旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

中山道紀行25 福島宿~上松宿~倉本集落

2013-08-29 | 中山道紀行

「福島宿」 09:00
 福島関所から第25日目をスタート、谷間の木曽福島は残暑厳しい中にも川風で涼しい。
福島宿の中心、上町商店街には旧い遺構は少ない。本陣跡には木曽町支所が建っている。

本陣跡近くに木曽の銘酒七笑酒造、酒蔵は街道筋の華だ。
この先左手に折れて坂を登ると、街道情緒残る上ノ段地区となる。

袖卯建や千本格子の家、なまこ壁の蔵、用水や水場、上ノ段地区は宿場の面影を留める。

通り過ぎた宿場との違いは、レストランやビストロなどビジネスに利用されている点だ。

左右左左右と直角に折れ、最後に深い沢を渡る、なんとも込み入った宿場の出入口。

「御嶽遥拝所」 10:30
 福島宿を出ると再び深い谷、R19と中央本線だけが木曽川に連れ添って蛇行していく。
途中中山道は旧道となってR19を左手に離れ、山中に入ると御嶽遥拝所が現れる。

谷底を行く中山道だから、木曽路で御嶽山を拝するのは鳥居峠を除くとここだけだ。
なるほど支流の谷がちょうど御嶽山の頂の方向に切れ込んでいる訳だ。
西からの旅人はここを目的地として御嶽山参りとしたそうだ。

「木曽の桟」 11:00
 沓掛一里塚跡を過ぎ、木曽川の谷が狭隘になった場所に木曽の桟が残る。
断崖絶壁で命懸けの難所であったこの地に、尾張藩が石垣を築き桟橋をかけた木曽の桟。
対岸からこの名残の石垣を望む。「桟や命をからむ蔦かづら」と芭蕉の句碑が建つ。

「上松宿」 11:40
 2km程R19を進めてから右へと旧道を入ると上松市街地。上松宿は十王橋が北入口だ。

 

江戸方の枡方を左に折れると出桁造りの民家が何軒か並び、宿場町の面影を残している。
とは言え、本陣跡・脇本陣跡は見つからない。

立派な山門を構える王林院の並び辺りなのだが。京方の枡方近くに上松一里塚跡が残る。

「寝覚め床」 12:30~14:00
 寝覚集落には古びた越前屋旅館と民宿たせやが並ぶ。立場茶屋であったところだ。
この2軒の間を下っていくと名勝寝覚の床に出る。

 

越前屋旅館は名物寿命そばで有名だったそうだ。
「そば白く、薬味は青く入れ物は、赤いせいろに黄なる黒文字」十返舎一九が謳っている。
越前屋はR19沿いに新しい店を出している。 "寿命そば" と "五平餅" が美味しい。

寝覚の床は巨大な花崗岩が木曽川の激流に刻まれてできた自然の彫刻で、
木曽八景に数えられる景勝地だ。

「小野の滝」 14:30
 寝覚の床を過ぎて暫くすると中央本線の鉄橋下に、これまた木曽八景のひとつ小野の滝。
安藤広重の上松宿には、この滝が描かれている。

 

R19を木曽川に沿って南下する。木曽の谷は深い。
頭上で木立ちがカサカサすると思ったら猿の親子が木々を渡って遊んでいた。
小野の滝から程なく荻原集落に入る。集落への登り口に荻原一里塚跡がある。

  

「倉本集落」 15:30
 荻原、立町の集落を過ぎて南下する。対岸へ渡る吊り橋も現役の静かな谷間の風景だ。
上松宿から次の須原宿までは12.6kmと長い。便宜上JR駅のある倉本集落をゴールとする。 
「福島宿」から「上松宿」を経て倉本集落までは17.6kmの距離。
福島宿内と寝覚の床に長居をした関係で、約6時間30分の行程となった。


中山道紀行24 藪原宿~宮ノ腰宿~福島宿

2013-08-28 | 中山道紀行

「藪原宿」 11:00
 藪原宿京方の枡形近くに「藪原一里塚」跡がある。
木曽路を力強く疾走したD51-236号機の前から、第24日目の行程をスタートする。
この辺りは旧道を辿るのが難しい。駅から南へ延びる道を進み町はずれでR19に合流する。

 

