旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

中山道紀行37 草津宿~大津宿~三条大橋

2016-05-07 | 中山道紀行

 

「草津宿」 10:30
 2ヶ月ぶりに草津宿。中山道を歩く第37日目は東海道との合流地点からスタートする。
今回は新幹線でやってきたので少々遅い歩き出し。順調に進むと今日が最終日になる。
草津宿は旅籠70軒と規模が大きい宿場であったが、面影を残す遺構は少ない。
現存する本陣建築では最大級の田中七左衛門本陣が立派だ。

 

酒蔵は街道の華。宿内には「道灌」の太田酒造は江戸城を築城した太田道灌を祖先に持つ。
そして宿場を出て間もなく「天井川」の古川酒造が在る。
どちらの蔵も御神燈の提灯を下げているのは、この辺りの神社はどうやらお祭りのようだ。

1200余年の歴史を有する滋賀県隋一の古社、立木神社も今日が例大祭でお神輿が舞う。
旧東海道に面して鎮座し、古くより交通安全厄除けの神社として信仰を集めている。

 

「野路一里塚」 11:00
 南草津駅付近に野路一里塚跡がある。すでに塚はなく花に囲まれた公園になっている。
正確には東海道の一里塚のなるが、中山道としては130番目の一里塚になる。
「野路の玉川」は有名な歌所、萩の玉川とも言われ日本六玉川のひとつとして知られる。

「瀬田の唐橋」 12:30
 近江八景「瀬田の夕照(せきしょう)」に描かれている瀬田の唐橋を渡る。
多くの文学作品に登場するこの橋は日本三名橋の一つして有名だ。
流れは琵琶湖から流れ出す唯一の瀬田川、学生が操る漕艇が水面を滑っていく。

      

「和田神社」 13:30
 瀬田の唐橋を渡ると街道は川に沿って北へ向きを変える。
膳所の町並みは、そこかしこの神社がお祭りで、神輿を待つ人達で賑やかだ。
和田神社の境内には高さ24m幹周り4.4mの大銀杏が聳える。樹齢は650年だそうだ。
伊吹山中で捕らえられた石田光成が京へ護送される際、この大銀杏につながれたと云う。
この辺のエピソードを司馬遼太郎さんが「関ヶ原」で描いている。

 
 

「義仲寺」 14:10
 街道が琵琶湖岸に沿って西へ向きを変えると左手に義仲寺が見えてくる。
平氏を都から追いながらも、源範頼・義経との戦いに敗れた朝日将軍源義仲の墓所である。
義仲が元服し、また挙兵した宮ノ腰宿を歩いたのが懐かしい。
寺には義仲を偲んだ芭蕉がその遺言により墓を建て眠っている。

「大津宿」 14:40
 義仲寺を過ぎると間もなく大津宿。ちょうど京阪電車の石場駅辺りが江戸方の入口だ。
大津宿は琵琶湖水運の要衝として、旅籠71軒と大いに栄えたそうだ。
宿内に旧い遺構はないが、緩い蛇行をしてきた道がここだけ長い直線になっている。

宿場は京津線の電車通りにぶつかって、琵琶湖を背にして直角に南向きに折れる。
この辺りが大塚本陣が在ったところ、振り返ると広重の絵の情景が見えたはずだ。

 大津から山科へ逢坂を越える。GW中でもあり京都方面への車線が渋滞している。
平安時代には逢坂の関が置かれ、都を守る重要な三関のひとつとして機能した。
蝉丸法師や清少納言など多くの歌人がこの関を歌った歌枕の地としても大変有名だ。
「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」の和歌が著名だ。

「山科追分」 15:30
 逢坂を越えると伏見街道(奈良街道)が分岐する山科追分、近江と山科の国境でもある。

国道1号線では名神高速道路の京都東IC手前で「京都府」に入る。
1号線は五条通へと流れ、旧道は三条通となる。ゴールまでもう少しだ。

 

旧道を進むこと1.5km、五条別れ道標が在った。「三条通り」の標識に気持ちが高鳴る。

山科から蹴上げへと向かう上り坂に荷車に米俵を積んだモニュメントがある。
三条通りを走った路面電車(京阪京津線)の地下鉄化を記念したものだそうだ。
街道時代は牛に引かせた荷車が物資を都へと運んでいた。

「三条大橋」 17:30
 粟田口から入京、右手に平安神宮の大鳥居を眺めて白川を渡る。
整備された三条京阪ターミナルに御所を望拝する高山彦九郎が見えると三条大橋だ。
「草津宿」で東海道と合流し、瀬田の唐橋を渡って「大津宿」、逢坂の関を越えて、
粟田口から京の都に入り三条大橋まで26.2km、所要7時間の行程になった。

 日本橋を発って延べ37日、537km、今日三条大橋で男旅を終えた。
その大半が単身赴任期と重なって結局5年半を費やすことになった。
気付けば横を歩く息子は視線の高さが同じになった。ストライドは幾らか彼の方が長い。
まもなく身長も抜かれることだろう。
もうこんな旅に付いてくることはないだろうと、夕陽の三条大橋を眺めながら思う。


中山道紀行36 武佐宿~守山宿~草津宿

2016-02-27 | 中山道紀行

「武佐宿」 06:40
 5ヶ月ぶりに中山道に戻ってきた。ほぼ日の出時刻に第36日目の行程を武佐宿本陣跡からスタートする。天気予報では日中気温が上がると報じていたが、この時間は0℃と寒さが厳しい。畑にはうっすらと霜が降りている。数km湖寄りの近江八幡が商人の町として賑わったのに比べて武佐宿はひっそりとしている。

 

「いせ三な口ひの八日市道」の道標と愛宕山の常夜灯が宿場の中程に在る。水口とは東海道の宿場、八日市、水口と現在の近江鉄道に沿って東海道に短絡し、伊勢へと向かう道と云うことだろうか。

 

ひっそりと在る武佐宿だからこそ、紅がら格子や、土蔵が残る旧家が残っている。

住連坊首洗池は後鳥羽上皇に首をはねられた法然の弟子、住連坊の首を洗ったと伝わる池だ。

 

「日野川の舟渡し」 07:40
 旧道が日野川に行く手を塞がれる。案内板には、平常は舟で渡り、水量が減ると舟二艘に板を渡して舟橋を渡ったとある。広重は武佐宿の情景にこの渡しを描いている。明治8年、ここに架かった橋は今は無く、上流に架かった国道8号線の横関橋まで往復1km程の迂回を強いられる。

「鏡神社」 08:20
 武佐宿と次の守山宿は13.8kmも離れている。そこで設けられた鏡立場、実際には本陣や脇本陣も整え、間の宿の機能を果たしていたようだ。立場の中心地には義経ゆかりの鏡神社、元服之池がある。神社の向かい側には現代の茶屋、道の駅竜王かがみの里が在って休憩ができる。

中山道は上書きした国道8号線を往く。左手奥に近江富士・三上山が見える。広重は守山宿の情景に三上山を描いている。

米どころ滋賀県には50の蔵元があるそうだ。野州の市街地には『暁』の暁酒造が在る。酒蔵は街道筋の華なのだ。

 

 東海道新幹線の高架を潜ると、鳥居本で別れた彦根道の追分になる。写真正面は中山道、左から合流するのが彦根道だ。彦根道は中山道より琵琶湖寄りを並行するバイパスのような街道なのだが、最盛期30万石であった彦根城下や近江商人の町として栄えた近江八幡を通り、中山道より余程賑やかだったようだ。

追分の先には『玉の春』の宇野勝酒造。この蔵元の名、数々の珍プレーを披露したホームラン王、ドラゴンズのあの男を思い出させる。

 

「守山宿」 10:45
 今度は東海道本線の高架を潜り、野州川の橋を渡ると守山宿に入って行く。本陣跡前には「右中山道美濃路、左錦織寺四十五町このまはみち」の道標が立つ。京から江戸に下る旅人には「京発ち守山泊まり」が一般的な行程で、なかなかの賑わいだったそうだ。

桓武天皇が「わが山を守り給う寺」の意味で名付けたという東門院守山寺。小ぶりながらも立派な左右の仁王像は、坂上田村麻呂が戦勝祈願をしたことから、門出仁王と呼ばれているそうだ。

 

滋賀県はイチゴも特産の様だ。通り過ぎてきた街道筋の老舗菓子屋は、どこもイチゴ大福を扱っていた。門前の菓子舗「鶴屋吉正」で一つ試してみる。大粒イチゴの甘酸っぱい果汁が爽やかだ。

「今宿一里塚」 11:05
 守山宿を抜けると間もなく左手に一里塚が見えてくる。東側の片塚が残るのみだが、滋賀県で唯一現存の一里塚だそうだ。綣(へそ)という変わった名の町に大宝神社が在る。境内には芭蕉句碑があって「へそむらのまだ麦青し春のくれ はせを」と彫られている。

 

「草津宿」 12:05
 左手から近づいて来た東海道本線を潜ると古い町並みが展開する。草津宿だ。駅へ向かう大路を渡ると街道はアーケードの商店街に変わってしまう。

 

