なレストランも多い。
続いて左折した「海野町」は歩道にアーケードが架かる典型的な中心商店街、
町人街として最も賑わったところで、本陣問屋跡の碑がアーケードの下に建っている。

 更に右折をした「原町」は電線地中化の済んだオフィス街、進路は北の山並みに向く。
真田氏発祥の地原之郷の人々が作った町だそうだ。
「真田太平記」の池波正太郎記念館では真田昌幸・信之・幸村親子の活躍を紹介している。
白壁蔵造りのちょっと気になるそば処も太平庵の屋号。はためく紅い六文銭が誇らしげだ。

中央3交差点を左折、更に50mほど先で右に折れると「柳町」。
土蔵造りと卯建の揚がる旧い家並みが続く、宿場町の雰囲気を色濃く残している街だ。

寛文5年創業の造り酒屋、上田縞上田紬の店、味噌醸造の菱屋など魅力的な店が並ぶ。
柳町の北端には「保命水」と呼ばれる水場があり街道の風景に溶け込んでいる。

保命水の角を左折すると「紺屋町」、こんどは静かな住宅地の中を西に向かうことになる。
このまま進めると上田城下を後にすることになるが、左折をして大手に向かう。

上田城は天正11年(1583年)に真田昌幸が築城した尼ケ淵という千曲川の河岸段丘を
利用した平城で、関ヶ原前夜、徳川秀忠の大軍を二度にわたって退けた名城だ。
「海野宿」から「上田宿」までは7.9km。行程第3日目のゴールを上田城跡公園とした。


北国街道紀行2 小諸宿~海野宿

2012-09-08 | 北国街道紀行

「小諸宿」
 空には秋の雲だが、強い日差しと澱んだ空気は夏のまま。北国街道を歩く2日目は
懐古園(小諸城址)からスタートする。街道は小諸宿外れの本陣問屋を過ぎると、
右左と2度直角に折れて中沢川に沿って千曲川の河岸段丘を降りていく。
そして最後の段丘は降りずに右に折れてこんどは緩やかに登り始める。
まっすぐ千曲川に向かって下りていくのは「牛に引かれて善光寺参り」布引観音への参道。
分かれ道には「ひたり布引山道」の道標がある。

 この辺りの坂は富士見坂。野辺山高原越しに100km先の富士山が頭をだすそうだが、
きっと現代ではよっぽど条件が揃わないと見えないのではなだろうか。

やがてR18は河岸段丘を深くえぐった深沢川を橋でひと跨ぎする。
旧道はこの谷を渡るために橋の袂から上流に向かって谷を下っていく。
やぶ蚊とクモの巣に手こずりながら谷底に下りると、薄い鉄板が架かっていて対岸に渡れる。
が、対岸は薮が深い上に逆光でクモの巣も見え辛い、諦めて引き返すことにする。
谷底で深沢川を渡る旧道は橋の下を潜って、今度はR18の西側に現れ北へと並行する。

黄金色の田圃の向こう千曲川対岸の御牧ヶ原台地、浸食崖に懸崖造りの布引観音を遠望。
この辺りは左右に立派な門構えや蔵のある家が多く、道祖神や馬頭観音も見られる。

滋野駅近くには日本橋から数えて43番目となる牧家一里塚跡の碑、さらに立場茶屋跡に
江戸時代の大横綱雷電の碑が立つ。

「田中宿」
  枡形の雰囲気を残す常田南交差点からが田中宿。
戌の満水といわれる1742年の大水害で壊滅的な打撃を受け、更に幕末に大火に見舞われた。
大火後の家並みは平成になって生まれ変わった。

拡幅された旧道や改新築された商店や住宅は宿場の雰囲気で造り替えられている。
中心商店街の衰退が問題になっている中、田中駅前の小さな商店街は元気があった。

新しく生まれ変わった田中宿だが、所々に江戸時代の遺構が移築などにより残っている。
駅前の勝軍地蔵、本陣門、雷電の母が奉納した薬師堂の仁王像、剣持道祖神などが
目を楽しませてくれる。

「海野宿」
 田中宿から海野宿までは僅か2km。
ふたつの宿は合宿(あいしゅく)で、其々の本陣が月の前後半交代ででその役割を担った。
田中宿からしなの鉄道の東側を寄り添って進み、斜め踏切を渡ると「海野宿」。
枡形になっている白鳥神社前、中世の豪族海野氏の氏神で日本武尊を祀っている。
境内には土俵があり相撲の興行が行われていたそうだ。

