旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

ご当地B級グルメ 糸魚川・ブラック焼きそば「堀口食堂」

2013-05-25 | にいがた単身赴任始末記

糸魚川ブラック焼きそば5軒目のチャレンジは「堀口食堂」へ。
もしもパンフレットに載っていなければ、余所者はまず入らないであろう雰囲気の店だ。
でも自家製トマトソースとイカ墨が絶妙にコラボした “ブラトマ焼きそば” は旨かった。
今までで一番の味に遭遇した満足感がある。お好みで粉チーズとタバスコでどうぞ。


file-010


中山道紀行21 下諏訪宿~塩尻峠~塩尻宿

2013-05-18 | 中山道紀行

「下諏訪宿」 10:30
 第21日目の行程を下諏訪宿からスタートする。湯田坂上から延びてきた宿場の町並みは本陣までが横町。
甲州街道との分岐点である本陣前を直角に折れると立町。
立町は諏訪大社下社秋宮の参道も兼ねるように延びている。

旧脇本陣で旅館となっている「まるや」、旧旅籠の「民俗資料館」など格子の家が多い。
家々の前の手水鉢に源泉を落としているのも温泉地の風情がある。

下諏訪から岡谷にかけてR20に絡むように進む中山道は、ところどころ市街地の中に
埋没しているのだが、教育委員会や歴史研究会による案内板で辿ることができる。

「岡谷道追分」 11:30
 岡谷市に入って間もなくの長池中町交差点は追分であり「右中仙道、左いなみち」と
刻まれた道標が建つ。伊那街道は天竜川にに沿って辰野へと抜け三州街道につながる。
中山道は緑濃い生垣の道を塩尻峠にむけて緩やかな上り坂になって行く。

「東堀の一里塚跡」 11:40
 R20と鋭角にクロスすると間もなく東堀の一里塚跡、日本橋から56番目になる。
この辺の旧い家々は庭も門構えも立派だ。

「今井茶屋本陣」 12:00
 目の前に山が近づいてくると今井地籍。
左手に「今井番所跡」、右手に黒塀の続く大きな屋敷が今井茶屋本陣の今井家。
塩尻峠を控えて賑わった立場で明治天皇が行幸時に休息をされている。

今井を過ぎると道標があり「右しもすは、左しほじり峠」と彫られている。
その先中山道とR20と中央自動車道が併走する。江戸と昭和と平成の幹線の共演だ。
草鞋が奉納され足腰にご利益のある「石舟観音」辺りから勾配がきつくなる。

「大石」 12:30
 峠越えの名所であった大石と呼ばれる巨石が「木曽路名所図会」にと記されている。
伝承によれば、昔この大石にはよく盗人が隠れていて、旅人を襲ったと言われている。
この辺り、峠へと直線的に上る辛い急坂、何度も小休止をし息を整えての峠越えとなる。

「塩尻峠」 12:40
 急坂を登りきると塩尻峠頂上。浅間神社の碑が建つ。展望台からの景色に息を呑む。
行く先に乗鞍岳と穂高連峰、新緑と3000m超の山々の白のコントラストが美しい。

振り返ると数時間前に発った諏訪・岡谷の町並み、雪解け水を湛えた諏訪湖を見下ろす。
爽やかな風に汗が引いていく。

塩尻峠から松本盆地へと降りていく。こちら側の方が緩やかだろうか。
塩尻側にも立派な茶屋本陣、旅人はもちろん、参勤交代の大名も皇女和宮も休憩した。
庭先のつつじが美しく、堀の菖蒲が咲いたらさらに目を楽しませてくれそうだ。

「東山一里塚」 13:20
 伝説夜通道の地蔵、東山一里塚、馬頭観音を見ながら降りていく。
併走するR20は全面的に登坂車線が整備され、かなりの交通量が快適に疾走していく。

文字通りの長い坂道「長井坂」を下り、みどり湖PA付近の長野自動車道を跨ぐと柿沢集落。

風格のある家々が並ぶ。切妻造りの民家の屋根にあるのは「雀踊り」という棟飾りだだ。

下柿沢交差点を過て右手に永福寺観音堂。旭将軍木曽義仲が信仰した馬頭観音が本尊だ。

「塩尻宿」 14:40
 中山道は仲町交差点でR153に出る。ここからが塩尻宿には旧い遺構は殆どない。
建坪で中山道最大であった川上本陣は明治時代に消失し、跡碑が残っているに過ぎない。