この区間は基本的にR19を歩き、所々国道を離れ本来の中山道に近いと思われる道を辿る。

谷が極めて狭隘になる山吹山にはR19のトンネルが通じている。
対岸の忘れ去られたこの旧R19、落石防止のネットはネジ曲がりアスファルトを破って
雑草ばかりか松までもが生えている状態で、心細い思いをして通過してからびっくり。
出口には金網が施され「落石危険につき進入禁止」の国道工事事務所の看板が立つ。
反対側にも設置してもらいたいものだ。

「巴が淵」 12:30
 山吹山の危険地帯を抜けると巴が淵。
伝説によると、この淵に住む龍神が化身して、中原兼遠の娘としてこの世に生まれた。
後に「巴御前」として木曽義仲(源義仲)に付き従ったという。
「蒼蒼と巴が渕は岩をかみ、黒髪いとしほととぎす啼く」その余情を打ち破るように、
頭上の鉄橋を特急が疾走していく。

宮ノ腰は木曽義仲の故事にまつわる場所が多い。
宿場手前には義仲元服の地「旗挙八幡宮」があり、資料館前には義仲と巴御前の像がある。

「宮ノ腰宿」 12:50~14:00
 宮ノ腰宿は木曽川の流れの傍らにある静寂な町だ。しかしながら旧い遺構はない。
本陣、脇本陣共に木札があるのみだ。

     

 R19沿いの「水車屋」で、今日の街道めしは “おろしぶっかけそば”、残暑厳しいから。
たっぷりの辛味大根おろし、ネギ、削り節、濃いめの出汁をかけて、さっぱりと美味しい。

木曽川とR19に挟まれたのどかな田園風景を行く。
「宮ノ腰一里塚」を過ぎ路傍の庚申塔・道祖神など眺めながら進めると「原野間の宿」。

この間の宿にさしたる見所はないが、右手に雄大な木曽駒ケ岳を望めるポイントがある。

「中山道中間地点」 14:40
 さらに少し進むと中山道中間地点、江戸へも京へも六十七里二十八町(約266km)地点。
やっと半分もう半分。いづれにしても道半ばだ。

七笑橋を渡ると「手習天神」がある。
義仲を匿い養育した中原兼遠が彼の勉学のために北野天満宮を迎えたものだ。

「出尻一里塚」 15:30
 木曽川に沿って延びる中央本線が右にカーブする先に木曽福島の町並みが見えてくる。
塚を路肩にしてR19が通っているので分かり辛いが、出尻一里塚の一対が残っている。
一方は道祖神や地蔵がびっしりと並び、一方は栗の木が2本、熟さない実を落としている。

「福島関所」 16:30
 陽が傾きかけるころ、木曽川の断崖に望む堅牢な福島関に到着する。
福島の関は江戸幕府が五街道の各所に張りめぐらした50箇所にのぼる関所の中でも、
東海道の箱根・新居、中山道の碓氷と並び四大関所のひとつであった。
現在は関所門と番所が復元されている。

木曽川から関所までは30m余りの高さ。
当時中山道を往き来きする旅人は、どんな思いで関所を見上げたのだろうか。
福島宿の散策は翌日に回し、福島関所を今回のゴールとした。
「藪原宿」から「宮ノ腰宿」を経て「福島宿」まで14.5km。約5時間30分の行程となった。


中山道紀行23 贄川宿~奈良井宿~藪原宿

2013-08-27 | 中山道紀行

「贄川宿」 08:10
 指定重要文化財の加納屋深澤家住宅前から第23日目行程をスタートする。
ここから馬籠宿までが木曽十一宿、いわゆる木曽路だ。

中山道は宿場を出ると、奈良井川の流れに沿って蛇行していく。
2kmほど進むと「押込一里塚」の碑が現れ、ここでR19に合流する。

「漆器の町 平沢」 09:30
 押込一里塚から3.5km程、旧道を右にR19を離れていくと平沢の集落となる。
平沢は木曽漆器の町、宿場ではないものの白漆喰と千本格子コントラストが美しい町だ。

「奈良井宿」 10:10~11:20
 JR奈良井駅を見下ろす山中に二百地蔵がある。旅の途中で命を落とした無縁仏と伝わる。
僅かに残った杉並木を下ると奈良井駅前、ここからが奈良井宿となる。