天井川になっている草津川のトンネルを抜けると、左手に「右東海道いせみち、左中仙道美のぢ」の道標、右手に高札場が現れる。日本橋で北へ南へと別れた中山道と東海道が再会する草津追分だ。三叉路中央部のマンホールの蓋も道標になっている。

 
 

本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠70軒余と多くの旅人で賑わった草津宿の規模は、建坪467坪、室数30余の田中七左衛門本陣がよく表している。

延べ36日を歩いてきた中山道もあと1日の距離、三条大橋まで26.1kmを残すのみとなった。底冷えのする霜降りる朝、武佐宿をスタートした第36日目は、守山宿を経て東海道と出会う草津宿まで19.7km、5時間20分の行程となった。ゴールの草津追分は一転春の陽気だった。


中山道紀行35 鳥居本宿~高宮宿~愛知川宿~武佐宿

2015-09-19 | 中山道紀行

 

「鳥居本駅」 07:00
 4ヶ月ぶりに戻ってきた中山道、第35日目は近江鉄道鳥居本駅をスタートする。
駅から100mほど離れた本陣跡には既に遺構はなく、立札がその位置を示すのみだ。

 

鳥居本宿では和紙に渋柿を塗った合羽の製造が盛んであった。
いまでも古い町家の何軒かに合羽所を示す看板が上がっている、「松屋」もその一軒だ。

 

宿場の京方の出口に「左中山道、右彦根道」の道標がある。
右に3kmほど行くと彦根城下、言わずと知れた徳川四天王の一人井伊直政が築城した城。
鳥居本と彦根を隔てるのは佐和山、石田三成の居城のあったところ。
鳥居本側の旧い家々は石田三成と佐和山城を地域の宝と幟を立てている。

 

「小野集落」 07:40
 曼珠沙華咲く田圃地帯を行く。この先草津宿までは東海道新幹線と国道8号線と並行。
考えると中山道と東海道のコラボは不思議だ。ほぼ5分ごと “白い矢” が追い抜いていく。
軽トラック同士が譲り合う狭い道、小野集落は小野小町の出生地だとされ小野塚が在る。

 

「岩清水神社」 08:15
 岩清水神社には能楽の扇を埋めた扇塚が在る。石段したには小さな地蔵群が佇んでいた。

 

近江鉄道の踏切辺りが高宮宿の入口。
高宮宿は多賀大社の門前町として、また「高宮上布」の問屋町として賑わったそうだ。

 

今でも残る提灯屋はここが門前町であることを教えてくれる。

少々寄り道をして、伊邪那岐命(いざなぎ)と伊邪那美命(いざなみ)を祀る多賀大社へ。
多賀大社へは近江鉄道多賀線で高宮駅から2駅6分の旅だ。

 

「高宮宿」 08:40~10:20
 高宮宿本陣跡に表門が残る。今まで見てきた門と比べ少々貧弱な気がしないでもない。

 

宿場は犬神川を渡る高宮橋で終わる。高宮橋は「むちんばし」と呼ばれていたそうだ。
川渡しや仮橋が有料だった時代に渡り賃を取らなかったからだ。このことは彦根藩の
政策とこの地の富豪の協力によるものだ。
左手に鈴鹿の山並みを見ながら田圃地帯を進む。この辺りは所々に松並木が現れる。

 

「豊郷小学校旧校舎」 11:10
 豊郷小学校は、建築家ウィリアム・メレル・ウォーリズが手がけた建物のひとつで、
アニメ「けいおん!」の校舎モデルとして有名。昭和12年に竣工した2代目校舎は、
当時としては珍しい壮麗な鉄筋コンクリート建築で「白亜の殿堂」「東洋一の小学校」
などと称されたそうだ。
滋賀県に入ってからはまともな一里塚を見ない。豊郷にも中山道一里塚趾碑のみが在る。

 

愛知川宿の入口では、アーチと地蔵尊が迎えてくれる。

「愛知川宿」 12:10~13:00
 愛知川宿は寂しくなった商店街に幾つかの旧い商家が残っている。

 

本陣跡には金融会社の旧社屋、創業200年を超える料亭竹平楼の門構が目を引く。

 

少々の寄り道を。中山道を500mほど外れると「旭日」の蔵元藤居本家が在る。
新嘗祭の御神酒を宮中に献上する蔵元は、朝の連ドラの舞台にもなっている。
「渡船」など主張のあるお酒を試飲させていただいて「旭日ひやおろし」を購入。
酒蔵は街道筋の華と言える存在だ。

 

愛知川宿の出口では不飲橋 (のまずばし)を渡る。なんとも曰くありげな名称なのだ。
一説にこの川の水源地で、都に送られる平将門の首を洗ったことに由るらしい。

     

暫く国道8号線を行く。御幸橋で愛知川を渡ると近江商人の故郷・五個荘町に入る。
中山道は国道と別れ旧道を行く。残念ながら近江商人の街並みは国道を挟んで反対側だ。

 

それでも中山道沿いにも所々旧い町並みが残る。
大正時代のものではあるが、登録有形文化財・旧五個荘郵便局もその一つだ。

 

「左いせ道。右京道」の常夜灯、そして江戸時代からの呉服商の町家が保存されている。

     

五個荘町(現東近江市)と安土町(現近江八幡市)の市境に差しかかる。
国道8号線との合流点には天秤棒を担いだ近江商人のモニュメントが立っている。

 

「奥石神社」 14:30
 新幹線と鋭角に交差し再び国道から左手に分かれると豪壮な奥石(おいそ)神社が在る。
安産延寿、狩猟、農耕の神様で本殿の造営は織田信長の寄進によるものだそうだ。
奥石神社を含むこの辺り一帯は「老蘇(おいそ)の森」と言って、万葉の昔から多くの
歌人や旅人によって歌に詠まれ「歌枕」としても名高い森だ。
本居宣長は “夜半ならば 老蘇の森の郭公 今もなかまし 忍び音のころ” と詠んでいる。

 

老蘇の森を抜けて牟佐神社辺りが武佐宿の大門跡、左右に旧い建物が連なり出す。
まずは右手に役人宅平野家、近隣の家々には“武佐宿”を染め抜いた暖簾が架かっている。

 

「武佐宿」 15:10
 武佐は近江商人の町として賑わった近江八幡市街に比べてひっそりしている。
脇本陣奥村家跡は町会館となり、本陣下川家は現在では門構えを残すのみだ。
照りつける陽射しは夏そのもの、田圃を吹き抜ける風は秋の匂いという日和の中、
第35日目は、鳥居本宿から多賀大社の門前町高宮宿、蔵元藤居本家へ寄り道した
愛知川宿を経て武佐宿まで23.5km、5時間40分の行程。三条大橋まではあと45.8kmだ。


中山道紀行34 今須宿~柏原宿~醒ヶ井宿~番場宿~鳥居本宿

2015-05-09 | 中山道紀行

 

「寝物語の里」 08:15
 “正月も 美濃と近江や 閏月” の句碑が建つ寝物語の里。
おそらくはお決まりの、県境の溝を跨ぐ写真を撮ってから第34日目の行程をスタートする。
実際には長久寺集落を過ぎた辺りが、中山道と隣を走る東海道本線のピークとなる。
ここから先、水は琵琶湖に流れ込むはずだ。

中山道が柏原に向かって下りはじめると楓並木が現れる。
幕末期まで松並木であったが楓に植え替えたそうだ。晩秋には真っ赤な並木が楽しめる。

 

「柏原宿」 08:45
 柏原宿入ると左右に紅がら塗の家々が目に入り、京都が近いことを実感させる。
道路中央には白線破線の代わりにコンクリート塗の帯、消雪パイプが埋め込まれている。

伊吹山は “もぐさ” の産地、麓の柏原宿ではこれを商う店が多かったそうだ。
歌川広重は柏原宿の風景に「伊吹堂亀屋左京商店」を題材としている。

浮世絵には福助人形が描かれ、耳朶が異様に大きい福助という番頭が実在したという。

 

現存する伊吹堂亀屋左京商店周辺の風景は街道情緒に溢れている。
道中いくつかのグループとすれ違い、また抜きつ抜かれつ中山道を往く。

 

宿場を出ると左手に復元された「柏原一里塚」が一基。南北から山が迫る狭い平地の
水田は田植えを待つばかり。中山道は北側の山裾を畝って湖東へと緩やかに下っていく。

「醒ヶ井宿」 09:45~10:45
 賀茂神社に上ると醒ヶ井宿を一望できる。ちょうど春のお祭りに居合わせる。
法被姿の若者が総がかりで神社の石段を、ゆっくりゆっくり神輿を降ろしていた。

醒ヶ井宿は名水の町だ。
西行水、十王水、居醒め清水など湧水を集めて清冽な地蔵川が街道沿いを流れていく。
伊吹山の大蛇退治で遭難した日本武尊が、居醒め清水で気力回復したという伝説が残る。

 