唯一旧旅籠「いてふ屋」の小野家が昔のすがたを残している。
下大門交差点は「中山道鉤の手」で枡形となっている。塩尻宿はここまでだ。
現在は五差路になっていて、写真は下諏訪を背にして右手は松本街道(R153)、
正面はJR塩尻駅に向かう道、左手に折れると木曽へ向かう中山道になる。
第21日目は下諏訪宿から塩尻峠を越えて塩尻宿まで11.4km。約4時間の行程となった。


監物堀のカキツバタ

2013-05-11 | にいがた単身赴任始末記

 春日山城跡の東側を防御する延長1.2kmの監物堀(けんもつぼり)。
この内側の平地と本丸のあった尾根までの距離を見ると春日山城の壮大さがうかがえる。
監物堀にはカキツバタが咲きそろい初夏の訪れを告げています。


中山道紀行20 男女倉口~和田峠~下諏訪宿

2013-05-05 | 中山道紀行

「男女倉口」 07:50
 昨晩お世話になった民宿のご主人に、昨日のゴール、男女倉口まで送っていただく。
快晴、気温5℃は峠を越えるにはまずまずのコンディションと云えそうだ。

山道を登り始めてまもなく三十三体観音がある。
本来山中の熊野権現社の石像だが中山道が廃れるに従って荒れ果てていたものを、
昭和40年代に発掘調査をして現在地に安置したそうだ。実際には4体が未発見で29体だ。
峠の難所を往来する人馬の無事を祈って祀ったものと推察される。

「永代人馬執行所跡」 08:20
 山道を1.5kmほどで一旦R142と合流、茅葺屋根小屋の永代人馬執行所復元されている。

和田宿から下諏訪宿までは中山道随一の長丁場、人家もなく、旅人の苦労が多かった。
文政11年(1828)、江戸の豪商がこの難儀を救おうと、幕府に願い出て小屋を設置し、
冬季に立ち寄った旅人には、粥一杯と焚火、牛馬には年中、桶一杯の飼葉が施された。

山道に戻って2kmほどは急坂部に石を敷き詰めた区間がある。
当時は上り下りに助けになった石の道も、苔むした今、滑りやすく歩き辛い。

「広原一里塚」 09:05

「東餅屋跡」 09:10 ~ 09:30
 R142に合流して1kmほどで東餅屋跡に至る。江戸時代には五軒の茶屋が繁盛した。
国道が開設され、更に有料トンネルのバイパスが峠越えを不要にした今日、最後まで
残った1軒がドライブインを細々と(失礼ながら)営んでいる。
名物の力餅は、ほどよい甘さが疲れた体に美味しく感じる。碓氷峠の力餅とは趣がちがう。

東餅屋を過ぎると頂上までは僅か。左右の樹木も低くなり徐々に視界が開けていく。
この間つづら折りになっているビーナスラインを1度潜って3度横断する。

潜る1回は沢の流れと歩道のトンネルになっている。
手前へ流れるこの沢は、やがて千曲川に合流し信濃川となって新潟港で日本海に注ぐ。
峠の反対側に流れる沢は諏訪湖に注ぎ天竜川となって遠州灘で太平洋に行き着く。
和田峠を含めビーナスラインが走る尾根筋が中央分水嶺なのだ。

「和田峠-古峠」 09:50 ~ 10:10
 標高1,531m、中山道中の最高所である和田峠に至る。
R142(旧道)が離れたところを通っているため、こちらを古峠という。
正面に真っ白な頂の御嶽山3,067mが目に飛び込んでくる。御嶽山遥拝所の碑も立ち、
なるほど山岳信仰の山であることをうかがわせる。

貝原益軒の東路記に『東坂はやすらかにして西坂はけはし、三月まで雪多し』とある。

下諏訪へと下る道は狭く急だ。秀忠の大軍勢や和宮の御輿が通る様子は想像できない。

急坂の途中に「石小屋跡」がある。
崖を穿ちその石で囲いを作って板屋根を被せた一種の避難小屋があったそうだ。

「西餅屋跡」 10:50
 和田宿と下諏訪宿は五里十八丁の長い峠道、四軒でなる西餅屋の茶屋も繁盛したそうだ。
近くに53番目の「西餅屋の一里塚跡」がある。

西餅屋跡の先は崖道、ひと一人通れる石がゴロゴロした道を時折ロープを頼りながら進む。
切り立ったと表現するほどでもないにしろ砥川の沢を覗き込むと足が竦む。
1kmほど先でR142に合流、大型トラックが爆走する歩道のない国道はある意味で崖道より怖い。

