旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

甲州道中紀行11 教来石宿~蔦木宿~金沢宿

2016-11-26 | 甲州道中紀行

09:30 「教来石宿」
 本陣跡から斜面を上ると、大石の上に馬頭観音が四基、男女双体道祖神が一基祀られている。
これを「経来石(へてこいし)」と呼び、字の誤記から「教来石(きょうらいし)」の地名となったと云う。
背景に八ヶ岳が見渡せる。

明治十三年(1880年)の巡幸の際、明治天皇が街道筋から田植風景を眺めたという。 

宿場の外れには元和三年(1617年)創建の諏訪神社がある。
甲府柳町を発ってからは諏訪神社が存在感を増している。

鎌倉時代に南宋から渡来した蘭渓禅師が鎮座させたという地蔵菩薩。
地元の方だろうか老夫婦が長い時間願掛けをされていた。 

10:00 「鳳来山口関跡」
 鳳来山口関所は、武田信玄が甲州二十四か所に設けた口止番書のひとつ。
信州口を見張った國境の関だ。
徳川幕府は「女改め」のために西番所を設けて厳しく取り締まったと云う。 

釜無川沿いに道なき道を往く。この先旧国界橋を渡って、いよいよ信州に入る。
っと長野県側には害獣除けの電流ネットが張り巡らされていた。
ネットの切れ目をおっかなびっくりすり抜けての県境越えだ。

この県境地帯を国界と呼ぶらしい、“とんかつ” が自慢のドライブインの名も「国界」だ。

     

10:25 「日蓮上人高座石」
 国界橋を渡ると上蔦木交差点でR20と交差をして坂道を上る。
身延山に草庵を結んだ日蓮上人が巡錫した際に説法をした高座石がある。
隣接する公民館の様な建屋に清潔なトイレがある。女性にもお奨めだ。 

10:40 「蔦木宿」 
 本陣1、問屋2、旅籠15軒が蔦木宿の規模。江戸口、下諏訪口の双方に桝形が残る。
与謝野晶子がしばしば訪れていて、蔦木宿を詠んだ歌碑が建てられている。 

 

江戸口、南桝方あたりから延びる石段は、曹洞宗鹿島山三光寺の参道。
応永二十四年(1417年)に武田信重が創建した。 

 

中央自動車道に主役を譲ったR20は交通量も少ない。鄙びた蔦木宿の雰囲気に合っている。
本陣大阪屋源右衛門は本陣門のみを残こす。元治元年(1864年)の大火後に建てられた。 

 

11:25 「机集落」
 蔦木宿を出ると、甲州道中は釜無川沿い、R20より一段低い低地を往く。
氾濫でしばしば街道は寸断されたのではないかと思われるようなルートだ。
R20とは日本橋から177kmの机集落で合流する。
キロポストの傍らには金山彦命、甲子塔そして多数の馬頭観音が祀られている。

11:45 「瀬沢集落」 
 天文十一年(1542年)、武田信玄が木曽の信濃四将に大勝した瀬沢合戦場はこの辺り。
すでに廃業した酒屋さんの軒下に “諏訪五蔵” の銘柄が並んでいる。 

 

旧い商家・吉見屋の前に道標が残っている。
「左すわみち、右山浦」、山浦とは八ヶ岳西山麓一帯を指すようだ。 

 

瀬沢集落からはR20を大きく離れて山道を上る。
上り口に文政元年(1818年)建立の馬頭観音など多数の石仏石塔群が見られる。
その先に享和二年(1802年)建立の観世音菩薩碑が祀られている。 

山道から八ヶ岳を望む。この辺りで標高は900mだ。

     

12:30 「原の茶屋」
 蔦木~金沢間は13キロ弱の距離があるので、標高がピークでは「原の茶屋」が賑わった。
旅館桔梗屋は明治から大正にかけて、竹久夢二、田山花袋など多数の歌人文人が訪れた。
原の茶屋を抜けると目の前が開けて下り勾配になる。街道は諏訪湖へと下って行く。 