「奈良井千軒」と謳われるほど繁盛したのは、険路の鳥居峠を控えていたからだそうだ。
京方に向かっう中山道の左右には旅籠風情を残す家々が今でも折り重なり連なっている。


全長1kmに及ぶ宿場の江戸方は飲食店、工芸店、民宿が立ち並び賑やかな一角だ。
私たちもこの一角の越後屋さんで早い昼食をいただいた。今日はなめこそばを楽しんだ。

本陣のあった宿場中程は一段と道幅が広くなっている。当時の五街道でも最も広かった。
多くの文人たちが泊まった徳利屋、上問屋資料館として公開する手塚家もこの一角にある。

奈良井宿は枡形ではなく鍵の手を設置していて、水場を設けた広場になっている。

鍵の手から先京方は、やや落ち着いた雰囲気の一角になっている。
道は徐々に勾配を作って奈良井宿の鎮守である鎮神社に達する。
この界隈は朝の連続テレビ小説「おひさま」のロケ地になったところでもある。


宿場の端に高札場がありその先が鎮神社の境内、振り返ると宿場が見渡せる。
鎮神社はもともと鳥居峠に建立されていたもので、戦火で消失した際に現在地に移された。
神社から先、中山道は鳥居峠へ向かう山道となる。

登り出しの急坂部には石が敷かれており歩行の助けとなっている。
所々に見かける古く小さな道祖神が、ここが街道であったことを教えてくれる。

鳥居峠への道は九十九折になっているので地形の割には登りや易い。
遊歩道として整備され、沢には木橋が架か。鳥居峠一里塚跡を過ぎると頂上までもう少しだ。

「鳥居峠」 12:10
 鳥居峠を登り切る。標高は1,210m、振り返ると小さく奈良井宿と奈良井川の谷が見える。
ちなみに奈良井川は木曽駒ケ岳に発する信濃川水系の川、流れは北上し日本海へと注ぐ。

「御嶽遥拝所」 12:20
 峠の反対側には御嶽遥拝所、残念ながら進入禁止となっていた。
御嶽山(3,067m)は山岳信仰の山、状況が良ければ鳥居の方角に雄大な姿を見せる。
中山道はここを境に下りになる。遊歩道の所々には熊除けの鈴が設置されている。

なるほど峠の反対側も熊除けの鈴が必要な鬱蒼とした山道だ。やがて藪原の集落が見える。
中央を流れるのは木曽川は伊勢湾で太平洋に注ぐ。鳥居峠は中央分水嶺でもあるのだ。

中山道が木曽谷に降りてくると飛騨街道追分に達する。
飛騨街道は野麦街道ともいい、女工哀史で有名な野麦峠を越えて高山に至る。
道はJR中央本線に寸断されているが、鉄路とクロスして藪原宿に入っていく。

「藪原宿」 13:10
 藪原宿に入っていくとまず本陣跡が目に付く。本陣はそば処おぎのやに姿を変えている。
宿場は元禄八年(1695年)の大火でほぼ全焼した。
その後の再建時に宿中2箇所の四ッ辻を設け、石垣を組み土塀を施した防火壁を作った。
今でも一部が残っていて、憩いの場になっている。

藪原はお六櫛の産地、現在でも手びき職人を抱えた店が数軒残っている。
みねばり材を使った櫛は御嶽信仰や善光寺詣りの土産として全国的に有名だったという。

街道の遺構は残っていないものの、旧い建物が散見される長閑な藪原宿に達する。
今回は京方の枡形に近い高札場跡碑の前をゴールとして第23日目の行程を終わる。
「贄川宿」から「奈良井宿」を経て「鳥居峠」を越え「藪原宿」までは12.6km。
約5時間の行程だった。


休日はローカル線で 越前大野城と花垣吟生と九頭竜湖

2013-08-24 | にいがた単身赴任始末記

 越美北線の起点は福井のひとつ先越前花堂で、ここで北陸本線から分岐している。
福井始発の一番列車は途中の越前大野止まりだ。
だから本物の "鉄っちゃん" は乗らないらしい。