「浪人塚」 11:30
 幕末に天狗党(元水戸藩士の浪人)が京に上る途上、松本藩・高島藩と激戦を繰り広げた。
この砥沢口合戦で討ち死にした浪士を葬った塚だそうだ。

「木落し坂」 12:20 ~ 12:40
 中山道は諏訪大社御柱祭りの木落し坂を通る。
坂上から覗き込むとドキュメンタリーの画面で見るよりかなりきつい坂だ。
ここで民宿で作ってもらったおにぎりをいただきお昼とした。


「諏訪大社春宮」 13:10 ~ 13:40
 諏訪大社春宮の杉木立を右手に進むと突然視界が開ける。下諏訪市街地と諏訪湖だ。
坂を下りきると『右中山道、左諏訪宮』の道標、京方から見た案内だ。
ちょっと寄り道をして春宮と「万治の石仏」を見学する。

慈雲寺門前の湧水「龍の口」を右手に見て進むと古い蔵の前に「下の原一里塚跡」の碑。

中山道は塩尻方面へ最短ルートを行かず、つの字を書くように温泉街と秋宮の門前を通る。
町家は出桁造が見当たらず、和田宿とは随分趣が違う。

「旦過の湯」「児湯」は古くから街道を行き交う旅人や修行僧に親しまれた浴場だ。
私たちは帰路の特急乗車前に児湯を楽しんだ。

「下諏訪宿」 14:00
 中山道はその本陣前でL字に折れ塩尻宿へ向かう。
直進すると甲府を経て江戸へ向かう道「甲州街道」との分岐点にもなっている。
本陣の遺構は「本陣岩波家」と隣接する旅館「聴泉閣かめや」に見ることができる。
一般公開している岩波家にはそうそうたる大大名の関札が残っている。

本陣の向かい側、塩尻方面への道筋には「脇本陣まるや」など雰囲気のある建物が並ぶ。
第20日目は男女倉口から中山道中の最高所・和田峠を越えて下諏訪宿まで15.1km。
約6時間の行程を「諏訪大社秋宮」に参詣して終了した。


中山道紀行19 長久保宿~和田宿~男女倉口

2013-05-04 | 中山道紀行

「長久保宿」 10:30
 長野新幹線を上田で下車、JRバスに1時間揺られ終点が長久保。半年ぶりの再訪となる。
笠取峠から続く下り坂に松尾神社から一直線の竪町に旧い家並が続いている。

濱田屋旅館まで下りL字に折れると横町、やはり時代に取り残されたような風景が続く。

長久保を抜けると谷がY字に分かれる。左は大門川に沿って白樺湖から茅野に至るR152。
右は依田川に沿って和田峠を経て下諏訪に至るR142、こちらが中山道になる。

Y字に分岐する大和橋交差点を右に進むと旧和田村に入る。
庚申塔が並ぶ青原交差点からは依田川を挟んでバイパスと旧道に分かれる。

交通量の少ない旧道を旧跡を探しながら和田宿まで歩くことができる。

「和田宿」 12:30
 旧道を4kmほど進み依田川を渡ってきたバイパスと並行するとほどなく和田宿に入る。
和田峠という難所(標高は1,500mを超え、下諏訪宿までは20km)をひかえた和田宿は、
本陣1、脇本陣2、問屋2、旅籠28と山中に極めて活気のある宿場であったそうだ。

和田宿は1861年の大火で大半を消失したが、江戸に降嫁する和宮の宿泊予定地であり、
幕府の資金(強制的貸付)により復興された。現在残る遺構はその当時の建築だ。

屋根に栗の三枚板に重しの石を載せている和宮も宿泊した本陣と脇本陣の翠川家。

出桁造が見事なのは下の問屋・山木屋。

そして隣接する旅籠・大黒屋だ。

かわちやは歴史の道資料館となっている。

二階に上ると出桁造の格子から街道を眺めることができる。

「大出一里塚」 15:10
 和田から下諏訪までは20km超、和田峠への登り口である男女倉口まで距離を稼ぐ。
歩道のないR142を歩くときは、大型トラックが駆け下りていくので命懸けだ。

「唐沢一里塚」 16:10
 唐沢集落から山道を入っていくと唐沢一里塚がある。山中ひっそり左右一対が残る。
記憶が正しければ板橋の志村一里塚以来だ。

「男女倉口」 16:30
 R142に戻って1kmほどのラストスパート。
やがてR142は新和田トンネル有料道路と和田峠に登る旧道に分かれる男女倉口。
右側の旧道を択ぶとまもなく和田峠への登り口に至る。
長久保宿から和田宿を経て男女倉口までは13.8km。明日は和田峠越えに挑む。