地蔵川沿いの本陣跡は料亭に、となりの問屋場は資料館となり一般公開している。

資料館向かい側の丁子屋製菓で "さめがい名水まんじゅう" をいただいた。
練り餡を葛と寒天で包んだプルプル感は、これからの季節、冷やして楽しみたい一品だ。

 

中山道は東海道本線と米原には向かわず南に転じ、暫く名神高速道路に沿っていく。
途中、古い民家が軒先を “いっぷく場” と称して提供していた。うれしい心遣いだ。
鳥居本方面からやってきたご夫婦が涼をとっておられた。
やがて現れる「久禮一里塚跡」は名神高速と北陸道が合流する米原JCT直下に在る。

 

「番場宿」 11:45
 番場宿にはさしたる遺構はない。戯曲「瞼の母」の主人公番場忠太郎で有名らしいが、
私の世代では馴染みがない。ちなみに映画では若山富三郎さんが演じている。

 

名神高速に沿って山道を上る米原トンネル付近、高速を “鉄馬” の一隊が走り抜ける。
小さな山を越えると中山道は名神高速を右手西側に折れて離れる。
摺針峠へと向かう山道には藤が自生していて、淡い紫が目を楽しませてくれる。

登りつめた摺針峠のピークには神明宮が鎮座し、明治天皇行幸時の休憩所が在る。
眼下には琵琶湖の展望が広がる。歌川広重は鳥居本宿をここからの景色で描いている。
干拓されていない当時の景色は素晴らしかったことだろう。

摺針峠を琵琶湖方面に下ると国道8号線に合流する。暫く行くと「おいでやす彦根市」と
刻まれた碑があり近江商人の像が建っている。ここから左手旧道を進むと鳥居本宿だ。

 

「鳥居本宿」 13:00
 街道情緒が濃厚に残る鳥居本宿の中で、圧巻なのは赤玉神教丸本舗の有川家の建物、
その主屋は宝暦9年(1759年)の建築で重要文化財に指定されている。

宿場の中心は近江鉄道鳥居本駅付近となるが、旧本陣寺村家は現存しない。
向かいに “合羽所” の古い看板を下げた「木綿屋」がある。和紙に渋柿を塗った合羽は、
最盛期は15軒の合羽所で製造され、雨の多い木曽路に向かう旅人が買い求めたそうだ。
雨具の心配ない五月晴れを歩いた第34日目は、美濃近江国境から、福助の柏原宿、
名水の醒ヶ井宿、忠太郎の番場宿を経て鳥居本宿まで18.7km。所要4時間45分の行程。
三条大橋まではあと74.3kmを残している。

 


中山道紀行33 赤坂宿~垂井宿~関ヶ原宿~今須宿

2015-05-06 | 中山道紀行

「赤坂宿」 08:30
 初夏の陽気になりそうな朝、赤坂宿本陣跡をスタートする。
赤坂には将軍専用の休泊所お茶屋屋敷が唯一残り、ボタン園として一般公開されている。

  

赤坂宿では和宮降嫁の際、幕府の命令により宿内の見苦しい古屋や空地を取り繕うため
突貫工事で60軒余の家が急造されたそうだ。これを姫普請(嫁入普請)という。

 

「善光寺」 08:50
 赤坂宿をでると間もなく昼飯(ひるい)町なる地区に入る。難波の海で拾われた
善光寺如来を信州に収めるために運ぶ一行が、つつじの咲き乱れる美しい地で
昼飯を取ったことに由来する地名だそうだ。
実際この地に善光寺があり、門前の碑に「當寺本尊、信濃信州善光寺分身如来」とある。 

 

「蒼野ケ原一里塚」 09:35
 集落を抜け田圃が広がると蒼野ケ原一里塚。すでに塚は無く碑と常夜灯が建っている。
東山道の時代にはここに宿駅があって、遊女の宿場として有名だったそうだ。

「垂井追分」 10:05
 垂井追分は中山道と東海道を結ぶ美濃路との分岐点。
自然石の道標には「是れより 右東海道大垣みち 左木曽海道たにぐみみち」とある。
宝永6年(1709年)に立てられたもので中山道中でもかなり旧いものだ。

 

「垂井宿」 10:15
 伊吹山中に発し関ヶ原を流れてくる相川を渡ると垂井宿の東の見付(番所)跡、
大きな観光マップが建っている。当時の相川は人足渡しだったそうだ。

  

旅籠亀丸屋は安永6年(1777年)に建てられた。今なお当時の姿で旅館として営業している。
この辺の辻を入ると往時の面影を偲ぶ町並みを見ることができる。

 

垂井は美濃一宮として信仰を集めた南宮大社の門前町でもあった。
参道との辻には懐かしい信号機が点滅している。

 

小林家住宅は切妻造瓦葺二階建て平入りの建物で袖卯建が設けられている。
江戸期には油屋を営んでいたそうだ。

 

西の見付で垂井宿を振り返る。旧旅籠や商家が残る宿場情緒の道が微妙に左右して続く。
すでに関ヶ原に向けて緩やかな上り勾配になっている。

  

垂井宿を出ると濃尾平野に別れを告げ、徐々に両側に山々が迫る。500m程で踏切を渡る。
中山道が東海道本線を渡る?明治期の鉄道建設の経緯を知らないと素朴な疑問となる。

「垂井一里塚」 10:50
 9m四方の塚が南側一基、ほぼ完全な姿で残っている。
国の史跡に指定された塚は、ここ垂井と東京都板橋区の志村一里塚の二か所だけだ。
関ヶ原の戦いでは浅野幸長が陣張をした場所で、南宮山に拠る毛利秀元に備えたという。

東海道本線と東海道新幹線に挟まれ関ヶ原へと登るこの辺りには松並木が残っている。
となりを走る在来線の電車は苦しげなモーター音を唸らせて行く。

 

松並木を抜けると左手の小高い丘が桃配山。関ヶ原開戦時の徳川家康の陣地である。

 

「関ヶ原宿」 12:00~13:20
 関ヶ原宿は交通の要衝。中山道(現R21)と北国脇往還(現R365長浜方面) 、伊勢海道
(現R365四日市方面)が交差する。さらに西に今須峠を控えて多くの旅人で賑わったという。

 

とはいえ、関ヶ原に往時の反映ぶりをしのぶ史跡はまったく無い。
この辺りは先陣を競ったひとり福島正則が陣取った場所。宿場の外れに西の首塚が残る。

「不破ノ関」 13:40
 関ヶ原宿を出て程なく藤古川を渡る。関ヶ原の戦では大谷吉継が陣を張ったところだ。
ここは古代東山道の不破ノ関が置かれたところで関ヶ原の名の起こりでもある。
672年壬申の乱で大友皇子率いる西軍(近江朝廷軍)を大海人皇子(天武天皇)率いる
東軍を撃破している。歴史は二度とも東軍を勝たせている。

 

更に1km程先に「常盤御前の墓」がある。
源義朝の側室として牛若丸をもうけた絶世の美女がこの地で亡くなったという説がある。
哀れに思った土地の人がこの塚を築いたという。
山桜の花びらが散る今須峠を越える。わずか標高160mの峠だが急勾配の坂が続き、
特に冬場は積雪があり難儀したそうだ。峠を越えると「今須一里塚」がある。

  

「今須宿」 14:20
 一里塚を過ぎると美濃路最後の今須宿,、本陣・脇本陣は小学校の庭の位置に在った。
美濃16宿の中で二軒の脇本陣を持ったのは今須宿だけだ。

 

今須宿を抜けて暫くすると「車返し坂地蔵尊」が見頃を終えた八重桜の花を残している。
南北朝の時代に荒れ果てた不破ノ関屋を歌に詠もうと都をでた貴族が、その来訪を知った
家人によって見苦しい関屋が修理されてしまったことを聞き、大いに落胆して牛車を
引き返してしまったことから「車返し坂」と呼ばれている。 

 

「寝物語の里」 15:00
 中山道が国道21号線と東海道本線を相次いで越えると県境(美濃近江国境)になる。
その昔国境を挟んで宿があった。都から奥州へ義経を追う静御前が近江側に宿をとった。
すると偶然にも隣の美濃側の宿に義経の家来が泊まっていることに気付き「義経のもとに
連れて行ってくれ」と懇願したと謂われる。
この国境越しのやり取りをを土地の人々が「寝物語の里」と名を付け語り継いでいる。
第33日目は、赤坂宿を発ち、垂水宿から濃尾平野を後にして関ヶ原宿、美濃近江国境の
今須宿まで14.5km、 6時間30分の行程となった。三条大橋までは残り92kmだ。


中山道紀行32 加納宿~河渡宿~美江寺宿~赤坂宿

2015-01-10 | 中山道紀行

「加納城址」 07:00
 夜通し高速を飛ばして加納城址にやってきた。前回まで中央道経由を指したカーナビは
今回は東名高速を奨める。山岳区間を終えた中山道の旅もいよいよ終盤戦ということだ。
関ケ原の戦で落城した岐阜城を廃し、天下普請で築かれた加納城は石垣のみが残る。
中山道は加納城の北側を東西に貫いている。