帰省の妙齢の女性がひとり、一条谷朝倉氏遺跡を歩く歴史マニアの男性がふたり。
日本百名山のひとつ荒島岳に登る男性、そしてボクの5名を乗せて単行気動車が走り出す。

信長の武将金森長近が1580年に築城した越前大野城、今日も情緒豊かな町が息づいている。

この町は水が豊かだ。あちらこちらに清水が湧き生活を潤し、日本名水百選にも選ばれる。
夏休みの子どもたちが朝から歓声をあげて水場に遊ぶ様子が微笑ましい。

石畳を敷いた七間通りには朝市が立ち、古い町家をそのままに商いをしている。
町並みの主役は酒蔵が4軒、味噌・醤油蔵が3軒、古い煙突を立て杉玉を下げている。

城下町の東の防御壁としての寺町通りは、時の流れを感じながらゆったりと散策できる。
16ケ寺の御朱印を収集できるので楽しい散策になりそうだ。

町中には多くの無料観光駐車場があり、清潔なトイレも配している。
大型観光バスが駐まる駐車場も2箇所、それぞれ商工会議所と観光協会が張り付く。
人口僅か4万人の小さな市が交流人口を増やそうと頑張っている様子を拝見した。

駅に戻ると、終点の九頭竜湖まで行く単行気動車が入線している。
こんどは地元の方に加えて少なからぬ鉄ちゃんを乗せて座席はほぼ埋まっている。

仕込んだ南部酒造場の夢雫氷温囲い "花垣吟生" は、フルーティーでサラッとした口当。
酔い痴れるうちに列車は終点の九頭竜湖駅に到着する。

さて、写真を撮っている時に事件が起きる。列車が身震いひとつ動き出した。
しまった。酔いと居眠りで、完全に折り返しの発車時間を間違えていた。

次の列車は4時間後、荷物は列車の中。10分後にタクシーで列車を追いかける。
事情を聞いた運転手はベッテル並の追い越しをかける。それでも追いつかない。

結局追いついたのは終点福井の3つ手前の無人駅。ここまで49km。
タクシー代幾らかって?言いません。大人の遊びですから。


休日はローカル線で 若狭湾と舞鶴岩がき丼

2013-08-22 | にいがた単身赴任始末記

 敦賀から小浜線に乗車する。若狭湾のキレイな海岸線を走るのは小浜から県境あたりまで。
海岸線に出るまで日没は待ってくれる?結果はNG。真っ赤な夕陽はリアスの山かげに没した。

小浜線の終点東舞鶴で途中下車。城下町の西舞鶴に対して東舞鶴は旧海軍基地の町。
タクシーを飛ばして「割烹松きち」へ。夏限定のご当地グルメ "舞鶴岩がき丼" を食べたい。
岩がきを生で食べないなんて勿体無いと思いきや、玉子でとじてもプリプリで抜群に旨い。

余韻もそこそこに夜の東舞鶴駅に急ぎ戻る。20:35発。たった1時間の滞在だった。

ここから山陰本線の綾部まで連絡するのが舞鶴線。軍港舞鶴への連絡線として開業した。
列車は両手で数えられる程の乗客を乗せて30分で綾部駅に滑り込んだ。


休日はローカル線で 413系で夕暮れの能登半島を往く

2013-08-20 | にいがた単身赴任始末記

 かなり旧いけど鮮やかな真紅に塗られた旧国鉄の413系電車で能登半島を北上する。
七尾線の起点は津幡だが全ての列車は金沢が始発、この時間は高校生で満員の車内だ。

津幡駅前には火牛像がある。源義仲(木曽義仲)が平家軍を破った倶利伽羅峠の戦の故事、
『数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に放った』との逸話に因んでいる。

半島の西側を北上する。遠浅の千里浜海岸が続いているはずだが車窓からは見えない。
電車は羽咋から半島を横断して富山湾側へ抜けると七尾に終着する。
七尾線の終点・のと鉄道の起点は一つ先の和倉温泉だけど普通列車は七尾で乗り換え。
待っていた単行気動車はやはり部活帰りの高校生ですし詰め状態になっている。

そんな高校生が降り切ると列車は海岸線に出る。車窓から薄暮の入江がキレイだ。

残った3名の乗客を乗せた単行気動車が穴水駅に身震いしながら到着する。
旧国鉄七尾線・能登線から転換した「のと鉄道」は区間廃止を重ね、
現在の終点穴水駅前は輪島方面へのバスが待つだけで閑散としていた。