     

13:00 「御射山神戸集落」
 左手に石仏石塔群を見ながら下ってR20と合流すると御射山神戸集落へと入る。

     

集落の中ほどで立派な冠木門を残した旧家を見かけた。
神戸八幡社の社殿は宝暦十二年(1762年)の創建、樹高30mの大ケヤキは推定樹歴400年だ。
“雪ちるや 穂屋のすヽきの 刈りのこし” の芭蕉句碑がある。

     

13:10 「御射山神戸一里塚」
 集落を抜けてR20を左手に離れ小山を上って行くと、江戸日本橋より48番目の一里塚。
久しぶりに両塚をのこした立派なものにお目にかかる。西塚の塚木は樹齢400年のケヤキ、
東塚のそれは榎であったが明治年間に枯死した後ケヤキが植林されている。

 

13:40 「金沢宿」
 金沢宿は本陣1、問屋2、旅籠17軒の規模、R20で測ると江戸日本橋から187kmになる。
旧い遺構は殆ど残っていない。金沢宿本陣跡地に明治天皇金澤行在所趾碑があるのみだ。

  

唯一旧そうな建物が旧旅籠松坂屋。軒下の木製看板には「旅館 HOTEL 松坂屋」とある。
晴天の小春日和の日曜日、「教来石宿」から甲信国境を越えて「蔦木宿」、
標高960mのピーク「原の茶屋」を経て「金沢宿」まで17.7km、4時間10分の行程となった。

 

旧い遺構は無いが、日帰り天然温泉があった。
「金鵄の湯」は茅野市が運営するコミュニティー温泉、なめらかなアルカリ性単純泉に浸かる。

     

金鵄の湯の前にはお誂え向きに信州本手打ちそば「勝山そば店」がある。
ラガーを呷った後は、お湯打ち、足踏み、黒くて太い信州田舎そばを愉しむ。
と云うか、メインはボリューミーにかつ丼なのだが。 
下諏訪宿まではあと18.8km、上諏訪宿での「諏訪五蔵」が楽しみだ。 

 


甲州道中紀行10 韮崎宿~台ヶ原宿~教来石宿

2016-11-19 | 甲州道中紀行

 甲州道中の韮崎宿から蔦木宿(長野県富士見町)辺りまで続く七里岩は、
釜無川の侵食により形成された高さ10mから40mの侵食崖だ。
その南端に優美な平和観音が、市民の平和や登山者の安全を祈願して韮崎市内を見下ろす。

 

08:50 「韮崎宿」
 街道沿いの清水屋旅館は弘化二年(1845年)創業と云う。
通りを隔てた歯科医院が韮崎宿本陣の跡で問屋を兼ねていたそうだ。
甲州道中を参勤したのは、高島、高遠、飯田の信州の小藩。宿泊することは少なかった。

 

宿場を発って10分、青坂の分岐に差し掛かる。左手を直進するのは甲州道中。
右手に勾配を上って行くのは通称「原路」、甲州道中裏街道だ。
この先台ヶ原宿までの甲州道中が、しばしば釜無川の氾濫で通行不能になったことから、
七里岩上に迂回路として開削されたものだ。ちなみに甲州道中本路を「河路」と呼ぶ。

 

右手に七里岩の浸食崖を見ながら釜無川沿いを往く。
祖母石(うばいし)地区に茅葺の武家門がある。旧くは武田家に仕えた名家だそうだ。
享保九年(1724年)に遷座された神明宮は旧祖母石村の鎮守。
常夜燈が金毘羅山であるのは釜無川の舟運に由来するものだそうだ。

 

南無阿弥陀佛と彫られた碑は、表面が朱に塗られていることから赤地蔵と呼ばれている。
この辺り釜無川の対岸(南西方向)を望むと、薄らと雪を被った山々が見える。
多分、地蔵岳・観音岳・薬師岳の鳳凰三山だと思う。南アルプス北端の2800m級の山々だ。