「加納宿」 07:50
 今回のスタートは加納栄町交差点、北側に岐阜駅が見通せる。
岐阜観光コンベンション協会のホームページでは「加納宿は美濃にあった16宿のうち
最大の宿場町、城下町にある唯一の宿場」と紹介している。

岐阜中心部に旧い建物は少ないが通りの微妙な蛇行に旧街道の雰囲気を感じる。
長良川が近づいてくると古い民家が見られるようになり河渡橋に達する。

「河渡の渡し」 08:50
 長良川を県道の河渡橋が渡っている。初代の河渡橋が明治14年に架けられるまで、
中山道はこのやや下流を「河渡の渡し」で越えていた。
堤防に立つと真っ白に化粧した伊吹山が見える。橋を渡る今も、舟で渡った時代も、
伊吹山を越えて吹いてくるこの寒風だけは変わらないことだろう。

少々寄り道をして「小紅の渡し」 09:00~10:00
 河渡橋の2kmほど上流で「小紅の渡し」が現在でも交通手段として利用できる。
河渡の渡しが中山道の表街道として、小紅の渡しが裏街道として栄えたそうだ。
船頭小屋は河渡側にしかなく、今回のように岐阜側から渡るには、大きく手を振ったり
大声で船頭さんを呼ぶことになる。市の土木管理課が管理し、月曜日運休、無料だ。

河渡の渡し対岸、堤上に小さな祠、この辺りが渡船場であったのだろう。
堤防を下りると馬頭観音の愛染堂と常夜灯が建つ。

「河渡宿」 10:10
 愛染堂から300mほどで河渡宿一里塚跡がある。
濃尾平野に入ってから一里塚は一基として残っていないのは寂しいばかり。

延長330m、旅籠24軒の小さな宿場は、川止めの時には多くの旅人が滞留し賑わった。

五六川という小さな川を渡る。長良川支流の一級河川。
この名前、次の美江寺宿が日本橋から56番目の宿場であることが由来となっている。

樽見鉄道(旧国鉄樽見線)の踏切を渡ると美江寺一里塚。市指定史跡の碑が建つのみだ。

「美江寺宿」 11:00
 美江寺は幹線鉄道や国道から離れたひっそりとした町並みだ。公式な開設は1637年、
本陣の開設は更に遅い1669年、実際あまり栄えない小さな宿場だったようだ。

美江寺宿を抜ると歌川広重が「木曽海道六十九次みゑじ」を描いた地に案内板が建つ。
水辺に竹藪、果実、犀川堤防への坂道が描かれているが、現在は埋め立てられている。

描かれた犀川の袂には美江寺千手観音堂、難所を往き来する旅人の安全を祈願している。
寒風が吹き抜ける田圃地帯を往くと再び大きな堤防に当たる。
今度は鷺田橋で揖斐川を渡ると古い町並みが残る呂久集落に入る。

呂久集落には史跡小簾紅園(和宮記念公園)がある。揖斐川を御座船で渡る皇女和宮が
対岸の紅葉を玉簾を中からご覧になった故事を引いたものだそうだ。
「おちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」と和宮。
小簾紅園は揖斐川の呂久渡船場跡に在る。

目的地の赤坂宿が近づく。110番目、池尻一里塚も碑があるのみ。
大垣から伸びてくる国道417号線との合流地点に今時の道標が建つ。

「赤坂宿」 13:20
 中山道が杭瀬川を渡ると赤坂宿となる。
かつて揖斐川の本流であった杭瀬川の水運で、宿の江戸方は赤坂港として栄えた。
また北へ向かう谷汲街道、南へ向かう養老街道への分岐点でもあり賑わったという。
今日も結構な数の観光客がカメラを片手に散策しているのにすれ違った。

宿場中央部の枡方、四つ辻付近が最も雰囲気がある。矢橋家住宅は江戸時代の建物。
将軍上洛時の休憩所として設けられた「お茶屋屋敷」もこの辺になる。

加納宿から長良川を渡って河渡宿、美江寺宿を経て揖斐川を渡って赤坂宿まで19.3km。
ゴールの赤坂本陣跡まで4時間30分の行程だった。春先には天下分け目の関が原をめざす。

街道めしは大垣駅前で。観光案内所でお薦めを尋ねると、挙げてくれたのが "みそにこみ"。
凍える身体に、熱々の "みそにこみ" は素朴な濃厚味噌味が美味しい。
半熟の玉子を箸で割ったり、生姜を入れたりすると風味が変わってまた美味しいのだ。


中山道紀行31 伏見宿~太田宿~鵜沼宿~加納宿

2014-12-27 | 中山道紀行

「伏見宿」 08:30
 東海環状道路の可児御嶽ICからここまで、左右の畑は白く霜で光っていた。
今年最後の中山道紀行はここ伏見宿から加納宿(岐阜市)を目指す。
岐阜県では9/1~3/10まで「中山道ぎふ17宿踏破スタンプラリー」を実施している。
良くできた公式ガイドブックがあって、文化的イベントが設定され誘客の工夫が
されているのだが、スタンプ設置施設は12/26の御用納めとともにクローズしいる。

なんの変哲もない国道21号線を進めると、三留野宿以来の木曽川の流れにぶつかる。
大正15年竣工の重厚な太田橋を渡る。「太田の渡し」は昭和初期まで現役だったそうだ。

「木曾のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と謳われた難所であった。


「太田の渡し」 09:40
 渡船場を背にした市役所の敷地に一里塚跡と渡し舟のオブジェがある。
太田の発展は渡しと水運であった。このオブジェ、猫の格好の昼寝場所となっている。

「太田宿」 10:30~12:00
 太田宿は左右に旧い建築物が残り、商店や案内所として立ち寄ることも可能だ。
旧脇本陣林家(写真左)は1769年の建物で国の重要文化財に指定されている。

本陣福田家は1861年皇女和宮下向の際に建てられた立派な表門が残っている。

個人的に宿場の華だと思っているのが酒蔵。
太田宿でも町並みほぼ中央に「御代桜醸造」が雰囲気のある黒塀を見せている。

少し早いお昼を町並みの中に見つけた蕎麦処でいただく。“投汁(とうじ)そば” は、
1杯分ずつ小分けされたそばを、竹で編んだひしゃく状の投じ籠(とうじかご)にいれて、
鍋の中で泳がせて食べるもの。寒い中この “きのこ鍋” で美味しく温まった。

 木曽川の堤防を行く中山道は、暫くすると谷を国道21号線と高山本線が並行する。
この辺りは日本ライン舟下りで楽しむ風光明媚なところ、狭隘な崖上に岩屋観音がある。

 

「うとう峠」 13:40
 途中、蛇行する木曽川の流れをバイパスするかのような「うとう峠」に入る。
もう峠道は終わったと思っていたので、他愛もない峠道が結構きつく感じる。
峠をやや西に下って「うとう峠一里塚」跡、太田から岐阜にかけて一里塚は現存しない。
大事に残しているところ、邪魔なものだと切り崩すところ、土地によて考え方は様々だ。

「鵜沼宿」 14:10
 うとう峠の下り道はやがて高台の住宅街となって鵜沼市街に向かう。
坂を下り切ると東の見附が置かれた枡形に小さな祠がある。ここからが鵜沼宿となる。

鵜沼宿の中心部では江戸時代風に造作された大安寺橋が迎えてくれる。
ここは明治時代に濃尾大地震で壊滅的な打撃を受けて旧い建物は殆ど残っていない。 
大安寺橋を渡ると右手に復元された脇本陣、その向かえに「篝火」の菊川の酒蔵がある。
やはり宿場の町並みに酒蔵が映える。

芭蕉がたびたび滞在したという鵜沼宿の町並みには用水がせせらいでいる。
新しく整備した通りではあるけれど情緒がある。

鵜沼宿から木曽川を挟んだ対岸の丘に城が聳えている。少々寄り道をして対岸に渡る。
犬山城は織田信康(信長の叔父)が築城したとされる現存する最古の天守閣だ。
木曽川を挟んで鵜沼宿から岐阜まで見通せる。はるか先の越美国境の山々は雪を被る。

いい気になって城見学をしているうちに短い陽が大きく西に傾いて日没サスペンデット。
鵜沼宿から加納宿へは明日に持ち越しせざるを得なくなってしまった。

「鵜沼宿」 09:30
 投宿した岐阜市内から名鉄電車で再び鵜沼宿へ。駅の名前はそのまま鵜沼宿駅。
雨上がりの道を加納宿(岐阜)を目指す。西の見附を出ると中山道は国道21号線となる。
4車線の国道には歩道がない。狭い路肩をトレーラーなどに追い越されるのは恐怖だ。