 さて街道めしをいただいた「福嶋屋」は築100年、明治期の堅牢な蚕室造りの建物。
手打ち二八そばと、地元産のくるみのタレをからめた特製おはぎのセットを愉しむ。
意外とビールのお通しに出された辛ナスの漬物が美味くて印象に残ったのだ。

海野宿90余軒のうち宿場時代の出桁造りは7軒、その他は明治時代の蚕室造りの家が多い。
それにしても宿場時代養蚕時代の民家が切れ目なく続き、中央に用水が流れる様子は
宿場時代を想像するに充分。本陣は問屋を兼ねていて長屋門が残っている。
「小諸宿」から「田中宿」を経て「海野宿」まで11.8km。本陣を2日目のゴールとした。


北国街道紀行1 追分宿分去れ~小諸宿

2012-08-25 | 北国街道紀行

「追分宿分去れ」
 息子との中山道旅で通過した「分去れ」から右へ、ひとり北国街道を往くことにした。
常夜灯には「さらしなは右」延宝の道標には「従是北国海道」と彫られている。
月見の名所更科をひいているのも、街を海にして日本海を想起させるのもロマンがある。

 「追分原」は天仁年間の噴火で火砕流に襲われた一帯で、その厚さは平均8mだそうだ。
それにしても浅間山は圧倒的な存在感がある。
御代田町に入ってR18を左に離れて旧道を進むと「濁川」を渡る。
伊能図には赤水川と記されているそうで、鉄分を含んだ水は確かに赤茶色に濁っている。

「柵口神社」
馬瀬口集落は追分宿と小諸宿の中間に位置し、高山家は明治天皇北陸巡幸の際の小休所であった。
柵口(ませぐち)神社辺りは平安時代の御料牧場が在ったと云う。
入口に設けられた馬塞(ませ)の柵が語源とのこと。

繰矢川は両岸が垂直に削られた侵食谷になっている。田切地形と言って地名にも表れることが多い。
R18は近代的な橋でひと跨ぎしてしまうが、旧道は大きくU字を描き谷を下りて川を渡る。
本来の北国街道は藪に紛れて辿れなかったが、写真の旧道の近くをやはりU字を描いて谷を渡ったに違いない。

谷を上ると一旦R18に合流するが、僅かな距離を重ねて左に分かれていく。
旧道に入ってすぐに道祖神を見かけた。
中山道沿いには実に多くの道祖神を見かけたが、北国街道に分岐してからはこれが初めて。

「佐久甲州街道分岐点」
平原の集落を下っていくと乙女。再びU字を描いて谷を下ると佐久甲州街道の分岐点。
写真では北国街道は上方から谷を下りてきて左へとカーブしていく。手前に分かれるのは佐久甲州街道。
二又には道標があり「右甲州道・左江戸海道」と善光寺方面からの案内が刻まれている。

「唐松一里塚」
1kmほど先、小諸の町並みに入る手前の「唐松一里塚」は一方が良く保存されている。
浅間山カルデラから流れ出る蛇堀川を渡ったところから小諸宿に入って行く。

「小諸宿」
小諸宿は荒町と本町の境、光岳寺の門前を鉤状に折れる。山門は旧小諸城の足柄門を一区したものだ。
本町は商家の町並みが良く保存されていて街道情緒に溢れている。

北国街道最初の街道めしは1808年(文化5年)創業の老舗で "辛味大根おろしそば" を食す。
旧い商家や町家が街道情緒を醸す町並に「そば蔵丁子庵」は黒い漆喰仕上げの土蔵造りだ。

鉤状に折れた街道は千曲川に向かって坂を下り、市町には脇本陣の粂屋・本陣問屋が残る。
ちなみに本陣問屋には若き日の若山牧水が滞在し和歌を詠んだという。

 ところで、小諸宿は本陣や脇本陣が宿場のはずれで、なお且つ最も低地に位置する。
もっとも小諸城自体が千曲川の河岸段丘を要害として築城された関係で、
扇状地の末端かつ河岸段丘の崖上、つまり城下町より低いところに所在しているのだ。
北国街道の旅、初日の「追分宿分去れ」から「小諸宿」までは13.7km。3時間の行程となった。