10:35 「穴山橋」
 穴山橋で釜無川を渡る。川に沿う浸食崖が七里岩、遠く雲がかかった八ヶ岳が望める。 

 

釜無川西岸を往く。上円野地区はR20を離れて並行する旧道を進む。
緩い勾配の屋根、深い軒、雀おどり、本棟造りの立派な民家を見かけた。
中山道を往く信州は塩尻周辺で多く見かけた記憶がある。
なまこ壁の蔵を持つ内藤家は、明治十三年、明治天皇巡幸の御小休所を務めている。

11:00 「小武川橋」
 釜無川の支流を小武川橋で渡ると北杜市に入る。
左手に聳えるのは標高2970mの甲斐駒ケ岳、急峻で独立峰のように屹立する山容が美しい。
もちろん日本百名山に数えられている。 

 

上三吹(かみみふき)地区でもR20と離れる。
この辺りは集落ごと、火見やぐらがある風景を見ることができる。
集落の外れ、釜無川の堤に江戸日本橋から42番目の一里塚跡碑があった。
甲府柳町から七里目なので「七里塚」と通称される。

     

11:55 「横山道標」
 支流の尾白川を渡ると、この川に沿って500mほど古道を歩くことができる。
その江戸方入口に「横山道標」が在る。三基祀られた馬頭観音のうち二基は道標を兼ねる。
「右かうふみち、左はらぢ通」は安政五年(1776年)、
「左はらみち」は寛政四年(1792年)に建立されている。
「はらぢ」または「はらみち」は、韮崎の青坂で分岐した、七里岩上の裏街道のことだ。

 

12:10~13:20 「台ヶ原宿」
 古道を歩き切るとR20とクロスする台ヶ原下交差点が、宿場の江戸方の入口になる。
「日本の道百選」に選ばれているようで、期待に違わない素敵な町並みを見せてくれる。 

 

白味噌を商っている永楽屋さん、酒林を吊るしている岡崎酒店さんと続く。
残念ながら小松屋本陣は今はなく、跡地には火の見やぐらが建っていた。
台ヶ原宿は本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠14軒の規模だ。

圧巻なのは「七賢」の山梨銘醸、寛延三年(1750年)創業の老舗酒蔵は街道の華に相応しい。
“七賢 大中屋 純米大吟醸” は、ダボス会議の公式レセプションに4年連続で供されている。
蔵で吟醸酒「劉伶(りゅうれい)」を楽しんだ後、直営の「臺眠(ダイミン)」を訪ねる。

 
 

メニューは、白州の自然が育んだ米、野菜、果物を活かした定食が用意されている。
ついつい「呑み鉄」気分で “旬酒おつまみセット” を頼んでしまう。
小鉢五種と甲州豚の塩麹漬け焼きで1,800円、吟醸酒の肴に楽しませていただいた。

山梨銘醸の向かい側に信玄餅の「金精軒」がある。重厚な佇まいは旧旅籠の建物だ。
旅のつれづれに、酒まんじゅうと黒糖まんじゅうをいただいて、あとひと宿分を進もう。

 

宿場の外れには「旅籠津留や」が佇まいを残し、3枚の講札が揚げられている。
隣の新館では「つるや旅館」が営まれる。旅籠風情の建物が永く残ってくれると嬉しい。

 

 台ヶ原宿の先も、R20に並行する旧道を往く。白須地区に甲州特有の丸石道祖神を認める。
この辺りには平安時代から一里にわたって松原が続き、「白須松原」と呼ばれたそうだ。
集落の外れには馬頭観音をはじめとした石仏石塔群がある。

     

 それにしても、吟醸酒を楽しんだのが原因か、ペースがまるで上がらない。
中央本線から離れてしまった甲州道中、東京へ戻るには1日5往復の市民バスに乗らないと。
七里岩の向こうに八ヶ岳が見えてきた。

 