各務原の手前で高山本線をオーバーパスする。木の下辺りの畑が各務原一里塚のはずだが何も残っていない。

続いて名鉄線をオーバーパス。右手に三菱重工業、左手に航空自衛隊岐阜基地。各務原は航空産業の町だ。

航空自衛隊岐阜基地を過ぎたると、中山道は斜め左に旧国道を進む。
直ぐに六軒一里塚だが教育委員会標柱しかない。そして新加納にも酒蔵を発見。
昨晩岐阜の千成寿司で飲んだ純米大吟醸 "栄一" の蔵元・林本店のようだ

続いて日吉神社を通過、ここで神様に使えるのは狛犬ならぬ「かえる」なのだ。
すっかり正月の準備も整ったこの神社で珍しいものを見ることができた。

 

「新加納立場」 11:50
 鵜沼宿から加納宿までは四里十町(約17km)の長丁場。
したがって中間点に立場(茶屋)という小休所が設けられ、皇女和宮も休憩したという。
ここにも一里塚があったがやはり何も残っていない。

県道77号線との交差点を越えた先に道標が建つ。「左木曽路」と今来た方角を示し、
右は「伊勢・名古屋みち」と指している。進む方向は「西京道」と書いている。
この先京都を西京と示した道標を複数認めることになる。

「御鮨街道」 13:20
 名鉄本線を茶所駅付近で渡ると「御鮨街道」との分岐点。加納宿と熱田を結ぶ
すなわち中山道と東海道を結ぶ重要な脇往還は、長良川で獲れた鮎を御鮨にして
幕府への献上品として運んだ道ゆえに呼ばれたそうだ。何とも楽しい響きだ。

「加納宿」 13:50
 御鮨街道と分岐して直ぐに中山道は右に直角に折れる。この枡方からが加納宿だ。
この枡方を最初にご丁寧に7回も道を曲げている。加納宿は加納城(廃城した岐阜城の
代わりに築城)の城下町を兼ね、旅籠35軒を有する大宿だったそうだ。
現在では旧い建物はほとんど残っていないものの枡方を重ねる道筋は雰囲気がある。
本陣・脇本陣などひとつひとつ丁寧に跡碑が設けられている。

東番所跡、当分本陣跡、本陣跡、西問屋跡、脇本陣跡を経て、加納栄町交差点がゴール。
霜の降った伏見宿から木曽川を渡って太田宿、鵜沼宿を経て加納宿まで32.3km。
今年最後の中山道紀行は2日間、8時間30分の行程となった。


中山道紀行30 細久手宿~御嶽宿~伏見宿

2014-11-08 | 中山道紀行

「細久手宿」 07:10
 細久手宿は1609年に大湫宿と御嶽宿の間に仮宿として設けられた尾張藩領の宿場。
かつては尾州家定本陣の旅籠であった「大黒屋」は、国の登録有形文化財に指定され、
旅館として営業をしている。第30日目の行程は細久手宿から太田宿をめざす。

「秋葉坂の三尊石窟」 07:30
 細久手坂の穴観音を右手に見て、平岩の辻から県道を左手に分かれて峠道にかかる。

秋葉坂の三尊石窟は、右側の石室から、三面六臂の馬頭観音立像、一面六臂の観音坐像、
風化の進んだ石仏がそれぞれ安置されている。1700年代半ばのものだそうだ。

「鴨之巣一里塚」 07:45
 山道の中に一里塚、左右一対が残っているが、微妙にずれているのが珍しい。

「くま目撃情報あり」の立札がある薄暗い雑木林の山道を進むのは心細い。
30分程の行程がずいぶん長く感じられた。
この辺りで見かける石仏はどれも積み上げられた石窟に安置されている。

急坂を下ってようやく津橋集落にでる。家々の庭先の柿の木に熟した身が残っている。
これぞ日本の山村の晩秋の風景といった感じだ。

「御殿場」 08:20
 津橋集落を過ぎると再び急な坂道、今度は竹林を行く、出会う石仏はやはり石窟の中。
坂のピークは物見峠で、和宮が休息したところから「御殿場」と名付けられている。
近くにLa provinceという隠れ家的ケーキ屋さん、自然の中で美味しいスイーツを楽める。

沿道に石窟と同様しばしば見られるのが湧き清水。
唄清水、一呑の清水が湧くが、いずれにも「飲まないでください」と記されている。

広重の描いた木曾街道六十九次の「御嶽」のモデル地は謡坂の頂上付近にある。

描かれた「きちん宿」なる茶屋の場所に古い家屋が立ち、その先から急坂が落ちていく。なるほど雰囲気がある。

落ちていく旧坂は謡坂、整った石畳の道が続く。

「牛の鼻欠け坂」  09:00
 御嵩町へと下りていく最後の西洞坂は “牛の鼻欠け坂” と呼ばれた。
荷物を背に登ってくる牛の鼻が擦れて欠けてしまうほど急な坂ということらしい。
中山道はこの地を境にして京方は平坦地、江戸方は峠の連続する山間地である。

 

なるほど牛の鼻が欠けるほどの急坂を下りきると御嵩の水田地帯が広がった。
石仏も石窟から解き放たれて路傍に在る。

「和泉式部廟所」 09:25
 山を下ってきた中山道がR21に重なる地点に「和泉式部廟所」がある。
恋多き女性、三大女流文学者の和泉式部は、旅の途中で病に侵され、この地で没した。
“ひとりさえ 渡ればしずむ うきはしに あとなるひとは しばしとどまれ” と刻まれる。

 

「御嶽宿」 09:50 ~ 10:50
 いつの間にか降り出した雨の中、御嶽宿へと入っていく。
左右の古い家並みには格子が入り、犬矢来が設けられていて、京都の匂いがするようだ。
宿場をはじめとする中山道の資料は「中山道みたけ館」で見ることができる。

「御嶽宿本陣」は明治大正期に建て替えているが、本陣の風格ある門構えを残している。

本陣の東隣で「商家竹屋」が公開されている。
切り妻型の主屋と奥にある茶室は町の指定有形文化財となっている。
本陣野呂家から分家し江戸期には商家として、明治期には金融業で栄えたそうだ。

御嶽宿の西の外れは願興寺で京方の枡形になっている。
反対側に名鉄電車の終点御嵩駅の小さな駅舎が向かい合っている。

「鬼の首塚」 11:00
 御嵩宿を出た中山道はR21となる。この先琵琶湖に出会うまでのお付き合いだ。
鬼の首塚は鎌倉期にこの辺りで暴れていた関の太郎という鬼が成敗されたところ。
十返者一九もこのことを詠んでいる。

「比衣一里塚跡」 11:20
 ずいぶんと激しくなってきた雨の中、中山道はR21と重なったり離れたりして西進する。
東海環状自動車道を潜る辺に比衣一里塚跡、山中と違って一里塚は残っていない。

伏見宿を目前に大粒の雨に前方が霞んだり、足を止めたりするようになる。
太田宿で木曽川との再会をめざしたが、今日は伏見宿で切り上げることにする。

「伏見宿」 12:00
 R21に上書きをされてしまった伏見宿は当時の雰囲気は殆ど感じられない。
戦中まで「松屋」の屋号で醸造業を営んだ国登録有形文化財の松屋山田家住宅だけが
中山道時代の雰囲気を醸し出している。もっともこちらも大正期の建て替えだ。
建増し部分の洋風建築が郵便局となり、中山道を訪ねる旅人に憩いの場を提供している。
今では公民館となっている本陣跡には「是れより東尾州領」と刻まれた境界石が残る。
細久手宿から小さな峠を越えて御嶽宿、激しい雨の中を伏見宿まで16.6km。
第30日目は3時間50分の行程となった。


中山道紀行29 大井宿~大湫宿~細久手宿

2014-07-19 | 中山道紀行

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「大井宿」 08:15
 東海地方が梅雨明けとなった夏の陽が射るこの日、3ヶ月ぶりに中山道に戻ってきた。
今日は十三峠を越えて大湫宿、そして細久手宿をめざし十三峠を越える第29日目。
大井宿は大井橋で終わるが、続く商店街にも庄屋屋敷など旧い建物を見ることができる。

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「十三峠入口」 08:45
 西行硯池を過ぎて中央本線の踏切を渡ると、いよいよ十三峠の上り下りがはじまる。
大井宿と大湫宿の三里半は「十三峠とおまけが七つ」と呼ばれ、
二十余りの山坂道の総称を「十三峠」と言う。中山道の難所のひとつであった。

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「槇ヶ根一里塚」 09:00
 石畳の道を歩き始めると程なく西行塚がある。西行は大井で没したとういう説がある。
西行塚を過ぎると一つ目の峠に槇ヶ根一里塚が現れる。左右一対が残っている。

 

「槇ヶ根追分」 09:15
 1kmほど進むと槇ヶ根追分。下街道(写真左手へ下る)と呼ばれた名古屋への分岐点だ。
下街道とは上街道(中山道)に対しての呼称で、一般旅行者や伊勢神宮参拝者で賑わった。
確かに道標には伊勢神宮の鳥居の絵が彫られている。