休日はローカル線で 雨晴海岸とハットリくんと氷見カレー

2013-08-17 | にいがた単身赴任始末記

 海水浴に向かう家族連れに紛れて、氷見線の気動車に30分揺られた。
終点2つ手前の雨晴からは海岸線を走る、白い浜と青い海が眩しい。
富山湾をはさんで3,000m級の立山連峰を眺める雨晴海岸は絶好のビューポイントだ。

行ってみて分ったのだが氷見は藤子不二雄A氏の出生地だそうだ。

 

町の一角には氏のキャラクターのモニュメントがある。
湊川に架かるカラクリ時計では、噴水とともに忍者ハットリくんらが飛び出してくる。

 

お昼にはご当地グルメの "氷見カレー" を食す。地産の煮干のだしを使うのがルールだ。
「よしだや本店」のひと皿は、夏やさいと白身魚のつみれがトッピング。
スパイシーでなくハヤシに近い。やはりご当地名物の "氷見うどん" もセットで愉しんだ。

氷見駅に戻るのに海岸線を通る。漁港の施設が途切れると美しい白砂のビーチになる。
今日は霞がかかって立山連峰は望めない。ちょっと忘れ物をした気分で復路の列車に乗る。


休日はローカル線で ますとぶりの小箱と清酒立山と越中の小京都

2013-08-15 | にいがた単身赴任始末記

 直江津からの始発列車を降りると、2番ホームには既に2両の気動車が入線している。
乗りつぶしの1番手は城端線、呑み鉄を決意したからには旨い酒と肴が必要だ。

キオスクで冷やしてあった清酒立山を求める。肴は「源」の押し寿司にした。
「ますのすし」が有名だけど、鱒と鰤のハーフ&ハーフ「ますとぶりの小箱」を求める。
"ぶり" はトッピングの千枚漬けの酸味が効いて "ます" と好対照。旨い組み合わせだ。

 

2番線ホームを滑り出した2両編成の気動車が大きく左手にカーブする。
車窓に見えてくる国宝・瑞龍寺は前田利長公の菩提寺として知られる曹洞宗の名刹だ。
続いて北陸新幹線新高岡駅の高架を潜ると、砺波平野の美しい散居村の風景が広がる。

気動車は約30kmを1時間ほどかけて終点の城端に滑り込む。
このまま庄川沿いを登れば五箇山、白川郷と合掌集落に向かうが鉄路はここまで。
終着駅の車止めはなんだか郷愁を感じる。
お盆の賑わいを終え静寂を取り戻した時期だけになおさらだろうか。

越中の小京都と呼ばれる城端は寺巡りができるしっとりとした町だった。
その中心は蓮如上人が開基した城端別院善徳寺だ。
5月には城端曳山祭りが行われる。その山車は近くの城端曳山会館に展示されている。
町中を流れる山田川には水車が廻る。もっとゆっくり散策したいが駅に戻らないと。
列車の折り返しは30分後だ。


休日はローカル線で JR全線呑み潰しの旅に出ます

2013-08-13 | にいがた単身赴任始末記

 JTBパブリッシングの「全線乗りつぶし地図帳」なる本をを手にした。
具体的な目標感があるものには弱い。単なる "乗り鉄" をしてもしょうがないと考える。
地方の旨い酒肴を求めて "呑み鉄" ってのはどうだろう。
欲を言えば着地型旅行商品や観光行政の様子を見てこよう。
まずは上越在任中に北陸方面を潰すのが肝要だ。

で、直江津駅から北陸本線に乗車する。1番手は国鉄時代の旧型車両で高岡へと向かう。
北陸本線の乗り潰しは、盲腸線支線を寄り道しながら手間のかかる旅だ。

高岡から南北に延びる城端線と氷見線を乗ってから津幡へ、やはり国鉄時代の旧型車両だ。

津幡から七尾線・のと鉄道を乗り継いで穴水まで行ってきた。金沢へと向かうのも旧型車両。

福井に向かう4番手ランナーが初めての新型車両、金沢発21:30。
金曜日の車内はサラリーマンやOLで溢れ、まるで新宿から西へ延びる私鉄線のような混雑。
それでも我慢出来ずに500ml缶を開ける。視線が気になる。