14:30 「教来石宿」
  教来石宿は本陣1、脇本陣1、旅籠7軒のこじんまりとした宿場だ。
河西本陣跡は更地になっていて、比較的新しい明治天皇御小休所址碑が建つのみだ。
教来石宿到着は、乗車必須の韮崎行き北杜市民バスの発車10分前、周辺散策は次回の宿題だ。
韮崎宿から台ヶ原宿で「七賢」を楽しんで教来石宿まで、21.5km、所要5時間35分の行程。
次回はいよいよ信州へと進める。下諏訪まではあと36.5kmだ。


甲州道中紀行9 甲府柳町宿~韮崎宿

2016-11-12 | 甲州道中紀行

 江戸防衛の要害とされた甲府城、なかなか堅固な天守台の石垣だ。
城郭が鶴が舞う姿に似ているところから舞鶴城と呼ばれていた。
かなり立派な天守閣が想像されるが、設計図や絵図が一切残っていないそうだ。 

     

11:20 「甲府柳町宿」
 舞鶴城公園から南に1km、相生歩道橋交差点が宿場の中心地だが、遺構は何もない。
秋晴れの中、R52を韮崎に向かう。今日は甲州道中を歩きはじめてちょうど1年目になる。

市街地を抜けて荒川、貢川を連続して渡る。正面に3,193mの北岳が雪を被って聳える。 

     

11:40 「上石田のサカイチ」
 推定樹齢300年のサカイチが2本並んで生えている。
地元では夫婦サカイチと親しんでいるが、実は両木とも雄木だ。
旅人もこの木陰で休んだろうか。 

12:00 「山梨県立美術館」
 ミレーの “落ち穂拾い” “種をまく人” の常設展示されている山梨県立美術館が賑わう。 

  

中央自動車道がちょうど市境となっていて甲斐市に入る。
高架脇には、文化10年(1813年)建立の富竹新田の道祖神。
並んで建つのは日蓮上人の五百遠忌(天明元年)、五百五十遠忌(天保2年)の碑だ。

明治天皇小休所辺り、称念寺の門前には、道祖神やら馬頭観音やら石仏群が並んでいる。 

中央本線の踏切は「信州往還第一踏切」とある。
後に整備された甲府柳町宿から下諏訪宿の間は、信州往還と通称するのだろうか。 

 

12:45 「竜王新町諏訪神社」
 踏切を渡ると急激な上り勾配となる。盆地の縁を上って行く実感だ。
甲府盆地を見下ろせる高台に諏訪神社がある。ちゃんと御柱が立っている。 

高台を行く下今井の町並みには立場があったそうだ。
2kmほど続くこの町並みには、所々なまこ壁の土蔵を見ることができる。 

やがてレンガ造りの架道橋で中央本線を潜る。明治36年(1903年)、敷設当時のものだ。 

     

13:20~50 「泣石」 
 天正10年(1582年)、信州高遠城が落城する。
この敗戦を機に、武田勝頼は韮崎城に火を放ち、岩殿城に向けて落ち延びていく。
燃える城をここで振り返り涙を流したという逸話がある。それで「泣石」と云うわけだ
旅人にとっては目印になる巨石だったことだろう。

 

泣石近くの「たわらや」で街道めし。部活帰りの高校生で席が埋まっている。
ビールのつまみにもなる "焼肉小丼" と、昔ながらの "田舎者醤油ラーメン" を注文する。
ボリュームも味も上々、なるほど高校生が集う訳だ。腹一杯でこの後歩けるのか? 