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「首なし地蔵」 09:30
 槇ヶ根追分を過ぎると右手に現れる「姫御殿跡」は、皇女和宮など高貴な女性が
旅する際、御嶽山を望むこの地に漆塗の二間の御殿を設置して休息の地とした。
左手には奇妙な「首なし地蔵」が立つ。

 

首なし地蔵を過ぎると「乱れ坂」の急な下りとなる。
あまりの急勾配に女人の着物が乱れたことに因む。最も急な所には石畳が敷かれている。
坂を下り切ると、これまた「乱れ橋」なる木製の橋を渡る。

 

続く「平六坂」を上ると久しぶりに人家が現れ、田園風景の中、暫し平坦な道を往く。

 

「紅坂一里塚」 10:05
 山中に入って二つ目の「紅坂一里塚」も左右一対が残っている。

 

「深萱立場跡」 10:20
 大井宿から大湫宿までは十三里半と長く、中間点の深萱立場が設けられた。
往時は茶屋が9軒と大名が利用する立場本陣が設けられていた。
現在はR418と交差していて中央本線の武並駅方面へコミュニティバスの便があるので、
中山道を歩く人たちはここで区切りをつける人が多い。

 

「権現坂一里塚」 11:15
 深萱立場を過ぎると道はすぐに山中に戻り、石畳の長い坂を登り切ると三城峠。
その後、観音坂、権現坂、樫の木坂を越えて「権現坂一里塚」で江戸から九十里になる。

 

「尻冷や地蔵」 11:30
 更に1km進めると右手に祠の中に石仏が並ぶ「三十三観音」が、続いて左手に
背後から泉が湧いている「尻冷やし地蔵」と見所が続く。

 

八丁坂、山神坂を経て寺坂を下って行くと眼下に大湫集落が見えてくる。
江戸方の高台には石仏があって、町並みを一望できる。

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「大湫宿」 11:50
 大湫宿には格子戸の家や土塀など昔日の面影が残るが本陣や脇本陣は残っていない。
本陣跡は小学校の校庭となっているが、その小学校も既に廃校になっていた。

 

本陣跡の前には茶屋が立っていて、餅を焼く香ばしい匂いが漂っている。
それではと、みたらし団子と五平餅に一息つける。それにしてもビールが旨い。

 

大湫宿の家並みは250m程度、京方には神明神社が鎮座し、樹齢1300年の大杉が立派だ。
ここから琵琶峠を越えて細久手宿をめざす。

 

琵琶峠への道は全長600mの石畳の道になっていて、長さは日本一とも言われる。

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「琵琶峠」 12:50
 “住み慣れし 都路出でて けふいくひ いそぐもつらき 東路の旅”
琵琶峠頂上には馬頭観音と並んで和宮歌碑、京を出てからおそらく最初の本格的な峠道。
この地に立って歌を目にすると、なるほど心情に少し触れられたような気がする。

 

琵琶峠を抜けるとラスト4kmほどは舗装された狭い県道を行く。
時折左右に石仏などが現れ、ここが中山道であったことを旅人に確認させる。

 

「奥之田一里塚」 13:40
 細久手宿を目前にして奥之田一里塚が現れる。ここも左右一対が残っている。

 

「細久手宿」 14:00
 細久手宿は脇道もないような細長い集落で、旧い建物もほとんど残っていない。
その中にあって旅館大黒屋は安政5年(1858年)の建築、中山道を歩く人には有名な旅館だ。
旅籠24軒の一つで、他領主との合宿を嫌った領主尾州家が独自の本陣として定めた。
故に「尾州家定本陣大黒屋」といわれる。大井宿から十三峠の上り下りを経て大湫宿、
さらに琵琶峠を越えて細久手宿までは19.6km。所要5時間45分の行程だった。

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中山道紀行28 馬籠宿~落合宿~中津川宿~大井宿

2014-04-05 | 中山道紀行

「馬籠宿」 07:00
 4ヶ月ぶりに戻ってきた馬籠宿は時ならぬ寒波の襲来で冷え込んでいる。
標高620mの馬籠は気温-1℃、ダウンジャケットを着込んでちょうど良い。
まだ寝たりない様子の息子と連れ立って、第28日目行程は本陣島崎家前をスタートする。

まもなく多くの観光客で溢れる馬籠宿も、今は静かに山の尾根にへばりついている。

馬の背のような道を下っていく。
枡形を左に折れると正面に恵那山が飛び込んでくる。未だ雪を纒って神々しい姿だ。

「新茶屋一里塚跡」 07:35
 馬籠を出て30分、新茶屋集落に古い家並があって何軒かは民宿を営んでいるようだ。
芭蕉、正岡子規と著名な俳人の句碑が並ぶ。一里塚近くには「是れより北木曽路」の碑、
思えば昨年8月以来延べ7日間をかけて歩いた11宿90km弱の木曽路がここに終わる。

新茶屋を過ぎると十曲峠への石畳。荒れるに任せた石畳を地元が整備したものだそうだ。

道中竹箒を手にした10名ほどのグループに出会った。
こうした取り組みの積み重ねで人々が訪ねてくるようになる。

「医王寺」 07:50
 十曲峠の急坂が終わると医王寺、子どもの虫封じの薬師として知られている。
古木に咲く枝垂れ桜が見事だ。

坂を下りきった落合川に下桁橋が架かる。滝の水しぶきが霧となって山肌を上っていく。
安藤広重の「落合宿」はこの橋を渡る大名行列を書いている。

「落合宿」 08:10
 落合宿は美濃路に入って最初の宿場。本陣門は加賀前田家から贈られたものだ。
「夜明け前」のモデルとなった稲葉屋など古い家並みが残る。

「与板立場跡」 08:35
 落合宿を過ぎアップダウンの道を進む。木曽路と違って小高い丘や尾根を越えるものだ。
最初の丘のピークには与板立場跡、眺めの良いところには茶屋がある。

振り返ると雪解け水を湛えた木曽川が流れている。美濃太田まで暫くのお別れだ。
与板立場から下ると程なく子野一里塚跡に達する。

「子野地蔵堂」 08:50
 ふたつ目の丘を下ると子野地蔵堂がある。ここの枝垂れ桜もまた見事。

「尾州白木番所跡」 09:00
 中津川への最後の丘を行く途中に白木番所跡がある。
木曽のヒバやヒノキは貴重で織田も豊臣も徳川幕府も持ち出しを厳しく取り締まった。
「木一本首ひとつ、枝一本に腕一本」などと言われ、斬首の刑を受けた者もいたそうだ。

「芭蕉句碑」 09:15
 “山路来て何やらゆかしすみれ草” 中津川宿を見下ろす段丘の上に芭蕉句碑が建つ。

中山道が東南方向に真っ直ぐに中津川の町を割って行くのが見える。
茶屋坂を下りきると東の高札場があり、ここが中津川宿の入口となる。

「中津川宿」 09:30
 市街地にしては古い建物が残る落ち着いた雰囲気はここが宿場であったことを物語る。
本陣・脇本陣は既にないが四ツ目川の先、旧肥田家の庄屋屋敷が卯建を上げている。
枡形を左に右に折れると「恵那山」のはざま酒造がある。酒蔵は街道筋の花形なのだ。

相変わらず小さなアップダウンを繰り返しながら、のどかな田園風景の中を往く。
中津川宿から大井宿までは9.8kmと距離があり3つの一里塚がある。中津一里塚跡、
三ツ家一里塚跡を経て茄子川集落に至る。

「茄子川茶屋本陣」 11:00
 宿間が長いゆえ茄子川には茶屋本陣が置かれた。
篠原家は加賀前田家の重臣が移り住んだ家で代々村役人と庄屋を努めたそうだ。
皇女和宮や明治天皇が御小休した建物が現存している。



「甚平坂」 11:40
 広久手坂を登り、さらに甚平坂を登る。短い登りだが急坂になっている。
明治天皇行幸の際には頂上部を2mほど切通に削って馬車を通したという難所だ。
頂上は公園になっていて北に御嶽を望む展望となっている。

大井宿へと下る寺坂には悪病が立ち入ることを防ぐための石仏群がならんでいる。

明知鉄道の低いガードを潜ると続く五妙坂に高札場が現れる。ここからが大井宿だ。

「大井宿」 12:00
 大井宿はまるで凹字を描くように6つの枡方が設けられている。
表門が威容を誇る本陣や、ひし屋資料館の庄屋古川家が残り、往時の面影が残る。
「馬籠宿」から美濃路に入って「落合宿」「中津川宿」を経て「大井宿」までは18.2km。
所要時間はちょうど5時間00分の行程だった。


中山道紀行27 三留野宿~妻籠宿~馬籠宿

2013-11-30 | 中山道紀行

「三留野宿」 11:00
 南木曽駅近くの木曽川に架かる「桃介橋」を渡ってみる。
1922年架橋のこの橋、近代化遺産として1993年に復元され重要文化財に指定されている。