さすがに駅弁は無茶。金沢駅で仕込んだ「利家御膳」は福井のビジネスホテルで広げる。

越美北線で九頭竜湖まで往復した後、米原へと北陸本線の仕上げにはいる。
福井から敦賀へと向かう5番手ランナーは、クロスシートもある快適な新型車両だ。

敦賀から近江塩津までの6番手ランナーは、姫路まで湖西線経由で駆け抜ける新快速だ。
で、わずか2駅を運んでもらって近江塩津でお見送りとなる。

何もない近江塩津駅で暑い中待つこと30分余、7番手のアンカーが入線してきた。
播州赤穂まで駆ける長距離ランナーで、賤ヶ岳・姉川・国友・長浜と歴史舞台をつなぐ。
JR線の呑み潰しは、結構タフなゲームになりそうだ。止めるのなら今のうちだなぁ。


中山道紀行22 塩尻宿~洗馬宿~本山宿~贄川宿

2013-08-10 | 中山道紀行

「塩尻宿」 07:40
 R153になっている塩尻宿は車の通りが激しいが、脇道に入ると旧くて静かな住宅街。
豪農堀内家住宅は約200年前の建築で、本棟造りの美しい建物だ。

「平出一里塚」 08:20
 田園風景の中を行くと平出一里塚の一対が完全に残っている。塚の大きさは五間四方、
塚と塚の間もやはり五間だ。中山道は現在の県道よりも幅員があったということか。

一里塚の先、右手に広がる平出遺跡は縄文時代から平安時代にかけての大集落跡。
これまでに290軒を超える竪穴住居址が発掘され、縄文中期の茅葺7軒が復元されている。
平出遺跡の辺りから田圃に代わって葡萄畑が広がる。
多くはワイン用の品種だが、所々網を巡らせた巨峰の畑があって甘い匂いを発している。
やがて中山道はR19に合流し南西方向に向きを変える。

 細川幽斉肘懸の松の先、京都側からすると北国西街道(善光寺西街道)との分去れ。
現在は分岐する北国西街道側が本流となって、R19が名古屋から長野へ延びている。
「右中山道、左北国往還善光寺街道」の道標は現道の分岐点に移動して建っている。

「洗馬宿」 09:20
 洗馬は明治7年の大火で町の大半を焼失したそうで、旧街道の面影に乏しい。
ここに「荷物貫目改所」が置かれ、重量を超えた荷物から重賃金を徴収する役割を担った。
中山道筋は、洗馬宿と板橋宿・追分宿の三宿に置かれていた。
本陣近くには宿名の起こりの「太田の清水」が湧き、夏の往来に涼を与えていただろう。

「本山宿」 10:00 ~ 10:30
 洗馬からは奈良井川に沿って田園風景の中を進む。R19とは付いたり離れたりだ。

本山の集落付近ではR19が新しい道を拓いているので、本山宿は静かな佇まいの中、
袖卯建を持つ家が並ぶなど雰囲気が残っている。

 Img_6830

本山はそば切り発祥の地とされ、地の玄そばを提供する「本山そばの里」が宿内にある。
TV番組や著名人の色紙が飾られた店で、少し早いお昼にとろろそばを頂いた。

「是より南、木曽路」 11:20
 日出塩集落を過ぎると左右の山が覆い被さるように奈良井川の谷が狭くなる。
R19と重なった中山道は川の崖淵を通る箇所もあって足が竦む。やがて道路標識と傍らに
「是より南、木曽路」の碑、次の贄川宿から馬籠宿までを木曽十一宿という。

碑から間もなくの桜沢の茶屋には立派な造りの茶屋本陣が残っている。
木曽路に入ると信濃路中山道自然歩道の案内標識が充実し行先を示してくれる。
時折、中山道は夏草の多い茂った山道になり、道祖神など探しながら分け入って行く。
夏草がそれなりに踏まれているのは、少なからず同好の士がいるということだろうか。

「贄川宿」 12:20
 贄川宿の入り口には関所があり、往時のまま低い石置き屋根の番所が復元されている。
贄川関所は豊臣時代に木材の密移出監視のために設けられ、中山道制定後は福島関所の
副関としての役割を果たした。僅か30km弱の距離で二つの関所とは気の重い旅路だ。

宿場内4ヶ所の水汲み場から豊富な水が流れ出ている。炎天下、頭から被って気持ち良い。
水汲みに来た女性に教わったのは。贄川郵便局のポストは、「LETTER郵便」と刻まれ、
庇に桜模様がついている。これは戦後占領下に僅かに作られた試作品なのだそうだ。