進行方向左手に在る旧庄屋宅が豪壮で立派だ。 

     

双葉西小学校の先に在る船形神社の鳥居は応永4年(1397年)のもの。
鳥居を潜れるのは身長150cm位までだろうか、当時の日本人の体格が窺い知れる。

 

田畑地籍に在る2基の二十三夜塔は、天保7年(1836年)のものだ。

 

塩川を渡ると韮崎市に入る。前方に甲斐駒ケ岳が、下流に目をやると裏富士が望める。

 

14:45 「韮崎宿」
 韮崎宿は本陣1、問屋1、旅籠17軒の規模と小さい。
そもそも甲州道中を往く参勤交代は、高島藩、高遠藩、飯田藩の信州の小藩に限られる。
また日程上、韮崎宿に宿泊することは少なかった。街道の両側に「馬つなぎ石」が残る。 

 

本陣跡の先、本町第二交差点は、信州道(佐久往還)との追分になっている。
元禄8年(1695年)建立の道標には「右信州さくの郡みち、左信州すわ上みち」と刻まれる。
街道裏には弘法大師が築いた岩屋観音堂、この先の旅の安全を祈願した。
甲府柳町宿から韮崎宿までは、13.0km、所要3時間25分の行程だった。


日本最西端の駅と教会の尖塔と飛鸞と 松浦鉄道・西九州線を完乗!

2016-11-05 | 呑み鉄放浪記 私鉄編

 07:04発の伊万里行きの単行レールバス、博多に向かう特急を背景に明るい朱色のラインが映える。
BOXシート独占と思いきや、発車間際にJR線から大勢の高校生が乗換えてほぼ満員。朝の缶ビールはお預けだ。 

佐世保湾はまもなく日の出を迎える。五島列島へ渡るのだろうか、年季の入ったフェリーが停泊中だ。
奥のバースにはアメリカ海軍か、海上自衛隊かは判らないが駆逐艦(護衛艦)の姿が見えるね。

松浦鉄道でのんびりと半島を巡る。とは云っても、航空機の時間もあるので少々早起きして佐世保駅だ。 

佐世保から単行レールバスに揺られること1時間半、東経129度35分。たびら平戸口駅は日本最西端の駅だ。
駅舎はちょっとした博物館になっていて、松浦鉄道の歴史が写真などで展示されている。

東洋と西洋の町並みが混在する平戸を訪れるには、平戸口桟橋からバスに乗って平戸大橋を渡る。 

「平戸オランダ商館」は復元したものだが、オリジナルは日本初の洋風石造り建造物(1639年)だという。
かまぼこ店やら菓子店やらが並ぶメインストリートは城下町の風情が滲んでいるね。 

息を切らして坂を上ると「平戸ザビエル記念教会」の薄緑色の外壁と鋭い尖塔が目をひく。
坂下の光明寺、瑞雲禅寺とフレームに収まる "教会と寺院が見える風景" は人気の撮影スポットだ。

森酒造場を訪ねる。ご主人に丁寧に酒蔵をご案内いただき、ご自慢の酒をたっぷり試飲させていただいた。
石高は小さく、平戸市内の旅館や飲食店でしか飲めない。広く卸してないそうだ。まさに地酒なのだ。
で、土産に "純米吟醸・幸橋"、車中酒に "飛鸞・生貯蔵酒" を仕込んだら、足早に駅に向かおう。 

後続の伊万里行きはガラガラで今度こそBOX席を独占。
昔ながらの売店で買った「チーかま」と「味このみ」をつまみに、早速 "飛鸞" のスクリューキャップを切る。
車窓を流れる海の風景を眺めながらひとり車中酒。けっこうご機嫌なのだ。 

伊万里駅では佐世保からの鉄路と、有田からの鉄路がV字に合流する。両線を直通する列車はない。
伊万里焼に伊万里牛、気になるアイテムはあるのだが、時間の関係で20分後の有田行きに乗車する。

ところで松浦鉄道では1日乗車券を販売している。途中下車しながらのんびりと、こんな旅には重宝するのだ。

今になって300mlが効いてきたようだ。もったいない話だけれど伊万里から有田の車窓はほとんど覚えがない。
20数分後、乗務員氏に肩を揺すられ松浦鉄道西九州線の旅は終わる。酒の余韻を残しつつ長崎空港へ向かおう。

松浦鉄道西九州線 佐世保~有田 93.8km 完乗