第27日目、三留野宿を発つと中山道は木曽川を離れ尾根を越える山道に分け入る。

1kmほど登った尾根のピークに義仲ゆかりの「かぶと観音」がある。
平家打倒に挙兵した義仲が本拠地の鬼門に祠を建て、観音像を祀ったのがおこりだ。

三留野から妻籠へは新旧の山道が複雑に絡むが案内板が充実していて迷うことはない。

更に進めると山中に東西一対が残った上大久保一里塚を見ることができる。

「妻籠宿」 12:00~14:00
 登りきった尾根を緩やかに下り「鯉岩」と呼ばれる大きな岩が現れると妻籠宿。


高札場から下町そして中町に入ると東側に本陣が往時のままの豪壮な姿を見せている。
ちなみに最後の当主島崎広助は藤村の実兄だ。

本陣のほぼ正面に脇本陣奥谷が国の重要文化財として一般公開している。
脇本陣は兼業を許され酒造業を営んでいたそうだ。近年になって酒蔵は倒産したが
銘柄の「鷺娘」は地元の方々の努力で郡内の酒蔵が醸造し妻籠宿で販売されている。
奥谷の林家は「初恋」のモデルとなった島崎藤村の幼馴染が嫁いだ先でもある。

下町の枡方を折れて進むと寺下地区。観光ポスターなどでお馴染みの風景だ。
観光客が視界に入らなければ、あたかもタイムスリップをした錯覚に陥りそうだ。


木曽路に入ってからずっと昼は蕎麦を楽しんできたが、この日も結局蕎麦を選択した。
雪がちらつく寒さに今回は暖かい蕎麦をいただく。付け合せの五平餅と漬物が嬉しい。

一時ちらついた雪に躊躇もしたが、妻籠から馬籠までは8km弱の峠越えを往く。
宿場を出ると薄暗い山道となる。所々設置された熊除けの鐘を鳴らしながら進む。

行程の半ば程に一石栃白木改番所跡と一石栃茶屋跡がある。
残った一軒は築250年、観光案内もするご主人が何くれと世話を焼いてくれた。

峠道後半は落ち葉の道となる。鬱蒼とした樹々の丈が徐々に低くると馬籠峠は近い。

「馬籠峠」 15:10
 標高801m、馬籠峠に到着。舗装された県道とクロスする。ここから先は岐阜県となる。
馬籠宿の旧山口村は元々長野県、平成の大合併で中津川市と合流し岐阜県に編入した。

峠からは馬籠宿への緩やかな下りとなる。すぐに集落に入って十返者一九の歌碑がある。
左手には頂きを雲に隠した恵那山が薄らと雪化粧をしている。

農家の軒先で無人販売していた干し芋を食べながらラストスパート。
ゴールも近い下り坂は足取りも自然と軽快になる。

「馬籠宿」 15:45
 雪にも見舞われずなんとか日没前に木曽十一宿の最南の宿場町馬籠宿に到達する。

眼下には低い夕陽に照らされた中津川の町、見所ある馬籠の散策は次回のお楽しみ。
「三留野宿」から「妻籠宿」を経て木曽十一宿の最南「馬籠宿」までは13.7km。
所要時間(移動時間)2時間45分の行程だった。


中山道紀行26 倉本集落~須原宿~野尻宿~三留野宿

2013-11-27 | 中山道紀行

倉本集落 10:00
 木曽山中は倉本集落から第26日目行程をスタートする。
西日本でも降雪の予報が出ている今朝の気温は2℃、木曽路も冬を迎えようとしている。
倉本集落から須原宿への道のりは、国道19号線がほぼ上書きしさしたる遺構はない。
倉本一里塚跡も池の尻立場跡も見逃してしまった。

「須原宿」 10:40
 国道19号線を左手に分かれて須原宿に入る。駅前には幸田露伴の文学碑がある。

宿並み残る須原宿は「水舟の里」とされ、檜の丸太を切り抜いた水舟が街道筋に多くある。
湧水を注いで共同井戸・防火用水として利用されているそうだ。


本陣兼問屋跡、脇本陣兼問屋跡も風格のある姿を残している。
脇本陣の西尾家は街道時代から続く酒蔵を営んでいて「木曽のかけはし」の銘柄をだす。

宿場の京方のは古刹定勝寺(じょうしょうじ)が桃山建築の本堂を残している。
門前の紅葉がきれいだった。

須原宿を出ると中山道は一旦険しい木曽川を東に離れ、支流に沿って扇状地を上り、
小さな尾根を越えて別の支流に沿って再び木曽川まで下ると駅と役場のある大桑の集落。

途中、崖上の岩出観音堂を眺め穏やかな田園風景の中を行く。

大桑から国道19号線と着かず離れず野尻宿へ。中央本線と絡み合うため踏切が多い。

「野尻宿」 13:00
 野尻宿に入る。入口の家の屋号は「東のはずれ」だ。
古い民家がちらほら残る道は上り下りしながらくねくねとうねる。
この宿は「七曲り」と呼ばれ先の見通しが悪い、外敵を防ぐために街道を曲げたそうだ。
宿場の終わりの屋号はもちろん「西のはずれ」となる。

野尻宿から三留野宿までは木曽路最大の難所といわれた。
険しい山肌が木曽川に迫っているためで、水害で度々通行止めになっていたそうだ。

十二兼を過ぎると、南寝覚と呼ばれる美しい渓谷柿其峡(かきぞれきょう)を目にする。

「三留野宿」 15:00
 柿其峡を出て4kmほど狭隘な木曽川沿いを進んだ後、国道19号を左手に離れ、
牧ヶ沢・べに坂を上りきると南木曽の町並みが広がとそこは三留野宿だ。

古い家並が残る静かな町だが、街道時代の建物は明治14年の大火で消失し、
本陣跡地には案内板のみが建っている。

三留野宿を通り抜け京方のはずれ辺りが南木曽駅の裏手にあたる。
木曽川沿いを歩いた行程をここに終わる。明日は旅のハイライト妻籠・馬籠を歩く。
倉本集落から水舟の里「須原宿」、七曲りの「野尻宿」を経て「三留野宿」まで21.4km。
所要時間4時間30分の行程だった。


中山道紀行25 福島宿~上松宿~倉本集落

2013-08-29 | 中山道紀行

「福島宿」 09:00
 福島関所から第25日目をスタート、谷間の木曽福島は残暑厳しい中にも川風で涼しい。
福島宿の中心、上町商店街には旧い遺構は少ない。本陣跡には木曽町支所が建っている。

本陣跡近くに木曽の銘酒七笑酒造、酒蔵は街道筋の華だ。
この先左手に折れて坂を登ると、街道情緒残る上ノ段地区となる。

袖卯建や千本格子の家、なまこ壁の蔵、用水や水場、上ノ段地区は宿場の面影を留める。

通り過ぎた宿場との違いは、レストランやビストロなどビジネスに利用されている点だ。

左右左左右と直角に折れ、最後に深い沢を渡る、なんとも込み入った宿場の出入口。

「御嶽遥拝所」 10:30
 福島宿を出ると再び深い谷、R19と中央本線だけが木曽川に連れ添って蛇行していく。
途中中山道は旧道となってR19を左手に離れ、山中に入ると御嶽遥拝所が現れる。

谷底を行く中山道だから、木曽路で御嶽山を拝するのは鳥居峠を除くとここだけだ。
なるほど支流の谷がちょうど御嶽山の頂の方向に切れ込んでいる訳だ。
西からの旅人はここを目的地として御嶽山参りとしたそうだ。

「木曽の桟」 11:00
 沓掛一里塚跡を過ぎ、木曽川の谷が狭隘になった場所に木曽の桟が残る。
断崖絶壁で命懸けの難所であったこの地に、尾張藩が石垣を築き桟橋をかけた木曽の桟。
対岸からこの名残の石垣を望む。「桟や命をからむ蔦かづら」と芭蕉の句碑が建つ。

「上松宿」 11:40
 2km程R19を進めてから右へと旧道を入ると上松市街地。上松宿は十王橋が北入口だ。

 

江戸方の枡方を左に折れると出桁造りの民家が何軒か並び、宿場町の面影を残している。
とは言え、本陣跡・脇本陣跡は見つからない。

立派な山門を構える王林院の並び辺りなのだが。京方の枡方近くに上松一里塚跡が残る。

「寝覚め床」 12:30~14:00
 寝覚集落には古びた越前屋旅館と民宿たせやが並ぶ。立場茶屋であったところだ。
この2軒の間を下っていくと名勝寝覚の床に出る。

 

越前屋旅館は名物寿命そばで有名だったそうだ。
「そば白く、薬味は青く入れ物は、赤いせいろに黄なる黒文字」十返舎一九が謳っている。
越前屋はR19沿いに新しい店を出している。 "寿命そば" と "五平餅" が美味しい。

寝覚の床は巨大な花崗岩が木曽川の激流に刻まれてできた自然の彫刻で、
木曽八景に数えられる景勝地だ。

「小野の滝」 14:30
 寝覚の床を過ぎて暫くすると中央本線の鉄橋下に、これまた木曽八景のひとつ小野の滝。
安藤広重の上松宿には、この滝が描かれている。

 