文久の絵図に贄川宿は本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠12とあり規模は小さかったようだ。
また鳥居峠を控えた隣の奈良井に比べ、贄川には宿泊客を引き留めるものがなく、
夕方になると酷い客引きがされたらしい。客引きを嫌った旅人が陽の高いうちに贄川を
通り抜けようとしたことから「贄川宿の昼どおり」という言葉がうまれたそうだ。

贄川には本陣・脇本陣は残っていない。唯一、商家加納屋として遠隔地商売で財を成した
深澤家住宅が国指定重要文化財として見応えのある姿を残している。塩尻宿から洗馬宿、
本山宿を経て、木曽路最初の贄川宿までは18.3km、約4時間30分の行程となった。


北国街道紀行5 戸倉宿~矢代宿~丹波島宿~善光寺宿

2013-08-03 | 北国街道紀行

07:40 戸倉宿
 10ヶ月ぶりに北国街道は戸倉宿に戻ってきた。
戸倉宿の本陣は現存しない。跡地に明治天皇行幸の行在所跡碑が建っている。
むしろ “下の酒屋” 坂井名醸の主屋が存在感がある。こちらは江戸中期の建築だ。

宿場を出ると直ぐ姨捨道道標、“左おはすて・やハた道” と月の名勝姨捨山を案内している。
まもなく北国街道はR18を左に離れ、暫くしなの鉄道とR18の間をを北上していく。
国道が新たに開削されたゆえ道は趣を残して現在に至っている。

 

08:10 水除土堤
 千曲駅を通過する。新しい駅の清潔なトイレと清涼飲料水の自販機は歩く旅にも嬉しい。
ここに残る水除土堤は、千曲川の洪水に備えて寂蒔はじめ4ヶ村が元禄年間に築いた。

08:30 寂蒔茶屋本陣
 戸倉・矢代両宿の中間に位置する寂蒔には茶屋本陣が置かれた。
千曲川を隔て名勝姨捨山の眺望良く、家ごとに遠目鏡を置いて客に見せたと名所図会にある。

屋代駅前を通過すると左手に一里塚の碑、屋代小学校には明治の洋風建築旧校舎。
松本の開智学校、佐久の中込学校など信州にはこうした建築が多く残されている。

09:00 矢代宿
 街道は宿場の入口で枡形が作られいるケースが多い。矢代宿でも本町・横町・新町と
右折・左折で鈎の手に折れる。本町には旧旅籠藤屋が藤屋旅館として続いている。
本町の突き当たりに須々岐水神社、ここを右折で横町、更に数10mを左折で新町だ。

新町を400mほど進むと矢代追分、右に分岐する松代道は松代宿・川田宿など五宿を経て、
牟礼宿の手前で再び北国街道と合流する脇街道だ。
この追分には矢代宿の本陣と脇本陣があったそうだが現在はなんの遺構もない。

 

09:20 矢代の渡し
 更に500mほどでR18に合流する。高崎から直江津まで延びる北国街道を継ぐ国道だ。
R18をオーバーパスする上信越道と新幹線。北国街道最大の旅客は加賀前田家の参勤交代、
長野新幹線は2年後北陸新幹線となって東京と金沢を結ぶ。
首都圏と長野・北陸を結ぶ幹線は時代が変わってもここで千曲川を越える。
矢代の渡し跡を見ようと新幹線高架橋下を進むが、夏草に行く手を阻まれ叶わなかった。

 矢代の渡しは舟綱越しの渡しで、明治時代に舟橋から木橋に変わったそうだ。
R18の篠ノ井橋まで迂回して北岸に回る。新幹線鉄橋の西側が渡し跡だ。
母校の校歌に『草木も萎ゆる 真夏日に、渦巻き流るる 千曲川』とあったけれど
その情景を想起させる暑い日の千曲河畔だ。

近くの軻良根古(からねこ)神社に矢代の渡し跡の説明書きが立っている。

10:00 篠ノ井追分
 渡しから500mで篠ノ井追分。中山道洗馬宿から松本城下を経た北国西街道と合流する。
北国西街道は塩尻~篠ノ井間を結ぶJR篠ノ井線に沿っている。
写真は善光寺を背にして左手は上田方面への北国街道。右は松本方面への北国西街道。
間に碑が立っている。左右いずれも中山道へ連絡して道を終える。
要衝のこの地は茶屋が並んで賑わい、役所や学校が集まる旧更級郡の中心地だった。