R19を木曽川に沿って南下する。木曽の谷は深い。
頭上で木立ちがカサカサすると思ったら猿の親子が木々を渡って遊んでいた。
小野の滝から程なく荻原集落に入る。集落への登り口に荻原一里塚跡がある。

  

「倉本集落」 15:30
 荻原、立町の集落を過ぎて南下する。対岸へ渡る吊り橋も現役の静かな谷間の風景だ。
上松宿から次の須原宿までは12.6kmと長い。便宜上JR駅のある倉本集落をゴールとする。 
「福島宿」から「上松宿」を経て倉本集落までは17.6kmの距離。
福島宿内と寝覚の床に長居をした関係で、約6時間30分の行程となった。


中山道紀行24 藪原宿~宮ノ腰宿~福島宿

2013-08-28 | 中山道紀行

「藪原宿」 11:00
 藪原宿京方の枡形近くに「藪原一里塚」跡がある。
木曽路を力強く疾走したD51-236号機の前から、第24日目の行程をスタートする。
この辺りは旧道を辿るのが難しい。駅から南へ延びる道を進み町はずれでR19に合流する。

 

この区間は基本的にR19を歩き、所々国道を離れ本来の中山道に近いと思われる道を辿る。

谷が極めて狭隘になる山吹山にはR19のトンネルが通じている。
対岸の忘れ去られたこの旧R19、落石防止のネットはネジ曲がりアスファルトを破って
雑草ばかりか松までもが生えている状態で、心細い思いをして通過してからびっくり。
出口には金網が施され「落石危険につき進入禁止」の国道工事事務所の看板が立つ。
反対側にも設置してもらいたいものだ。

「巴が淵」 12:30
 山吹山の危険地帯を抜けると巴が淵。
伝説によると、この淵に住む龍神が化身して、中原兼遠の娘としてこの世に生まれた。
後に「巴御前」として木曽義仲(源義仲)に付き従ったという。
「蒼蒼と巴が渕は岩をかみ、黒髪いとしほととぎす啼く」その余情を打ち破るように、
頭上の鉄橋を特急が疾走していく。

宮ノ腰は木曽義仲の故事にまつわる場所が多い。
宿場手前には義仲元服の地「旗挙八幡宮」があり、資料館前には義仲と巴御前の像がある。

「宮ノ腰宿」 12:50~14:00
 宮ノ腰宿は木曽川の流れの傍らにある静寂な町だ。しかしながら旧い遺構はない。
本陣、脇本陣共に木札があるのみだ。

     

 R19沿いの「水車屋」で、今日の街道めしは “おろしぶっかけそば”、残暑厳しいから。
たっぷりの辛味大根おろし、ネギ、削り節、濃いめの出汁をかけて、さっぱりと美味しい。

木曽川とR19に挟まれたのどかな田園風景を行く。
「宮ノ腰一里塚」を過ぎ路傍の庚申塔・道祖神など眺めながら進めると「原野間の宿」。

この間の宿にさしたる見所はないが、右手に雄大な木曽駒ケ岳を望めるポイントがある。

「中山道中間地点」 14:40
 さらに少し進むと中山道中間地点、江戸へも京へも六十七里二十八町(約266km)地点。
やっと半分もう半分。いづれにしても道半ばだ。

七笑橋を渡ると「手習天神」がある。
義仲を匿い養育した中原兼遠が彼の勉学のために北野天満宮を迎えたものだ。

「出尻一里塚」 15:30
 木曽川に沿って延びる中央本線が右にカーブする先に木曽福島の町並みが見えてくる。
塚を路肩にしてR19が通っているので分かり辛いが、出尻一里塚の一対が残っている。
一方は道祖神や地蔵がびっしりと並び、一方は栗の木が2本、熟さない実を落としている。

「福島関所」 16:30
 陽が傾きかけるころ、木曽川の断崖に望む堅牢な福島関に到着する。
福島の関は江戸幕府が五街道の各所に張りめぐらした50箇所にのぼる関所の中でも、
東海道の箱根・新居、中山道の碓氷と並び四大関所のひとつであった。
現在は関所門と番所が復元されている。

木曽川から関所までは30m余りの高さ。
当時中山道を往き来きする旅人は、どんな思いで関所を見上げたのだろうか。
福島宿の散策は翌日に回し、福島関所を今回のゴールとした。
「藪原宿」から「宮ノ腰宿」を経て「福島宿」まで14.5km。約5時間30分の行程となった。


中山道紀行23 贄川宿~奈良井宿~藪原宿

2013-08-27 | 中山道紀行

「贄川宿」 08:10
 指定重要文化財の加納屋深澤家住宅前から第23日目行程をスタートする。
ここから馬籠宿までが木曽十一宿、いわゆる木曽路だ。

中山道は宿場を出ると、奈良井川の流れに沿って蛇行していく。
2kmほど進むと「押込一里塚」の碑が現れ、ここでR19に合流する。

「漆器の町 平沢」 09:30
 押込一里塚から3.5km程、旧道を右にR19を離れていくと平沢の集落となる。
平沢は木曽漆器の町、宿場ではないものの白漆喰と千本格子コントラストが美しい町だ。

「奈良井宿」 10:10~11:20
 JR奈良井駅を見下ろす山中に二百地蔵がある。旅の途中で命を落とした無縁仏と伝わる。
僅かに残った杉並木を下ると奈良井駅前、ここからが奈良井宿となる。

「奈良井千軒」と謳われるほど繁盛したのは、険路の鳥居峠を控えていたからだそうだ。
京方に向かっう中山道の左右には旅籠風情を残す家々が今でも折り重なり連なっている。


全長1kmに及ぶ宿場の江戸方は飲食店、工芸店、民宿が立ち並び賑やかな一角だ。
私たちもこの一角の越後屋さんで早い昼食をいただいた。今日はなめこそばを楽しんだ。

本陣のあった宿場中程は一段と道幅が広くなっている。当時の五街道でも最も広かった。
多くの文人たちが泊まった徳利屋、上問屋資料館として公開する手塚家もこの一角にある。

奈良井宿は枡形ではなく鍵の手を設置していて、水場を設けた広場になっている。

鍵の手から先京方は、やや落ち着いた雰囲気の一角になっている。
道は徐々に勾配を作って奈良井宿の鎮守である鎮神社に達する。
この界隈は朝の連続テレビ小説「おひさま」のロケ地になったところでもある。


宿場の端に高札場がありその先が鎮神社の境内、振り返ると宿場が見渡せる。
鎮神社はもともと鳥居峠に建立されていたもので、戦火で消失した際に現在地に移された。
神社から先、中山道は鳥居峠へ向かう山道となる。

登り出しの急坂部には石が敷かれており歩行の助けとなっている。
所々に見かける古く小さな道祖神が、ここが街道であったことを教えてくれる。

鳥居峠への道は九十九折になっているので地形の割には登りや易い。
遊歩道として整備され、沢には木橋が架か。鳥居峠一里塚跡を過ぎると頂上までもう少しだ。

「鳥居峠」 12:10
 鳥居峠を登り切る。標高は1,210m、振り返ると小さく奈良井宿と奈良井川の谷が見える。
ちなみに奈良井川は木曽駒ケ岳に発する信濃川水系の川、流れは北上し日本海へと注ぐ。

「御嶽遥拝所」 12:20
 峠の反対側には御嶽遥拝所、残念ながら進入禁止となっていた。
御嶽山(3,067m)は山岳信仰の山、状況が良ければ鳥居の方角に雄大な姿を見せる。
中山道はここを境に下りになる。遊歩道の所々には熊除けの鈴が設置されている。

なるほど峠の反対側も熊除けの鈴が必要な鬱蒼とした山道だ。やがて藪原の集落が見える。
中央を流れるのは木曽川は伊勢湾で太平洋に注ぐ。鳥居峠は中央分水嶺でもあるのだ。

中山道が木曽谷に降りてくると飛騨街道追分に達する。
飛騨街道は野麦街道ともいい、女工哀史で有名な野麦峠を越えて高山に至る。
道はJR中央本線に寸断されているが、鉄路とクロスして藪原宿に入っていく。

「藪原宿」 13:10
 藪原宿に入っていくとまず本陣跡が目に付く。本陣はそば処おぎのやに姿を変えている。
宿場は元禄八年(1695年)の大火でほぼ全焼した。
その後の再建時に宿中2箇所の四ッ辻を設け、石垣を組み土塀を施した防火壁を作った。
今でも一部が残っていて、憩いの場になっている。

藪原はお六櫛の産地、現在でも手びき職人を抱えた店が数軒残っている。
みねばり材を使った櫛は御嶽信仰や善光寺詣りの土産として全国的に有名だったという。

街道の遺構は残っていないものの、旧い建物が散見される長閑な藪原宿に達する。
今回は京方の枡形に近い高札場跡碑の前をゴールとして第23日目の行程を終わる。
「贄川宿」から「奈良井宿」を経て「鳥居峠」を越え「藪原宿」までは12.6km。
約5時間の行程だった。