 

10:10 見六の道標
 合流後北国街道は東に1kmほど進んで北に向きを変える。ここに見六の道標が立つ。
嘉永年間に作られたこの道標は、橋の付替工事中に川底から見つかったものだ。
“せんく王うし(善光寺)道”と掘られた上に丸囲みで右手人差し指が方向を示して洒落てる。

10:30 御幣川(おんべかわ)
 甲越戦争の上杉謙信と武田信玄が合戦した歴史舞台のこの辺りは曰くの地が多い。
薬師堂(左)は鬼女紅葉と平維茂由来の堂、幣川神社は川中島合戦の武将の金幣が由来だ。

篠ノ井市街地の東端を通る。昭和の匂いのする商店街に「おやき」の店をみつける。
信州のソウルフードだ。お袋は作らなかったが伯母が得意だった丸ナスをひとついただく。
さすがに手作りモノは駅頭で販売しているものよりはるかに旨い。愉しい寄道だ。

11:50 丹波島宿
 北上する北国街道は於佐加(おさか)神社が西の枡形、右に折れると丹波島宿となる。
大河犀川を控えて川止め時にはさぞかし賑やかであったと思われる800mの規模だ。
家々は表札の他に旅籠当時の屋号を掘った木札を掲げて雰囲気を醸し出している。

宿場を東に歩いてまず目に付くのが高札場(復元)。町内会の案内が昔風に標されている。
続いて脇本陣の柳島家、江戸中期の母屋と冠木門が残っている。

本陣の門と明治天皇小休所跡碑、この家からは犀川の初鮭が加賀前田家に献上された。
東の桝方で左に折れて街道は再び北へ、立派な蔵の屋根の上に鍾馗様が鎮座している。
丹波島宿では魔除けの守り神に鍾馗を屋根に飾る風習があってこの蔵を含め四軒に残る。

 

12:10 丹波島の渡し
 北アルプスの雪解け水を集めて流れる犀川は、合流する本流の千曲川より水量が多い。
江戸期は舟綱渡しだったそうだが、水量水速からして相当の難所であったと推測できる。
明治期の木橋から3代目の丹波島橋を渡ると江戸期に建った善光寺常夜燈がある。

いよいよ長野市街地に入り北国街道は北に真直ぐ善光寺を目指す。
丹波島橋から2km、源頼朝が善光寺参詣時に立ち寄った観音寺裏で行く手を駅に塞がれる。

 

1.7kmの表参道を行く。かるかや山西光寺、石堂丸と苅萱上人の像が建つ。
この辺りは高校時代まで過ごした街でもある。徒歩での帰省はもちろん初めてだ。
参道の中程にある権堂、江戸時代には水茶屋が並び精進落としの花街で発展したところだ。

権堂を過ぎると登り勾配がきつくなり左右には白壁の店が軒を連ねるようになる。
有名な七味唐辛子店や栗菓子の店が並ぶあたりが善光寺宿の中心だ。
ちょうどこの日は「びんずる祭り」で子ども神輿が次々と善光寺を目指していた。
夜は「びんずる踊り」の連と見物客でこの夏一番の人出になるはずだ。

 

13:30 善光寺宿
 江戸中期から藤井家が務める善光寺宿本陣、現在は大正時代建築の3階建て、
少し前までは旅館業を営んでいたが、現在はレストラン&バーとして営業している。
本陣の並び、文政十年(1827年)創業の「門前そば 藤木庵」で街道めし。
黒姫山麓の霧下を、もり汁・胡麻汁・長芋とろろ汁で味わう “ごくらく蕎麦” が美味い。

北国街道は本陣の先で左手に折れる。真直ぐ行くのは御影石を敷きつめた善光寺参道だ。
江戸期には伊勢神宮と並んだ一大観光地であった善光寺。多くの信者が北国街道を通って
ここに達したと思うと感慨深い。夏の日差しの中「戸倉宿」から矢代宿・丹波島宿を経て
「善光寺宿」まで 22.9kmと距離を稼いだ。約6時間の行程だった。